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吉之助の雑談49(令和8年1月〜6月)


〇令和8年2月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜陣門・組討」・その3

以下の文章は陣屋について書くものですが、須磨浦からの眼差しを論じているのですから・そのようにお読みください。「須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる」、観客はそのような結末になるはずのドラマを筋を追って陣屋を見ているのです。浄瑠璃作者は観客に対し、「見たいのですね、ならばこれを見なさい」と云うものを提示し、観客はこれを見るのです。

陣屋での熊谷に課された使命は、明白です。それは「平家物語」が教えるところの結末へと、ドラマを無事に導くことです。熊谷は涙を殺して・心を落ち着けて、義経の首実検へ向かおうとしています。ところが周囲の面々が熊谷の心をかき乱すのです。須磨寺から立ち帰ると、そこにいるはずのない女房相模が陣屋へ来ています。おまけに敦盛の母藤の方まで現れます。熊谷の行動に不審を抱く梶原平次景高も陣屋に来ています。弥陀六の正体はまだ分かりませんが、一体どのような役割の人物であるか、これも不安材料に違いありません。それと観客はまだ知りませんが、実は義経も陣屋奥の間に潜んでいます。義経も延期延期でなかなか首実検に来ようとしない熊谷の行動を訝しく感じていたのです。(と云うことは、熊谷は首実検への踏ん切りがなかなか付かなかったということですね。)これから首実検と云う大事な時であるのに、これだけの人物が陣屋に現れて、寄ってたかって・いろんな方向から熊谷の心を不安定な状況にするのです。しかし、何としても熊谷は首実検を無事にやり通さねばなりません。それが父の意を組み納得のうえで身替りになって討たれた息子小次郎の遺志に報いることでもあるのです。このような絶体絶命の状況下で熊谷の「物語り」が行われます。これが陣屋のまず最初のクライマックスです。

「物語り」とは、過去に起こった出来事を当事者がありのままに語るのが、本来の在り方でした。そういうことならば、熊谷の物語りは若干ルール違反と云うことになるのかも知れませんねえ。ここで熊谷は須磨浦で自分が無冠太夫熱盛を討ったと語りますが、それは事実ではないからです。実際に討ったのは息子小次郎でした。しかし、熊谷は陣屋のドラマが最終的に目指すべきもの、作者が観客に「見たいのですね、ならばこれを見なさい」と云うことを語っているのですから、この観点からすれば、熊谷の物語りは「事実を語ってはいないが、真実を語っている」ことになるのではないでしょうか。だから熊谷の物語りは捻じれているけれども、確かに「物語り」なのです。

「心にかかるは母人の御事」と熊谷が語る時、或いは「早や首打てよ熊谷」と語る時、熊谷の胸中に須磨浦での息子小次郎との最後の情景が蘇ったことでしょう。しかし、その情景は覆いに隠されて向こうが見えることはありません。ラカンが云う通り、「観客を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見させるような何かでなくてはならない」のです。熊谷はドラマの向こう側を想像させるように物語るのです。

陣屋のドラマは、こうして紆余曲折しながらも・危ういところを避けつつ、どうにかこうにか首実検(第2のクライマックス)に漕ぎつけます。この首実検は、歌舞伎の時代物のモドリのパターンに乗りますから、さほど困難なものではありません。義経によってその首は敦盛のものと認められ、これでどんでん返しが成立し、「平家物語」が指し示すところの、「須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる」結末(観客が見たかったもの)と、ドラマがこれでやっと重なります。

それもこれも、須磨浦からの眼差しが、「在るべき」結末に向けて熊谷を導いてくれたお蔭なのです。何故ならば、もしこの身替わり大作戦が水泡に帰すならば、身替りになって討たれた息子小次郎の死を無駄にすることになるからです。つまり須磨浦からの眼差しとは、亡き息子から父への眼差しでもあったわけですね。(この稿つづく)

(R8・2・26)


〇令和8年2月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜陣門・組討」・その2

須磨浦のドラマをどのように愉しむべきか、これは難しい問題ですね。須磨浦において熊谷は敦盛・実は我が子小次郎を前に「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり、「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えたりします。どうして熊谷はこういうワザとらしい・回りくどいことをするのか。この場で討たれるのが我が子である・これが作者並木宗輔の虚構(トリック)であるならば、それはどうも嘘臭く感じられる。逆に須磨浦で討たれるのが敦盛だと思って見ると、今度は陣屋の虚構が許せなくなってきます。このように須磨浦を真に見れば陣屋がやり難くなり、陣屋を真に見るならば須磨浦がやり難くなるのです。

この問題については、吉之助はこんな風に須磨浦のドラマを愉しめば良いと考えています。そこで以下に吉之助の須磨浦の愉しみ方を披露することにいたしましょう。なおこの愉しみ方は「嫩軍記」にのみ適用されるものでなく、「千本桜」でも「実盛物語」であっても、すべての時代浄瑠璃に応用出来るものです。

現代の我々にとって「平家物語」は文学作品と云うことになるでしょうが、江戸期の民衆にとって「平家物語」はまずは歴史書でありました。当時の教養常識であったのです。「平家物語」は熊谷が敦盛を討つ場面を次のように締めています。

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」
(現代語訳:まるで作り話のように思われるであろうが、(敦盛を討ったことが)後に熊谷が出家する原因になろうとは、あわれなことであった。)「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾

須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる、これが「平家物語」が教えるところの歴史の理(ことわり)です。だから観客は芝居の須磨浦の場を見る時に、この歴史の理を踏まえて舞台を見ることになるのです。いわば観客は歴史の一コマの目撃者です。「須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる」、観客はそのような結末になるはずのドラマを筋を追いながら懸命に見ようとします。

