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「七段目」の虚と実

平成20年2月・歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵・七段目」

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(大星由良助)、七代目中村芝雀(五代目中村雀衛門)(お軽)、七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(平右衛門)他


1)「七段目」の乖離感覚

「七段目」は竹田出雲ら浄瑠璃作者が書いた「歌舞伎へのラヴレター」であると、別稿「誠から出た・みんな嘘」 で書きました。「七段目」の華やかさというのは場面が祇園一力茶屋であるということだけではなく、生身の役者が芝居を演じるリアルさへの憧れから来るのです。「七段目」は掛け合い場と言って・複数の太夫が役をそれぞれ分担して受け持って進めるもともと演劇的な要素が強い場です。この場の由良助は延享四年(1747・つまり「忠臣蔵」初演の前年)に京都で粂太郎座で演じて評判を取った歌舞伎「大矢数四十七本」の初代宗十郎が演じる大岸宮内(おおぎしくない)の茶屋場遊びをモデルにして作られたものでした。つまり人形浄瑠璃の「七段目」は歌舞伎を原型イメージとしており・そこからその骨格を作り上げているのです。

ですから「七段目」を人形浄瑠璃(文楽)から歌舞伎に移し変えることは、「忠臣蔵」の他段を歌舞伎化する場合と意味合いがちょっと違うということを考えてみる必要があります。語り物である浄瑠璃を歌舞伎に移す時に・原作の音曲の骨格を意識せざるを得ないのは当然のことです。世話場である「六段目」のように・あれほどに歌舞伎化された音羽屋型でさえ・それを強く意識させる場面があります。しかし、「七段目」を歌舞伎化する時には・歌舞伎に「移す」というよりも・どこかに「戻す」という感覚があるのかも知れません。つまり、音曲の縛りを解体する方向に演技ベクトルを向けた方が歌舞伎の「七段目」は間違いなくうまく行くのです。例えばお軽と平右衛門の兄妹の可笑しいじゃらじゃらしたやり取り・それがパッと明るく発散されるように演じられることは・兄妹の哀れさが際立たないということになり、文楽の解釈から見れば本筋から逸脱していると言えなくもないのです。しかし、歌舞伎の「七段目」の場合にはそれが意外にも本質に沿うことになるのです。平成19年2月歌舞伎座での玉三郎のお軽と・仁左衛門の平右衛門の見事な舞台がこのことを明瞭に示しています。(これについては稿「誠から出た・みんな嘘」をご覧下さい。)「こういうところが役者の味でする歌舞伎の面白さ」と言っているだけならそこで話は終わってしまいます。本筋から逸脱するかのようなじゃらじゃらこそ歌舞伎の「七段目」にふさわしいと感じることに、「七段目」の持つ本質を示唆する何ものかがあると吉之助は思うのです。

このことは「誠から出た・みんな嘘」という「七段目」の深層部分を考えさせます。遊郭というのは虚構で成り立つ場所です。遊郭に来る客は偽りで着飾っており、彼らが真実だと言うことはみんな嘘である。真実・本音は隠されており、彼らはそれを決して表には出しません。しかし、ここが大事な点ですが、真実・本音を大っぴらに出すことが人間関係において必ずしも良いことなのでしょうか。我儘勝手が罷り通って・人間関係は却ってギクシャクしてしまうかも知れません。結局、遊郭に来る客が偽りであることは・世間の憂さを忘れて・その場を純粋に楽しみたい客たちの社交術・マナーなのです。それは必ずしも悪いこととは言えません。そのような場所で真実・本音をあからさまにすることは実は野暮なこと・いけないことなのです。

