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二代目吉右衛門・奮闘の「元禄忠臣蔵」

昭和54年11月国立劇場:通し上演「元禄忠臣蔵」
           〜「伏見撞木町」・「御浜御殿綱豊卿」・「南部坂雪の別れ」

二代目中村吉右衛門(大石内蔵助)、九代目沢村宗十郎(遊女浮橋)、四代目市川左団次(不破数右衛門)、二代目坂東亀蔵(初代坂東楽膳)(堀部安兵衛)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(大石主税)、二代目中村又五郎(新藤八郎右衛門)(以上「伏見撞木町」)

二代目中村吉右衛門(徳川綱豊)、初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(富森助右衛門)、三代目実川延若(新井勘解由)、六代目沢村田之助(御祐筆江島)、八代目大谷友右衛門(中臈お喜世)(以上「御浜御殿綱豊卿」)

二代目中村吉右衛門(大石内蔵助)、初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(羽倉斎宮)、四代目中村雀右衛門(瑤泉院)、三代目実川延若(落合与右衛門)(以上「南部坂雪の別れ」)


1)幸四郎緊急降板のこと

本稿で紹介するのは、昭和54年(1979)11月国立劇場での通し上演「元禄忠臣蔵」の舞台映像です。吉之助は初日(11月5日)の舞台を生(なま)で見ましたが、この時の上演は今思い返しても忘れ難い舞台のひとつです。そこで少々長くなりますが、まずその時の思い出話を致したいのです。そうすることで、この舞台映像を改めて見ることの意義も確認出来ると思います。

昭和54年11月5日国立劇場での通し上演「元禄忠臣蔵」は、八代目幸四郎(後の初代白鸚)の大石内蔵助(「伏見撞木町」と「南部坂雪の別れ」)と代目吉右衛門の徳川綱豊(「御浜御殿綱豊卿」)で幕を開けました。幸四郎の内蔵助は気合いが入ったものでした。特に「南部坂雪の別れ」で内蔵助が瑤泉院に別れを告げ・花道を去っていく幕切れが素晴らしかったのです。普通の内蔵助役者だとこの場面はどうするでしょうかねえ。討ち入りの期日は明日(元禄15年12月14日)と決まった。瑤泉院の視線を背に受けて、内蔵助は初一念の実現(討ち入り)に向けて決然と花道を歩みを進めます。当然内蔵助の意識ベクトルは前方に向かうと思います。まあそれが普通のやり方だと思います。

ところがこの時の幸四郎の内蔵助はちょっと違った感じがありました。何だか内蔵助の意識ベクトルが後ろへ引かれる感覚があったのです。花道にいた時間が物理的に長かったか・それは分かりませんが、花道引っ込みがちょっと長めに感じられました。言い方が悪いが、ほんのちょっとの時間でも・少しでも長くここに(舞台に)居たいと云うような感じでした。この幸四郎の花道引っ込みが表わすものは何でありましょうか。「南部坂」幕切れの内蔵助の心情を思いやるに、討ち入りの期日は明日と決まったが、内蔵助の目に見えているものは「死」ばかりなのです討ち入りが失敗すればもちろん死ですが、成功してもやっぱり死なのです。それ以外のことは内蔵助の眼中にありません。そうすると内蔵助のなかに俄かに湧き上がって来る感情は、「今ここで生きていること・この時間が堪らなく愛おしい」と云うことなのです。そう云う感情が内蔵助のなかに自然と湧き上がって来て、内蔵助は暫し歩みを止めたくなってしまう。討ち入りの決心が固ければ固いほど、内蔵助のなかに今生きてることの愛おしさがますます募るのです。

そう云うわけで吉之助は幸四郎の内蔵助にえらく感激して家に帰ったのです。ところが翌朝起きて新聞を開いてみたら、「本日(6日)から幸四郎は病気のため降板、代役を吉右衛門が勤める」とあるので驚いたの何の。昨日(5日)は元気そうに見えたのに、一体何が起こったのかと思いました。