舞台での熊谷親子はホントは、父は息子に「やはり俺にはお前を殺すことは出来ない」と弱音を吐いたり、息子は父に「父さん、僕はもう覚悟を決めているんだ、早く首を討ってくれ」と叱咤したかも知れません。しかし、遠くからそんな会話は聞こえません。熊谷親子が逡巡する様子は、遠くから現場を眺める目撃者(観客)の目には、熊谷が敦盛に対し「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり、「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えたりしている光景に映るのです。江戸の観客には常識としての「平家物語」が頭に在りますから、そのように「在るべき光景」を舞台に見ることになる。作者は観客に対し「見たいのですね、ならばこれを見なさい」と云うものを提示し、観客はこれを見るのです。

西洋絵画史では有名な逸話ですが、古代ギリシアで或る時、ゼウキシスとパラシオスという二人の画家が、「どちらがより写実的な絵を描けるか」をめぐって対決することになりました。ゼウキシスが描いたブドウの絵はあまりに真に迫っており、鳥がこれをついばみに来たほどリアルでした。一方、パラシオスが描いた絵は、覆い(カーテン)が掛かっていて見えませんでした。これを見たゼウキシスは、「おい、その覆いを取って早く絵を見せてくれ」と言いました。しかし、実は覆いはパラシオスが描いた絵だったのです。ゼウキシスは自分の負けを認めざるを得ませんでした。

『パラシオスの例が明らかにしていることは、人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見させるような何かでなくてはならない、ということです。(中略)どのような時に騙し絵がわれわれを魅惑し喜ばすのでしょうか。それは、我々の眼差しを移動させてみても、その像が動くことはないし、ただ目が欺かれていただけだと気付く時です。というのは、このとき絵画は、それがかつてそう見えていたものとは別のものとして現れるからです。あるいは、むしろそれは今や別のものとして見えてくるからだ、と言った方がよいかも知れません。』ジャック・ラカン:1964年のセミネール・「精神分析の四基本概念」〜「線と光」)

つまり江戸の観客は須磨浦の芝居を見ながら自ら「喜んで騙されに行っている」とも云えましょうか。しかし、後場の陣屋の幕切れを見れば、結局、江戸の観客の愉しみ方が正しかったことが明らかになるのです。熊谷が実検で提出した首は敦盛として須磨寺に葬られることになる。熊谷は剃髪して黒谷の法然の元へ向かう。紆余曲折があったけれども、ドラマは「平家物語」が教えた通りの結末となりました。これで騙し絵の完成です。江戸の観客は「イヤアまんまと作者にしてやられちゃったね」と云ってウフッと笑うでしょうね。これが吉之助の須磨浦の愉しみ方なのです。(この稿つづく)

(R8・2・23)


〇令和8年2月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜陣門・組討」・その1

本稿は令和8年2月歌舞伎座・猿若祭での、勘九郎の熊谷直実・勘太郎の敦盛(小次郎)による「一谷嫩軍記〜陣門・組討」(須磨浦)の観劇随想ですが、まずは例によって作品周辺を逍遥することにします。

時代浄瑠璃「一谷嫩軍記」のなかで、須磨浦は二段目端場・熊谷陣屋は三段目切場に位置します。この二つの場面は、江戸期に於いては、通し上演として続けて上演されることが多かったのです。ところが大正期辺りから、陣屋だけが見取り狂言として上演されることが増えて来ます。同時に、須磨浦の上演が極端に減って行きます。その理由は誰の目にも明らかです。それは熊谷が幕外の憂い三重で花道を引っ込む九代目団十郎型の陣屋が主流になって来たからでした。二つの場面を続けて上演すると具合の悪いことが色々と生じるのです。詳細は別稿に譲りますが、例えば現行の須磨浦では熊谷と馬が本舞台で決まって幕となります(今回もそうです)が、昔の型では熊谷が馬を引いて花道を経て揚幕に入ったものでした。須磨浦が現行の幕切れになったのは、団十郎型の陣屋では直実が花道を引っ込むものだから、須磨浦でもそれをやったら引っ込みが重複してしまうので・須磨浦の方を取り止めたからでした。このように現行の歌舞伎の「嫩軍記」は、ほぼ百年の間、「まず団十郎型の陣屋ありき」という考え方があったかのようで、須磨浦から陣屋への連続性・連関性が忘れ去られてしまいました。それぞれが別個の芝居みたいに扱われて来たと云えます。

このため陣屋の熊谷は勤めたことがあるが・須磨浦の熊谷はやったことがないと云う役者が少なからずいます。(さすがに二代目白鸚、故・二代目吉右衛門はどちらの熊谷も演じていますが。)まあ役者が演じたくても興行上の事情が絡むから仕方がないこととは云え、ここで吉之助が申しあげたいのは、陣屋の熊谷を演じるのに陣屋のことだけを考えていればそれで良いのか?と云うことです。昨今の陣屋は自らの感情に浸り過ぎの熊谷ばかりになってしまいました。陣屋の見取り上演であっても、須磨浦から陣屋への連続性・連関性を念頭に入れた熊谷の役作りをせねばならぬのではないか?役者はもちろんですが・観客も、須磨浦から陣屋へ向けての眼差しを持つことが大切なのです。(この稿つづく)

(R8・2・22)


〇令和8年1月新国立劇場:「鏡山旧錦絵」・その3

今回(令和8年1月新国立劇場)の「鏡山」は「時蔵(38歳)の尾上・菊五郎(48歳)のお初」の組み合わせですが、バランス的に中老尾上はお初より歳上の役者が勤めるものではあろうけれど、時蔵の場合は雰囲気が大人びていると云うか・成熟しているので、尾上を演じても若過ぎる感じがしなかったのは大したものでした。これから更に何度も演じていくなかで、尾上は時蔵の役になっていくでしょう。尾上はいわゆる辛抱役で、岩藤に虐められても不平不満の表情など決して見せず、ひたすら耐えに耐えて・感情を押し殺す難しい役です。しかも品格を保たねばなりません。注目の草履打幕切れの花道の引っ込みですが、時蔵の尾上は悔しさで低くすすり泣きながらも・決してヨヨと泣き崩れない、最後の一線で品格を保ちました。「尾上の引っ込み」と云うと吉之助が思い出すのはどうしても六代目歌右衛門になりますが、歌右衛門のは心が既に死んでしまっている尾上でした。時蔵の尾上の引っ込みの方が人間的なリアルさがあったかも知れません。これはどちらもそれなりで、どちらも良いです。

