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近世的な・あまりに近世的な

〜吉之助流「仇討ち論」:その5

*前編:吉之助流「仇討ち論」・その4:女敵討ちを考えるの続きです。


1)赤穂浪士の討ち入りの異端性

赤穂浪士の討ち入りを考えてみると妙なことに気が付きます。江戸時代というと仇討ちを思い出すほどこの時代には仇討ちがいっぱいあったのですが、その大半は私怨によるもので主君のために仇を討ったという例はたったの2件しかないのです。ひとつは赤穂浪士の件であり、もうひとつは享保9年に石見の浜田城主松平周防守の江戸屋敷で起こった事件で、中老のお道という女性が同じく中老の沢野という女性に辱められて自害したのをお道に仕えていた女中お里が復讐したという話です。これは俗に「女忠臣蔵」と呼ばれて、後に浄瑠璃・歌舞伎にもなって「加賀見山旧錦絵」という人気狂言になっているものです。

もともと 中国の「礼記(らいき)」の教えるところでは、子にとって父は天であり・その天を殺した者とともに天を戴くものは孝子ではないということがありました。「礼記」ではこの他にも兄弟や友人の復讐について触れています。このように儒教でも仇討ちは忠孝の大義・美徳とされました。封建社会において主従関係は最も重いとされるものですから、本来は封建社会において「主君の仇を討つ」ことこそ武士道の最高の行為でなければならないはずです。

しかし、武士道の観点からすればもっとも賞賛されるべきはずの主君の怨みを晴らすという行為が、このようにたったの2件しかないのです。もちろん仇討ちの届出は近親者が殺された場合にのみ限られておりました。主君の怨みを晴らすなんてことを届出してもお役所が受け付けるはずもありません。しかし、本当に仇討ちが武士道賛美の産物であるならば、たとえ幕府が禁止をしたとしても主君の怨みを晴らすという行為が赤穂浪士の討ち入り以降にもっともっと続発してもおかしくなかったのです。しかし、あとが続かなかった。このことは逆に言えば、仇討ちの大義名分が忠孝であるということが嘘とまでは言わないまでも・仇討ちの本質ではなかったということをはっきりと示す事実であるのです。

それは 折口信夫が指摘しているように「殺された者の物忌みを 近親者が解いてお祓いをする」というのが日本人の仇討ちの本質であるからです。(別稿・吉之助流仇討ち論・その1・「かぶき的心情と仇討ち」をご参照ください。)そもそも仇討ちというものが、「殺された者の物忌みを身内の者が解いてお祓いをする」というフォークロア的見地からすれば、主君の怨みを家来が晴らすということはそれと似ているように見えるけれども、実はまったく性質が違う行為であると見なければならないのです。

もともと封建主義の主従関係というのは「一所懸命」という言葉に代表されるように、主人から土地の所有を約束される・その代償として命を懸けて主人に奉公をするという・ある種の契約関係でした。逆に言えばその土地の所有が保証されないのならば奉公する理由がないことになります。その時は主人に反することも辞さないというのが土地を介した御家人制度での主従関係です。例えば織田信長が家来明智光秀の近江の領地を取り上げ・まだ手に入らない中国の二国を所領として与える、そのような行為を光秀が主従契約の一方的破棄であると受け取ったとしても不思議ではありません。封建主義の主従関係の本質は、本来は契約に基づくドライな関係であったと言えます。

ところが江戸時代になって・戦乱の世ではなくなり、武士が家の名のもとに固定束縛されてしまうことになると、封建体制は主従関係に新たな意味付けをしなければならなくなります。「親子は一世・夫婦は二世・主従は三世」という概念は、儒教的なイデオロギーのもとに主従関係に重い倫理的意味を持たせようとするものでした。個人である主人に仕えるのではなく・「主家」に仕えるのだという観念になっていきます。