後年聞いたことですが、真相はこう云うことであったようです。「元禄忠臣蔵」舞台稽古の最初の日の朝(と云うことは公演初日の数日前か)に、幸四郎が夫人と息子の染五郎(現・二代目白鸚)を同伴して国立劇場役員室を訪れて、「自分は病気疾患のため入院するので、初日の舞台は勤めるけれども、2日目からは吉右衛門が代役を務める」と告げたそうです。突然のことで国立劇場内は大混乱となり、演出の真山美保氏は怒り心頭で「初日を遅らせましょう」とまで言ったそうです。なにしろ青果戯曲の主役の台詞量は膨大で、容易に代役が勤まるものでないからです。恐らく吉右衛門代役は内密に早めの準備が進められたものでしょう。長期療養を経て、幸四郎が久しぶりの舞台復帰を果たしたのは、翌年(昭和55年・1980)9月歌舞伎座・初代吉右衛門27回忌追善の「籠釣瓶」(佐野次郎左衛門)のことになります。これは吉之助の憶測ですが、この時の幸四郎の気持ちとしては、「もしかしたらこれが自分の最後の舞台になるかも知れない」と覚悟した上で初日だけは是非とも勤めたいと云うことだったと思います。そう考えると、あの時の「南部坂」の内蔵助の花道引っ込みは、まさに「ほんのちょっとの時間でも・少しでも長くここに(舞台に)居たい」というものであったのだなあと改めて思うのです。(この稿つづく)

(R5・11・7)


2)内蔵助と綱豊は対である

以上のような経緯から、昭和54年(1979)11月国立劇場での通し上演「元禄忠臣蔵」は、「伏見撞木町」・「御浜御殿綱豊卿」・「南部坂雪の別れ」三本の主役すべて(大石内蔵助と徳川綱豊)を吉右衛門が勤めることになったわけです。歌舞伎では急の代役を勤めることは時折あることで、普通なら別に驚くほどのことはないわけですが、青果戯曲の主役の代役となると話は別です。青果戯曲の主役の台詞は膨大なうえに理屈っぽくて覚えるのが大変です。おまけに舞台に居る時間が長い。今回の吉右衛門も上演時間の7割くらい舞台に居て・何か台詞を言っていたのではないでしょうか。しかし、今回の舞台映像の吉右衛門を見ると、役者として当然かも知れませんが、そんな気苦労をおくびにも出さないのは、さすがです。

しかし、吉之助が今回(昭和54年11月国立劇場)の「元禄忠臣蔵」映像を見直したかった理由は別にあります。それは「伏見撞木町」の内蔵助と「御浜御殿」の綱豊の二役を同じ日に同じ役者が演じる、そう云う事態が当初意図したことでなかったにせよ・予期せぬ代役と云うことで「起きた」と云うこと、そして、これによって「伏見撞木町」と「御浜御殿」が表と裏の対の関係にあること、内蔵助と綱豊が合わせ鏡の関係にあることが明確になると云うことなのです。

真山青果の「伏見撞木町」は、昭和14年(1939)4月歌舞伎座初演。主役の内蔵助を演じたのは、もちろん二代目左団次でした。「御浜御殿」は翌年・昭和15年(1940)1月東京劇場で初演され、これも左団次が綱豊を演じました。どちらの役も青果が左団次に嵌めて書いたのです。しかし、この時の左団次は病状がかなり悪くて、医者の制止を振り切って綱豊を勤めたのでした。それでもやっぱり三日目からは無理で、三代目寿海(当時は六代目寿美蔵)が代役を勤めました。左団次が亡くなったのは、翌月・2月22日のことでした。つまり綱豊が左団次の最後の舞台であったのです。このことは非常に大事なことなのですが、「御浜御殿」は左団次のために書かれ・恐らく左団次が初演した数多い新歌舞伎のなかの最高傑作であるにも関わらず、以上の経緯から世間に綱豊=左団次のイメージがほとんど残っていないということなのです。その後の綱豊のイメージは寿海、或いは十四代目勘弥・十一代目団十郎らによって、どちらかと云えば優美なイメージで捉えられて来ました。なにしろ後の六代将軍様ですから、優美でなくちゃねえ。しかし、このため「元禄忠臣蔵」連作のなかで「御浜御殿」だけがどこか別種の趣の・外伝風の印象になってしまいました。

「伏見撞木町」と「御浜御殿」は読み切りの芝居としてそれぞれ別個に書かれたもので、これら二作をたまたま左団次が初演しただけのことだと考えていると、二作の関連はまったく見い出せないでしょう。しかし、青果-左団次には、こう云う事例があるのです。それは昭和9年(1934)1月東京劇場の「将軍江戸を去る」初演で、左団次が西郷吉之助と徳川慶喜の二役を兼ねたことです。ご承知の通り、世間には特異な西郷どんのイメージがあります。西郷どんのイメージを裏返して十五代将軍に重ねようとすると普通だとかなり無理がある。それでも青果と左団次は敢えてこれに挑戦した。このことの深い意図を考えなければなりません。(このことについては別稿「江戸城総攻」三部作一挙上演」を参照ください。

