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十三代目団十郎の「若き日の信長」

令和5年5月歌舞伎座:「若き日の信長」

十三代目市川団十郎(織田上総之介信長)、四代目中村梅玉(平手中務政秀)、六代目中村児太郎(弥生)、三代目市川右団次(木下藤吉郎)他


1)新歌舞伎のリズム

本稿は令和5年5月歌舞伎座の団十郎主演による「若き日の信長」の観劇随想ですが、前置きとして、まず「新歌舞伎の様式とは」と云うことを考えたいと思います。一般に新歌舞伎とは、明治以後に、座付狂言作者ではなく、外部の作家によって書き下された新作歌舞伎作品のことを指します。しかし、様式の観点から議論するのであれば、狭義には二代目左団次(明治13年〜昭和15年)によって初演された作品群(左団次劇)のことを言います。さらにこれを中心に同時代の周辺作品をも包含して、これらを「新歌舞伎」だと考えれば宜かろうと思います。ですから例えば六代目菊五郎が初演した長谷川伸ものは、左団次が初演した真山青果ものとは色合いが微妙に異なりますが、同じ時代の空気を取り込んだところで、それらは或る共通した様式感覚(新歌舞伎様式)を持つのです。それは、心持ち早めの二拍子でタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てるリズム感覚です。つまり20世紀初頭のノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の感覚です。(これについては別稿「左団次劇の様式」で詳しく論じました。)

そうなると戦後の新歌舞伎の様式をどう捉えたら良いかと云うのが、次の問題になって来ます。二代目左団次が昭和15年に亡くなり、六代目菊五郎が昭和24年に亡くなりました。その薫陶を受けた後輩たちが、いわゆる「新歌舞伎様式」を引き続き守って来ました。例えば左団次劇団の副将格であった二代目猿之助(初代猿翁・〜昭和38年没)・三代目寿海(〜昭和46年没)、或いは菊五郎劇団の二代目松緑(〜平成元年没)・七代目梅幸(〜平成7年没)といった役者たちでした。その時代を知っている役者たちが存命でしたから、吉之助が本格的に歌舞伎を見始めた昭和50年代は、新歌舞伎様式がまだまだしっかり残っていました。したがって戦後の新歌舞伎群、例えば北条秀司・宇野信夫や大佛次郎・村上元三などと云った面々の・これらの作品についても、いわゆる新歌舞伎様式、つまりタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てるリズム感覚で読み解けると云うことです。

ところが、吉之助が長年歌舞伎を見続けてきた印象では、新歌舞伎のタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てる二拍子の感覚は、平成に入ると急速に薄れて行きました。平成以後の青果ものは、言葉の粒が立たない・平板な印象で、語尾を伸ばした台詞回しへと変化して現在に至ります。このことは残された舞台映像を時系列で比較すれば検証が出来ますから、もし機会があれば比べてみて下さい。これは恐らく平成と云う時代の保守化傾向と無関係でないものです。或る意味で、これは新歌舞伎が古典化して「歌舞伎らしく」なっていく過程(プロセス)とみなすことも出来ます。しかし、様式のエッジは際立たないことになる。平成は、歌舞伎が伝統芸能・世界文化遺産として尊敬されて、古典を上演してさえいれば、何もしなくても、歌舞伎座はいつも満員という時代が長く続きました。思えば歌舞伎にとって平成は幸せな時代でした。だから新作歌舞伎が出ることがほとんどなかったのです。しかし、令和の時代に入ると、俄かに動きが慌ただしくなって来たようですね。(これについては別稿「昨今の新作歌舞伎の動きについて考える」をご参照ください。)

但し書きを付けますが、吉之助は老人の繰り言で「昔の歌舞伎は良かった、今の歌舞伎は・・・」と言いたいわけではないのです。伝統芸能である歌舞伎は、元禄歌舞伎ならば元禄歌舞伎の、南北ならば南北の、黙阿弥ならば黙阿弥の、新歌舞伎ならば新歌舞伎の、正しい様式において演じられなければなりません。何でもかんでも一様の、いわゆる「歌舞伎らしい」感覚で処理されてそれで良いのか?と言いたいのです。新歌舞伎様式については、たかだか50年くらい前にはそれが残っていたわけですから、江戸に精神的な源を発し・伝統を継承する立場を自他ともに認めるはずの歌舞伎役者ならば、新歌舞伎くらいしっかりやって欲しいものだなあと思うのです。(この稿つづく)

(R5・5・5)


2)二拍子の様式感覚

芝居は主役だけで成立するものではありません。隅から隅まで出演者全員が同じ様式感覚で統一されていなければなりません。しかし、実際にはそうなっていないことが多い。(これは新歌舞伎だけに限ったことではありません。)どうやら役者それぞれ思っているところの「らしさ」の感覚が微妙に異なるようなのです。これは困ったことです。伝統芸能である歌舞伎は、様式感覚にもっと敏感であって欲しいものです。