ですから「七段目」の由良助を考える時、由良助が仇討ちの大望を秘めて敵を欺くために酒色にふけるのか・あるいは仇討ちの意志もなくただ酒色に溺れるのかという点はもちろん表面上大事なことですが、そのようなことより実は「七段目」にはもっと大事なことがあるのです。「七段目」幕切れで由良助が九太夫を打ち据えてその本音(仇討ちの大望)を叫ぶことは・この遊郭一力茶屋において敢えてそれをすることは、実は恐ろしいことなのではないか。そういうことを考えてみる必要があるのです。つまり、「七段目」は虚と実の狭間で引き裂かれており・その裂け目から見える本音というものが・実はギラリと光った刃(やいば)であるのです。これが歌舞伎の「七段目」です。文楽の「七段目」ではそういう感じは見えにくいですが、文楽とはそういうもので・そこに文楽の領分があるのです。しかし、「七段目」の隠された本質は実は乖離感覚にあると思います。吉之助は歌舞伎の「七段目」は引き裂かれていなくてはならないと思います。

(H20・3・24)


2)統一感の破壊

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」の「七段目」の項に「平右衛門の尻押さえ、由良助の頭抜き」という義太夫の口伝の話が出てきます。詳しくは本をお読みいただきたいですが、要するに・この口伝の示すところは、まず平右衛門は台詞を言ってから相手の反応を常にうかがうように・決して言葉尻に息を抜いてはならぬということです。由良助については・そこに由良助のお大尽然としたのんびりした遊郭の雰囲気と・仇討ちの大望を秘めた由良助の思慮が聞こえねばならぬので、間合いをはずして・相手の台詞にかぶるように言ってはならぬということです。

これだけだと「なるほど」で終わりかも知れませんが、吉之助にはどうも引っ掛かるところがあります。それならば出雲らが「七段目」を掛け合い場にしたのは何故かということです。「台詞をかぶせる」ということはひとりの太夫で語る時には不可能なことで、本来これは掛け合い場のセールス・ポイントなのです。掛け合い場で「台詞をかぶせるな」というのは得意技を封じよということです。「平右衛門の尻押さえ、由良助の頭抜き」という口伝はそういうことです。それならば全部ひとりの太夫で語れば良いはずです。ならばどうして出雲らは「七段目」をわざわざ掛け合い場にしたのでしょうか。

吉之助の考えるところはこういうことです。義太夫はひとりの太夫で複数の人物を声色を変えて見事に描き分けますが、音声学上から見れば・これはキーを変えているだけで・まったく違う声で語っているのではないのです。声紋を見れば声色を変えたようでもまったく同じ人間の声であることがすぐ分かりますし、このことは聴覚でも感知されます。逆に言えば、だからこそ作品中に多くの登場人物が入り乱れても音曲としての統一感が失われないのです。

掛け合い場の場合には複数の太夫が役を受け持つ特殊な場ですから、声質の違う太夫の声が錯綜することで、音曲としての統一感を完璧に維持することは困難になります。ひとつには掛け合い場は語り物より芝居の方へドラマツルギーを傾斜させているということがありますが、しかし、出雲らが「七段目」において掛け合い場という形式を採用したことにはさらに深い意味があります。掛け合い場の意図するところは統一感の破壊ということです。そして舞台に乖離感覚・引き裂かれた感覚を呼び起こすということです。そこまで意図して出雲らは「七段目」を掛け合い場にしていると思います。

文楽と違って・歌舞伎の場合は乖離感覚を表出することは・お手のものです。歌舞伎の本質はそのような乖離したバロック感覚にあるからです。ですから掛け合い場である「七段目」を歌舞伎化することは、「六段目」を歌舞伎化するのとは意味合いが異なると思うのです。これは「七段目」のドラマの本質に根ざす問題です。本稿ではそのことを考えます。

(H20・3・27)