思うに草履打の尾上は、どうして自分が岩藤からここまで屈辱的な扱いを受けねばならないのか、全然理解が出来なかったと思います。イジメの原因が分からないから、その理不尽さに対する怒りが尾上のなかでますます募ります。浄瑠璃作者は尾上の怒りを意識的に忠臣蔵に重ねようとしています。「何だか分からないが、兎に角コイツは怒っている」と云うところが、江戸の観客に「荒ぶる神(怒れる神)」を想起させます。しかし、塩治判官は立役だから松の廊下で怒って刀を抜くことが出来ますが、尾上は女形であるからそれは許されません。次の場(長局)で尾上は寂しく自害するしかないのです。そのような尾上の怒りを救い上げるために、歌舞伎は独自の工夫を凝らしてきました。例えば尾上役者に、引っ込みで揚幕のなかに入った後、次の長局まで俯いたまま・誰とも口をきいてはならぬと云う口伝があったりします。また尾上が自害した後・その化粧衣装のままで駕籠に乗せられて・誰とも顔を合わせず家に帰ることをした役者もいたそうです。歌舞伎が歳月を掛けて四段目を儀式化して来たように、長局も大事に大事に精神的な儀式化がされて行くのです。ただし女形に相応しい手法で以てですが。このように考えると、長局でのお初の忠臣蔵談義も、女形に相応しい形で芝居をおしゃべりで世話に砕いて見せたと云うことになるでしょうか。「女忠臣蔵」の特質がそこにあります。

菊五郎は、その利発さと健気なところがお初にぴったりですねえ。長局返しでは主人尾上の怒りを「我が怒り」として奮い立ちますが、この場でお初が見せる「強さ」に、やはり菊五郎が演じてきた立役の経験が生かされたと云うことだと思います。だから「時蔵の尾上・菊五郎のお初」の組み合わせもなかなか結構なものでしたね。

弥十郎の岩藤はイジメ役の手強いところをしっかり押さえていますが、尾上に対する悪意がちょっと単純明快に過ぎる気がします。だから御家騒動の線に沿って・分かりやすい岩藤になっているわけだが、ホントはもっと陰湿な岩藤に仕立てて欲しいのです。どうして岩藤は尾上をここまでイジメなければならないのか、或いは尾上との相性が決定的に良くないのか、何故だか分からぬという感じにお願いしたいものです。

(R8・2・14)


〇令和8年1月新国立劇場:「鏡山旧錦絵」・その2

「鏡山」は、俗に「女忠臣蔵」と呼ばれます。長局でお初が師直と判官の例を引いて・軽率な行動で命を粗末にしないように・尾上をそれとなく諭す場面はもちろん「忠臣蔵」絡みですけど、これだけではありません。特に長局(返し)で尾上の死骸の傍でお初が懐剣と遺恨の草履を手に・泣きながら岩藤への仕返しの決意をする場面は、四段目・城外で由良助が血に染まった主人の九寸五分を手に悔し泣きする場面に意図的に重ねられていることがビンビン伝わって来ますね。お初の気持ちのなかに、四段目の由良助と同じかぶき的心情が熱く煮えたぎっています。両者の竹本の詞章を比べれば、このことが一層よく分かります。

『無念の涙血を注ぎ、凝り固まりし烈女の一念、義女のその名を末の世に錦と替る麻の衣、女鏡と知られけり。』(「鏡山」・元の長局)

『拳を握り、無念の涙はらはらはら。判官の末期の一句五臓六腑にしみわたり、さてこそ末世に大星が忠臣義心の名を上げし根ざしはかくと知られけり』(「忠臣蔵」・四段目)

「鏡山」初演(天明2年・1782)当時の江戸の観客が「忠臣蔵」のドラマをどのように読んだかが、ここから察せられます。またこれはその逆に、「忠臣蔵」の視点から「鏡山」のお初のドラマを読むことだって出来ると云うことでもあるのです。「忠臣蔵」の由良助の意志ははっきりしています。それは「亡君の無念を主君に代わって晴らす」と云うことです。さらに言うならば、由良助は「それを果たすのが家来としての自分の勤めである」と感じて職務としてそれを行ったというのではなく、「亡き主君の無念を、残された我々家来の無念とする」という一体化した信念を由良助は明確に持っているのです。(別稿「忠臣蔵をかぶき的心情で読む」をご参照ください。)

「鏡山」のお初の論理(ロジック)も、まさにこの「忠臣蔵」と同じであると云えないでしょうかね。主人尾上の無念を、召使お初は「我が無念」と受け止めて激しく怒るのです。それは「組織のなかで本来通るべきもの(正しいこと)が通らない理不尽さに対する強い怒り」・公憤(おおやけばら)です。この怒りはひたすらに無私なものですから、見ている側(観客)にも伝播する力を持っています。だから「鏡山」は「忠臣蔵」と同じく人気狂言になったわけですね。(この稿つづく)

(R8・2・9)


