(TOP)           (戻る)

かぶき的心情と「世間・社会」


1)「自己のアイデンティティー」を貫くということ

別稿「かぶき的心情とは何か」において、仇討ち・殉死・心中という江戸時代に流行した現象には「かぶき的心情」という共通した気質がその背後に潜んでいるということを考察しました。それは「自己のアイデンティティーの主張(自己主張)」のひとつの現れということです。こうした「かぶき的心情」に裏打ちされた江戸時代の道徳観は、武士においては「体面」・「一分」、町民においては「義理」・「私(わたくし)が立つ」と言う形で浸透しました。

こう考えますと、例えば「寺子屋」(菅原伝授手習鑑)において、松王が我が子小太郎を若君菅秀才の身替わりに立てる行為も「かぶき的心情」から読むことが可能であるかも知れません。松王は源蔵夫婦にその心情を告白する際に次のように言っています。

「菅丞相には我性根を見込み給い、何とて松はつれなかろうぞとの御歌を。松はつれない、つれないと世情の口にかかる悔しさ、推量あれ源蔵殿」

これは菅原道真(菅丞相)の有名な「梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松はつれなかるらん」の歌を引いています。松王は、丞相がこの歌で「松王はけっして不人情なのではない」と言ってくれているのに、世間はこの歌を「なぜ松王はこんなに不人情なのだ」と解釈して自分を責めているのだと言って嘆いています。この松王の科白から、松王の身替わりの行為とは「俺は不人情ではない、丞相に対する気持ちは誰にも劣るものではない」ということを証明しようという行為であったという風に読めると思います。「松王は決して不人情ではない」ということは、すなわち「松王はいつか私(丞相)に対してその忠義の心を示してくれる」ということでもあります。その時が今だと松王は感じたのです。

あるいは「熊谷陣屋」(一谷嫩軍記)において、熊谷直実が我が子小次郎を敦盛の身替わりに殺す行為も義経が「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」と謎をかけたのを直実が受けたわけですが、これも藤の方へのご恩返しであると同時に、「義経が自分を見込んだからには、これに応えなければ俺の体面は果たされない」と直実が考えたと理解されます。

松王・直実がこう考えることが当時の江戸の人々には自然のことであったということが「かぶき的心情」において理解されれねばならないと思います。それは「松王が松王である」・「直実が直実である」ことの証(あかし)を自らたてようとする行為であった・つまり「自己のアイデンティティー」を主張する行為であったということです。

松王・直実の行為の場合には、松王・直実個人のアイデンティティーだけでなく、「家のアイデンティティー」の問題も絡んでいます。もし息子の小太郎・小次郎が「それで親父のアイデンティティーは立つかも知れないが、子供のアイデンティティーはどうしてくれるんだ」と言い張ったとしたら芝居にはなりません。そういうことはもちろん有り得ません。息子たちにおいても同じ課題が突きつけられているということです。だから、親子は共同で「家のアイデンティティー」の問題としてこの課題に立ち向かうのです。「寺子屋」・「陣屋」の悲劇はそのように読まねばなりません。単なる「親子の悲劇」ではないのです。

ここでまず問題にしたいのは、「松王・直実は『自己のアイデンティティー』なるものを誰に対して・何に対して証明しようとしているのか」ということです。身替わりをしたということが世間にばれてしまっては意味がない訳ですから、松王・直実の行為は「世間一般」に向けての行為でないことは明らかです。やはり、これは「自分自身に対して、おのれの体面・義理を果たそうとする」という行為であると思われます。その行為における判断基準は自分にあるということです。これが「かぶき的心情」の根本です。

このことは大事なことなので十分に検討していきたいと思います。松王は「世間は自分を不人情だと言って責める」と言って嘆きますが、しかし松王の行為は世間に対する自分の主張・誇示ではありません。「世間は分かってくれなくても良い、俺は俺の信じる道を行く・これが俺だと言える道を行く」ということなのです。明らかに世間の目を意識はしているけれども、世間は松王の行為の対象ではありません。松王が世間に対して「そら見ろ、俺の忠義が分かったか」と叫んだ訳ではありません。ここが重要な点なのです。


2)世間・社会と個人

ルース・ベネディクトはその著書「菊と刀」で「日本の文化は恥の文化である」と分析しました。「これをしなければ、俺は世間から卑怯者と呼ばれてしまう、俺は卑怯者と言われたくない」という恥の意識が彼を行動に駆り立てるというのです。ベネディクトの分析は興味深いと思いますが、歴史的に考えればこれは正しくないと思います。ベネディクトの「恥」の概念では「世間の目」が強く意識されています。ここでは「世間(社会)」は個人に対する対立概念に見なされており、「彼は世間によって縛られ、その行為を強制される」という風に解釈されます。これは「かぶき的心情」を理解していれば、すくなくとも江戸時代前期においてはその発想はないことが理解されましょう。

ルース・ベネディクト:菊と刀 (講談社学術文庫)

森鴎外の小説「阿部一族」では、弥一右衛門は殿の許しを得ないままに殉死を決行します。鴎外の描写では、弥一右衛門は『俺は命が惜しくて生きているのではない、俺をどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさかに言うことができまい、たった今でも死んでよいなら死んで見せる』と思うのですが、日がたつと「阿部はお許しのないのを幸いに生きていると見える」という噂を聞いて「それなら死んでみしょう」ということになるのです。鴎外の描写であると、弥一右衛門は先君に対する気持ちよりも、世間に対して「俺は命は惜しくない」ということを主張(誇示)するために死んだように読めます。これだと弥一右衛門の気持ちが不純になってしまうようで、これで見ると鴎外もまた近代人の目で殉死を読んでいるようにも思われます。