これも大事なことですが、役者には柄(がら)と云うものがあります。寿海は徳川慶喜を得意にしましたが、芝居巧者の寿海でも西郷どんはさすがに似合わない。それで寿海はやりませんでした。人には向き不向きがあるからそれは仕方ないことです。寿海が悪いのではありません。左団次の柄だから慶喜と西郷の両方を兼ねることが可能だったのです。そこから予期しない演劇の暗喩が生まれることになりました。綱豊と内蔵助を兼ねても同じことが起きるはずだと当たりを付けることにします。

まあ「慶喜と西郷」のイメージの乖離に比べれば、「綱豊と内蔵助」を兼ねる方がいくらか楽かも知れませんねえ。例えば吉右衛門や仁左衛門は、綱豊と内蔵助の両方を演じている役者です。この二人には可能性があるでしょう。しかし、「伏見撞木町」と「御浜御殿」を二作を対にして同日に上演し・綱豊と内蔵助のニ役を同じ役者が兼ねたことは、現在までのところ、今回(昭和54年11月国立劇場)の吉右衛門の例以外にないわけです。それは歌舞伎に、このニ役を兼ねようという発想が元々なかったからでしょうね。それは八代目幸四郎の降板というアクシデントに拠って、たまたま偶然に生じたことでした。しかし、これは原作を読んでみればはっきり分かることですが、内蔵助と綱豊は合わせ鏡のような対の関係にあり、「伏見撞木町」と「御浜御殿」は互いに補完し合う関係にあるのです。今回映像を見直す意義は、そこにあります。(この稿つづく)

(R5・11・9)


3)「七段目」の見立て

内蔵助と綱豊は合わせ鏡の対の関係にあり、「伏見撞木町」と「御浜御殿」は互いに補完し合う関係にある。このことを明確に示すものは、幕切れ近くの主役ふたりの長台詞です、まず「伏見撞木町」の内蔵助の台詞を引きます。

『小池の水の輪にその道があるように、運命には運命それ自身の歩みがあるものだ。自ら招いた運命は、その運命の波のうねりが、水際(みぎわ)に消えるのを待つたねばならぬ。また人は時として、与えられた運命に逆らわねばならぬ時がある。また背向かねばならぬ場合もある。が、いつ如何なる場合においても、わが招いた運命を弄んではなりませぬ。(中略)如何になりても大学頭さまのこと片付くまでは、あせるな急くな、静かに時の歩みを眺めていよ。(中略)我ら、討入を遂げぬ前に、年の上にて上野介に万一のことあれば、その時は我ら一味の五十何人、よくよく武運に尽き果てたと申そうものじゃ。その時こそは潔く、泉岳寺に走せ集り、殿様の石塔をとり囲んで、みなみな潔く追腹切れば、われわれの誠も立ち、天の命にも順(したが)うというものじゃ。至誠は第一、敵討は第二じゃ。』(「伏見撞木町」・大石内蔵助)

内蔵助は時の拍子に誤って提出してしまった浅野大学頭再興の願いの行方を寂しく眺めています。再興が認められてしまえば、もはや仇討することは叶わぬ。しかし、あせるな急くな、静かに時の歩みを眺めていよう・・・そう言いながら、実は内蔵助は静かな境地にいるわけではありません。内蔵助の内面は激しく煮えたぎっているのです。

これは甲府綱豊も同様です。綱豊は次の将軍の最有力候補とされていますが、五代将軍綱吉の猜疑心は強い。このため綱豊は政治的な発言は慎み、学問と遊芸の日々を送っています。あせるな急くな、静かに時の歩みを眺めていよう・・・そう言いながら、綱豊もまた安穏な気持ちでいるわけではないのです。天下泰平に疲れ切った世情は次第に荒廃の様相を見せ始めている。このことを憂いて、来るべき時のために自分は何を出来るのかを深く考えようとするのが綱豊なのです。「御浜御殿」幕切れで助右衛門の首根っこを押さえ付けて言う長台詞の後半を引きます。