3)実事の由良助

「七段目」の由良助のモデルとなった延享四年(1747)に京都・粂太郎座で演じて評判を取った歌舞伎「大矢数四十七本」の茶屋場遊びでの初代宗十郎の大岸宮内はどんなものであったでしょうか。残念ながら「大矢数四十七本」の脚本は残っていません。しかし、宗十郎の宮内が和事のやつしの演技であったことは疑いありません。ここで和事芸の滑稽味や諧謔味は実はシリアスな真面目な実事と背中合わせに出てくるものであるという認識が役に立ちます。(詳細は別稿「和事芸の起源」をお読みください。)

「廓文章」の伊左衛門の和事芸のシリアスな要素は「恋も誠も世にあるうち」とか「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」という台詞に出てきます。そこに大阪商人の意気地が出ているのです。こういうことは三枚目との兼ね合いがとても難しいですし・舞台では伊左衛門の阿呆ボンぶりばかり目に付く かも知れませんが、伊左衛門とてもこの通りシリアスな要素を持っているのです。まして仇討ちの大望を胸に秘めて茶屋に遊ぶ由良助のやつしがそうでないはずがありません。ですから「七段目」の由良助のやつしのシリアスな実事の要素にもっと眼を向ける必要があります。

歌舞伎の由良助の名優の芸談を読むと「四段目の由良助より・七段目の由良助の方がはるかに難しい」ということが共通して言われていて、歌舞伎の「七段目」の由良助は確かに遊興三昧の柔らか味を主体に組み立てられてきたことが明らかです。つまり、由良助の仇討ちは本心なのか・嘘なのか・それさえ見分けが付かない。柔らか味のどこに仇討ちの本心をチラリと見せるか・というのが歌舞伎の由良助の仕事であるとされてきたわけです。それも分からないことはないですが、吉之助は歌舞伎の由良助の演技ベクトルは逆でありたいと思います。つまり、その本心になるところのギラリとした刃(やいば)・仇討ちの大望を内に秘め・いかに柔らかく嘘で隠してみせるかという演技ベクトルです。逆に言えば衣の裾から絶えず刃の光がチラチラせねばならない・これを由良助の仕事にしたいと思うのです。そうすれば由良助は実事をベースとした役となり・比較的処理しやすい役になるわけです。

近代の最も優れた由良助役者と言えば・九代目団十郎であることは疑いありません。団十郎の由良助は「勧進帳」の弁慶・「熊谷陣屋」の直実と並んで・明治の忠君愛国の思想を体現したものとして非常に重要なものでした。その団十郎も「四段目の由良助は兄貴(五代目彦三郎)に負けない自信があるが・七段目の由良助は兄貴にかなわない」と漏らしており・柔らか味の表出に苦労したようです。しかし、団十郎と何度もお軽で共演した五代目歌右衛門の思い出話を読むと、団十郎の由良助はなかなか大したものだったと思います。歌右衛門は次のように証言しています。

『九代目(団十郎)はあんな謹厳な人でしたが舞台では始終私を笑わせようとしていました。「待っておいで、今天ぷらを持ってくる」などと突拍子なことを大声で言うので・ 私は可笑しくて仕方がなかったのですが、観客はそんな台詞を聞かされても九代目という人物に心服しているのか・ちっとも笑いませんでした』(五代目中村歌右衛門:「演芸画報」・昭和13年11月)

このことはとても大事なことです。観客は史実の大石内蔵助が見事仇討ちして大望を果たしたことをもちろん十分承知です。ですから観客は一力茶屋での団十郎演じる由良助の遊興三昧を、由良助が仇討ちの意志を強く持っており・敵を欺くため・そのギラギラした本心を如何にやんわりと嘘事で隠し通すか・それが芸の見所であると思って舞台を見るのです。ですから団十郎が「今天ぷらを持ってくる」などとおどけてみても、観客の方は「そら由良助はお軽を(我々観客も)騙そうとしている」と思って・その演技の心理の綾を見ようとしますから・それがいかに巧くても笑わないわけです。それだけ団十郎の由良助が実事味の表出に長けていたということの証明になります。

(H20・3・31)