〇令和8年1月新国立劇場:「鏡山旧錦絵」・その1

初台の新国立劇場・中劇場での通し狂言「鏡山旧錦絵」を見てきました。そう言えば「鏡山」は久しく出てないなと思ったら、何と平成20年(2008)9月新橋演舞場以来の18年ぶりのことだそうです。最初に演し物が「鏡山」だと聞いた時、吉之助の頭のなかに浮かんだのは実は八代目菊五郎の尾上だったのですが、改めて配役を確認してみると、「時蔵の尾上・菊五郎のお初」であったのでホウと思いました。菊五郎はこの数年大役に挑戦して来ましたし(ただしそれらはみな立役でしたが)、今度は女形の最高峰の役どころである尾上に取り組むと云うのは菊五郎として自然な流れであろうし、菊五郎が尾上を演じたいと望めばスンナリ通ったと思えるのですが、恐らく今回は、菊五郎が敢えて尾上を時蔵に渡して・自分がお初に回る判断をしたと云うことであると推察します。(菊之助時代にお初は経験済み。)将来的に菊五郎が立役を演じていく時に女房役が時蔵であることがバランス的に理想であり、多分そう云うことまでも視野に入れたうえでの配役ではなかったでしょうか。しかし、昨年(令和7年)1月新国立での「彦山」通しのお園がなかなか良かったので、時蔵のお初もさぞかし良いだろうと思います。個人的には「菊五郎の尾上・時蔵のお初」の組み合わせに依然として未練が残るのですけどね。

さて「鏡山旧錦絵」のことですが、別稿「中老尾上と草履打ち」で触れた通り、歌舞伎での「鏡山」成立過程は入り組んでおり、一筋縄で行きません。通常であると営中試合−草履打ち−長局−奥庭仕返しの場割りになると思います。時間からすると半通しとちょっとくらいの分量ですが、「女忠臣蔵」としての纏まりはこれで十分だと思います。この方が奥御殿でのイジメ事件と・その仕返しのドラマが観客にストレートに伝わります。江戸の歌舞伎では3月に「鏡山」あるいはそれに類似する芝居を出すのが通例でした。それは大名家の奥御殿に勤める女中たちが年に一度里帰りを許される月(宿下がりの月)が3月であったからで、彼女らは意地の悪いお局が仕返しされる芝居を見て留飲を下げたと云うのだから、場面設定は変われども・似たようなことはいつの時代も数多くあったことだなあと思いますね。「鏡山」の今日的な側面がそこに在ると思います。

今回(令和8年1月新国立劇場)は、国立恒例の菊五郎劇団のメデタイ初春芝居のご趣向を兼ねて、新たに創作した「花見」の場を幕切れに付け加え、「悪は滅び善は栄えてイヤ目出度い目出度い」と云う「御家騒動物」の体裁に落ち着くのはそれなりに辻褄が付く処置ではあるのだが、この幕切れであると「鏡山」が隠し持っている「組織のなかで本来通るべきものが通らない理不尽さに対する強い怒り」がおざなりにされていると感じないこともない。マアそんなところもありますがね、そこは見る側(観客)が心得ておかねばならないことかも知れませんね。(この稿つづく)

(R8・2・6)


〇令和8年1月新橋演舞場:「鳴神」・その2

いつも「鳴神」を見てちょっと心配になるのは、観客も含めて何となく、雰囲気がともすれば「艶笑譚」の方へ傾きそうな気配がすることです。芝居が下世話な方向へ振れてしまいそうな感じなのです。これを見て観客が笑う。そうすると芝居が小っちゃくなってしまうと云うことです。

もちろん絶間姫に上人がたらしこまれる場面はこの芝居の見せ場であるし、時代を超えて今日的な芝居に仕立てられそうな要素を持っており、ここをしっかり描かなければ「鳴神」の面白さはないはずなのです。だから艶笑譚的な要素は確かにあるに違いない。しかし、その「笑い」は鼻の下を長くしてデへへへへ・・という下卑た感じで笑うものではなく、どちらかと云えば狂言の笑いに近いものでしょうね。イデ笑おうかハハハハハ・・みたいな「大らかな笑い」です。これが初代・二代と続く成田屋の江戸荒事の古劇の感触だろうと思います。朝廷の計略によって色仕掛けで落され・通力を破られたことへの怒り(公憤)で鳴神上人は荒れる。この点をしっかり押さえておけば、芝居は下世話に振れることはなく、御霊劇の骨太の構図は崩れません。

しかし、芝居は役者と観客の相互関係で出来上がるものです。現代の観客はどうしても艶笑譚的な笑いでこれを受け止めたがるでしょう。またその見方が間違いであるとも云えません。だから厄介な問題になりますが、歌舞伎役者はこの問題を認識して、「大らかな笑い」を心掛けて、自分なりの対処をせねばなりません。(既に舞踊「身替座禅」などは難しい状況に陥っていますね。)吉之助は、歌舞伎役者は「現代に生きる江戸人」のようで在って欲しいと思っています。

そこで今回(令和8年1月新橋演舞場)の「鳴神」ですが、3年前の「鳥居前」の狐忠信の荒事で力強い台詞と演技を見せた鷹之資であるので・大いに期待しましたが、もちろんよく頑張っているのだけれど、予想したよりもスケールが小さい・と云うかこじんまり纏まった印象がしますねえ。もっと大らかで鷹揚なところが欲しいと思います。鷹之資の上人は、最初庵にいる間は低く重い調子でしゃべっていましたが、絶間姫の仕方噺に夢中になって石段から転げ落ちてからはトーンがグッと明るくなって台詞のテンポが早くなりますね。どういう意図でこういう声の使い分けをするのか吉之助には理解出来ませんが、このために何となく後半の芝居が軽く世話っぽい感触になる。だから芝居が小っちゃくなってしまうのです。観客はそこを好意的に反応してくれていますが、ここは笑いを生(なま)にしないように・意識的に抑えに掛かることです。もっと「大らかな笑い」を心掛けて欲しいですね。狂言をやるようにやって下さい。

ところで廣松の絶間姫が素晴らしい。祖父(四代目雀右衛門)譲りの美しさもさることながら、着実に色仕掛けで上人を篭絡(ろうらく)する手腕、それでいて演技が生っぽくならず・出過ぎるところがない行儀の良さ。近年では出色の絶間姫でありましたね。

(R8・2・2)


〇令和8年1月新橋演舞場:「鳴神」・その1

令和8年1月新橋演舞場での初春大歌舞伎・昼の部、近年メキメキ評価を上げている若手の鷹之資の鳴神上人・廣松の雲の絶間姫の組み合わせ(共に初役)による「鳴神」を見てきました。まずは舞台のことを書く前に、例によって作品周辺を逍遥することにします。