例えば先日(3月)歌舞伎座の「髑髏尼」ですけど、初演以来4回しか上演されていないものですから「型」などないようなものですが、作品(初稿)発表が大正2年(1913)であることを考慮に入れて欲しいと思います。台詞はタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てる二拍子の新歌舞伎様式を基調にせねばならぬものなのは明らかです。そのリズムは作品成立時の戦乱の時代(第1次世界大戦は1914〜18年のこと)への不安と心理的に深く関連するものです。ここに滅びへの予感・不安がはっきりと現れます。このことはあまり強固にこじ付けるべきではないかも知れませんが、作者(吉井勇)がどうして中世の「髑髏尼」説話に惹きつけられたかを考える時にとても大事なことです。そこから逆算して、先行きが見えない令和のこの混迷した時代に「髑髏尼」を再演する意義を見出して行かねばならぬと思います。玉三郎は良いところに目を着けたと思いましたけれども、出来上がった舞台はそのような感じに出来上がっていたでしょうか?そこにちょっと疑問が残りますね。

或いは同じく先日(3月)歌舞伎座の「花の御所始末」ですが、新歌舞伎として最後の時期の作品と見るべきで・初演は昭和49年(1974)6月帝国劇場で・しかも女優を交えたものでしたけれど、作者(宇野信夫)が新歌舞伎様式で骨太い歴史劇に仕立てたかったことは明らかです。本作が歌舞伎座で歌舞伎として上演されることは作者として望外の喜びだと思いますが、台詞の急き立てる二拍子の様式感覚のなかに、作品成立時の作者の思いをどう重ねるかと云うことが大事だと思います。同じ時代に北条秀司が書いた「大老」や「建礼門院」には、登場人物よりもむしろ背景にある歴史の律そのものがこの芝居の真の主人公だと感じる長尺の歴史劇を書きたいと云う作者の思い(歌舞伎への思い)がありました。それと同じような思いのを、宇野の本作からも感じるのです。つまり、「それが表現出来るとすれば歌舞伎役者しかいないのだが・このような骨太い本格の歴史劇を作れなくなるのも・そう遠いことではないかも知れぬ」と云う作者の悲しい予感です。(あの頃は吉之助でさえ20世紀の終わりには歌舞伎はもはや消えているだろうと思っていましたから。)先日の幸四郎の「花の御所始末」の舞台を見ていると、外見はそれなりのエンタテイメントに仕上がっているけれども、それだけで終わっている印象ですねえ。主人公(足利義教)のあがきが、「歌舞伎がこのまま朽ちてなるものか」と云う歯軋りと云うか・熱い血のたぎりともっと重なって欲しいと思うのです。そのような気持ちを表現するための「新歌舞伎様式」であると思います。(この稿つづく)

(R5・5・7)


3)信長の心情

新歌舞伎様式の台詞は同じ二拍子と云えども、そのリズムの背後に潜む心情の様相は色々です。単純な二拍子だからこそ、いろんなタイプの心情をそこに込めることが出来ます。そこに共通するものは、我が胸のうちに渦巻くものをこのままに置けぬ・我が心情は吐き出されねばならぬと云うことです。

大佛次郎の新歌舞伎「若き日の信長」は昭和27年(1952)10月歌舞伎座での初演。信長を勤めたのは、九代目海老蔵(後の十一代目団十郎)でした。信長の傅役(もりやく)であった平手中務(政秀)は茶道や和歌にも通じた文化人であったそうです。史実の中務が自刃した理由については、諸説あるようです。「若き日の信長」においては、信長の日々の奇行を憂い自らの死によってこれを諫めようとしたと云う説に拠っています。傅役として中務は、信長のことを心底思うていたことでしょう。信長もその愛を深く感じていました。しかし、中務の考え方は戦国の世には既に時代遅れのものでした。過去の常識に固執していたら、この厳しい弱肉強食の戦乱の世に生き残っていくことは出来ないのです。信長からすると、中務は旧弊みたいなものです。その中務が諫言の自刃をしてしまいました。信長としては爺に感謝しつつも、自らの信じる道を進まねばなりません。しかし、今の信長には熱い思いはあるけれども、それはモヤモヤとして・明確な形を成してはいません。これでは軽々に動くことは出来ません。家来たちが自分を信じて付いて来てくれるかという不安もまだあります。それが今川義元の軍が領内に攻め込み、食うか食われるかと云う絶体絶命の状況に追い込まれた時に、突然明確な形を成すのです。この状況で初めて信長の腹がしっかと決まります。これが「若き日の信長」のドラマなのです。