4)ギラリとした殺意

歌舞伎の「七代目」の由良助は実事をベースに処理した方がよいということをさらに考えます。「七段目」の由良助はモドリではないからです。放埓三昧で「由良助は仇討ちの志を捨てた情けない奴だ」と観客さえも怒らせて・芝居の最後になって実はそれは嘘でした・由良助は仇討ちの大望を捨ててはいなかったのですというサプライズの構造に「七段目」はなっていないのです。確かに「七段目」のなかの登場人物・例えば三人侍や平右衛門にとってはサプライズかも知れませんが、観客にとっては全然サプライズではないのです。むしろ力弥から手紙を受け取る場面、蛸肴の件で踊りながら・九太夫を睨みつけ「おのれ・・」とつぶやく場面など由良助が仇討ちの本心を見せる場面が少なくありません。

例えば由良助が御台所からの手紙を読み・それをお軽に見られたことを知って・「・・ようまあ風に吹かれていやったのう」と言って床にペッタリ座る場面は歌舞伎の由良助の為所ですが、ここはどういう場面でしょうか。まず由良助は御台所からの大事の手紙を読むために・周囲に誰もいないことを慎重に確認します。さらに誰かに見られても・それが愛人からの手紙でも読んでいるかのように装うために・柔らかい雰囲気を出して手紙を読みます。その雰囲気にお軽も騙されて・手鏡でそれを盗み見てやろうという遊び心を起こすのです。簪の落ちる音を聞いて・由良助はギクリとしますが、なおも平静を装います。まずここで手紙を見たのがお軽であったことを冷静に確認します。お軽とのやりとりの最中に・手紙が千切れていることに気付いて・由良助はまたギクリとしますが、紙を落として・縁下に誰か隠れていることを確認して・これで手紙を見た者が二名いたことを知ります。

歌舞伎の由良助が「ようまあ風に吹かれていやったのう」と言って床にペッタリ座る仕草(型)の意味ですが、由良助は縁下に紙を落として・何者かが潜んでいることを確認しますが・由良助の一連の挙動を二階のお軽が不思議そうな顔で見ているのに気が付いて・「ようまあ風に吹かれていやったのう」と言って誤魔化して・酒に酔ったふりをして床にペッタリ座ってわざとおどけて見せるのです。文楽の人形の由良助は歌舞伎のような仕草をしません。由良助は立ったまま・すぐに「・・いやお軽、ちとそもじに話したいことがあるが・・・」と台詞が続きますから、この台詞はあくまで遊里の柔らかい雰囲気を出すためのものと解釈して良いと思います。しかし、歌舞伎の由良助ではそうではないのです。歌舞伎の一連の手順ではそこに由良助の嘘と実が交錯して・クルクルと変転して・そこに引き裂かれた要素がはっきりと見えて、これは実によく練られたものだと思います。

こうした場面で「(お軽は)ようまあ風に吹かれていやったのう」という由良助の台詞はどういう意味を持つのでしょうか。それは「これで手紙を読んだ奴は全部分かったぞ・二階のお軽と縁下に潜む者・・・生かしてはおけん」ということなのです。ニコッと笑った由良助の笑顔にギラリとした殺意が見えなければなりません。これは文楽の解釈としてはふさわしくないかも知れませんが、吉之助は歌舞伎の由良助の場合にはこの台詞をそう読む必要があると思うのです。

(H20・4・4)