『・・そこはさすがに内蔵助だ。(穏やかな口調にかえり)彼が今日島原伏見の遊里に浮かれ歩くのは、そちたちの目から見れば、或いは吉良を油断させようために計略などと思おうが・・・俺の目にはそうは見ない。(と頭を振り、やや涙を目に浮かべて)彼は今、時の拍子に願い出た、浅野大学再興に・・・その心を苦しめながら、あやまって手から離した征矢(そや)の行方を、淋しくジッと眺めているのだ。この内蔵助の悲しい心を、淋しい心を・・・そちたち不学者には察し得られる事ではないのだ。(一滴落涙)助右衛門、吉良は寿命の上、らくらくと畳の上で死んでも、汝ら一同が思慮と判断の限りを尽くして、大義、条理の上にあやまちさえなくば、何アにあんな・・・ゴマ塩まじりの汚い白髪首(しらがくび)など、斬ったところで何になる、そなえたところで何になる。まこと義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、汝らの本文をつくし、至誠を致すことが、真(しん)に立派なる復讐といい得るのだ。』「御浜御殿綱豊卿」・徳川綱豊)

読み比べてみれば、内蔵助と綱豊の二人が言うことはまったく同じであることが分かります。まったく合わせ鏡のようにぴったりなのです。さらにこれらを「仮名手本忠臣蔵」・七段目の幕切れで由良助が九太夫を打ち据えていう長台詞と比べて見てください。

『獅子身中の虫とは己れが事。我が君より高知を頂き、莫大の御恩を着ながら敵師直が犬となつて、ある事ない事よう内通ひろいだな。四十余人の者共は、親に別れ子に離れ、一生連れ添ふ女房を君傾城の勤めをさするも、亡君の仇を報じたさ。寝覚めにも現(うつつ)にも、御切腹の折からを思ひ出しては無念の涙、五臓六腑を絞りしぞや。取り分け今宵は殿の逮夜、口に諸々の不浄を言ふても、慎みに慎みを重ぬる由良助に、よう魚肉を付き付けたな。否と言はれず応と言はれぬ胸の苦しさ。三代相恩の御主の逮夜に、喉を通したその時の心、マどの様にあらうと思ふ。五体も一度に悩乱し、四十四の骨々を砕くる様にあつたわやい。チエヽ獄卒め、魔王め』(「仮名手本忠臣蔵」〜七段目・大星由良助)

「七段目」の由良助の台詞は、感情の爆発のような印象です。他方、内蔵助と綱豊は、表面は冷静かつ論理的に自己の「信条」を展開しているかのようですが、内心に煮えたぎる「心情」は、七段目の由良助が叫ぶのと変わりないほどの熱さなのです。

誤解がないように付け加えますが、「七段目」の由良助に於いても、「至誠が第一、敵討は第二」なのです。敵討のプライオリティはずっと低いのです。「七段目」の由良助もまた、「まこと義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、汝らの本文をつくし、至誠を致すことこそ、真(しん)に立派なる復讐といい得るのだ」と考えているのです。これこそ青果の「七段目」の読み方です。ですから「仮名手本忠臣蔵」を近代的視点で読み説いたのが「元禄忠臣蔵」ですが、根本にある「心情」に何ら変わりはないのです。青果の読み方が正しいことは、「九段目」幕切れでの本蔵と由良助の会話からも裏付けされると思います。仇討ちすることが、彼らの最終目的ではありません。彼らは「〇〇家の家来」という自身のアイデンティティを守るため自分はどう行動するのが正しいかを考えています。(別稿「個人的なる仇討ち」を参照ください。)

(本蔵)「ウハハヽしたりしたり。計略といひ義心といひ、かほどの家来を持ちながら、了簡もあるべきに、浅きたくみの塩谷殿。口惜しき振舞ひや」
(由良助)「御主人の御短慮なる御仕業。今の忠義を戦場のお馬先にて尽くさば」

「伏見撞木町」と「御浜御殿」が「七段目」に見立てられると云うことは、例えば「七段目」で由良助が九太夫を打ち据える、=「伏見撞木町」で内蔵助が息子松之丞(主税)を打ち据える、=「御浜御殿」で綱豊が助右衛門を押さえ付けるとか、そんな表面的な類似から来るのではなく(もちろんそれも大事なことなのですがね)、実はそれ以上に深いところの、言いたいことのすべてを腹に呑み込んで・これでいいのかあれでいいのかと自問自答しつつ・自分の信じる道を黙々と歩む、そのような心情の熱さにあると云うことです。(この稿つづく)

