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「誠から出た・みんな嘘」 

平成19年2月・歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵・七段目」

二代目中村吉右衛門(由良助)、十五代目片岡仁左衛門(平右衛門)、五代目坂東玉三郎(お軽)他


1)「七段目」の華やかさ

「七段目」は「仮名手本忠臣蔵」のなかでも歌舞伎らしい華やかさがある幕です。そしてお芝居らしいお芝居です。このことは場所が一力茶屋という遊郭だから当たり前だと思うかも知れませんが、そこのところをもう少し考えてみたいのです。ご承知の通り、「仮名手本忠臣蔵」はもともと人形浄瑠璃に発するお芝居です。と言うことは義太夫という語り物の音曲に制御されているわけで・「六段目」のような世話場でもそれを強く感じますが、「七段目」はそういう縛りがあまり感じられません。逆にまるで歌舞伎オリジナルのようなお芝居の自由さを感じます。

それもそのはず、人形浄瑠璃でも「七段目」は掛け合い場と言って複数の太夫が役をそれぞれ分担して受け持って進める特殊な場で、もともと演劇性が高い場なのです。つまり、歌舞伎を意識して作られていると言うことです。「七段目」の由良助は当時の人気役者であった初代沢村宗十郎が延享四年(一七四七・つまり「忠臣蔵」初演の前年)に京都で粂太郎座で演じて評判を取った歌舞伎「大矢数四十七本」の大岸宮内の茶屋場遊びをモデルにして作られたと言われています。「大矢数四十七本」の脚本は残念ながら残っていませんが、これは「忠臣蔵」に大きな影響を与えた先行作のひとつで、大岸宮内というのはもちろん大石内蔵助のことです。「七段目」の由良助の「青海苔もらふた礼に太アイ太神楽打やうな物」という台詞廻しにはその時の宗十郎の宮内の台詞廻しを写したものです。だから、まあ、言ってみれば「七段目」は竹田出雲 ら浄瑠璃作者が書いた歌舞伎へのラヴレターだと言うことです。掛け合い場という形式はその後の人形浄瑠璃でも主流にはなりませんでした。しかし、人形浄瑠璃は歌舞伎を意識した演劇性の強いものに次第に傾斜していきます。

このことは「七段目」を考える時に非常に大事なヒントです。「七段目」の華やかさと言うのは遊郭の雰囲気だけから出るものではなく、やはり生身の役者が芝居を演じることのリアルさへの憧れから来るのです。このことが「七段目」の舞台から何かしらの華やぎを引き出しているに違いありません。史実の内蔵助と言うより・人気役者宗十郎が演じる内蔵助(=由良助)が必要であったということです。このことは「七段目」の由良助だけではなく・平右衛門やお軽などすべての登場人物に言えることかも知れません。今回(平成十九年二月・歌舞伎座)での「七段目」の、吉右衛門(由良助)・仁左衛門(平右衛門)・玉三郎(お軽)という人気役者の共演の舞台を見て、そのようなことを考えました。


2)兄妹のドラマ

「七段目」は史実に名高い内蔵助の遊興三昧をテーマにしています。由良助(=内蔵助)は仇討ちの大望を秘めながら・これを周囲に気取られぬ為に茶屋場で遊びます。このエピソードは「忠臣蔵」でも大事な筋ですが、この「七段目」にはもうひとつ大事なことがあります。それは足軽の平右衛門が四十七士のひとりに加えられるということです。「六段目」を見ると・腹を切った勘平が最後に仇討ち連判状に名を連ねることが許され、この時点で「今また其の方を差し加え、一味の数は四十六人」と言われています。と言うことは四十七名にはまだひとり足らないわけです。その最後の一名が平右衛門なのですから、この場で四十七名が揃うと言うことはやはり重要なことなのです。もちろん由良助は「七段目」のシンですが、同等かそれ以上に「七段目」は平右衛門とお軽の兄妹のドラマであるのです。

平右衛門とお軽兄妹の立場から見れば、「七段目」は勘平の仇討ち資金調達のために身売りしたお軽が由良助によって苦界から引き上げられる場であり、兄平右衛門が四十七士の最後のひとりに加えられる場だと言うことです。そこに勘平の何がしかの功徳が働いているかのようです。兄妹の忠心をしっかりと見届けて・由良助がこれを受け入れるか受けざるべきかの判定をする場が「七段目」だと言うことになります。思えば「三段目・裏門」から「六段目」・「七段目」とお軽・勘平の筋は「忠臣蔵」の重要な縦の線となっています。これはドラマに華を添えるという意味もありますが、そこにお家断絶・仇討ちへと流転していく塩 冶家中の人々の悲哀が込められているということでもあります。

