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吉之助の雑談49(令和8年1月〜6月)


〇令和8年1月浅草公会堂:「梶原平三誉石切」・その2

「石切梶原」の俣野は、梶原を悪意であざ笑う思慮が足りない粗忽者みたいに見えるかも知れません。まあその見方でも芝居は十分成り立ちますが・ホントにそれで良いのか、そこは考えてみる必要がありそうです。

まず第一にこの芝居が、石橋山の戦いの直後に設定されていることです。石橋山の戦いとは治承4年(1180)に源頼朝が平家に反旗を翻した戦いです。頼朝は平家方(大庭・俣野・梶原ら)に敗北して、現時点では行方知れずです。(頼朝が無事に逃げおおせたことは、芝居のなかでは奴菊平が持参した手紙によって知れます。)ここで留意すべきことは、芝居に登場する平家方の武将たち(大庭・俣野・梶原ら)は元々は源氏に奉公していた者たちで、平治の乱以降に平家全盛の世の中になってから・現在はやむを得ず平家の禄を食んでいると云うことです。時は流れて平家の支配に翳りが見え始めました。ここで源氏の頭領頼朝が決起したとなると、彼らの気持ちのなかに動揺が生じます。元源氏方として頼朝決起の報に心が動かぬはずはないが、その時点の勢いがある方に・あっちに付きこっちに付きするのは武士として「見苦しい」振る舞いである。名を惜しむ武士ならばそう云うことはせぬものだ。そのような倫理観念が彼らのなかにありますから、彼らは疑心暗鬼になって仲間の本心を探り・裏切り者が出ないか・互いに監視し合うことになります。俣野が梶原に突っ掛かっていくのは、梶原が何を考えているか・それとなく本心を探っているのです。

もう一つ大事なことは、(先ほど頼朝は行方知れずと書きましたけれど)石橋山の戦いで絶体絶命のピンチに立たされた頼朝を無事に逃がしたのは、実は梶原であったと云うことです。(このことは芝居では二つ胴の後の梶原の述懐で知れます。)つまり平家方の武将たちのなかに・ただ一人源氏に心を寄せた者がいた。つまり大庭・俣野から見れば裏切り者が梶原なのです。この本心を梶原は決して他人に感付かれてはなりません。芝居のなかでの梶原は、六郎太夫と大庭・俣野との会話に(もちろん逐一聞いているのだが)何ひとつ関心する素振りさえも見せません。だから芝居前半での梶原はほとんど黙して動かずです。動かないところに梶原の性根があるのです。

ですから梶原は自分が元源氏方というルーツを重んじ・裏切り者の誹りを受けようとも・断固として頼朝を助けた。俣野も元源氏方であるが・彼は名誉を重んじ・いったん平家の禄を食んだ以上は平家方として討ち死にしようと覚悟を決めた。事情は人それぞれ異なりますが、どちらも真剣に生きて、己の生き様を貫いたと云うことなのです。(別稿「梶原景時の負い目」をご参照ください。)しかし、後に名を惜しんで死ぬことになる俣野には、寝返った梶原を批判する権利を認めてやっても良いと云う気がしますね。俣野を赤面の荒事風に仕立てたところに、歌舞伎の俣野への好意が見えると思います。俣野は決して悪人ではありません。

まあそんなわけで「石切梶原」の前半は、俣野が良くなければ芝居が面白くなりません。今回(令和8年1月浅草公会堂)の俣野役は男寅が初役で勤めますが、黙して動かない梶原に果敢に突っ掛かっていくところを一生懸命に演じて好感が持てる俣野でした。荒事の甲の声の発声が辛そうで、無理に高い声を絞り出そうとして台詞の造形を崩す場面が見えました。全体の基調のトーンをちょっと下げることで高くない声も高く聞かせることも出来るはずですから、そこを今後の課題にして欲しいですね。

(R8・1・8)