『世間は動いている。田舎の狭い土地にこもって、隣近所と相せめいでいる間に、外の世界は、一体どう変わって行くのか?ここでは、生き延びて行くだけの工夫で、精一杯だ、爺のように、いつまでも昔の物尺(ものさし)で物を計っていては、動きが取れぬ。食うか食われるかじゃ。獣類か、無道の賊の世界だ。おれはくやしい故、この乱世にも生き残りたい。そうせねばならぬ。おれを、野武士のようじゃと言うが、野武士なら野武士でよい。おのれひとりの道を開いて歩こう。』

このような信長の心情を、戦争で国土が焦土と化し・敗戦のどん底に叩き込まれた日本人に向けてのメッセージとして大佛次郎が書いたことは、もちろん大事なことです。しかし、それをあまりに強く見過ぎると、作品がそれが成立した時代から解き放たれないことになります。名作は常に新たな読み方を許容するものです。この令和の混迷した時代に我々がこのドラマを読むならば、何をすれば良いか自分の進むべき道が一向に見えて来ず・ジリジリと歯痒い思いだけが胸に渦巻くこともあるだろう、そのような場合には、あえて死中に活を求める状況に自分を追い込む、時にはそう云うことも必要なのだと云う風に読めば宜しいかと思いますね。そのような信長の熱い思いを二拍子の急き立てるリズムに託すと云うことです。(この稿つづく)

(R5・5・11)


4)父殺しの過程

御霊(ごりょう)信仰とは、不幸な死に方をした人が祟りや災いをもたらさないように、これを祀り・なだめる信仰のことを言います。例えば菅丞相は朝廷に恨みを含んで亡くなりましたが、御霊(みたま)を丁重に祀りなだめれば、御霊は却って朝廷を守護してくれるのです。京都の北野天満宮がそれです。傅役である平手中務は恨みではなく・諫言で自刃したわけですから・丞相とは事情が多少異なりますが、いずれにせよ「性根を正してもらいたい」という中務の願いは信長にとって受け入れ難いことですから、信長と中務は対立構図です。しかし、死することによって、中務の御霊は信長のなかで自分を守護する存在へと転化することになります。これは菅丞相の御霊が朝廷を守護し給う存在に変わっていく過程(プロセス)に似ます。或いは息子が精神的な「父殺し」をしてその罪を受け入れていく過程にも似ます。信長にとっての中務は、実の父親である織田信秀以上に「父なる存在」であったでしょう。別稿「ハムレット」論考でも触れた通り、既成の概念をぶち壊す行動は、まずは「父殺しの罪を引き受ける」(自己認識する)ところから始まります。

作者・大佛次郎は芝居のなかで信長の・この「父殺し」の精神的過程を非常に重く見ています。脚本からその部分を引きます。清州城中で信長はひとり酒を飲んでいます。

信長:「中務の爺。(向いあっている心持なのである)・・・爺、酒を飲め。」
縁の秀吉(藤吉郎)が、怪しんで、首を曲げて、信長を見る。日没となり、光は薄くなっている。遠い稲妻が、二人に映る。信長は自分の心の影を追うだけで一向に無関心なのである。彼は、しきりと孤独なのだ。同時に自分が反抗して来た平手中務をなつかしんだのである。膳の上から、肴をとって、また言う。
信長:「爺、肴じゃ、・・・これを食え。」

秀吉はその様子を覗き見る。また稲光り。信長は孤独に酒を飲む、かと思うと、無意識の動作のように、置いてあった小鼓を手に弄び、また、畳に置く、すべて孤独な若者の表情なのである。また、稲光り。

脚本の・この部分ですが、芝居のト書きにしては余りに小説的に詳し過ぎることに気が付くと思います。このことが大事なのです。ここは作者にとって特に大事な場面である。だから役者・演出者に解釈のブレが生じないように、丁寧過ぎるほどの「解説」を入れているわけです。この場面の稲光りは、信長の心のなかに映る御霊神の荒れの如くです。信長は御霊神(中務)の荒れを受け止め、荒ぶる魂を鎮撫しながら精神的な「父殺し」の罪を自らに引き受けて行きます。

昨年10月御園座の玉三郎観劇の帰りに、桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区)に寄って来ました。記念碑には「近世の曙」と銘が記されていました。桶狭間合戦は様々な歴史的評価が出来ると思いますが、ひとつの見方としては、この戦いによって「中世の長い夜が終わり・新しい時代の夜明けが始まる」と解釈できます。今川義元も・そして平手中務も、信長の脚に絡みついた中世の因習・或いは柵(しがらみ)の何かを象徴しています。信長は自分がそこ(中世)から発したことを分かっていますが、信長にとってそれは「父殺し」されねばならぬものです。(この稿つづく)

*桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区)。右が今川義元像。左が織田信長像。
中央の碑に「近世の曙」と銘が記されています。
2022年10月4日、吉之助の撮影です。

(R5・5・13)


5)団十郎の織田信長

そこで今回(令和5年5月歌舞伎座)の「若き日の信長」ですが、舞台に目前に迫る危機(今川義元の大軍が押し寄せそうとしている)への切迫感が冒頭から不足しているようです。それはタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てる二拍子の様式感覚で表出されなければならぬものです。主役だけでなく・役者全員でそれを造らないと、新歌舞伎の様式のエッジが立ちません。本稿冒頭に記した通り、歌舞伎役者は様式感覚にもっと鋭敏であって欲しいと思います。

まず梅玉の平手中務は達観している感じで・そこに梅玉らしい味わいがします(同月・昼の部の「対面」の工藤祐経ではそれがなかなか良い味になっています)が、死んで信長のなかで御霊と化するための・或る種の頑迷さが欲しいところです。必要なものは信長に対する慈愛ではなく、頑固なほどの厳しさです。信長との対立構図が明確にならなければ、ドラマが動きません。ここはもっと二拍子で押してもらいたいのです。梅玉の中務は、そこに再考の余地があると思います。

さて団十郎の織田信長ですが、様々な葛藤が渦巻いて・なかなか明確な形を取ることがなかったものが(つまり信長は自分がどうしたら良いか・まだ掴めず苛立っていたのです)、絶体絶命の状況に追い込まれたところから、それが突然或る明確な方向性を持つことになる、そのような信長の姿と、歌舞伎での団十郎の現在の立ち位置とを重ね合わせて、観客はこの芝居を見ることになるわけですが、出来としては良いところと・まだまだと思うところが相半ばしますねえ。役の性根としては正しいところを掴んでいると思います。しかし、これを様式として体現出来ていないようです。

畳み掛ける・急き立てる二拍子は、イメージとしてはハイテンション(気持ちが高揚している)であって、普通は台詞が高調子で出るものです。当然、先代(十二代目)団十郎の信長の台詞も高調子でした。そこを当代団十郎は低調子で出ますね。しかし、これは恐らく自然体で通したいと考えた結果であろうとお察しをします。低調子ならば団十郎も喉にそれほど負担は掛かりません。低調子の台詞はモヤモヤとした感情を胸のうちに抱える信長の得体の知れぬ大きさを表しているようでもあり、これは当代団十郎の大きさとも重なって来るようです。だからこれもひとつの方策であると認めますが、同時に信長はその形に成らぬモヤモヤを一刻も早く吐き出したいとジリジリしているのです。モヤモヤだけで終わったのでは困る。そのための畳み掛ける・急き立てる二拍子なのですから、そこを様式として掴んでもらいたいと思いますね。

周知の通り、団十郎の台詞の改善は、喫緊の課題です。昨年の団十郎襲名興行では「改善の兆しが見えた」と吉之助も喜びましたが、今回(令和5年5月歌舞伎座)の信長を見る限り、残念ながら、だいぶ元の状態に戻ってしまったようですねえ。自然体でしゃべっているから台詞のいつもの癖が露わになっています。幕切れの台詞「おお、中務の爺の倅たちか。信長が門出に舞う。見ておれよ」は高く張り上げたつもりだろうが、声が出ていませんね。もう一度記しますが、台詞のテンポが遅くても良い、速度をあまり変えず、言葉を噛みしめるようにリズムをしっかり踏んで、「しゃべりの芸の原点に帰る」、これが団十郎の台詞の改善のための要点です。新歌舞伎の、タンタンタン・・と刻む二拍子のリズムは、実は元禄歌舞伎の荒事のリズムにも共通するものだと云うことに気が付いて欲しいですねえ。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)台詞を低調子で出るのはそれでも構いませんが、二拍子のリズムをしっかり踏んで発声をしてもらいたいと思います。

児太郎の弥生は、何だか印象が暗いですねえ。この芝居の紅一点なのだから・もっと凛とした目立つ存在であって欲しいと思います。弥生はなぜ信長を慕うのでしょうか。弥生は人質に取られた身ですが、或る意味に於いて信長も牢獄に囚われた身であり・そこから飛び出そうと懸命にあがいている、弥生はこのことを理解し、自分も一緒に大きく羽ばたきたいと願っています。弥生は「新しい時代の女性・新歌舞伎の女性」なのです。そこが分かれば、児太郎の弥生も変わってくるのではないでしょうか。

(R5・5・14)

*「若き日の信長」脚本は、「大佛次郎・自選集・第15巻」(読売新聞社)を参照しました。


 


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