5)乖離した感覚

別稿「クリティカルな黙阿弥のために」で幸四郎演じる魚屋宗五郎について論じました。そのなかで幸四郎の宗五郎の演技は「型の手順・約束を忠実に守り・そこに写実の表現を入れようとして、結果的にその手順がフォルムに落ち着くのではなく・技巧として浮き上がるという非常に興味深い現象を呈している」と書きました。幸四郎の見得はその形を見せるためだけに段取りされているように見えることがあります。写実の動きがそこで中断されて「ハイ、お約束のポーズ」という感じで・動きに連続性がなくバラバラに見えることがあります。幸四郎のこういうやり方はいわゆる「通」と呼ばれる方に評判がよろしくないようです。しかし、吉之助は幸四郎のやり方に批判的ではありません。幸四郎の演技には時代と世話の裂け目が明確に見えるからです。このような乖離した感覚は歌舞伎のバロック な表現にとって非常に大事なことです。先人の手順をその通りなぞってさえいれば一定の評価が得られる歌舞伎の世界でこうした演技ができるというのは実は凄いことなのです。確かにもう少し工夫が必要かなと思うところもなくはないですが、無理にこれを直すと・逆に幸四郎の良さが失われてしまいかねないので難しいところです。

平成20年2月歌舞伎座・「七段目」での幸四郎の由良助ですが、虚と実の相克が見えるとても優れた由良助です。例えば「ようまあ風に吹かれていやったのう」の場面です。由良助の嘘と本音の交錯した段取りの意味が幸四郎の演技に明確に現れます。人によってはそれを説明的とか心理主義的と評するかも知れません。確かにこの場面の幸四郎の演技は説明的で段取り然としています。縁下から伸びてくる手を見て・ハッとする仕草を見せて、次は屋台端からツツツ・・と中央へ移動して・ぺタッリと床に座って「ようまあ風に吹かれていやったのう」という段取りは「ハイお約束のポーズ」のように見えます。その演技が段取り然として・わざとらしく感じるかも知れません。

しかし、この由良助の仕草(型)は、お軽が二階から自分の挙動を不思議そうに見ているので・それを誤魔化すためにわざと酔っ払った振りをしてよろけて見せているのです。由良助はホントに酔っているのではないからです。浮かれた気分で笑っているのでもないのです。これはわざとよろけているんですということを明確に見せることは由良助として必要な演技です。この場面を如何にも遊里気分でゆったりと柔らかく見せねばならぬというのは・もちろん間違いとは言えませんが、まあ言ってみればそれは由良助の第一段階なのです。そうしていれば確かにとりあえず由良助には見えます。しかし、さらに高次の芸を目指すならば・その浮かれた気分の背後にギラリとした刃を感じさせたいのです。この場面の由良助は引き裂かれているからです。

「ようまあ風に吹かれていやったのう」と笑いながら・由良助が考えていることは・お軽と縁下に潜む者(九太夫)を茶屋の者たちに知られずにどう始末するかです。由良助はお軽に二階から梯子で降りて来いと言いますが、それは階段を下りて回ってくれば・お軽が由良助のところへ行ったことを茶屋の者に知られる危険があるからです。お軽がどこへ消えたか・誰も分からないように始末せねばなりません。由良助は恐るべき人物なのです。顔は笑っているようでも・眼は決して笑ってはいない。その笑顔の背後に漆黒の闇が見えます。歌舞伎はバロックの・その乖離した演技様式によって・それが表現できる演劇です。残念ながら文楽ではその表現に限界があります。それは文楽を貶めているわけではなくて・古典的様式のなかにしっかり納めるのが文楽の本質であるからです。文楽とはそういう芸能なのです。しかし、浄瑠璃作者は宗十郎の宮内の舞台を見ながら・きっと引き裂かれた由良助を夢見たと思います。だから作者は「七段目」を掛け合い場にしたのです。

ですから「ようまあ風に吹かれていやったのう」の件での由良助は虚と実の狭間で乖離しており、その手順が段取り然としてバラバラに見えることはむしろ望ましいと言うべきなのです。もちろん完全に分解してしまっては芝居にはなりませんが、乖離した要素をどういう形でひとつにまとめるかです。その意味で幸四郎の由良助のこの場面の演技は非常に興味深いものだと思います。

(H20・4・8)


