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身替りになる者の論理

〜「新薄雪物語・園部屋敷」

*本稿は別稿「宿命の恋の予感〜新薄雪物語・花見」の続編となっています。


1)身替りになる者の論理

別稿「かぶき的心情と世間・社会」において、かぶき的心情の背後にあるのはアイデンティティーの発露であるということを考察しました。江戸時代の道徳観は武士においては「体面」・「一分」、町民においては「義理」・「私(わたくし)が立つ」と言う形で浸透しました。 浄瑠璃・歌舞伎に見られるドラマのほとんどはかぶき的心情において分析できます。その代表的なものはもちろん身替り物です。

例えば「寺子屋」を例に取れば・松王の身替わりの行為は、松王は名付け親である菅丞相に深い恩義を感じており・「丞相に対する自分の気持ちは誰にも劣るものではない」ことを証明する行為であったと読めます。そこで本稿で考えたいのは若君・菅秀才の身替りになって斬られる小太郎のことです。源蔵の証言によれば「若君菅秀才の御身替わりと言い聞かせたれば(小太郎は)いさぎよく首差し出して・にっこりと笑うて」死にました。このことは身替り物においてとても大事なことを示唆しています。

「寺子屋」は後半の「いろは送り」の若君の身替りになって死んだ息子のことを思って泣く松王夫婦の悲嘆が眼目です。もちろん「寺子屋」のドラマはそのように出来ています。しかし、親の嘆きをあまり強調すると・身替りになった小太郎のことを犠牲者であると見る風が強くなって、「寺子屋」の見方がちょっと変わってくるようです。身替りは封建道徳の最たるものですから ・同じ人間なのにどうして身分の違いだけで・どうして家来が主人の犠牲にならなきゃならないのか・そんなことは理不尽じゃないかと 義憤を感じるということになるのです。現代人ならばそう感じるのも無理もありません。そうなると現代人に封建社会のドラマ「寺子屋」を納得させるために・親の悲嘆を前面に出せねばならぬということになります。最近の歌舞伎の解説本や劇評を見れば・大体この視点だと思いますが、そういう見方であると・「寺子屋」のドラマの線のあちこちが破綻してきます。いちばん大きく影響を受けているのは源蔵の位置付けです。(この点については別稿「寺子屋における並列構造」を 参考にして下さい。)もうひとつは死んだ息子のことを思って泣く松王のことで・子供を身替りにした親の事情がすっ飛んで・親の嘆きばかりがクローズアップされることです。

身替り物としての「寺子屋」を考える時に重要なポイントは、小太郎が「若君菅秀才の御身替わりと言い聞かせたれば(小太郎は)いさぎよく首差し出して・にっこりと笑うて」死んだという点です。身替りは松王夫婦だけの意思ではなく・小太郎の意思でもあったということです。身替り(=犠牲)であることに違いありませんが、「俺は嫌じゃ・死にたくない」という子供を無理やり殺すのと、本人が自発的に身替りとなるのとでは犠牲の意味合いがまったく異なると思います。小太郎が自分の意思で身替りになったということは、「寺子屋」の身替りは松王夫婦と小太郎の共同行為だということであり、彼らはある意味で「同志」だということなのです。「死んだ息子のことを思って泣く松王夫婦」というと・何だか被害者っぽく柔い感じになると思います。「死んだ同志を思って泣く松王夫婦」となればもうちょっと巌として突っ張った感じになると思います。この違いは大きいのです。かぶき的心情において「寺子屋」を考える時にはこの感覚が絶対必要です。

松王夫婦と小太郎が「同志」であるのは「家のアイデンティティー」が親子の共通の課題だからです。現代ならば「菅丞相に恩義があるというのは親父の問題だろう・子供の俺にも生きる権利がある・どうして俺が身替りに死ななければならないんだ」と言うことになるかも知れません。「寺子屋」ではそういう状況はあり得ません。ということは小太郎は自分の意思で身替りになる のです。親子は共同で「家のアイデンティティー」の問題に立ち向かいます。だから小太郎はいさぎよく首差し出して・にっこりと笑うて死ぬのです。