例えば「天下の御意見番」と言われた大久保彦左衛門は、家訓の書である「三河物語」のなかで「只今は御主人様の事忝(かたじけなき)御事は毛頭なし」と書いています。この「御主人様」とは三代将軍家光のことです。彦左衛門は新参の他国の衆ばかり厚遇して・徳川代々に仕えてきた自分たち譜代衆を大事にしてくれない家光を有り難くも何ともないと言っているのです。その一方で彦左衛門は「御主君に対してはよくよく御奉公つかまつれ」とも書いています。この「御主君」というのは家光のことではなくて・代々自分たちが仕えてきた「主家」という意味に使われています。

このように「家の連続性」と「主従関係の連続性」とを結び付けようとする考え方は戦乱のない平和な時代であるからこそ逆にますます重要になってくるのです。あえて言えばそれは「建前としての・概念としての主従関係」であると言っていいものです。そうでもしないと平和な時代に おいては主従関係が維持できないのです。平和な時代において・戦うのが仕事のはずの武士のアイデンティテーを保つことは非常に難しいことです。だからこそ「忠孝」の思想が必要以上に喧伝されることになるのです。明智光秀が主君織田信長を討つといったことは戦国の世にはしばしばあったことなのですが、江戸時代においては光秀のイメージは「逆賊」でなければならないのです。それは安定期に入った封建制がもっとも嫌う行為であったからです。

だから江戸幕府は仇討ちを迷惑な行為だと感じていたにもかかわらず、「礼記」などを引き合いにして仇討ちを忠孝の美徳であるとされることを黙認したのも、封建社会が自らの論理に縛られたようなところが多分にあるわけです。「主君の仇を討つ」という行為は理屈と建前で奨励される 主従関係を旗印にしています。契約関係である主君の仇討ちは、じつはフォークロア的見地からすれば「殺された者の物忌みを近親者が解いてお祓いをする」という日本人古来の心性にそぐわない行為であると言えます。それが「主君の仇を討つ」という行為がほとんど見られない理由ではないかと思うわけです。

むしろ赤穂浪士の討ち入りを「仇討ち」だと考える方がフォークロア的見地からすれば「異端」なのかも知れません。と同時に、こうした赤穂浪士の行為を「仇討ち」であると世間に強引に認めさせてしまったところが、大石内蔵助の真に凄いところなのです。このことは別稿「個人的なる仇討ち」においても触れましたが、本稿では別の視点から赤穂浪士の討ち入りをちょっと考えてみたいと思います。


2)近世的な・あまりに近世的な

荻生徂徠は「四十七士のことを論ず」において次のように書いています。事件の発端は浅野内匠頭が私の恨みから刀を抜いて吉良上野介を殺そうとしたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない。また赤穂浅野家を取り潰ししたのも吉良の仕業ではない。浅野のとった行動は「不義」であり、したがって仇でもない吉良を討ち取った四十七士の行動も「義」とは見なされない。

『四十有七人の者、能くその君の邪志を継ぐと謂うべきなり。義と謂うべけんや』

徂徠は将軍綱吉の側用人であり政治的実権を握っていた柳沢吉保に仕えていました。したがって、徂徠が重んじるのは幕府の「法」です。浅野内匠頭は公儀である幕府によって処刑されたのであるから、浅野の家臣たちが吉良を仇として討ったのは「私」を優先させた不義の行為であるとしたわけです。幕府の見解は、徂徠の考えにほぼ等しいと見ることができます。

これは徂徠が御公儀の立場から赤穂浪士を断じたということだけではなかったように思います。もともと幕府は仇討ちの横行には頭を悩ませていました。仇討ちを法的に認めたというのは、幕府が 仇討ちを奨励したということではないのです。仇討ちの法制化というのは、仇討ちという・本来は「私的心情」 から発する行為をどうにかして規制しようという試みであったのです。幕府の定めた仇討ちのルールは、仇討ちは認めるけれども・それはあくまで「個人的な行為」である・幕府の定めた枠のなかで行なえというものでありました。

ところが、大石内蔵助は吉良家討ち入りの裁断を幕府に委ねてしまいました。これはその行為を「公的な行為」として認知せよという要求を突きつけたも同然です。内蔵助は、自分たちは幕府の御沙汰に異議を唱えたのではない・自分たちの行為はただ「主君の無念を晴らすためのものである」と主張しました。忠孝の論理をバックボーンにしている封建社会にとってみれば、これは痛いところを突かれたことになります。