歌舞伎十八番の主人公に「御霊(ごりょう)」が多いことは、よく知られています。例えば曽我五郎(矢の根・助六)・鎌倉権五郎(暫)がそうです。御霊とは、何らかの社会的な恨みをもって非業の死を遂げた人物が、死後に怨霊となって祟り、民を脅かす天災や疫病などをもたらす、民はこれを畏れて「御霊」と呼んで手厚く祀りました。これを御霊信仰といいます。成り立ちは御霊によって様々ですが、ここでは御霊が何らかの政治的・社会的な恨みを含んでいることを押さえて置きたいと思います。どこか反体制的なイメージを帯びているのです。

もっとも歌舞伎十八番の主人公がすべて御霊だと云うわけでもなさそうで、例えば毛抜の粂寺弾正は明晰な科学的思考で難題を解決して颯爽と去りますが、政治的な恨みからは無縁のようです。他方、鳴神上人の場合は、朝廷と何らかの揉め事があって怒った鳴神上人が竜神を滝つぼに封じ込めてしまい、それからというもの雨の降らない日が続き国中は飢饉で苦しんでいると云う設定ですから、上人には政治的な恨みがあるわけです。困り切った朝廷は、宮廷第一の美女を上人の元に送り込み、色仕掛けで上人を堕落させてその通力を無にしてしまおうと考えました。ここまでが「鳴神」の前半です。後半は酒に酔いつぶされた上人が雨音に目を覚まして、やっと自分が騙されていたことに気が付いて烈火の如く怒り狂い、髪を逆立て怒りの形相で姫の後を追います。ここで展開される立ち回りが、荒事の「荒れ」のシーンです。まことに歌舞伎十八番らしい場面ですね。

ここまで「鳴神」をざっと振り返りましたが、絶間姫に上人がたらしこまれる過程(プロセス)がこの芝居の最も面白いところですから、するとこの芝居が何となく「艶笑譚(えんしょうたん)」みたいに見えてくると思います。艶笑譚とは、男女の色恋に関することや、あだっぽい笑い話のことです。すると後半で上人が怒って「荒れ」る理由は、上人が女に騙されたから怒ると云うことになるのでしょうかね?まあそれもあるだろうとは思います。しかし、それだけであるとこれは上人の個人的理由であって、「何らかの政治的・社会的な恨み(公憤)を含んでいる御霊」と云うことにならないと思いますがね。

だから「鳴神」を正しく歌舞伎十八番に位置付けるためには、上人が「荒れ」る理由は、朝廷の計略によって色仕掛けで落させられて・通力を破られたことへの屈辱的な怒り(公憤)と云うことになるべきでしょう。これで鳴神上人に反体制なイメージを与えることが出来ます。ですから絶間姫はドラマのなかでは朝廷によって遣われた政治的な手段(ツール)と云うことですね。(この稿つづく)

(R8・1・31)


〇令和8年1月浅草公会堂:「傾城反魂香〜吃又」・その3

前述の通り、橋之助(又平)・鶴松(おとく)のコンビは、ほのぼのとした夫婦愛を描いてメデタシメデタシ、芝居の後味は悪くありません。芝居を見終わって「又平よ、土佐の名字が戴けて良かったなあ」と云う気分にさせられます。歌舞伎の「吃又」は、純朴で・人の好い・そしてちょっとそそっかしく滑稽なところもある又平の人柄が民衆に長らく愛されて、人気狂言になって来たのです。このような従来からの歌舞伎の又平夫婦のイメージを、橋之助・鶴松の夫婦はどこかで継承しているように感じますね。殊更剽軽さを強調する風でもないのに、ほのぼのした夫婦の雰囲気が浮かび上がってくるところは、恐らく橋之助・鶴松のコンビの持ち味としてあるものでしょう。これはこれでいいものです。

しかし、そうすると又平の剽軽な要素を意識的に削ぎ落した今回(令和8年1月浅草公会堂)の六代目菊五郎型であると、若干の齟齬を感じなくもないのです。又平の芸術家としての成長物語と云う側面が弱い感じがします。特に自死を決意するにまで至る過程での、師に対する又平の態度の偏屈さ・頑迷さの表現が弱い。ここが弱いとせっかくの六代目菊五郎型が生きて来ないのです。又平は「師が認めてくれない」ことばかり不満に思っていて、「師が又平の何が不足と感じていたか」まで考えが及びませんでした。(そこに師と弟子との認識のすれ違いがある。)又平の内に在って・外へ迸らんとする表現意欲を正しい方向へ制御する術を又平は未だ持ちませんでした。(だから師将監を納得させることが出来なかったのです。)橋之助の又平は、このような又平の内に潜む「過剰性」を感じさせてくれない不満がありますね。又平の状況を女房も「共有」していると云う意味に於いて、鶴松のおとくにもそこに注文が生じます。

但し書きを付けますが、橋之助・鶴松のコンビによる又平夫婦は、むしろ純朴で愛嬌のある又平の人柄を前面に押し出した従来型の「吃又」で演じた方が、その持ち味が生きたのではないかと云うことが言いたいのです。ところが今回の「吃又」は六代目菊五郎型でしたから、そこに若干の齟齬が生じてしまうことになる。つまり演者の個性を取るか、型のコンセプトを取るかと云う問題なわけですが、再演の時はその辺を二人してよく話し合ってみては如何でしょうか。

(R8・1・26)


〇令和8年1月浅草公会堂:「傾城反魂香〜吃又」・その2

「吃又」で起こりがちな解釈は、又平が末弟同然の扱いを受けて「差別」されるのは彼の発声障害(吃り)のせいだと云うことです。ところが、師将監はこのように繰り返し言っていますね。