さらに「寺子屋」における松王夫婦と小太郎が「同志」(さらに源蔵夫婦を加えるべきですが)であることの意味を考えます。身替りという行為は圧倒的な軍事力・警察力を持つ強者に対する弱者の捨て身のゲリラ戦法と見ることができます。「寺子屋」の身替りは藤原時平という圧倒的な政治悪に対する・弱者の必死の抵抗です。若君・菅秀才は彼らの最後の拠り所であり、若君が失われれば・抵抗勢力の結束はならぬというところまで追い込まれています。ですから松王一家がそのような戦いのなかに参画する背景にはもちろん「家のアイデンティティー」という 個人的動機がありますが、「菅原伝授手習鑑」という時代物の構図から見ればその身替り行為は反体制的(=反社会的)な意味合いを持ってくるのです。

史実によれば・菅公没後9年に当る天慶2年(939年)・平将門が坂東に兵を挙げ・藤原摂関政下の朝廷を震えあがらせたのですが、「将門記」には将門が八幡大菩薩のご神託で「朕が位を蔭子平将門に授け奉る。その位記は左大臣二位菅原朝臣の霊魂表す者ぞ」と言われたとあります。また将門の本拠地であった岩井の当方にある菅原神社に、菅公の遺児が大宰府からこの地に下って霊を鎮めたとも伝えられます。このことは大宰府で憤死した菅公の遺志をついで藤原摂関政打倒に立ち上がったのが平将門であると見た人が当時もいたことを示しています。そのような背景を踏まえれば「寺子屋」を単なる親子の悲劇に終わらせるわけにはいきません。

「歌舞伎素人講釈」ではかぶき的心情は社会(世間)を個人に敵対すると位置付けるものではないことを申し上げています。江戸期におけるかぶき的心情は社会の視点はあまり強く ありません。したがって「寺子屋」でも階級闘争史観的な側面を強調することは吉之助はあまり良いとは思いませんが、個人が状況のなかに生きる以上・かぶき的心情という個人的な心情のドラマが反社会的な色合いを帯びるのは当然のことではあります。ですから身替り行為は「かぶき的心情」に発する反社会的行為であり・身替りに係わる者たちには積極的な「同志」意識があるということなのです。

2)親たちは豪快に笑うて死んで行く

本稿では「新薄雪物語・園部屋敷(通称「合腹」あるいは「三人笑い」)を考えます。「園部屋敷」がユニークであるのは、身替り物では親が我が子を身替りに立てるパターン(「寺子屋」や「熊谷陣屋」)が普通ですが、「園部屋敷」の場合は子供の罪を背負って・親が身替りになって腹を切って死ぬことです。園部兵衛の息子・左衛門と幸崎伊賀守の娘・薄雪姫は恋仲になりますが、悪人・秋月大膳の企みにより天下調伏の罪を被せられます。それぞれの子供を互いに預けあって詮議することになったふたりの親は、それぞれの考えにより若いふたりを密かに逃して・その申し訳に陰腹を切ります。子供たちのためにふたりの父親は身替りとなったのです。園部兵衛は次のように言います。

「二人を取替へ預つたその夜より、今日までの心苦しさ。笑ひといふものとんと忘れた。伊賀殿もさぞあらん。ア心がかりの子供は落す、かやうに覚悟極めたる今の心安さ。六波羅殿への出仕は直ぐに六道の門出。イザ悦びにひと笑ひ笑ふまいか」

この後園部兵衛夫妻と幸崎伊賀守の壮絶な三人笑いとなりますが・「園部屋敷」の身替りのドラマを考える時、身替り行為とは「かぶき的心情」に発する反社会的行為であり・身替りに係わる者たちに積極的な同志意識があるということを意識しておかねばなりません。

まず園部兵衛・幸崎伊賀守のふたりとも・子供たちが無実であることをよく分かっています。そんな悪事を企む子供でないことは親が一番良く知っています。しかし、無実を証明する手立ては ありません。逆に大膳の悪企みにより天下調伏の状況証拠は揃っています。このままでは子供たちが殺される。大事な跡継ぎが殺されることは「家」が断絶することを意味します。 悪人大膳の権勢は圧倒的であり、この悪に抵抗する術は彼らにはありません。この状況に対してふたりの親が採った選択が、子供たちを密かに逃して隠す・自分たち親がその申し訳に腹を切るというゲリラ作戦・すなわち身替りなのです。