「葉隠」を著した山本常朝は、泉岳寺に引き上げた四十六人は主君の墓前で直ちに切腹すべきであったと言って、幕府の処分を仰いだ内蔵助を批判しています。「葉隠」において常朝は、「武士道というは死ぬことと見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。」と書いていますからその考えはもっともだと言えます。赤穂浪士の討ち入りの行為は本来、かぶき的心情から発した直情的な行為であるはずですから、やはり主君の墓前で切腹する方が自然なように思いますし、その「無私な心」が世間に与える衝撃ははるかに大きかったように思われます。

内蔵助が主君の墓前で切腹をせず・その裁断を幕府に仰いだのは、幕府に対して浅野家取り潰しへの抗議を込めたとも考えられますが、同時に近世人である 内蔵助が仇討ちという行為に近世的な意味付けを見ていたとも考えられるかも知れません。つまり、封建社会の最高徳目である忠孝思想の至高の実現が「主君の無念を晴らすこと」であると、内蔵助はどうも素直に考えていたように思われるのです。

別稿「かぶき的心情と仇討ち」で江戸時代においては、仇討ちにおけるお祓いの問題・すなわち遺された者の穢れの問題が、個の意識の発露として・非常に感情的/心情的なレベルにおいて捉えられ増幅されていることを指摘しました。かぶき的心情の根源は、個人の「一分(いちぶん)がたつ」・「意地が立つ」という感情です。仇を討つということと個人の意地を立てるということが重なってくるのです。内蔵助の場合にも、自分が武士であることの「一分・意地」を討ち入りという行為に賭けたのであろうと考えられます。そのかぶき的心情と「亡君の無念を晴らす」という大義が重なっているのです。

内蔵助ら赤穂浪士の行為が「かぶき的心情」から発する純粋に個人的な行為であることは明らかなのでした。だから幕府は本当はこれを徒党を組んで騒動を起こした罪として「法的」に冷静に処理したかったのです。それならば赤穂浪士は斬罪にならなければなりません。理で裁断しようとするならば当然そうなるでしょう。しかし、忠孝思想をバックボーンにした封建制度では「主君の仇を討つ・・・」という内蔵助らの行為を明確に否定し去ることができなかったのです。したがって、幕府は赤穂浪士の討ち入りが「仇討ちであるか否か」を論議するのではなく、浪士たちを切腹させることで処理してしまったわけです。

つまり幕府の処断によって結果的に赤穂浪士の行為は全く新しい時代の仇討ちとして事実上認知されてしまったことになります。つまり 赤穂浪士の討ち入りはお祓いというフォークロア的なバックボーンを持つものではなくて・封建論理のバックボーンを持った「近世的な・あまりに近世的な仇討ち」であるということになります。そして、これを内蔵助は世間に認知させてしまったわけです。

しかし、封建論理のバックボーンを持った仇討ちはあとが続きませんでした。主君の仇を討つという仇討ちは赤穂浪士の討ち入り以降続かなかったのです。それは先に書いたように「主君の仇を討つ」という行為が、じつはフォークロア的見地からすれば「殺された者の物忌みを近親者が解いてお祓いをする」という日本人古来の心性にそぐわないからなのです。ドライな契約関係である忠孝をバックボーンにした仇討ちは、いわば「観念の仇討ち」です。観念の仇討ちでは日本人の血はなかなか熱くたぎらないのです。日本人にとっての仇討ちは情から来るものでなければならないのです。

もし内蔵助が討ち入りの後、主君の墓前で全員切腹していたとすれば、その衝撃度は計り知れなかったでしょう。それならば彼らの行為は情から来る行為として完結したものになったはずです。幕府があれほど禁止をしても殉死が後を絶たなかったように、同様の事件が続発したかも知れません。しかし、それを内蔵助自身が意図したかどうかまでは分かりませんが、内蔵助が主君の墓前で切腹せず・幕府に届け出て・「赤穂浪士の行為は義挙か暴挙か・忠か不忠か」が喧々諤々と議論されたなかで、彼らの行為は観念的なものに昇華していったのです。ここから仇討ちは新たな局面に入ったのです。内蔵助の討ち入りは「近世的な・あまりに近世的な観念の仇討ち」となったのです。