(R5・11・11)


4)「七段目」の見立て・続き

ご承知の通り、「七段目」は「仮名手本忠臣蔵」のなかで最も人気がある幕です。遊郭の華やかさが観客に受けるからと云うのももちろんありますが、「忠臣蔵」のドラマの本質が茶屋場にあるからです。由良助が日々酒食に溺れるのは、もはや仇討ちする意志を放棄したのか、或いは周囲に仇討ちする意志を隠し・敵を欺くための計略か。由良助の行動は見ように依って真とも映り、また虚とも映ります。そのような虚実の揺らぎのなかに由良助が居るのです。仇討ちすることが「実」だと云うなら話は簡単ですが、「七段目」が描くものはそんな単純なものではありません。

別稿「七段目の虚と実」で取り上げた件ですが、「七段目」幕切れで由良助が九太夫を打ち据えて本音(仇討ちの大望)を叫ぶことは、それを遊郭一力茶屋で敢えてすることは、実は恐ろしいことなのではないか。そう云うことを考えてみる必要があるのです。つまり「七段目」は虚と実の狭間で引き裂かれており、その裂け目から見える本音というものが、実はギラリと光った刃(やいば)なのです。「七段目」の隠された本質は、虚と実の狭間に揺れる乖離感覚にあるのです。このことが茶屋場を近代戯曲的な感触にしています。

この点を強調しておきたいですが、もし「忠臣蔵」に茶屋場(七段目)が欠けていたら、「忠臣蔵」は封建思想礼賛・仇討賛美の前近代的なドラマにしかならないでしょう。茶屋場があるから、「忠臣蔵」は近代的な、現代人にも深く考えさせられる普遍的なドラマとなるのです。それは「人」として正しくあるために私はどう行動すべきかと云う問題です。自問自答を続けても、容易に結論が出せない問いです。例え結果が出たとしても、これで私は良かったのだろうか・もしかしたら私にはもっと良い方法が他にもあったのではないかと自問自答をずっと続けなければならない問いです。

文楽の「七段目」ではそのような様相が見え難いと感じるかも知れませんが、揺れる乖離感覚は文楽にももちろんあります。そのために浄瑠璃作者は「七段目」を掛け合いとしたのです。別稿「誠から出たみんな嘘」のなかで、「七段目」は浄瑠璃作者が書いた歌舞伎へのラヴレターだと書きました。「七段目」は歌舞伎に寄った感覚で書かれているのです。それは歌舞伎が和事の芸が引き裂かれた感覚の表出を得意としたからです。だから歌舞伎が「七段目」をやるならば、揺れる乖離感覚を明確に表現出来ねばなりません。

青果の「元禄忠臣蔵」では、揺れる乖離感覚が、茶屋場のみならず、全編を支配しています。「人」として正しくあるために私はどう行動すべきかと云う問題が主体ですから、仇討ちする否かということは、もはや大きな問題ではありません。だから「元禄忠臣蔵」では、元禄赤穂事件を描くならば・なくてはならないはずの、松の廊下刃傷の場面も、吉良邸討ち入りの場面も必要ないのです。青果が書きたいドラマがそこにないからです。茶屋場(伏見撞木町での内蔵助の遊興三昧)は、ここがクライマックスとなるはずですが、そこは青果のことですから、茶屋場を華やかなシーンに決して仕立てません。「仮名手本・七段目」の実説版を期待すると、青果の「伏見撞木町」は拍子抜けするほど地味で暗い印象です。「七段目」では揺れる乖離感覚が万華鏡のイメージで外へ向けて展開するのに対し、「伏見撞木町」ではそれは内蔵助の内面へ沈滞していくが如きなのです。

青果が只者でないのは、この地味な「伏見撞木町」に合わせ鏡のように「御浜御殿」を重ねて見事に「七段目」の見立てを対の形で完成させたことです。ここでは「七段目」の由良助が、内蔵助と綱豊に分離します。内蔵助に反発する息子松之丞(主税)は、綱豊に責められて喚き始める助右衛門と重なります。助右衛門は綱豊に対し「六代将軍をお望みゆえ・わざと世を欺いて・作り阿呆の真似をあそばされるのでございますか」と喚くのは、助右衛門の目には綱豊が内蔵助に見えているからです。彼が内蔵助に叫びたいことは、「いつになったら仇討ちの決断をするんだ、俺たち部下の気持ちも分からず、まだ遊興三昧を続けるのか、いい加減にしろ」と云うことです。内蔵助が綱豊か、綱豊が内蔵助なのか。残念ながらその死により不首尾に終わりましたが、二代目左団次がこの二役を勤めたのは、そのようなイメージの揺らぎを期待したからに違いありません。(別稿「指導者の孤独」をご参照ください。)綱豊は助右衛門のこの気持ちを受け止めるわけですが、同時に内蔵助への真意を図りかねている観客の気持ちを受け止めてもいるのです。(この稿つづく)