〇令和8年1月浅草公会堂:「梶原平三誉石切」・その1

令和8年1月初芝居・浅草公会堂・新春花形歌舞伎を見てきました。若手が一生懸命役に取り組んでいる姿は、いつ見ても気分が良いものです。本稿では染五郎初役の梶原平三景時による「石切梶原」を取り上げます。

歌舞伎での梶原のイメージは、頼朝に義経の悪口を・あることないこと吹き込んで・兄弟仲違いの原因を作った佞人讒者(ねいじんざんしゃ)と云うことで、評判は甚だ良くありません。殆ど唯一「石切梶原」においてのみ、梶原は思慮深い正義の侍として描かれます。ということは、本作での梶原は、「モドリ」の役というほど鮮やかなドンデン返しでないにせよ、「あの悪人梶原がここでは意外や正義の侍なんだ」という軽いサプライズが当初の趣向としてあったに違いありません。「石切梶原」の梶原にとって、「佞人讒者」とは彼が意志的に選び取る未来であり、この未来が「石切梶原」においても常に彼に付きまとう。これが時代物の反復構造です。(詳しくは別稿「梶原景時の負い目」をご覧ください。)

生締めの梶原は刀を振り回してカッコ良く・情理豊かな人物に描かれますから、他の時代物の主役に付き物の悲壮感をあまり感じないと思います。もちろんそれは作品のなかにそうなる理由があるから、そうなってきたわけです。それは大事なことですが、しかし、優美一辺倒梶原では何かが足りません。梶原の背後に付きまとう陰惨な陰を・梶原の負い目を描かねばなりません。これこそ「佞人讒者と誹られたって構わない、俺はこの男(頼朝)に命を賭ける、源氏の再興に命を賭ける」という梶原の実(じつ)なのです。

そこで今回(令和8年1月浅草公会堂)の染五郎初役の梶原ですが、若い染五郎が上記のようなことを作品から感じ取ったかどうかは分かりませんけれど、生締め役の華やかさを持ちつつ、これに梶原の実を程よくバランスした・とても良い出来になりました。十五代目羽左衛門の華やかさと初代吉右衛門の実とを兼ね備えた仁(ニン)と云ったらちょっと褒め過ぎかも知れませんが、石切りを派手な橘屋型(正面を客席に向けて手水鉢を切って・それを飛び越える)でやらせてみたいなあとちょっと不謹慎なことを想像してしまいましたよ。(今回はもちろん播磨屋型なので・客席に背を向けて手水鉢を切りました。) 染五郎は、これまで光源氏のような優男色男系統の役で売り出されて・吉之助はちょっと気の毒に感じていましたが、昨年の光秀(太十)源蔵(寺子屋)も立派な出来でありましたが、ようやく興行も染五郎が骨太い時代物役者の適性を備えていることに気が付いたようです。これからが楽しみです。

もちろん今回は20歳の若者の初役としては良いと云うことですから、まだまだ課題はあります。時代物の大役ゆえに気負いもあるだろうが、台詞が若干張り上げ気味です。もう少し低調子にした方が良いかも知れません。言葉の末尾を引き延ばす風はないけれども、もう少し息を詰めて・言葉を区切る、そうすれば梶原の実がもっとクッキリ浮かび上がると思います。

例えば俣野が二つ胴を試そうと立ち上がったのを梶原が鋭く制止する台詞、特に最後の「近頃もって無礼でござろう」という箇所です。ここでの染五郎の台詞廻しは古典的に収まっていると云えます。さほど悪いものではありませんが、吉之助としては・この最後の台詞は丸く収まるよりも・むしろ破綻させてもらいたいのです。ここでの梶原は必死です。ここで俣野に二つ胴を試させたら六郎太夫は死んでしまいます。六郎太夫を救うために、何としても自分が二つ胴をやらねばならぬのです。そのような梶原の気持ちを生(なま)に出してもらいたいのです。

まあそういう箇所もありはしますが、しかし、決め所の形はきちっと取れて、性根の把握もしっかりした・とても良い梶原でありましたね。(この稿つづく)

(R8・1・5)