『汝よく合点せよ。絵の道の功によって土佐の名字を継いでこそ手柄とも言ふべけれ。武道の功に絵かきの名字、譲るべき子細なし。』

又平は絵の道に於いて未だ傑出した成果を挙げていない、それ以外のことで土佐の名字を譲ることはないと将監は云うのです。これが将監の真意なのです。それが証拠に、又平が描いた絵が手水鉢を抜ける奇蹟を起こしたらば、将監の態度は一変して優しくなり・又平に印可を授けるのです。

ところが又平も・女房おとくもそうですが、師が認めてくれないのは又平の吃りのせいだと考えていたようですねえ。そこに師と弟子の間の認識に大きなすれ違い・誤解があったのではないか。この点はドラマを考えるうえでの大事なポイントです。そこで「吃又」で描かれた又平の「吃り」のドラマ的な意味を考えてみたいのですが、この件は民衆に長く親しまれた改作版の「吃又」を見れば、明確に理解が出来ると思います。改作版の「吃又」では、絵抜けの奇蹟の後・将監が手水鉢を刀で真っ二つに斬る、すると又平の吃りが治ってしまうのです。将監はこの件を次のように説明しています。

『ホホウ疑はしくばいひ聞かさん。そのむかし都誓願寺の御仏は賢聞子(けんもんし)芥子国といひし人。親子名乗りのその印。片形作り合せし御仏なりしに、しかるにこの仏体、朝暮両眼より御涙しきりなりしに、時の名医これを考へ、五臓を作り込んだる仏体なれば、正しく肝の臓の損じならんと、二つに分けてこれを直せば、たちまち涙止りしこと、いまの世までも割符の弥陀とナ、コリャ隠れなし。この理をもって又平が魂込めしこの絵姿、絵は吃らねど吃るは舌。舌はもとより心の臓。その心の臓調はざるゆゑ口吃る。いま石面の又平を二つに切破るこの将監。絵師の手のうち、なか/\思ひよらねどもコレ、この刀は主人より給はる名作。その名作の奇特をもって心の臓を断切ったれば、吃ることはよもあらじ』(文楽での改作版「吃又」床本)

江戸の民衆の「吃りは神経の伝達回路に何らかの問題があるから起きる、回路に適切な衝撃を与えれば吃りは治るはずだ」と云う理屈は、これは(正しいかどうかは別として)当時なりの科学的思考であったと考えるべきです。吉之助はここに、師・将監が又平は未だ画において功績なしとした理由と、又平の発声障害とが重ねられていると見るのです。又平は絵描きとしての技量は確かに備えていたでしょう。しかし、何らかの問題があって・又平は内にあるイメージを自在に表現することが、未だ完璧に出来なかったのです。それは或る種の吃りみたいなもので、そこに絵師又平の内なる問題があったわけです。又平が死ぬ覚悟をして(つまり内的な衝撃を受けて)虚心に筆を取った時、又平は画の極意を掴んだのでしょう。この時に絵の石抜けの奇蹟が起きます。

このように考えれば、「吃又」は又平の芸術家としての成長物語として読めるはずです。今回(令和8年1月浅草公会堂)の「吃又」は六代目菊五郎型(ほぼ近松の原作に近い形)ですから・節が付いた台詞ならば吃らないということで・メデタク大頭舞で舞い納めて終わりますが、原作での近松門左衛門の吃りの理屈も改作版と同じであったと思います。多分改作版は、近松の原作をもっと分かり易く書き下したのですね。(この稿つづく)

(R8・1・22)


〇令和8年1月浅草公会堂:「傾城反魂香〜吃又」・その1

令和8年1月初芝居・浅草公会堂・新春花形歌舞伎を見てきました。本稿では橋之助の浮世又平・鶴松の女房おとく・共に初役で勤める「土佐将監閑居」・通称「吃又」を取り上げます。若手が一生懸命役に取り組んでいる姿は、いつ見ても気分が良いものです。

橋之助は又平の純朴な人柄と・けれども発声障害で自分の言いたいことをうまく表現できない哀しみを嫌味なく演じて、女房役の鶴松は出しゃばり過ぎず・程の良いところで夫を支えて・これも嫌味なく、幕切れはほのぼのとした夫婦愛を描いてメデタシメデタシ。芝居の後味は悪くありません。勤めるべきことはしっかり勤めて、初役にして一応の成果を挙げています。そのことを認めたうえで今後の課題を書くことにします。

最初の又平夫婦の花道の出が、実はとても大事なのです。道すがら夫婦は将監宅から引き揚げる百姓衆に行き会い、その時に修理之助が土佐の苗字を頂いたことを耳にしました。それは、夫婦にとって衝撃的な事実でした。(経緯はともかく)兄弟子である又平よりも先に、弟弟子の修理之助が師将監から印可を受けたと云うのです。「お師匠さまは俺よりも弟弟子の方が可愛いのか」、多分又平はそう感じたに違いありません。この衝撃が、又平夫婦の花道の出に表れていなければなりません。又平は愕然として・おとくは悄然として将監宅にやっとたどり着く・・そのような気分が二人の背中に表れて欲しいのです。残念ながら、橋之助・鶴松の夫婦はそこの気分の表出が弱いようです。スタスタ先へ行ってしまう感じでしたねえ。例えば又平夫婦登場の直前の義太夫の詞章に、

『ここに土佐の末弟、浮世又平重起(しげおき)といふ絵かきあり。生れついて口吃り、言舌明らかならざる上、家貧しくて身代は、薄き紙衣(かみこ)の火燧(ひうち)箱。朝夕の煙さヘ一度を二度に追分や、大津のはづれに店借りして、妻は絵具夫は絵がく、筆の軸さへ細元手上り下りの旅人の、童すかしの土産物三銭五銭の商ひに、命も銭もつなぎしが・・(後略)』

とあります。「ここに土佐の末弟」とありますが、ホントは又平は末弟ではないのです。末弟でないのだけれど、理由はどうあれ・又平は末弟同然の扱いを受けています。又平のその悔しさを思ってください。そこから「吃又」のドラマが始まります。(この稿つづく)