(R5・11・14)


5)「伏見撞木町

いきり立つ家来たちを鎮めるために・当座しのぎで提出した浅野大学頭再興の願いが、今頃になって動き出し・幕府内でもお取り上げの議論があるやに聞く。しかし、再興が認められれば、もはや仇討ちは叶わぬことになる。内蔵助の苦しみはそこにあり、ただ時の流れを待つしかない。「伏見撞木町」はそのような揺れる乖離感覚が内蔵助の内面へ沈滞していく様を描くものですが、一刻も早く討ち入りを・・と急く仲間たちには内蔵助の本心が掴めません。内蔵助様は一体何をしているのか、もはや仇討の意志を棄てたのか・それとも世間を欺くための放埓なのか、仲間たちは湧き上がる疑念を押さえ付け、ジリジリしながら内蔵助の決断の時を待っています。

このようなジリジリした気分は彼らが勝手に内蔵助を邪推して生まれたものではなく、実は内蔵助の内面にある揺れる気分の振動が外部に伝わって、周囲の者たちの心を揺らして生まれたものです。内蔵助は達観して時の流れを心静かに待っているのではなく、実は内蔵助が一番ジリジリして待っています。内蔵助はそんなことを決しておくびにも出しませんが、内蔵助の内心のジリジリは周囲の者たちに伝わっているのです。つまり周囲の者たちが由良助の内心の揺れに「共振している」と云うことです。今回(昭和54年・1979・11月国立劇場)上演される三作、「伏見撞木町」・「御浜御殿綱豊卿」・「南部坂雪の別れ」に共通する様相とは、そう云うことです。

このような閉塞したジリジリした気分は、一刻も早い解決を求めて、早鐘のようにタンタンタン・・畳みかけるリズムとなって現れます。詳しいことは別稿「左団次劇の様式」を参照ください。これこそが20世紀初頭の世界の気分を表すリズム、新歌舞伎様式のリズムです。別稿「若き日の信長」観劇随想で触れた通り、吉之助が本格的に歌舞伎を見始めた昭和50年代には、二代目左団次とその時代を知っている役者が存命で、新歌舞伎様式がまだまだしっかり残っていました。このことは今回の舞台映像を見てもはっきりと確認が出来ます。又五郎は当然のことですが、それより下の世代になる左団次も亀蔵もそうです。脇の脇まで、しっかりと緊張感を保った・タンタンタン・・畳みかけるリズムが出来ています。

そのなかで何人かの若手が新歌舞伎様式のリズムを体現出来ていません。つまり世代としては吉之助とほぼ同世代なのですが、例えば勘九郎(後の十八代目勘三郎)の松之丞(劇中で元服して主税となる)です。勘九郎の松之丞は、これを古典歌舞伎の役とするならば上々の出来に違いありません。そう云えば昭和52年(1977)11月歌舞伎座での「仮名手本忠臣蔵」通し(戦後歌舞伎の総決算と云われた「忠臣蔵」でした)での、勘九郎の力弥がとても良かったことを思い出します。勘九郎は、あの時の力弥と同じ感じで松之丞をやっていますね。しかし、これでは新歌舞伎の役にならないのです。

「伏見撞木町」での松之丞は遊興三昧で浮かれる父・内蔵助を見て泣きますが、勘九郎の松之丞は「悲しくって」泣いているかに見えますねえ。力弥が四段目で「(由良助が)未だ参上仕りません」と言って泣くのと同じ感じです。これでは新歌舞伎の役になりません。松之丞は父親の所業が納得できず悔しくて「怒って」泣くのです。そこに歯軋りする若者の正義感が出て欲しいのです。(これは数右衛門や安兵衛が抱いている思いと同じものです。)だから松之丞は父親の許しを得ないまま・自らの額にカミソリを当て・勝手に元服するという行為に出るのです。「悲しくって」じゃあそう云う行動にならないでしょう。(ちなみに十八代目勘三郎の青果ものとしては「血笑記」の舞台をよく覚えていますが、結果として青果ものへの出演が少なかったことは残念でしたね。新歌舞伎様式が身に付いていれば、野田歌舞伎の感触もちょっと変わったかなと云う気もします。)

