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「寺子屋」の首実検における並列構造〜時代と世話を考える・その5

〜「菅原伝授手習鑑・寺子屋」


『ひとつの作品はひとつの完全なるものであるが、ふたりの人間からなる作品もまた、ひとつの完全体となりえる。同時代に生きた者たちにとって、最も個別的なものであっても、多くが共通するものなのだ。縦横無尽に張り巡らされているのであり、類似した要素が共に進行する。それを分けようとすれば間違いを犯すことになる。』(ホフマンスタール:記載されなかった「薔薇の騎士」後記・1911年)

○今回は「寺子屋」を考えますが、「寺子屋」は身替わりをテーマとしたドラマです。

「寺子屋」 と言えば、身替わりを主題にした芝居の代表作ですね。しかし、現代において誰それの為に身替わりで死ねなどと言われたら・主人だって家来だってみんな同じ人間で対等じゃないか・ 身替わりなんてそんな理不尽なことがあるかと反発が先に立つと思います。身替わりという行為が善か悪かということを考えていると・現代では「寺子屋」は納得できないということになります。でも、まあ封建時代の古臭い芝居だから仕方ないかというようなことになってしまいますね。とにかく「寺子屋」は身替わりが納得できるかどうか・ここが最大のポイントです。幸い「寺子屋」の場合は、身替わりは絶対だと言える切り札がありますね。

○天神さま・つまり菅丞相のことですね。

その通りです。江戸時代の天神信仰は特別なものがありました。実際、日本全国に「○○天神」と称するお宮さんがいっぱりあるわけで、当時は各地で天神信仰が盛んであったのです。しかし、天神様はその起源が平安時代 の御霊信仰にあるわけですが、天神さまが手習いの神様とされるようになったのは江戸時代のことであるようですね。若君菅秀才は菅丞相の息子・つまり神様の子供ですから、これは守らないわけにはいきません。身替わりは絶対なのです。この大前提を観客に如何に納得させるかが武部源蔵の役割です。源蔵に若君を何としてでも守る覚悟が決まっているかどうか・これで「寺子屋」の印象がガラリと変ります。

○つまり、「寺子屋」では源蔵の役割が大事であるということですね。

「寺子屋」での源蔵の役割は非常に重要ですが、ここで源蔵と松王との関係をちょっと考えてみたいと思います。「寺子屋」での源蔵と松王の関係をどう見ますか。

○「寺子屋」前半では悪役の松王に対して・若君を何としても守ろうとする正義の源蔵ということですかね。

なるほど「寺子屋」前半においては松王と源蔵は善悪対立する関係と見えますね。後に松王はモドリになって・実は身替わりに死んだ小太郎は松王の息子だったことが分かるところが、この芝居のサプライズ となるわけです。これはまったくその通りなのですが、ここではもうひとつ別の見方で松王と源蔵の関係を見てみましょう。

○もうひとつ別の見方とは?

源蔵は松王の意図を代行するという見方です。もちろん源蔵が松王の意図を知るはずもありません。それどころか源蔵は松王こそが敵だと思ってさえいます。しかし、結果としては源蔵は松王が源蔵にして欲しいと 望んだことをしたのです。小太郎を斬って菅秀才の身替わりにしたのですね。つまり、結果として源蔵は知らずして松王の協力者になっていたのです。だから、松王と源蔵との関係を対立構図ではなく・並列構図で読んでみようと言うわけです。

○並列構図で読むことの意味は何でしょうか。

モドリは悪人が善人に立ち返って・その本心を吐露することに核心があるわけですね。その意外性がお芝居のサプライズとなるわけですが、そのサプライズは劇中でそれをしっかり受け止めてくれる人物がいなければ成立しないのです。モドリの告白は、その告白 の意味を最も深く理解してくれる相手・自分の本心を理解して欲しいと彼が強く願う相手に向けて発せられているのです。誰かひとりは自分の心情をしっかり受け止めて欲しい・それでないと自分の行為は浮かばれないし・死んでも死に切れないという思いがあるのです。

○源蔵こそ松王を最も理解してくれる相手であったということですね。

本文にはモドリになった松王の台詞に「丞相にはわが性根を見込み給ひ、『何とて松のつれなからふぞ』との御歌を、『松はつれない、つれない』と世上の口に、かかる悔しさ。推量あれ源蔵殿」とあります。松王のモドリの心情は明らかに源蔵に対して発せられてい ます。源蔵だけは自分の心情を分ってくれると知っているからです。それは・主人菅丞相に対する強い思いです。これこそが松王と源蔵の共通の要素です。源蔵は今は浪々の身ですが、もとは菅丞相の一番弟子 なのですね。