6)倒錯する由良助

同様に・幸四郎の由良助で興味深いのは「あの嬉しそうな顔やいわい」の箇所です。この場面の由良助は 「・・この由良助に請け出されるが、それほどまでに嬉しいか」をちょっと憂いを入れて言い、無邪気に喜んでいるお軽を見て「・・あの嬉しそうな顔やいわい」で思い入れあって・扇を開き・顔をそむけて決まります。由良助にはお軽が憎いという心はまったくないのですが、手紙を見てしまった以上は・仇討ちの企てを隠すために・ 不憫ではあるがお軽には死んでもらわねばならないということです。由良助には「可哀相に・・」という気持ちがあるので・「・・この由良助に請け出されるが、それほどまでに嬉しいか」を ちょっと低く憂い声で言って、「・・顔やいわい」で一転サラッと流す・その演技の息の変えようが由良助の型の面白さということです。

この場面での幸四郎の演技はとても考えさせるものです。幸四郎の由良助は「・・この由良助に請け出されるが・それほどまでに嬉しいか」の部分に泣きが強く入っており、これは「檀特山」で熊谷直実が息子小次郎を斬る場面のような切羽詰った感じに似て、確かに感情移入をもう少し抑えた方がいいかなという気もします。しかし、役者幸四郎はこういうところに人間としての真(まこと)があるので、吉之助はこれはこれで良いと思います。「非人間的な行為をしなければならないことに自分はどれほど苦しんでいることか」という状況に倒錯するのが幸四郎の由良助なのです。これはバロック的な歌舞伎の見方として・正しい解釈のひとつだと感じます。

ハンナ・アーレントは著書「エルサレムのアイヒマン」のなかで、次のようなことを書いています。ナチスの死刑執行人たちは普通の市民であり・決して悪人だったわけではありません。彼らは自分たちの行為が犠牲者に与えた苦痛と死をはっきり自覚していました。それでは・その恐ろしい行為に耐えるために・彼らはどういう心理回路でこれを切り抜けたかということです。

『自分は人々に対して何と恐ろしいことをしてしまったのか!」と言う代わりに、殺害者たちはこう言うことができたのだ--自分は職務遂行の過程で何と恐ろしいことを見なければならなかったことか。その任務は何と重く私にのしかかってきたことか!』(ハンナ・アーレント:「エルサレムのアイヒマン」)

これは彼らが言い逃れをしているのではありません。彼らは他人に苦痛を与えるという重荷を引き受けることでその職務にかろうじて耐えるのです。そうでなければ真人間はこのような異常な状況に耐えられないのです。この倒錯感覚によって彼らは引き裂かれています。幸四郎の演じる直実も松王も・由良助もそのような人物なのです。この場面の由良助は「何の罪もないお軽を殺すことで、私はどれほどの苦しみを味あわねばならないのか。主君の仇討ちを遂行することで・私はこれからどれだけの罪を犯さねばならないのか」ともがき苦しむことで耐えるのです。これが「あの嬉しそうな顔やいわい」の場面の由良助の姿です。幸四郎の由良助ほどその引き裂かれた状況を視覚的にはっきりと見せてくれる由良助はありません。

(H20・4・11)


7)荒事風の台詞回し

お軽は結局救われることになりますが、罪もないお軽を殺すことに対して由良助が同情の念・罪の慄きを感じているらしいことは本文にも確かに描かれています。それでは由良助は九太夫に対してはどう感じているのでしょうか。九太夫は加茂川で平右衛門に殺されることになります。九太夫は裏切り者であり・仇である師直方に加担する者です。由良助が九太夫を殺すことに何の罪の意識もあるはずがないと考えるなら、それはちょっと違うと思います。九太夫が憎いことは確かだとしても・人間を情け容赦なく切り捨てて良いはずがありません。このことは幕切れで九太夫を打ち据えて「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」で始まる長台詞で分かります。この台詞にも「主君の仇討ちを遂行するために私は鬼になるのだ」という叫びが感じられるからです。ここでの由良助も倒錯しているのです。(このことは「七段目」の由良助だけのことではありません。「九段目」・すなわち加古川本蔵に対する由良助についても 同じことが言えます。本蔵に対して由良助は憎い心はないのですが、主人判官が「本蔵に抱きとめられ、師直を討ち漏らし無念、骨髄に通って忘れ難し」と由良助に言ったことが由良助の全身を縛っているのです。)

