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令和歌舞伎座の「菅原」通し〜筆法伝授

令和7年9月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑」〜筆法伝授(Aプロ・Bプロ)

十代目松本幸四郎(菅丞相)、八代目市川染五郎(武部源蔵)、六代目中村時蔵(戸浪)、四代目中村橋之助(梅王丸)、初代市村橘太郎(左中弁希世)、中村雀右衛門(園生の前) (以上Aプロ)

十代目松本幸四郎(菅丞相)、八代目市川染五郎(武部源蔵)、初代中村壱太郎(戸浪)、中村橋之助(梅王丸)、初代市村橘太郎(左中弁希世)、初代中村萬寿(園生の前) (以上Bプロ)

*Aプロ・十五代目仁左衛門(菅丞相役)休演(21日)のため代役。

*この原稿は完結しました。最新の章はこちら


1)源蔵の悲劇

本稿は令和7年9月歌舞伎座での、「菅原伝授手習鑑」通しの観劇随想です。丸本を眺めると、筆法伝授が序切に位置することに今更ながら気が付いて、ちょっと考え込んでしまいました。と言うのは、「菅原」を通しで見ると・文楽で見てもそう感じますけれど、筆法伝授は切場として十分完結していないように感じるからです。切場であればドラマの円環がそれなりに閉じていなければなりません。まだ加茂堤(序中)の方がそんな感じがします。他方筆法伝授には後ろに筋が続くことを予想させるようなところがあります。通常は道明寺(二段目切)とで・すなわち菅丞相の線で通すことでやっと筋が閉じたような感触になります。もちろんそれも結構ですが、或いは筆法伝授を寺子屋(四段目切)と組み合わせてみるのも面白いかも知れませんね。つまり源蔵−菅丞相の線で通してみる考え方です。本稿ではそのようなことなど考えてみたいと思います。

折口信夫は「手習鑑雑談」のなかで「義理と忠義を振り立ててはいるが、源蔵は根本的に無反省で許し難い人物である」と断じています。折口は例えばこんなことを書いています。

『寺子屋の段を旧精神を以て貫くものと見るのはよいだろう。敢えて弁じようとは思わぬ。封建思想風だという言い方も、少し圧倒的だが、其も認めてよいと思ふ。なぜなら、他は人情中心の戯曲だから問題にはならぬのだが、私はこう言う点が、昔から堪忍ならぬものを覚えて、源蔵の淡い心も認容しかねる書き方だとしているのである。其は、一にも二にも作者、多分出雲の、人間が出来て居ない為の欠陥なので、或る一方から見れば、道義心の感傷的に心に迫って来るのを払いのけたのだとする説があるとしても、其もなり立たぬと思う。(中略)源蔵は其ほど義人的な強い人間に書かれていない唯の常識人である。さすれば、もっと常人的な心で、事を処理すべきであつた。(中略)何にしてもこうした、簡単で不透徹であつた表現を、義理という語で定義してしまったのが、よくない。其は義理ではない。じんぎ(辞宜)と称するもつと低い無頼の徒の持つ交際辞令であった。義理という美名で、無反省に使つた語が、次第に内容を持つて、人生にも及んで来たのは、困ったことである。交際儀礼を今も義理という。そう言ったことが、道徳内容を持つのはよくないのだ。(折口信夫:「手習鑑雑談」・昭和22年10月)

ご存じの通り折口信夫は吉之助が尊敬する師匠ですが、源蔵に関しては、ちょっと別のことを考えてみたいのです。確かに寺子屋だけで源蔵の行為を考えるならば、折口が云いたいことはなるほど理解が出来ます。しかし、筆法伝授の方から寺子屋での源蔵の行為を推し量るならばどうなるでしょうかね?源蔵の違った様相が見えてくるかも知れません。吉之助は、源蔵には自分が忠義の士であると自らを誇る気持ちなど微塵もないと思うのです。「無反省で許し難い」と云う批判に対しても言い訳せず、厳粛に受け止めるでしょう。源蔵はそう云う男なのです。

ところで今回(令和7年9月歌舞伎座)源蔵を初役で勤める当代染五郎が・衣裳を身に着けてスチール撮影に臨んだ時の気持ちを次のように語る「歌舞伎美人」インタビュー記事を読んで、ホウと思いました。

『源蔵は心を鬼にして菅丞相を守りますが、そのために何かを犠牲にしてしまったという複雑な心をもっていて、その心までも感じられるような時間でした。』(八代目市川染五郎:「歌舞伎美人」インタビュー・令和7年8月29日

染五郎はいい感性を持っているナアと感心しました。源蔵の本質をしっかり掴んでいますね。じっくり考えて役作りをしているようで頼もしいことです。源蔵は御主人大事の気持ちが強過ぎて「そのために何かを犠牲にしてしまった」と云うことです。これが源蔵の悲劇なのです。更に筆法伝授を読んで、源蔵の悲劇のことを考えます。(この稿つづく)