「七段目」が平右衛門とお軽の兄妹のドラマであるということを、今回の「七段目」の舞台はとても印象的に教えてくれました。もちろん仁左衛門と玉三郎という当代きっての人気役者の顔合わせですから・パアッと華やいで・そういう感じになるのは当たり前ではあります。このコンビの平右衛門とお軽を見ていると、この兄妹は幼い時にいつも手をつないで・仲良く遊んだのだろうみたいなことを考えてしまいます。じゃらじゃらと引き伸ばされる兄妹のやり取りが実に楽しく・華やかに感じられました。

このじゃらじゃらが「七段目」のドラマの本質とは違うところで役者の仕勝手で引き伸ばされていると感じられるならばそれは問題です。それならば本稿でもそれを批判せねばなりません。しかし、今回の舞台ではまったくそのようには感じられませんでした。むしろ、そのじゃらじゃら引き伸ばされるほど「七段目」のドラマの本質に似合って来るように感じられたのです。吉之助はこれまで「七段目」をいろいろなコンビで見ましたが、こういう不思議な感覚を持った舞台は このコンビならではです。そこで本稿冒頭で書いたことに思い至ったわけです。つまり、「七段目」の華やかさは遊郭の雰囲気だけから出るものではなく、やはり生身の役者が芝居を演じることのリアルさへの憧れから来るのです。今回の舞台で見られる「七段目」の楽しさは、作者たちがもしかしたら夢見た・人形浄瑠璃の掛け合い場である「七段目」が生身の役者で演じられることの楽しさであるのです。

もちろんこのような平右衛門とお軽のじゃらじゃらの延々とした引き伸ばしが・誰でも出来るものとは思いません。こうした舞台は仁左衛門と玉三郎のコンビだけに許されるものだと言うことは確かに言えます。しかし、大事なことは平右衛門とお軽のじゃらじゃらが「七段目」のドラマと密接につながっているということです。仁左衛門と玉三郎のコンビはこのことを吉之助に教えてくれました。


3)「誠から出た・みんな嘘」 

非常に印象的であったのは、お軽が兄平右衛門に斬りつけられて逃げ回り・花道でいろいろやり取りがあった後、舞台中央で後ろ向きで待つ平右衛門の傍へ駆け寄り、「兄さん、来たが・何じゃいな」という時の玉三郎のお軽の表情です。玉三郎が計算してこの表情をしているならば(当然そうでしょうが)、やっぱり玉三郎は天才だと感嘆せざるを得ません。この玉三郎のお軽の表情は何も考えていない顔なのです。それは気が狂った女の顔です。「兄さん、来たが・何じゃいな」と言いながら、その表情は兄の言うことを真剣に聞こうとしている顔では全然ありません。兄の方は大事な事を妹に伝えようとして焦れば焦るほど空回りしてしまって・妹のやり取りは変な方向に行ってしまうのですが、兄の方は真剣です。ところが妹の方がまったくそういう感じではないのです。「兄さん、また私を驚かせて笑ろうでな」という感じでもあります。これは遊び女の顔なのです。兄に対する時の妹の顔ではない。廓に売られてまだ三ヶ月くらいのことでしょうが、お軽はもう完全にそういう顔になってしまっているわけです。そこにお軽という女性の不幸があるわけです。このことを玉三郎はその表情だけで表現して見せました。これでこそ平右衛門がお軽の顔を見て ・グッと哀しみがこみ上げて来て「・・髪の飾りに化粧して、その日その日は送れども、可愛や妹、わりゃ何にも知らねえな」と思わずもらす言葉に真実味が出て来るわけです。

そう考えると、平右衛門とお軽のじゃらじゃらは直接的にはドラマの本筋と関係ないように見えて・それがじつはドラマの本質と密接につながっていることが分かるのです。兄平右衛門の目から見れば、お軽は一時的に気が狂っていたのです。遊郭に暮らすようになったお軽は真実が歪んで・正しい形で見えなくなっていたのです。それは遊郭が虚構で成り立つ場所であるからです。遊郭に来る客は偽りで着飾っており、彼らが真実だと言うことはみんな嘘である。そういう虚構の世界にお軽は住んでいますから、実(じつ)の世界に生きる兄の言うことをお軽は正しく受け止めることが出来ず、そのやり取りはチグハグになって行きます。平右衛門とお軽のやり取りのなかに遊郭の引き裂かれた歪んだ世界が見えるのです。だから、じゃらじゃらを引き伸ばすことが役者の仕所(しどころ)としても許されることになるわけです。