本稿冒頭に書いた通り、虚飾で固めて・純粋的に楽しい社交を愉しむのが遊郭のルールなのであり、そのような場所で・このような仇討ちの大望を叫ぶことはあってはならない・恐ろしいことなのです。そのことを承知で由良助はわざとルール違反をやっています。そして茶屋の者たちが来ると・サッと表情を変えて・「喰らい酔うらるその客に、加茂川で、ナ・・・」と 笑顔で平然として殺害を指示します。本人も自覚している・この二面性の恐ろしさを描いてこそ歌舞伎の由良助になると思います。

「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」という由良助の台詞は本行と同じような調子でこの台詞を言うと歌舞伎の場合は印象が重くなってしまって・歌舞伎の由良助の面白さがいまひとつ出てきません。別稿「誠から出た・みんな嘘」で吉右衛門の由良助のこの台詞が重く感じられると書いた理由はそこにあります。吉右衛門の台詞は義太夫の息に近いもので・それだけを聞けば確かに悪くはないものです。しかし、吉右衛門の台詞には九太夫を地面に擦り付けるようなリズムの揺れがなく・また甲(かん)の声が使えていないので歌舞伎らしい由良助の台詞にはなっていません。歌舞伎の場合の由良助は「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」は「獅子身中の虫とは・・」までを早めのテンポでに急き立て、「おのれがこと」を一転してテンポを遅く粘らせて・高調子で張り上げるという風に、テンポを早めたり遅くしたり・音色を低くしたり高くしたり、台詞をグイグイ揺らしていかないと歌舞伎の由良助の台詞の面白さは出ないのです。ここでは荒事の発声法を積極的に利用して・思い切って本行から離れる必要があります。そうやって乖離した感覚を出すことで由良助の台詞がぐっと歌舞伎らしくなってきます。

この場面の由良助の台詞を荒事風の味付けにすることは意味があることです。「四段目」において主人判官から「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」と由良助は命令を受けており、主君の怨念を胸に・ 否応なしに「生きた御霊」とならざるを得なかったのです。ここに由良助の乖離した・倒錯した実体が現れているわけです。言うまでもなく・これは「忠臣蔵」の歌舞伎的な理解であって・本行の解釈と必ずしも一致はしません。しかし、語り物的な要素を解体する表現ベクトルを内在した「七段目」において、この荒事的解釈は「七段目」を歌舞伎に「戻す」という点で大きな意味を持つのです。

この場面の台詞がとても巧いと吉之助が思ったのは初代白鸚の由良助でした。これは緩急の押し引きがとても巧いダイナミックな台詞廻でした。また・これは映像でしか知りませんが、十一代目団十郎の由良助はさらに荒事味が加わった力強さがあって、これもとても良いものです。どちらも映像が残っていますから、機会があれば是非見てください。当代・幸四郎の由良助のこの場面の台詞廻しは父・初代白鸚の台詞回しの特徴をよく取っています。例えば「五体も一度に悩乱なし、四十四の骨々も砕くるようにあったわやい」での・「あった」の部分で一気に高く張り上げる甲の声の立ち上がりの鋭さなどハッとするほど見事なもので、この場面での台詞だけでも最高の由良助と言って良いものです。

(H20・4・15)