(R7・9・28)


2)源蔵にとっての「原罪」

その昔・源蔵は菅家に仕える家来で・書道の弟子でもありました。ところが当家に腰元として仕えていた戸浪と不義を犯してしまいました。源蔵は丞相に勘当され、戸浪と共に館を追われました。このことは源蔵の心に深い悔恨を残しました。源蔵夫婦は芹生の里で寺子屋を開き、地元の子供たちに書道を教えながら失意の日々を送っていました。

一方、丞相は筆法を伝えるべき人物は源蔵以外にいないと考えて、源蔵を館へ呼び出して伝授の一巻を与えました。これで許してくれたのかと思いきや、丞相は勘当を許そうとしません。「伝授は伝授、勘当は勘当」と丞相は云うのです。以下の場面は、その後の源蔵の心境を考える時に非常に重要です。

「ハアありがたや忝ない。筆法御伝授あるからは、御勘当も赦され前に変らぬ御主人様」「ヤア主人とは誰を主人。伝授は伝授、勘当は勘当。格別の沙汰なれば不届きなる汝なれども、能書(のうじょ)なれば捨て置かれず。私の意趣は意趣、筆は筆の道を立つる、道真が心の潔白。叡聞(えいぶん)に達しても、依怙(えこ)とは思し召されまい。希世にも疑はれな。勘当は前の如く、主でなし家来でなし。この以後対面叶はじ」と、鋭き御声源蔵が、肝に焼鉄(やきがね)刺さるゝ心地、「道理を分けての御意なれども、伝授は他へ遊ばされ、勘当御免」と、泣き詫ぶる。

源蔵の心の傷の深さが察せられます。「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と云われた時代の話です。主従関係が何よりも大事とされた時代に主人から勘当を言い渡されれば、それは「人でない」と言われたのと同じことです。丞相は厳しい主人ですねえ。しかし、そこに一片の情がないわけではない。丞相は源蔵の書道の腕前を認め、またその人格も信頼しています。実子菅秀才はまだ幼少である。いずれ書の道を引き継ぐとしても、まずはワンポイント・リリーフとして源蔵に書の道を伝授する、そして源蔵から菅秀才へと渡す、丞相はその使命を源蔵に託したのです。しかし、勘当については許そうとしません。

こんなことを考えてみたいと思いますね。江戸時代に日本全国寺子屋がどのくらいあったでしょうかねえ。平安時代には上流階級の教養であった書道ですが、江戸の世には津々浦々に寺子屋があって・そこで子供たちが読み書きを習ったものでした。当時の日本人が図抜けて識字率が高かったのは、寺子屋教育のおかげでした。天神様(菅原道真・菅丞相)は書道の神様・学問の神様として庶民に尊敬されました。史実として最初に寺子屋を開いたのは誰だか分かりませんけれど、「菅原伝授手習鑑」を見れば、最初に寺子屋を開いたのは、源蔵と云うことです。つまり今日・菅丞相が書道の神様・学問の神様として敬われるようになったのは、主人に勘当を受けて野に下った源蔵のおかげだと云うことになります。

ですから 「菅原」を見る江戸の庶民にとって、寺子屋で源蔵が「若君には替えられぬ」と叫ぶ時、それは源蔵が「神様を殺すことは私には出来ぬ」と叫んでいるのと同じことであるのは自明の理であると思いますね。一度主人の信頼を損ねてしまった源蔵が菅秀才を討つということになれば、これは二度の裏切りである。もちろん罪のない子供(小太郎)を身替りにするのは新たな別の罪を生むことになりますが、源蔵にとっては「神様を殺すことは出来なかった」。ここに源蔵の悲劇的状況があるのです。

殿中で不義を犯したことは源蔵にとっての「原罪」だと云えます。旧約聖書・創世記・第4章では主は兄を殺したカインをエデンの東に追放します。この時カインは「わたしの罪は重すぎて負いきれません。わたしに出会う者はだれであれ、私を殺すでしょう」と主に訴えました。そこで主はカインに出会う者が彼を撃つことがないように、カインに印を付けました。丞相が源蔵に付けた印こそ筆法伝授の一巻です。これがあるから源蔵は艱難辛苦に耐えられます。

但し書きを付けますが、吉之助は寺子屋を聖書の逸話にこじつけたわけではなく、洋の東西を問わず「聖なるものは守らねばならぬ」という共通の思いがあることを云いたいのです。1916年のことですが、米国ワシントン・スクエア・プレーヤーズにより、歌舞伎の「寺子屋」の英訳版「Bushido(武士道)」 が上演されました。この時に演出を担当した伊藤道郎(舞踊家)がアメリカ人の観客の反応を驚きを込めて手記に記しています。