〇「古典に取り組む」

昨年(令和7月)12月20日に武蔵野市・吉祥寺シアターで鈴木忠志演出のSCOT公演「世界の果てからこんにちはU」(新装改編版)を見て来ました。SCOTとは、Suzuki Company of Togaの略で、富山県利賀村に拠点を置く劇団です。)本作は、令和3年9月利賀山房での初演の作品です。吉之助は同年12月吉祥寺シアターでの公演を見ましたが、その4年後になる今回(令和7年12月)の公演は「新装改編版」という触れ書きで、再度演出を練り直しての公演でした。

どこをどう直したかは、とりあえず本稿に於いてはどうでも良いことです。本稿で話題にしたいことは、鈴木忠志は同じ作品を何度も何度も繰り返し取り上げて・その度に細部の演出を練り直すと云うことです。鈴木忠志は同様のことを他の作品でも続けてきました。生涯を賭けてその作品と取り組み続けて・最終的な完成を見ることはないと云うことです。「この作品については・すべて語り尽くした」とその時は思っても、再度読み直してみたらまた新たな発見がある、「自分はちっとも読めてなかったなあ」と思わず恥じ入ってしまう、「名作」と呼ばれるものはみんなそんな奥深さを持っているものです。

これについてちょっと昔の発言ですが、鈴木忠志はこんなことを語っています。

『歌舞伎はすごいものだったと思うんだ。「四谷怪談」なんかよくこんなことを考えついたなって。それは集団で実際に劇団をつくってやってみると分かるんですよ。三か月でどういう舞台にしよう、ああしようこうしようって毎日一つずつやっていく。そうすると、あっ、ここで思いついた、こっちで思いついた、衣装はこうだ、照明はこうと、すごい時間がかかるものなんです。だから私のものなんか、「リア王」や「トロイアの女」は十五年もやった。それでようやくこれで考え尽くしたなって。舞台ってそういうものですよ。それを歌舞伎はやった。それはすごいです。私たち現場の実感からみて、一つに十年かかるんです。(中略)だから若い連中に言うのは、「女の一生」もそうだけれども、一生やれるものを持ったということはすごい大切なことなのに、なぜ新作、新作ってすぐ捨てちゃって、新作でないと現代に生きていない気になるんだと。(中略)それから見ると、歌舞伎は本当に羨ましい。だけどあれだけのいろいろな裏方がいて、もっと演出家を入れて議論してやればすごい凝縮したものになるのに、なぜやらないのかという思いは見ていてするんだよ。現場的な実感からすれば、もったいないな、こんな素晴らしい財産があるのに、という感じがします。』(鈴木忠志:対談「現代のなかの歌舞伎」・岩波講座 歌舞伎・文楽 第1巻・1997年9月・岩波書店)

鈴木忠志が指摘する通り、歌舞伎は一つの作品を、何百年も賭けて・何世代も賭けて、様々な試行錯誤を繰り返して、型や演出・細かい仕様を練り上げて来ました。何百年・何世代という・気が遠くなるような長いスパンで、歌舞伎は地道にそれを行って来たのです。そのような「古典」を財産として豊富に持っていることの有難さを歌舞伎役者は先人に感謝せねばなりませんね。

昨年(令和7年)は歌舞伎座で三大丸本歌舞伎上演(3月「忠臣蔵」・9月「菅原」・10月「千本桜」)が行われました。細かいところでの注文は色々あったにせよ、切羽詰まったところに追い込まれると・やっぱり歌舞伎は強いものだなと思わせるところがありましたね。何百年・何世代というスパンから見れば、今現在はそのうちのたった一コマにしか過ぎません。しかし、その一コマに何百年・何世代の長い歳月が裏打ちされていることが感じられる、そのような場面が、時にはあったと思います。(しばしばであったとは言わないが、時にはあった。)そんなところから伝統芸能者としての自覚と「自信」が生まれます。(これは我々観客にとっても同じことだと思うのですけどね。)このような「自信」が今の歌舞伎の若手に一番必要なものだと思います。

(R8・1・1)



 

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