さらに言えば・このことは遊郭に遊ぶ由良助の側からも言えます。もちろん由良助はその心底に主人判官への忠義と仇討ちへの大望を忘れてはいません。観客は由良助が敵方にその心底を悟られぬ為にわざと茶屋遊びをしていることを知っていますから、だから由良助は「七段目」で安定した位置を確保できています。つまり、いくら放埓の嘘を偽っても由良助は本質的に実事の役であり、後半に至って本心を見せたとしてもそれが「モドリ」のようにサプライズになることはないのです。由良助の放埓はそれまでの歌舞伎が伝統的に得意とした「やつし」の芸で処理されます。だからこそ人形浄瑠璃は歌舞伎の初代宗十郎の芸を必要としたわけですが、その「やつし」の芸は貴種流離譚の起源を持っており・やはりそれ自体が引き裂かれているものです。だから由良助自身は「七段目」のなかでしっかりした位置を保っていますが、その由良助を軸にして周囲が万華鏡のようにぐるぐる廻る歪んだ感覚が必要なのです。それでこそお軽が「お前のは、嘘から出た誠でのうて、誠から出た、みいんな嘘々」と言う由良助の「やつし」が生きてくるわけです。これはもちろん平右衛門とお軽兄妹だけの役割ではなく・一座の役者たちと一緒に作り出す感覚なのですが、しかし、そのなかでも兄妹の役割がとりわけ重要であることは言うまでもありません。


4)由良助の台詞

吉右衛門の由良助ですが、前半の酔態での演技など色気も柔らか味もあって、なかなか良い由良助です。しかし、ひとつ注文を付けると・幕切れで九太夫を地面に擦り付けて「やあ獅子身中の虫とはおのれがこと・・」と言う長台詞のテンポがたっぷりし過ぎで重く感じられます。ここは早いテンポで一気にリズミカルに台詞をまくし立ててもらいたいのです。それはどうしてかと言うと、平右衛門とお軽の長いじゃらじゃらのやり取りの後であるからです。平右衛門をお供に加え・お軽を苦界から引き上げることを由良助が決断したら、これでもう「七段目」のドラマは実質的には終わりなのです。この後の由良助の役割はフィニッシュに向けて突っ走ることです。特に今回のような仁左衛門と玉三郎のたっぷり引き伸ばされたじゃらじゃらの後ならば、劇的にプレストで一気に締める 。それが芝居のバランス感覚というものかと思います。

付け加えますと・この部分の吉右衛門の台詞回しはしっかり感情を込めていて・それ自体は確かに説得力があるものです。しかし、この由良助の台詞は立て言葉ですから、タンタン タンという小気味良いリズムによって・気分が急き立てられなければならない台詞です。早いリズムのなかに切迫した気分が漂わねばならない・そういう台詞です。

由良助の演技については、いろいろな芸談で「四段目」の由良助よりも・前半と後半の性根の切り替えが必要な「七段目」の由良助の方が難しいということがよく言われます。なるほどそれも理解できなくはないですが、先ほど書いた通り・いくら放埓の嘘を偽っても由良助は本質的には実事の役なのです。つまり、観客は由良助が最初から本心を隠して遊んでいると・そういう風に思って見ているわけですから、性根を実事の方に置けば・由良助は比較的処理しやすい役なわけです。吉右衛門が「獅子身中の虫・・」と言う長台詞をたっぷりと重めにしようとするのは前半の由良助の演技からの流れから来るのかも知れません。しかし、平右衛門とお軽のコンビとの対比から捉えれば・この長台詞のテンポを早目に取らねばならぬ必然性は理解できると思います。今回のような平右衛門とお軽のたっぷりとした芝居が終わった後は、フィナーレに向けて雰囲気をキリリと引き締めた方がより効果的なのです。やはり「七段目」は平右衛門とお軽の兄妹のドラマなのです。いずれにせよ今回の「七段目」の舞台は、平成の歌舞伎の成果として後世に誇るに足る舞台でありました。

(H19・4・22)


 

 

 

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