「「忠臣蔵」を見て「何て馬鹿なことをするんだろう 」と言ったアメリカ人が「寺子屋」では泣いた。キャッキャと騒いでいたアメリカ人観客が涙を流してシーンとしてしまった。」

ですから洋の東西を問わず、「通じるものは通じる」のです。筆法伝授の場で丞相から「伝授は伝授、勘当は勘当」と突き放されたことは、源蔵にとってそれほどまでに辛いものでした。同時に丞相から戴いた伝授の一巻は、丞相から源蔵への限りない愛情と信頼の証(あかし)でもあるのです。伝授の一巻を見れば、自分が犯した罪への悔いがますます募る。しかし、そのために罪のない子供を身替りに殺さなければならないとすれば、源蔵の苦しみは如何ばかりであったしょうか。(この稿つづく)

(追記)別稿歌舞伎「寺子屋」から生まれたオペラふたつ」もご参照ください。

(R7・9・30)


3)染五郎の源蔵・幸四郎の丞相

今回(令和7年9月歌舞伎座)の「菅原」通し上演の一番の収穫は、染五郎初役の源蔵であるとして宜しいかと思います。もちろん20歳の若さでの初役ですから・貫禄と云うか量感についてはまだこれからのことです。しかし、源蔵の肚の捉え様は正鵠を射ており・ブレがない。何よりも嬉しかったのは、染五郎の源蔵に骨太い時代物の役どころの可能性が見えたことです。これは見る者をハッとさせるところがあります。源蔵を演じた役者は数多いけれど、筆法伝授と寺子屋の両方を続けて初役で演じた役者は近来珍しいのではないでしょうか。この幸運を染五郎はよく生かしたと思いますね。虚心に役に取り組んで、源蔵の本質をしっかと掴んでいます。

普通に考えれば、寺子屋の場はのどかな芹生の里に邪悪な政治の世界が乗り込んで来る歪(いびつ)な構造であり、悪役を装う松王との対照からも、源蔵はどちらかと云えば写実にというか・世話の方に傾いた方がいくらか役作りがしやすいものだと思います。上演頻度として寺子屋の方が圧倒的に多いですから、普通ならば筆法伝授の源蔵の役作りも世話に傾くものです。吉之助がこれまで見てきた筆法伝授の源蔵も、多くはそんな感じであったと記憶します。この時点で源蔵は勘当されて野に下って既に数年が経過しているのですから、それで別に齟齬はないわけです。

ところが染五郎の源蔵には時代物の役どころとしての骨の太さが見えるのだな。つまり主人菅丞相から勘当を受けたことの深い悔恨と喪失感がそこにはっきり現れる、やはりこれが本来あるべき源蔵の感触だったのだなと、吉之助も何だか教えられた気がしました。染五郎の源蔵であると、丞相に「伝授は伝授、勘当は勘当」と突き放されることの嘆きがよく実感されます。そこの肚をしっかり踏まえた上で、後段・寺子屋へと流れ込んでいくのだから、当然寺子屋の源蔵も良い出来になります。(染五郎の寺子屋の源蔵については寺子屋の稿で取り上げるので、本稿ではここまでにしておきます。)染五郎はよく考えた役作りをしていますね。このまま順調に伸びていけば・スケールが大きい時代物役者になる期待が十分に持てます。

今回の筆法伝授のもう一つの見どころは、幸四郎初役の菅丞相です。これについては道明寺の稿で総括して取り上げるつもりなので・ここでは別視点でちょっと書きますが、二段目切・道明寺での丞相は現人神としての神性を明らかにしており・それが木像の奇跡を引き起こすわけで、丞相役者はその神性の表出に苦心惨憺があるのです。一方序切としての筆法伝授での丞相は、まだその神性を顕わしていません。つまりまだ生身の人間丞相であるのですが、このため筆法伝授と道明寺の丞相の感触に或る種の落差が生じているようです。これは当世の丞相役者である仁左衛門であっても・多少なりともそれを感じてしまうところで、やはり筆法伝授の方が演りやすそうな印象があります。まあ逆に云えばそれほどまでに道明寺の丞相が至難だということなのですが。しかし、筆法伝授の丞相についても、その神性の片鱗を顕わす工夫がないわけでもなかろうと思うのです。それでいくらか落差を埋めることが出来るのではないか。

筆法伝授の幸四郎初役の丞相はなかなかよく頑張っています。そのこと認めた上で申し上げると、やはり筆法伝授と道明寺との感触の落差がまだまだ大きいようですね。幸四郎52歳、菅丞相はこれから20年くらい掛けて練り上げて行くべき大役ですから、今どうだからと云って別にどうってことないですが、じっくり腰を据えて頑張ってもらいたいと思いますね。

(R7・10・1)


 


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