○菅丞相から筆法伝授を受けたほどの身でありながら、禁中で戸浪との恋愛により浪々の身になったということですね。

この点は「熊谷陣屋」での・禁中で相模と恋愛をした熊谷と前歴が似ておりますね。つまり、源蔵は丞相に対する負い目をずっと背負い続けているのです。松王の方はどうでしょうか。

○丞相は三つ子の名付け親ですが、次男である松王は主家を離れ・藤原家に奉公に出るということですね。

当時は長子相続社会ですから、次男以下は他家へ奉公先を求めて家を出るしかなかったのです。だから、次男である松王は名付け親である丞相への恩は強いけれど・奉公した先の主人が たまたま丞相のライバルである時平であったことから、心ならずも悪人側に振り分けられたということです。これが松王の出目に係わる負い目です。

○つまり松王も源蔵も・その事情は違えど丞相に対する負い目があるわけですね。

その通りです。だから、松王はこれと見込んで源蔵宅に小太郎を送り込んだわけです。源蔵なら必ず小太郎を身替わりにしてくれると見込んでのことです。つまり、源蔵は松王の意思を代行したことになります。

○まあ、結果的には代行したことになるんでしょうが、しかし、松王に直々頼まれたわけでもないのに・小太郎を斬っちゃう源蔵にはちょっと引っ掛かるのですが・・・。

そこが難しいところですね。折口信夫でさえ「義理と忠義をふりたててはいるが、源蔵は根本的に無反省で許し難い人物である」(「手習鑑雑談」)と書いているくらいですからねえ。例えば「熊谷陣屋」の場合は小次郎を敦盛公の身替わりに・親である直実が斬りますが、実の親が子を斬るわけですから・身替わりの良し悪しはともかく、まあ、一応責任関係ははっきりしておりますね。

○小太郎は源蔵の子供じゃないですからねえ。

源蔵に子供がいれば・彼は当然そのようにしたことでしょう。しかし、源蔵に適当な子供がいなかったので、松王が小太郎を送り込んだわけです。つまり、ドラマでは本来ならば親である松王自身が小太郎を斬って身替わりとすべきところですが、状況上それもかなわぬので・松王は 代わりに源蔵が小太郎を斬らざるを得ない状況に追い込んで・源蔵に小太郎を斬らせたということです。

○この場合、源蔵のなかに葛藤はあるのでしょか。

「弟子子(でしこ)といへばわが子も同然」「サア、今日に限つて寺入りしたは、あの子が業か、母御の因果か」「報ひはこちが火の車」「追付け廻つて、来ませふ」という戸浪との会話に 源蔵の葛藤が出ていますね。この会話でお分かりの通り、小太郎は源蔵の実子ではありませんが、「弟子子といへばわが子も同然」という関係で・芝居のなかで源蔵の子供と同じ位置に置かれているのです。つまり、源蔵は自分は我が子を斬ったと同然であると感じていると言うことです。

○なるほどそうなると、松王と源蔵は丞相に対して同じように負い目を持ち、小太郎に対しては実の子と寺子との違いはあれど ・同じく親であるということで並列構図に置かれることになるのですね。

この並列構図が分ればモドリの意味が違って見えてくるでしょう。対立構図ならば、悪役松王は本心を告白することで・善人に立ち返り源蔵を驚かせるという後半のサプライズがこの芝居の眼目になる わけです。並列構図ならば、松王は事を成すべく源蔵を計画的に追い込んでいき・それが成就したところで・信頼 した源蔵にその本心を打ち明けるということになるので、むしろ首実検の方が重くなるのです。実はこれはどちらの見方も正しいのです。どちらか片方だけでもいけないのですね。 両方の見方が同時に必要です。

○通常はモドリというと・サプライズに重きが置かれるようですが。

モドリで観客を驚かせることはドラマの趣向と言うべきで・構造上それは仕方ないことなのですけれど、モドリは「あれは実は嘘だったんだよ、騙して悪かったね」というような軽いものではないのですね。それは常に命と引き替えの危険な行為なのです。例えば「 鮓屋」であれば、父弥左衛門の許しを得るために・権太は女房子供を犠牲にし・自らも死なねばなりませんでした。そこまでの代償を支払って初めて得られるサプライズなのです。「寺子屋」の場合も、松王は我が子小太郎を犠牲にしています。だから、逆に言いますとサプライズはその行為の結果に過ぎないのでして、そこに至るまでの主人公の葛藤が深刻に重いものであって初めてサプライズに 本当の意味が出てくる 。