真山青果の「元禄忠臣蔵」をご覧になれば 観念の仇討ちとは何であるかがお分かりになるでしょう。ここで展開される登場人物たちの議論は、「自分たちはいかに生きるべきか・武士が武士であることを如何に貫くか・義とは何か・自分たちはどう美しく死ぬか」ということです。もちろん青果の「元禄忠臣蔵」は近代的人間理解からの産物で、実際の赤穂浪士の考えていたこととはちょっと異なるかも知れません。しかし、間違いなく青果が赤穂浪士の行為から抽出した観念の原型がそこに存在するのです。それはすべて内蔵助が自分たちの行為を幕府に届け出て裁断を仰いだことから始まっているのです。

それではどうして江戸時代の民衆はあれほどに赤穂浪士の討ち入りに熱狂し・その行為を賞賛し・彼らを愛したのでしょう。江戸の民衆はいわば無責任な傍観者的な立場ですから、当事者である幕府とは全く逆の受け取り方をしたのです。江戸の民衆は赤穂浪士の討ち入りを「かぶき的心情」によって受け取り・熱くウェットに・フォークロア的見地から読み直したのです。

逆にそのことから、武士が平和な時代において武士になりきることが困難であるという現実が浮き彫りにされてきます。赤穂浪士は「理想の武士・武士らしい武士」として喧伝されていきます。「理想の 武士・・」ということは現実にはそんな武士はほとんどいないということなのです。観念としての武士・観念としての忠孝がひとり歩きしていきます。それがまた、あれほどにかぶき者を嫌った江戸幕府によって「忠孝のシンボル」として利用されていくという、そういう過程になります。そう考えることで「赤穂浪士の討ち入り」という・本来はまったく異端であるはずの仇討ちが、逆にもっとも江戸時代の典型的な仇討ちであるかのように喧伝されたことの理由が見えて きます。


3)作り変えられた「忠臣蔵」

このように情に発するフォークロア的バックボーンを持つ仇討ちと・観念から発する忠義の仇討ちは、かぶき的心情を介して重なり合っているのです。このふたつは完全にぴったりと合わさっているわけではありません。そこに微妙なズレがあるのです。そして、そのズレがある局面では感情を冷まし・ある場面では感情を増幅させるような不思議な作用をするのです。江戸の民衆は赤穂浪士の討ち入りをかぶき的心情において読み直し、芝居や講談・読本などにおいて熱くウェットに作り変えられることになります。

まず第一に、討ち入り後の幕府に届出をして後、細川家ほか四家にお預けになり切腹の御沙汰が下るまでの赤穂浪士がほとんど描かれなくなっていきます。江戸の庶民にとって、仇討ちは吉良家から泉岳寺への引き上げ・主君墓前での焼香までで終らなければならないのです。情に発する仇討ちにとって、これ以降の場面は不要・というより邪魔だと言うべきなのでしょう。こうすることで仇討ちは情の行為として完結するのです。

九代目団十郎が吉良邸討ち入りの後・細川家に預けられた大石内蔵助ほか義士たちの心境を描いた「芳しや義士の誉」という芝居(福地桜痴作)を上演した時の評判は甚だしく悪いものでありました。劇評家の三木竹二などは、「忠臣蔵は討ち入りまでが面白いのだ。敵討ちがすんだ後のことを芝居にするなんて団十郎は馬鹿だ」と言うようなことまで言っています。これが一般大衆の感覚であったのです。現代の「忠臣蔵」通し上演においても討ち入り(十一段目)の場面は欠かせません。九段目を省いても(!)討ち入りの場面は欠かせないのです。