むしろ同じ「阿部一族」で鴎外の取り上げたエピソードの方が当時の武士の気質をよく示しているように思います。非番の小姓が昼寝をしていると相役が帰ってきて、「おれがお供から帰ったに、水も汲んでくれずに寝ておるかい」と枕を蹴った。「なるほど、目がさめておったら水も汲んでやろう、じゃが枕を足蹴にするということがあろうか、このままではすまんぞ」と言って小姓は抜き打ちで相役を斬ってしまいました。この時に小姓が腹を切ろうとしたのを「切腹には及ばぬ」と止めた主人に、小姓は命を懸けて奉公することになります。後に阿部一族を上意討ちする際にこの小姓は主人の楯になって戦死します。この小姓の相方を抜き打ちに斬る行動・主人に対する忠誠は、いかにも当時にありそうな感じがします。こういう「自分の体面・一分」に懸けた直情的で無私な行動こそまさに「かぶき的心情」から発するものだと思います。

弥一右衛門に話を戻しますと、鴎外の描写では弥一右衛門の心情には「恥」の概念が顔を覗かせているようで、結果的に「弥一右衛門は世間に殉死を強制された」ように読めなくもありません。しかし、この事件の時代(寛永18年)においては、やはり弥一右衛門の行動の主体は「自己のアイデンティティーの主張」にあると読むべきだろうと思います。その意味で純粋に「個人的な行動」なのです。(この突出した「個人的行動」こそ幕府が最も危険視したものだということも別稿「かぶき的心情とは何か」で考察しました。)

ところがこの本来は「個人的な行動」であった体面や義理の道徳律が、世間・社会をだんだんと強く意識するにつれて「恥」の概念を生成し始め、逆にこれが個人に行動を縛り・強制するようになっていくのです。これは江戸時代の社会・経済制度の確立と連動して変化していきます。歴史的にみると、江戸時代が政治的にも経済的にもピークであったと言える元禄から享保の時期においては「自己のアイデンティティー」の意識(つまり個人の独立意識)が最も強いように思われます。そして時代を経て、社会・経済が停滞気味になってくにつれて、その意識が形骸化していき、したがって「恥」の概念がそれを補う形で次第に強くなっていくという課程を経ているように思われます。したがってベネディクトの言う「恥」という概念は江戸後期になってから固まったものと考えられます。

元禄から享保の時期という町人文化(特に大坂を中心とした上方において)がピークを極めた時期は、同時に個人の概念(アイデンティティーの意識)がピークに達した時期でありました。そう考えますと近松の作品に「義理が立つ」とか「私が立つ」という言葉が頻出し、町人に心中が賛美され、人形浄瑠璃全盛期の「菅原」・「忠臣蔵」といった作品群で、身替わり・仇討ちといった武士道的行為が町人に礼賛されることも理解されると思います。したがって、この時期の歌舞伎・浄瑠璃作品の場合は、その主題はまずは「状況において自己のアイデンティティーをいかに貫くか」という個人の観点で読まれるべきであり、世間・社会を個人の対立概念として読むべきではないというのが当「歌舞伎素人講釈」の基本的な歴史感覚です。

もう少し時代を下った鶴屋南北や黙阿弥の作品では、個人と世間・社会の関係は少し異なります。世間・社会に対して、個人はその係りをもっと強く意識し、個人はそれに縛られ・強制されて気にしながら生きなければならなくなっていきます。敵討ちを強制されてそこから逃げ出そうとする民谷伊右衛門(「東海道四谷怪談」)はその典型的な例と言えましょう。黙阿弥の登場人物たちにとってその行動はまず世間との係りにおいて決まり、個人が主体的に動くことが少なくなっていきます。

しかし、近松作品や「菅原」・「忠臣蔵」といった全盛期の浄瑠璃作品では「個人の精神はもっと自由である」と私は思います。世間・社会も十分に意識はされているけれども、しかし、それ以上に「個人の存在」がもっと強く意識されていると思います。したがって、これらの作品を読む時においては、封建社会という設定は単なる芝居のプロットに過ぎないと感じます。これを「仇討ち・身替わりは、封建社会が個人に強制する非人間的行為である」と解釈することは、はなはだ現代的解釈ですが、プロットを主題と読み間違えていると言わざるを得ません。

念のため申し上げますが、近松作品や全盛期の浄瑠璃作品を社会との対立関係(社会批判)で読んではいけないと言っているのではありません。しかし、それは個人の「状況への係り合い」を十分に吟味した上での、次の検討事項です。この関係がわかっていないから、松王の悲劇を「封建社会に強制された身替わりの悲劇」だとしか読めない。それだけだとこの芝居の意義を見出せないから「親子の別れ」にこの芝居の意義をこじつけようとするという論理展開をせざるを得ないのです。この形で読む限り、作品は時代の制約から決して解放されることはないでしょう。

このことから、当「歌舞伎素人講釈」をお読みになられている方には既にご理解いただけていると思いますが、当サイトでは、松王も由良之助も直実も、その行動は社会に強制されたものではなく、すべて彼らが主体的に選びとって行動したものと考えています。その意味において彼らは自由であり、我々と同じレベルの人間であると考えます。その視点から現代人たる我々が彼らの行為に感動し・涙する意味を見出したいと考えています。これが当「歌舞伎素人講釈」の芝居の読み方です。

(H13・12・2)

(付記)本当は南北・黙阿弥作品においてさえも登場人物は「それなりに自由」なのですが、この分析に至るためには、まずは近松作品や三大丸本作品を研究していかねばならないでしょう。


 


 

   (TOP)        (戻る)