○だから主人公の葛藤を受け止める重い人物が最後に必要になるのですね。

モドリの芝居は常にそうです。モドリになる以前の悪役を装った主人公が騙し・嬲って・怒らせる相手は、実は主人公が自分の真実を一番分ってもらいたいと思う人物 なのです。その人物が主人公が正しい道を歩いていないことを一番怒っています。その人物は主人公が過ちを正さないならば・自分が罰しなければならないと考えるほどに怒っています。ところが、モドリになって最後に分ることは、実は主人公の取った行為は・その人物がまさに正しい道であると信じたことであったのですね。だから彼には主人公の取った行為の意味が・その行為のために払った犠牲の重さが手に取るように分るのです。だから、ある意味で・その人物と主人公は合せ絵のようにぴったり重なるのです。モドリの主人公は常にそのような価値のある人物をその告白のために選ぶわけです。「 鮓屋」の弥左衛門然り、「合邦」の合邦道心然り。

○「寺子屋」の場合も、源蔵が菅丞相のために家来である自分が取るべき行為と考えていたものを・まさに松王が行ったということですね。

核心となるのは丸本での「仮初(かりそめ)ならぬ右大臣の若君、掻き首捻ぢ首にも致されず。暫くは御用捨」と立上るを松王丸、「ヤアその手は喰はぬ。暫しの用捨と隙取らせ、逃げ仕度致してもナ、裏道へは数(す)百人を付け置く、蟻の這ひ出づる所もない。ガまた、生き顔と死に顔は相好が変はるなどと、身代はりの贋首、それもたべぬ。古手(ふるで)な事して後悔すな」と言はれてぐつとせき上げ、「ヤア要らざる馬鹿念。病み呆けた汝が眼玉がでんぐり返り、逆様眼(まなこ)で見様はしらず、紛れもなき菅秀才の首、追付け見せう」「ム、その舌の根の乾かぬ内に、早く討て」という松王と源蔵の 緊迫したやり取りです。

寺子を身替わりに殺すことを躊躇する源蔵に対して、悪役松王ははっきりそうは言ってはいないけれども・「お前の忠義とは何だ、そんな程度のものか、 お前の忠義を見せてみろ」と言う無言の重圧 (プレッシャー)を与えているのです。松王は源蔵に「畜生、俺の忠義がどんなものかお前に見せてやる」という熱い反発を期待しています。 これは源蔵の義憤と言って良いものです。源蔵は松王が丞相に恩ある身なのに敵方で威張っていることを良く知っています。源蔵は松王のことをトンでもない裏切り者だと思っています。そんな奴に「若君を斬れ」と迫られれば・誰でも怒るでしょう。こうして・松王は小太郎を斬らざるを得ない状況に追い込むのです。

○この場面の源蔵の演技は如何ですか。

この場面の松王は押す一方ですから楽かも知れないですね。受ける方の源蔵の方が大変だと思います。 ここで源蔵は怒らねばなりませんが、しかし、それは義憤なのですから・カッカと熱くなっては駄目ですね。源蔵は憤っていても・冷静であるべきです。グッと息を詰めて松王を気で押し返すという感じですかね。

○源蔵が小太郎を斬った後は、松王と源蔵の立場が逆になりますね。

丸本では「武部源蔵白台に、首桶載せてしづしづ出で、目通りにさし置き、「是非に及ばず。菅秀才の御首、討ち奉る。いはゞ太切ない御首、性根を据ゑて、サ松王丸、しつかりと、検分せよ」と、忍びの鍔元くつろげて、『虚と言はゞ切り付けん、実と言はゞ助けん』と堅唾(かたず)を呑んで控へゐる。「ムハヽヽ、なんのこれしきに性根所かハヽヽ。今浄玻璃(じょうはり)の鏡にかけ、鉄札か金札か地獄極楽の境。家来衆、源蔵夫婦を取巻き召され 」となるわけです。今度は源蔵が松王にプレッシャーを掛ける番です。源蔵が見事に斬って見せた(この時点では誰を斬ったのかは明らかではないですが)からには、今度は松王がこれを受けて忠義を見せねばならないということです。