第二に、赤穂浪士たちが受け継ぐべき「主君の無念」なるものがその通り受け継ぐに値する無念でなければなりません。だから、主君浅野内匠頭は吉良上野介に謂(いわ)れのない・理不尽な虐めを受けて激昂して殿中で抜刀をしたという正当な・同情すべき理由がなくてはなりません。こうして吉良上野介が実際以上に悪役に仕立てられていきます。吉良が悪役であってこそ家来が主君の無念を継いで仇討ちをする大義が出来るというものです。いかに吉良が浅野を虐めたか・いかに吉良が悪い奴か、さまざまな作り話がされていきます。吉良の虐めをネチネチと描いてくれないと家来が仇討ちする理由が立たないのです。

第三に、赤穂浪士たちが志を遂げるまで如何に辛酸を舐めてきたか・苦難に耐えてきたかをじっくりと描かなければなりません。これは演劇的に言えば一種のやつしであり、そこに予祝性があるのです。(別稿「 今日の檻縷(つづれ)は明日の錦(にしき)」をご参照ください。)こうして赤穂浪士の討ち入りは 「分離・移行・合体」という3つの段階を含む・仇討ちのパターンにはめて描かれるのです。

第四に、無念の思いで死んでいく者(主人)の心情がその意志を継いで仇討ちに発つ者(家来)に熱く伝えられなければなりません。親を殺された子供の気持ちということならば構造はストレートで読みやすいのですが、内蔵助の場合は内匠頭の家来であって親族ではありません。だから、しっかりと内匠頭は内蔵助にその無念を訴え・仇討ちを指示しておく必要があります。「仮名手本忠臣蔵」の四段目を見てみます。丸本では、判官は苦しい息の下で

「定めて仔細聞いたであろ。エエ、無念、口惜しいやィ」と語り、さらに「由良助、この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ。」と言い残して判官は息絶えます。さらに丸本は、「由良助にじり寄り、刀取り上げ押し戴き、血に染まる切っ先を打守り、拳(こぶし)を握り、無念の涙はらはら。判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り、さてこそ末世に大星が忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくと知られけり」

と描くのです。(注:この部分は歌舞伎ではカットされ、判官の死の直後ではなく門外の場面において演じられます。)このように丸本で見れば、主君判官は家来由良助に「自分の無念を晴らせ・仇討ちをせよ」とはっきりと申し渡しをしているのです。演劇的に言えば、この四段目の儀式によって由良助は仇討ちに発つ資格のある者として任ぜられることになります。ここで大事なことは由良助がいきなり主君の無念を継ぐと自ら任ずるわけではないということです。由良助が「主君の仇を討つ」ということの正当性を立てるために面倒でも論理的手続きが必要になります。契約のもとに成立する主従関係だからこそ、主君を仇を討つという行為がフォークロア的な情の仇討ちにはぴったりと合致しないからこそ、こうした手続きが必要になると浄瑠璃作者は考えたわけです。こういう観念的な部分が「仮名手本忠臣蔵」丸本にはまだ残っているのです。

ところが、この仇討ち伝達の儀式も歌舞伎では後になるほどぼかされて、あからさまに演じられないようになっていきます。現行の歌舞伎では判官は「九寸五分は汝へ形見・・」とは言いますが、あとは口をパクパクさせるだけで明確に仇討ちを指示するわけではありません。由良助も黙って自分の胸を叩いて見せますが、ここで仇討ちをする意志を明確にするわけでないし、そもそも由良助が九寸五分を持って無念の涙を流す場面が判官切腹直後の場面では演じられなくなります。

こういうぼかしはもちろん観客が判官と由良助の関係と・その結果を承知しているから成り立つわけですが、こうした歌舞伎での改変は「忠臣蔵」の観念的な部分を消し去ろうという意図から来るものに違いありません。歌舞伎での由良助は主君の無念に涙して・自ら仇討ちを決意せねばならないのです。このように、さらに「忠臣蔵」は情によって熱く読み込まれていくことになるわけです。

(H16・2・15)

*続編:吉之助流「仇討ち論」:その6:返り討ちを考えるもお読みください。





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