ふたりの親がどうして子供の身替りになって腹を切るという行為に出たか・その理由は、薄雪姫と左衛門の恋のことを考えれば分かります。別稿「宿命の恋の予感」で考察した通り・薄雪姫と左衛門の恋は「宿命の恋」です。その恋がふたりの心のなかに生まれた時から何からワナワナした震えを感じるほどに狂おしい恋です。その恋はどこか反社会性と破滅への衝動を感じさせます。「花見の場」においてその危険な匂いは大膳ら悪の毒虫を引き寄せ・薄雪姫の恋文は彼らの陰謀の格好の材料にされることになりました。それはふたりがまったく無実であるのに理由なく犯人に仕立てられたということではありません。むしろふたりの恋は危険に満ちており・反社会的な匂いを発しています。その意味においてふたりは天下調伏の罪ではないにしても・罪人なのであり、その危険な匂いのゆえにふたりの親たちは言い訳が出来ません。

薄雪姫と左衛門の宿命の恋は周囲にいろいろな影響を及ぼしています。ふたりの恋は他愛もなく・幼い・無垢な恋ということではなく、本人たちの意思とは関係なく・その危険な匂いによって 周囲を巻き込み翻弄します。それが宿命の恋であるからです。ひとつは別稿「宿命の恋の予感」で触れた通り悪人たちに対して影響を与えていますが、花見の場での奴妻平と腰元籬に対してもそうです。彼ら大人の恋はふたりの幼い恋の指南役であるかのように言われますが、ドラマツルギーの上から見ればその逆です。むしろ薄雪姫と左衛門の恋に触発された形で湧き出た春の土筆の如きもの・まあ先触れと考えればよろしいものです。

そしてふたりの親・園部兵衛・幸崎伊賀守もまた薄雪姫と左衛門の恋の危険な反社会的な匂いに感応しています。もちろん園部兵衛も幸崎伊賀守も社会的地位もあり・人生経験もあり・分別のある大人です。しかし、親たちは子供たちの恋がもはや逃れようのないものであることが分かっています。ふたりの恋が宿命の恋であることは誰の目にも明らかです。園部家と幸崎家はもともと仲違いしてきた家同士ですが・親としてはこの際可愛い子供たちの恋を貫かせてやりたいと思ったりもします。宿命の恋はそのような形で両家の不和さえも氷解させます。この点はシェークスピアの悲劇「ロミオとジュリエット」を想起しても良いでしょう。しかし、ロミオとジュリエットの恋がそうであったようにハッピーエンドは簡単に訪れません。状況がそれを許さないのです。

薄雪姫と左衛門の恋が親たちの行動にどういう影響を与えたかは、親がとった身替りという決断を見れば明らかです。身替り行為とは「かぶき的心情」に発する反社会的行為です。子供たちの宿命の恋という反社会的な危険な匂いに対して、ふたりの親は身替りという反社会(=反体制)的行為によって応えたのです。言い換えればそうすることで親と子の間に同志的な関係を作ったと言えます。

「三人笑い」の場面は・子供の身替りとなって陰腹を切った親が笑うというグロテスクな荒唐無稽な設定に見えるかも知れませんが、陰腹を切った親たちと・落ち延びていく子供たちとの間には精神的な同志関係があるのです。あるいは共犯関係と言っても良いものです。親と子供がそのような連帯感で結ばれていると考えれば、ここで園部兵衛・幸崎伊賀守が「イザ悦びにひと笑ひ笑ふまいか」と言って笑うのは大いに納得できることです。これは大悪人秋月大膳に対する反抗であり、そこに反体制的な快感があるのです。親の意地と言っても良いです。ふたりの親は秋月大膳の陰謀から子供たちを守りきった安堵で・「してやったり」と笑うのです。これはかぶき的心情の行為なのです。意地や世間体からお互い反目しあってきた親たちが子供の愛情という真実の人間性に目覚めて・詰まらぬ社会の柵(しがらみ)に縛られていたことの愚かさを悟るということももちろんあります。その場合でもそこに反体制的な要素を意識しなければ「三人笑い」の本当の意味は見えてきません。