このことを考えれば、先ほどの松王が源蔵にプレッシャーを掛ける場面ですけれど・松王は「お前の忠義とは何だ、お前の忠義を見せろ」と源蔵にプレッシャーを掛けながら・実は自分自身に対してもプレッシャーを掛けているとも見えますね。本来は松王自身がやらねばならないこと(小太郎を斬ること)を源蔵にさせるのですから。松王と源蔵はお互いの心理を探りあいながら・結果的に忠義の応酬をしているわけです。

○首実検の場面での松王の演技はどうなりますか。

偽証をしおおせなければ・息子の死は無駄に帰してしまうのですから、松王は首に対面して涙するというわけにはいきません。「ムハハ、なんのこれしきに性根どころかハハハ」と言う台詞は自分自身を叱咤する台詞に聞こえます。こ この台詞は自分に言い聞かすように低く強く言いたいものです。我が子の首を前にして、「若君菅秀才の首に相違ない、相違ござらぬ、出かした源蔵、よく討った」と松王が言い切るのは、歌舞伎のなかでも最高にバロックな場面だと思います。

○この場面がバロックであるというのはどういうことでしょうか。

ドールスは「バロック精神とは通俗的な表現で分かりやすく言えば、自分が何をしたいのか分からないのである。賛成と反対とを同時に望んでいるのだ」と書いています。相反する思いがそこにあるのです。歌舞伎のドラマは、この相反した状況を主人公に強いるものです。「寺子屋」のこの場面で言えば、松王は本当は我が子の首を前にして泣きたい でしょう。しかし、この場の松王にとってこれは我が子の首ではないのです。そして、この首は菅秀才の首であると偽証する。我が子の死を泣きたい気持ちと・突き放す気持ちとが交錯して、そのどちらもが真実であるという状態が現出するのです。ふたつの心情に引き裂かれている 。そこがバロックなのですね。これが最も典型的な「時代」の表現です。

*エウヘーリー・ドールス:バロック論

○歌舞伎の「寺子屋」の首実検は緊迫した名場面ですね。

現行の型はとても良いのですが、床が「蓋引き開くれば首は小太郎・・」と語っている時に・松王の動作が一致していればいいなあと思いますけどねえ。ここの段取りの工夫が何とかならないものかなあ と、ちょっと思いますけど。まあ、しかし、「出かした源蔵、よく討った」と叫んで決まる松王の形は歌舞伎の入れ事ですが・なかなか時代で良ろしいのではないでしょうか ね。

ひとつ印象に残っているのは初代吉右衛門の松王の演技(昭和25年5月・御園座の映画)です。初代吉右衛門は「出かした源蔵、よく討った」を 他の役者がやるように大きく張り上げないのですよ。やっとこさ声が出ているような・弱々しい絞り出すような声でした。首実検に全精力を使い果たした松王の心情が伝わって来ます。ここは必ずしも威勢良く形を決めれば良いというものではない のかも知れません。

○ところで、歌舞伎のモドリでは底を割るのはいけないとよく言われますが、源蔵が松王の意図を代行すると考えると・これは底を割ることにならないのでしょうか。

首実検で松王が底を割るというのは、首を前にして親の情を出して・メソメソ涙するような演技を指しているのです。逆に言うと、これは現行の歌舞伎の「寺子屋」が感傷的に描かれがちなことの証だと思いますね。しかし、「寺子屋」がかぶき的心情のドラマであることの本質は首実検の場面に こそあるのです。首実検の場がバロックな感情で引き裂かれていることが表出できない松王では意味がないと思います。だから、首実検の場はしっかりやり切らねばな らないのです。首実検の場面で松王が「忠義だ・お前の忠義を見せてみろ」と源蔵に無言の叱咤をして・さらに自分に対してもプレッシャーを掛けていくことは過酷な「時代」の状況を観客に意識させることなのです。

○「忠義の重さ」というのが「寺子屋」の主題なのでしょうか。

まあ、「寺子屋」のドラマが直接的に描いているものはそういうことになるかも知れませんねえ。しかし、それだと封建社会でない現代では「寺子屋」は無用のドラマだと言うことになりかねませんね 。だから、もう少し一般化してみたいと思うのです。源蔵の「せまじきものは宮仕え」という台詞を感傷的な気分で吐かれたものではなく、人間としての存在の生への根本的な反省から来る台詞として見たいと思います。だから、この台詞はそのまま写し絵のように松王の台詞にもなり得るのです 。

(後記)

別稿「源蔵の寺子屋」「せまじきものは宮仕え」「失われた故郷への想い」もご参考にしてください。

(H19・2・4)



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