内蔵助はそう云う内面のジリジリした気分を表に出そうとしません。したがって畳みかける早いリズムも内蔵助の台詞に顕われないように見えるかも知れませんが、しゃべり口調はゆったりしていても、緩急がついた確かな二拍子の刻みのどこかに、一刻も早い解決を求める気持ちが熱くたぎっているのです。八代目幸四郎はそのような台詞が巧かったですが、若き吉右衛門の内蔵助も実父の名調子をよく写してなかなか見事なものです。(この稿つづく)

(R5・11・17)


6)「御浜御殿綱豊卿」

さっきまで伏見撞木町で浮かれていたはずの内蔵助が今度は江戸御浜御殿で浜遊びをしている。そう云う感じに見えることが、青果の二つの戯曲の主役を兼ねることの大事な意味なのです。つまり「伏見撞木町」と「御浜御殿綱豊卿」は、実は二枚の屏風の表と裏である。内蔵助を裏に返せば甲府綱豊になるのです。吉右衛門はまだ台詞をしゃべる前から・舞台にちょっと姿を見せただけで、このことをはっきりと教えてくれました。

しかし、「御浜御殿」は繰り返し上演されてきましたから、優美な綱豊卿のイメージはやはり強固なものがありますねえ。寿海のように見せないと綱豊卿に見えないと云う重圧(プレッシャー)はかなりある。吉右衛門の綱豊を見ると、「伏見撞木町」の内蔵助(こちらは当然実父・幸四郎のトーンを踏襲している印象である)よりは若干声のトーンを高めに置いた感じがしました。つまり二役を仕分けようとしているのです。そうしたくなることを理解はしますが、ここは内蔵助か綱豊卿か・どちらか分からぬと云う感じでお願いしたかったですねえ。まあ傷になっているわけではないですが、そこはちょっと惜しいことをしました。吉右衛門の綱豊はなかなか懐が深い印象があって、助右衛門が喚き出しても・槍で襲ってきても、これをやんわりと微笑を以て受け止めるだけの度量を持った立派な綱豊であったと思います。

綱豊と助右衛門との長い対話(これは歌舞伎史上稀有な対話劇として宜しいものです)がしばしば陥り易いのは、赤穂浪士たちに仇討の意思があるか無しかを探ろうとする綱豊と・それを気取られまいと突っ張る助右衛門と云う構図に見えかねないと云うことです。これは助右衛門(辰之助)の対応の具合に拠るのですが、今回(昭和54年・1979・11月国立劇場)も若干そんな感じがしますね。まあここはそう見えたとしても芝居としては十分成り立ちますから、これも「御浜御殿」の解釈のヴァリエーションと考えられなくもないですが、これだと助右衛門が興奮して「あなた様には六代の征夷大将軍の職をお望みゆえ、それでわざと世を欺いて作り阿呆の真似をあそばすのでございまするか」と喚き始めるのがいささか唐突に見えてしまいます。仇討の意思を悟られまいとするならば、一番してはいけないことを助右衛門がしたことになります。

ここでは助右衛門の目に綱豊が内蔵助のように見えているのです。助右衛門の耳には、「綱豊のために、行くべき道を示せと言うのだ。助右衛門、まだ分からぬか、俺を見よ。俺の眼を見よ。俺は、あっぱれわが国の義士として、そちたちを信じたいのだ」という台詞が、伏見撞木町で内蔵助が助右衛門に言っているように響いています。しかし、助右衛門に言わせれば、「行くべき道を示せとは、それはリーダーであるアンタが決めることだろ。部下のオレたちはアンタが決断するのをジリジリしながら待っているんだよ。なのに遊興ばかりして、いつになったら決めるんだ」と云うことです。(別稿「指導者の孤独」もご参考にしてください。)辰之助の助右衛門は口跡のメリハリが利いて・熱さもあって・決して悪くない出来ではあるのですが、どうもそこの性根の置き方が違っている感じがします。