陰腹とは腹を切った後・傷口を包帯できつく縛って処置し・出血を抑えることで死期を遅らせるものです。「この首桶に入れられしは預りものを取遁せし代り・親が一命召されよとの・願ひ書」とある通り、子供たちを逃してしまったので・親が切腹してお詫びしますとの申し開きをするために、この後・ふたりは六波羅殿の屋敷に向かいます。「園部屋敷」でドラマは終わるのではなく、父親たちの本当の勝負はこれからなのです。結果から見れば・このふたりの親の命を賭けた大勝負が・用意周到に事を図っていた大膳の野望が綻び始めるきっかけとなるわけです。

思えば「寺子屋」の小太郎は健気にも「にっこりと笑うて」死んだのでした。子供でさえもこの通り。「新薄雪物語」の父親たちならば豪快に笑って死んでいかねばなりません。身替りとは反抗精神の・かぶき的心情の行為なのです。いつか大膳の陰謀が発覚して・子供たちの無実が証明される日が来るに違いない。その日が来れば自分たちの死は報われる。その日を夢見て親たちは心の底から笑うのです。

3)お前たちは自分たちの戦いを続けよ

身替り行為は「かぶき的心情」に発する反社会的行為であり・身替りに係わる者たちに積極的な「同志」意識があるということをさらに考えます。園部・幸崎両家はお互いの子供を預かり・厳しく詮議することを申し付けられています。「園部屋敷の場」では幸崎伊賀守は首桶(なかに左衛門の首が入っていることになっている)を抱えて園部屋敷を訪れます。この場面で思いもかけず左衛門が頬被りして現れるのです。 これを聞いて伊賀守は大声を上げます。

「左衛門は某(それがし)が手にかけ、首はこの首桶に。なんの左衛門が来るものぞ。万一見えたらばそれは狐狸か、必ず寄るまいぞ。ヲゝ参るまじと契約を背きしは、人間ではあるまい。但しは幽霊か。ヤア左衛門の馬鹿幽霊、最後に伊賀がすすめし一句忘れしか、何に迷うてここへ来た。成仏の道を忘れしか。裟姿に名残りが惜しいか。狼狽幽霊早や消えろ。なくなれ帰れ」

どうして左衛門がひょっこりこの場に現れるのでしょうか。これより前の場面で園部兵衛は薄雪姫を逃がして隠します。このことは伊賀守と申し合わせたのではなく・この時点での兵衛独自の決断でした。伊賀守も同じ決断をしていたことが後に明らかになります。これが「園部屋敷・合腹」のドラマです。しかし、天下調伏の罪の疑いのある子供たちを逃せばお上から親にお咎めが来ることは疑いありません。左衛門は伊賀守によって屋敷を出されますが、左衛門はこのことが気がかりです。しかも首桶を持った伊賀守が園部屋敷に向かう。となれば・これは親たちに何か良くないことが起こると感じるのは当然のことです。父親たちが切腹するとまでは思っていないかも知れません。しかし、左衛門は 親の身が心配になって・様子を探りに自宅・つまり園部屋敷に現れます。

この場面での左衛門には相反するふたつの感情があります。ひとつは伊賀守の決断により「一刻も早くどこかへ身を隠し・時節を待て」という指示が出されたのですから、左衛門はすぐさま安全な場所へ飛ばなければならないということです。もうひとつは・さりながら自分たちを逃した後の親たちのことが心配である・これを見捨てて逃げることは子として出来ないということです。 つまり親の言い付けを守れば・親を見捨てることになって親に対する不孝となり、親の身を案じてここに留まるならば・親の言い付けを無視することになり親に対する不忠ということになるのです。 ここに左衛門の引き裂かれる思いがあり、躊躇があります。