8)「やつし」の本質

「七段目」がとても興味深いのは、時代物のなかでも「七段目」には特異な要素があることです。一般的に時代物は武士を中心とした歴史物であり、庶民を主人公とし・市井の生活を描く世話物と対立するものであるとされます。個人の本音・心情というものは・時代物のなかの実(じつ)の要素になります。この図式で読めば時代物において主人公に忠義・犠牲の行動を強いる封建社会の非人間的論理とは、主人公の実を脅かすもの・つまり虚ということになります。ふつうの時代物においてはこうした虚と実の対立図式は概ね正しいと言えます。例えば「六段目」を見れば与市兵衛一家の生活のなかに実があり・まことの人間の感情があります。そこに仇討ちという封建社会の論理(虚)が無理やり入り込んでくることでドラマが展開することになります。

ところが「七段目」の場合はこの図式が捻じれています。それは「七段目」での由良助の実(つまり本音)が仇討ちにあるからです。由良助は実(仇討ちの意図)を隠すために・遊蕩放埓の虚を着るのです。ですからふつうの図式では封建社会の論理(虚)の方が恐い顔をしており・観客はそこにドス黒い非人間的な要素を見るのですが、「七段目」の由良助の場合はそれが逆になっています。茶屋での遊蕩放埓の虚はいかにもにこやかで愛想良い顔をしており、逆に由良助の本音の実(じつ)の要素がギラギラとした殺意と敵意を含んだ非人間的な要素となるのです。

これはラカンの心理学用語で言うと「転移」と呼ばれる現象です。つまり、由良助は仇討ちという非人間的状況に生きているので・そのような自らの存在を憎しみの鬼にする(非人間的なものにする)ことで 由良助は自らが置かれた異常な状況に適応するのです。「七段目」の由良助の「やつし」の芸に見られるものはそういう状況です。また歌舞伎の「やつし」の芸の本質がそこにあるのです。同様に「九段目・山科閑居」での由良助もそのような視点で読む必要があります。(「やつし」については別稿「吉之助流・仇討ち論:今日の檻縷は明日の錦」をご参照ください。「九段目」については、別の機会に考察をする予定です。)

一方、「七段目」での平右衛門とお軽の兄妹の場合の実(じつ)とは勘平の死・与市兵衛の死を見据えることです。それは厳しい現実ですが、彼らの生活・感情にしっかり根ざしているものです。ですから芝居の実の要素として齟齬はありません。平右衛門とお軽の兄妹の存在はこの「七段目」においては実であると言えます。しかし、「七段目」での兄妹の会話は祇園一力茶屋という遊郭の虚の空間の捻じれによって、本音をしゃべろうとして食い違い・すれ違い、悲しいことをしゃべろうとしても・可笑しくなり、しんみりしようとしても・ドタバタになってしまいます。そこに歪んだ要素があり、別稿「誠から出た・みんな嘘」において触れた通り、仁左衛門(平右衛門)と玉三郎(お軽)のコンビはこのことを見事に舞台上に見せてくれました。

ですから平右衛門とお軽の兄妹の実の要素を歪ませる強い力を持つものが別に存在するのです。歪んだ遊郭の虚の空間の中心に存在し・周囲の空間を歪ませる強力な力を持つものが「七段目」の中心に存在するのです。そのようなブラック・ホール的な存在が由良助であったわけです。そのことを明瞭に示すのが由良助が九太夫を打ち据える「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」という台詞です。幸四郎の由良助はこのことを明瞭に視覚化して見せてくれました。

この乖離した存在である由良助を表現するために、出雲らは歌舞伎の「やつし」の芸・宗十郎の大岸宮内の芸を必要としたわけです。そのような乖離した空間を表現するために出雲 らは「七段目」をわざわざ掛け合い場としたのです。このことが分かれば「七段目」を歌舞伎化する時には・歌舞伎に「移す」というより・どこかに「戻す」という感覚が必要であり、音曲の縛りを解体する方向に・つまり本行のツボをはずす方向に演技ベクトルを振り向けた方が歌舞伎の「七段目」はうまく行くということが理解されると思います。

(H20・4・19)


 

 

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