(R8・1・14)


〇令和8年1月浅草公会堂:「梶原平三誉石切」・その2

「石切梶原」の俣野は、梶原を悪意であざ笑う思慮が足りない粗忽者みたいに見えるかも知れません。まあその見方でも芝居は十分成り立ちますが・ホントにそれで良いのか、そこは考えてみる必要がありそうです。

まず第一にこの芝居が、石橋山の戦いの直後に設定されていることです。石橋山の戦いとは治承4年(1180)に源頼朝が平家に反旗を翻した戦いです。頼朝は平家方(大庭・俣野・梶原ら)に敗北して、現時点では行方知れずです。(頼朝が無事に逃げおおせたことは、芝居のなかでは奴菊平が持参した手紙によって知れます。)ここで留意すべきことは、芝居に登場する平家方の武将たち(大庭・俣野・梶原ら)は元々は源氏に奉公していた者たちで、平治の乱以降に平家全盛の世の中になってから・現在はやむを得ず平家の禄を食んでいると云うことです。時は流れて平家の支配に翳りが見え始めました。ここで源氏の頭領頼朝が決起したとなると、彼らの気持ちのなかに動揺が生じます。元源氏方として頼朝決起の報に心が動かぬはずはないが、その時点の勢いがある方に・あっちに付きこっちに付きするのは武士として「見苦しい」振る舞いである。名を惜しむ武士ならばそう云うことはせぬものだ。そのような倫理観念が彼らのなかにありますから、彼らは疑心暗鬼になって仲間の本心を探り・裏切り者が出ないか・互いに監視し合うことになります。俣野が梶原に突っ掛かっていくのは、梶原が何を考えているか・それとなく本心を探っているのです。

もう一つ大事なことは、(先ほど頼朝は行方知れずと書きましたけれど)石橋山の戦いで絶体絶命のピンチに立たされた頼朝を無事に逃がしたのは、実は梶原であったと云うことです。(このことは芝居では二つ胴の後の梶原の述懐で知れます。)つまり平家方の武将たちのなかに・ただ一人源氏に心を寄せた者がいた。つまり大庭・俣野から見れば裏切り者が梶原なのです。この本心を梶原は決して他人に感付かれてはなりません。芝居のなかでの梶原は、六郎太夫と大庭・俣野との会話に(もちろん逐一聞いているのだが)何ひとつ関心する素振りさえも見せません。だから芝居前半での梶原はほとんど黙して動かずです。動かないところに梶原の性根があるのです。

ですから梶原は自分が元源氏方というルーツを重んじ・裏切り者の誹りを受けようとも・断固として頼朝を助けた。俣野も元源氏方であるが・彼は名誉を重んじ・いったん平家の禄を食んだ以上は平家方として討ち死にしようと覚悟を決めた。事情は人それぞれ異なりますが、どちらも真剣に生きて、己の生き様を貫いたと云うことなのです。(別稿「梶原景時の負い目」をご参照ください。)しかし、後に名を惜しんで死ぬことになる俣野には、寝返った梶原を批判する権利を認めてやっても良いと云う気がしますね。俣野を赤面の荒事風に仕立てたところに、歌舞伎の俣野への好意が見えると思います。俣野は決して悪人ではありません。

まあそんなわけで「石切梶原」の前半は、俣野が良くなければ芝居が面白くなりません。今回(令和8年1月浅草公会堂)の俣野役は男寅が初役で勤めますが、黙して動かない梶原に果敢に突っ掛かっていくところを一生懸命に演じて好感が持てる俣野でした。荒事の甲の声の発声が辛そうで、無理に高い声を絞り出そうとして台詞の造形を崩す場面が見えました。全体の基調のトーンをちょっと下げることで高くない声も高く聞かせることも出来るはずですから、そこを今後の課題にして欲しいですね。

(R8・1・8)


〇令和8年1月浅草公会堂:「梶原平三誉石切」・その1

令和8年1月初芝居・浅草公会堂・新春花形歌舞伎を見てきました。若手が一生懸命役に取り組んでいる姿は、いつ見ても気分が良いものです。本稿では染五郎初役の梶原平三景時による「石切梶原」を取り上げます。

歌舞伎での梶原のイメージは、頼朝に義経の悪口を・あることないこと吹き込んで・兄弟仲違いの原因を作った佞人讒者(ねいじんざんしゃ)と云うことで、評判は甚だ良くありません。殆ど唯一「石切梶原」においてのみ、梶原は思慮深い正義の侍として描かれます。ということは、本作での梶原は、「モドリ」の役というほど鮮やかなドンデン返しでないにせよ、「あの悪人梶原がここでは意外や正義の侍なんだ」という軽いサプライズが当初の趣向としてあったに違いありません。「石切梶原」の梶原にとって、「佞人讒者」とは彼が意志的に選び取る未来であり、この未来が「石切梶原」においても常に彼に付きまとう。これが時代物の反復構造です。(詳しくは別稿「梶原景時の負い目」をご覧ください。)

生締めの梶原は刀を振り回してカッコ良く・情理豊かな人物に描かれますから、他の時代物の主役に付き物の悲壮感をあまり感じないと思います。もちろんそれは作品のなかにそうなる理由があるから、そうなってきたわけです。それは大事なことですが、しかし、優美一辺倒梶原では何かが足りません。梶原の背後に付きまとう陰惨な陰を・梶原の負い目を描かねばなりません。これこそ「佞人讒者と誹られたって構わない、俺はこの男(頼朝)に命を賭ける、源氏の再興に命を賭ける」という梶原の実(じつ)なのです。