なお助右衛門は田舎侍の武骨な風貌に仕立てることが多いようですが、史実の助右衛門は江戸生まれの江戸育ちで・俳諧も嗜む、赤穂育ちの他の仲間とはちょっと違った雰囲気を持っていた男であったように思われます。辰之助のスッキリした風姿は助右衛門のそんなところを垣間見せたように思いますが、いずれにせよ綱豊との対話の方向性についてはもう少し工夫が必要です。そこら辺は演出の真山美保氏がしっかり指導して欲しかったと思いますね。(この稿つづく)

(R5・11・26)


7)「南部坂雪の別れ」

演出の真山美保氏が当月(昭和54年・1979・11月)国立劇場筋書のなかで、青果の「元禄忠臣蔵」全10篇のなかで、今回上演の三篇・すなわち「伏見撞木町」・「御浜御殿綱豊卿」・「南部坂雪の別れ」は、「元禄忠臣蔵・中の巻」(雪月花)であると書いています。これはまことに言い得て妙であります。当てはめるならば「南部坂」が雪、「伏見撞木町」が月、「御浜御殿」が花でありましょうか。他篇においては、刃傷とか城明け渡し・あるいは討ち入り・幕府への届け出・切腹の御沙汰など、状況が推移するなかで生じるドラマです。しかし、「中の巻・三篇」においては、目立った事件は何も起こりません。ドラマは内蔵助の脳裏にたゆとう想念のなかにあり、表面上は静かな心理劇であるかの如くです。しかし、内蔵助の心中の揺れる思いは不気味な長期周期振動を発信して、これを感知した周囲の者たちは不安になったり・イライラしたり・怒り出したり・時には喜んでみたり・落着きのない行動になります。けれどもそれもこれも芝居のなかで決定的な展開を見せることがありません。何故ならば内蔵助のなかにまだ結論が出ていないからです。

『小池の水の輪にその道があるように、運命には運命それ自身の歩みがあるものだ。自ら招いた運命は、その運命の波のうねりが、水際(みぎわ)に消えるのを待つたねばならぬ。また人は時として、与えられた運命に逆らわねばならぬ時がある。また背向かねばならぬ場合もある。が、いつ如何なる場合においても、わが招いた運命を弄んではなりませぬ。(中略)あせるな急くな、静かに時の歩みを眺めていよ。』(「伏見撞木町」・大石内蔵助)

そうは云いながら実は内蔵助自身が一番ジリジリしているのかも知れません。しかし、内蔵助はそんなことはおくびにも出さず、ただ静かに時の推移を眺めているかに見えます。「南部坂」の幕切れで、明日十四日は敵上野介は確かに在宿との報告が入り、そこで事態がちょっと動きます。けれどそこで内蔵助が振り向いて瑤泉院に「明日討ち入り致します」と報告するわけではありません。そう云うことは言わずとも知れているわけで、芝居は何も動かないまま余白を残して終わる、そこが宜しいわけです。青果は黙阿弥の「四十七刻忠箭計」(しじゅうしちこくちゅうやどけい)の一幕「南部坂雪の別れ」を本作の下敷きにしたことを感謝をこめて脚本に記しています。

そこで本稿冒頭で述べた当月初日(昭和54年・1979・11月5日)の幸四郎の内蔵助の花道引っ込みのことを思い出すのですが、「ほんのちょっとの時間でも・少しでも長くここに(舞台に)居たい」と感じられたあの引っ込みは、幸四郎の緊急降板というアクシデントから偶然生じたものかも知れませんが、内蔵助の心象風景とぴったり重なるところがあったなあと改めて感じますねえ。「今ここで生きていること・この時間が堪らなく愛おしい」のです。経時的に見れば討ち入り後のことになる「仙石屋敷」・「大石最後の一日」においても、青果が描く内蔵助はこの態度を最後まで崩しませんでした。ですから青果にとっての元禄赤穂事件とは、まさに「個人的なる仇討ち」であったと思いますね。

「南部坂」でも吉右衛門は実父幸四郎の雰囲気を踏襲し、落着きのある内蔵助像を構築したと思いますが、やはり幕切れの花道引っ込みでは、意識ベクトルは前を向いており、明日の討ち入りへの決意がたぎっていたと思います。まあ普通はそうなるものだと思います。しかし、最晩年の吉右衛門であれば、ここは少し趣が異なる引っ込みを見せたであろうと云う気もしますねえ。いずれにせよ1日で「元禄忠臣蔵」三篇の主演を勤めるのは大変なことで、吉右衛門はよく頑張りましたと拍手喝采を致したいところです。

(R5・11・27)


 

 


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