この左衛門の躊躇に対して伊賀守は「狼狽幽霊早や消えろ・なくなれ帰れ」と一喝を喰らわせます。大事なことは伊賀守はこの時点で既に陰腹を切っているということです。伊賀守は腹を包帯できつく縛り・まだ絶命はしていませんが、既にこの世の人ではないのです。ですから伊賀守がここで「成仏の道を忘れしか・裟姿に名残りが惜しいか」という台詞を吐くのは・自分が既に死んでいる ことを暗示しています。つまり、この台詞は左衛門を突き放す台詞であると同時に・自分自身を突き放す台詞でもあります。そこに伊賀守の引き裂かれる思いがあるのです。

伊賀守にも相反するふたつの感情があります。ひとつは子供の顔をひと目見たいということです。伊賀守は娘の薄雪姫に会いたいし、左衛門を園部夫婦に会わせてもやりたいのです。しかし、それは叶わぬのです。事態は一刻を争っています。子供たちをすぐさま遠くへ隠す必要があります。伊賀守は陰腹を切っており・伊賀守の予想が正しければ園部兵衛もまた陰腹を切っているはずです。時間は限られています。この後にふたりは六波羅殿の屋敷に行き・子供を逃したことと・その罪により自分たちは命を捨てることを宣言せねばなりません。秋月大膳に対する彼らの戦いの火蓋は既に切って落とされています。未練なことは許されません。ですから伊賀守が「狼狽幽霊早や消えろ・なくなれ帰れ」と左衛門に対して叫ぶのは「お前たちは涙を振り切って・親の死骸を乗り越えて・自分たちの戦いを続けよ」と の熱いメッセージなのです。

歌舞伎では滅多に上演されませんが、「鍛冶屋の場」(正宗の仕事場)では幕切れに左衛門が薄雪を伴って登場します。ふたりはあちこちを逃げ回っていましたが、この場で大膳の陰謀の逃れぬ証拠を ついに掴みます。そして左衛門は六波羅へ訴え出て・親の敵を討つことになります。ですから左衛門は親の遺志を引き継ぎ・戦いを続行し、見事に仇を討ったのです。ところで三島由紀夫が次のような文章を書いています。

『私が同志的結合ということについて日頃考えていることは、自分の同志が目前で死ぬような事態が起こったとしても、その死骸にすがって泣くことではなく、法廷においてさえ、彼は自分の知らない他人であると証言できることにあると思う。それは「非情の連帯」というような精神の緊張を持続することによってのみ可能である。(中略)死が自己の戦術・行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも革命を意識する者にとっては、けだし当然のことである。自らの行動によってもたらされたところの最高の瞬間に、つまり劇的最高潮に、効果的に死が行使できる保証があるならば、それは犬死ではない。』(三島由紀夫:「我が同志感」・昭和45年・本論文は三島自決後の雑誌に掲載された・いわゆる遺稿のひとつです。)

本稿冒頭に「寺子屋」の例を引きました。首実検の場面においてわが子の首に対面した松王が・首にすがって泣いたなら・身替わりは玄蕃にばれておじゃんになり、小太郎の死は無駄になってしまいます。 親の情としてはこの場面で泣くのが当然であっても・「若君菅秀才の首に違いない」(=これは小太郎の首ではないと言うことに他なりません)決然と・冷然と言い放つところに松王の引き裂かれた状況があり・そこに「寺子屋」のドラマがあります。もちろん首実検の場面で 松王役者がどのように親の情を匂わせるかということは演技面での工夫であり・見どころではありますが、それが「寺子屋」の主題なのではありません。松王と小太郎は同志なのです。

伊賀守の場合も同様です。ここで「お前ら死んだ子供のことなど俺はもう知らん」と叫んで非情に突き放すところに、伊賀守(園部兵衛も同様)ら親たちの子供に対する無限の愛情が感じられます。同時に自分たちの思いを子供たちに託して死んでいくのですから・その遺志を引き 継ぐ子供たちに対する無限の信頼と同志的結合があるというべきです。そこに親たちの引き裂かれた状況があり・「園部屋敷」のドラマがあるのです。身替りという行為に積極的な同志意識があるということがお分かりいただけると思います。

(H20・6・16)



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