そこで今回(令和8年1月浅草公会堂)の染五郎初役の梶原ですが、若い染五郎が上記のようなことを作品から感じ取ったかどうかは分かりませんけれど、生締め役の華やかさを持ちつつ、これに梶原の実を程よくバランスした・とても良い出来になりました。十五代目羽左衛門の華やかさと初代吉右衛門の実とを兼ね備えた仁(ニン)と云ったらちょっと褒め過ぎかも知れませんが、石切りを派手な橘屋型(正面を客席に向けて手水鉢を切って・それを飛び越える)でやらせてみたいなあとちょっと不謹慎なことを想像してしまいましたよ。(今回はもちろん播磨屋型なので・客席に背を向けて手水鉢を切りました。) 染五郎は、これまで光源氏のような優男色男系統の役で売り出されて・吉之助はちょっと気の毒に感じていましたが、昨年の光秀(太十)源蔵(寺子屋)も立派な出来でありましたが、ようやく興行も染五郎が骨太い時代物役者の適性を備えていることに気が付いたようです。これからが楽しみです。

もちろん今回は20歳の若者の初役としては良いと云うことですから、まだまだ課題はあります。時代物の大役ゆえに気負いもあるだろうが、台詞が若干張り上げ気味です。もう少し低調子にした方が良いかも知れません。言葉の末尾を引き延ばす風はないけれども、もう少し息を詰めて・言葉を区切る、そうすれば梶原の実がもっとクッキリ浮かび上がると思います。

例えば俣野が二つ胴を試そうと立ち上がったのを梶原が鋭く制止する台詞、特に最後の「近頃もって無礼でござろう」という箇所です。ここでの染五郎の台詞廻しは古典的に収まっていると云えます。さほど悪いものではありませんが、吉之助としては・この最後の台詞は丸く収まるよりも・むしろ破綻させてもらいたいのです。ここでの梶原は必死です。ここで俣野に二つ胴を試させたら六郎太夫は死んでしまいます。六郎太夫を救うために、何としても自分が二つ胴をやらねばならぬのです。そのような梶原の気持ちを生(なま)に出してもらいたいのです。

まあそういう箇所もありはしますが、しかし、決め所の形はきちっと取れて、性根の把握もしっかりした・とても良い梶原でありましたね。(この稿つづく)

(R8・1・5)


〇「古典に取り組む」

昨年(令和7月)12月20日に武蔵野市・吉祥寺シアターで鈴木忠志演出のSCOT公演「世界の果てからこんにちはU」(新装改編版)を見て来ました。SCOTとは、Suzuki Company of Togaの略で、富山県利賀村に拠点を置く劇団です。)本作は、令和3年9月利賀山房での初演の作品です。吉之助は同年12月吉祥寺シアターでの公演を見ましたが、その4年後になる今回(令和7年12月)の公演は「新装改編版」という触れ書きで、再度演出を練り直しての公演でした。

どこをどう直したかは、とりあえず本稿に於いてはどうでも良いことです。本稿で話題にしたいことは、鈴木忠志は同じ作品を何度も何度も繰り返し取り上げて・その度に細部の演出を練り直すと云うことです。鈴木忠志は同様のことを他の作品でも続けてきました。生涯を賭けてその作品と取り組み続けて・最終的な完成を見ることはないと云うことです。「この作品については・すべて語り尽くした」とその時は思っても、再度読み直してみたらまた新たな発見がある、「自分はちっとも読めてなかったなあ」と思わず恥じ入ってしまう、「名作」と呼ばれるものはみんなそんな奥深さを持っているものです。

これについてちょっと昔の発言ですが、鈴木忠志はこんなことを語っています。

『歌舞伎はすごいものだったと思うんだ。「四谷怪談」なんかよくこんなことを考えついたなって。それは集団で実際に劇団をつくってやってみると分かるんですよ。三か月でどういう舞台にしよう、ああしようこうしようって毎日一つずつやっていく。そうすると、あっ、ここで思いついた、こっちで思いついた、衣装はこうだ、照明はこうと、すごい時間がかかるものなんです。だから私のものなんか、「リア王」や「トロイアの女」は十五年もやった。それでようやくこれで考え尽くしたなって。舞台ってそういうものですよ。それを歌舞伎はやった。それはすごいです。私たち現場の実感からみて、一つに十年かかるんです。(中略)だから若い連中に言うのは、「女の一生」もそうだけれども、一生やれるものを持ったということはすごい大切なことなのに、なぜ新作、新作ってすぐ捨てちゃって、新作でないと現代に生きていない気になるんだと。(中略)それから見ると、歌舞伎は本当に羨ましい。だけどあれだけのいろいろな裏方がいて、もっと演出家を入れて議論してやればすごい凝縮したものになるのに、なぜやらないのかという思いは見ていてするんだよ。現場的な実感からすれば、もったいないな、こんな素晴らしい財産があるのに、という感じがします。』(鈴木忠志:対談「現代のなかの歌舞伎」・岩波講座 歌舞伎・文楽 第1巻・1997年9月・岩波書店)

鈴木忠志が指摘する通り、歌舞伎は一つの作品を、何百年も賭けて・何世代も賭けて、様々な試行錯誤を繰り返して、型や演出・細かい仕様を練り上げて来ました。何百年・何世代という・気が遠くなるような長いスパンで、歌舞伎は地道にそれを行って来たのです。そのような「古典」を財産として豊富に持っていることの有難さを歌舞伎役者は先人に感謝せねばなりませんね。

昨年(令和7年)は歌舞伎座で三大丸本歌舞伎上演(3月「忠臣蔵」・9月「菅原」・10月「千本桜」)が行われました。細かいところでの注文は色々あったにせよ、切羽詰まったところに追い込まれると・やっぱり歌舞伎は強いものだなと思わせるところがありましたね。何百年・何世代というスパンから見れば、今現在はそのうちのたった一コマにしか過ぎません。しかし、その一コマに何百年・何世代の長い歳月が裏打ちされていることが感じられる、そのような場面が、時にはあったと思います。(しばしばであったとは言わないが、時にはあった。)そんなところから伝統芸能者としての自覚と「自信」が生まれます。(これは我々観客にとっても同じことだと思うのですけどね。)このような「自信」が今の歌舞伎の若手に一番必要なものだと思います。

(R8・1・1)



 

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