(TOP)           (戻る)

「今日の檻縷(つづれ)は明日の錦(にしき)」

〜吉之助流「仇討ち論」・その3

*別稿:吉之助流「仇討ち論」・その2:曽我狂言の「やつし」と「予祝性」の続きです。


1)貴種流離譚について

じつは吉之助は子供の頃は考古学者になりたいと思っていたことがありました。ギリシア神話の伝えることをそのまま素直に信じてトロイアの遺跡を掘り出した考古学者ハインリッヒ・シュリーマンのお話などはワクワクしました。そのシュリーマンが子供の頃から愛読したのが、紀元前750年頃の古代ギリシアの詩人ホメーロスの大叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」の物語です。

トロイア戦争は十年にわたりましたが、この戦いは智将オデュッセウスの考え出した木馬の策略によってついに陥落します。「オデュッセイア」の物語は故郷イタケーに向けて帰還の船出の帰途、十年間も各地を転々として放浪を余儀なくされたオデュッセウスの物語です。巨人の島や魔女の島などに漂着して・家来たちも船も失って、ついには乞食同然になってしまいます。その間に故郷では、すでに彼は死んだものと思われ、彼の妻ペネローペィアは財産目当ての求婚者に悩まされていました。ペネローペィアは時間を引き延ばしていましたが、求婚を断り切れなくなったペネローペィアは、宴の最中に、夫の強弓を持ち出し、それを引くことが出来た者と結婚すると告げます。しかし、それを引ける者はいません。そこに乞食姿のオデュッセウスが現れて、その弓を持ち、やすやすと引いて、無法な求婚者たちを次々に打ち倒しました。こうしてオデュッセウスは、再びイタケーの王としてペネローペィアと共に一生を過ごしました。

じつは叙事詩「オデュッセイア」とそっくりの歌舞伎があるのです。それは近松門左衛門の「百合若大臣野守鏡」(生徳元年・1711年 竹本座初演)という時代浄瑠璃です。

平城(へいぜい)天皇の御代、蒙古(もくり)の大軍が新羅百済を攻め揺るがしたため、百合若大臣は蒙古征伐を命じられます。百合若の率いる日本軍は見事に蒙古を撃退しますが、その帰路、船が嵐に流されてある島に漂着します。そこで睡魔に襲われて寝入ってしまった百合若は、別府兄弟の企みによって島に置き去りにされてしまいます。(本当は途中の部分が本作の核心でありますが中略)その七年後、人々はすでに百合若は死んだものと思っています。百合若の許婚立花姫はずっと百合若の帰りを待ち続けていましたが、別府兄弟の兄雲足の求婚に悩まされています。そして宇佐八幡において通し矢の催しが開かれ、百人力の弓を引いた者に立花姫を与える・それがない時は別府雲足の御台となるということになってしまいます。そこにみすぼらしく苔むして苔丸と呼ばれるひとりの乞食が現れます。乞食は恐れ気もなく弓を引きます。この乞食こそが百合若なのでした。喜びに走り寄る立花姫。そして、百合若は別府兄弟を弓で射殺します。こうして再び百合若の時代がやってくるのです。

(注:上記は昭和56年8月国立小劇場で上演された武智鉄二脚本演出による歌舞伎「百合若大臣野守鏡」での筋に拠っており、近松全集での丸本(人形浄瑠璃本)とは相違が 多少あります。武智 脚本は百合若伝説に関連する幸若などの先行芸能・ホーメロスの「オデュッセイア」との関連を意識して再構成された優れた脚本です。)

百合若伝説の類似については坪内逍遥が「百合若伝説の本源」(明治39年1月)において叙事詩「オデュッセイア」との関連を指摘して、オデュッセ ウス=英語名ユリシーズとの連想から、近松の「百合若大臣」は叙事詩「オデュッセイア」の翻案であろうと論じました。しかし、これについてはすぐ反論も出されました。その後の研究では壱岐に伝わる百合若説経・豊後に伝わる百合若伝説など類似のものが各地に多数残っていることが分かってきましたから、いまは百合若伝説は日本古来のオリジナルの伝承であろうとされてます。むしろ、古代のシルクロードを介した東西の伝承の拡がりが想像できるかも知れません。

この叙事詩「オデュッセイア」も近松の「百合若大臣野守鏡」も貴種流離譚(きしゅりゅうりたん )と呼ばれるものです。貴種流離譚とは高貴な生まれの人物が何かの事情で本来在るべき土地を離れ、各地を流れさまよい・散々の苦労をした果てについに元の土地に戻って昔のあるべき姿に戻ってめでたしめでたし・・という物語のことを言います。その高貴な人物が在るべき土地を離れなければならない理由は様々です。自らの意思でその地を離れる場合もあるし、謀略によって追い出される・あるいはそこに居られなくなって自ら立ち去る場合もあります、あるいはふとした運命の悪戯ということもあるかも知れません。「百合若大臣」は典型的な貴種流離譚ですが、説経で有名な 「しんとく丸」・「さんせう太夫」・「小栗判官」なども貴種流離譚ですし・歌舞伎にも同様なパターンが多くあります。同様な物語は洋の東西を問わずいくらでも見出すことができます。

貴種流離譚はその主人公が単に高貴な人物であればそれでいいということではありません。その人物が縁もゆかりもない遠い土地で散々の苦労をすることが貴種流離譚に不可欠の要件です。そして、生き延びるために艱難辛苦を乗り越えた果てに、ついに生まれた土地に戻ってもとの高貴な地位を取り戻すことができるわけです。

また、高貴な人物が各地を流浪する物語は「通過儀礼」の物語であると見ることもできます。通過儀礼というのは人類学者のアーノルド・ファン・ゲネップが提唱した概念で、人生の節目に訪れる危機を安全に通過するための儀式のことを言います。これを無事に通過すれば、その人物にふさわしい新しい身分や社会的役割が与えられるのです。

ゲネップは通過儀礼を、分離・移行・合体という3つの段階に分けています。まず、これまで所属していた身分や社会から離れて・そのしがらみを断ち切る儀礼(分離)、次に来るべき社会に帰属するための準備をしての試練・あるいは自分にふさわしい場所を探し出すための儀礼(移行)、そして、新しい身分や社会に入るための儀礼(合体)という段階を経ます。

通過儀礼は、人生の新しい段階に入るためには古いものを捨て去る(あるいは否定する)ことが必要であるという意味を象徴的に提示しています。それを捨てることは名残惜しい・辛い別れなのかも知れませんが、それでも別れは人が成長していくためには必ず経験しなければならない試練なのです。それが分離・移行・合体という3つの段階に示されます。あるいは主人公の死・そして試練・復活という段階を経ることもあります。

通過儀礼においては特にその「移行・試練」の持つ意味が非常に大きいのです。貴種流離譚を見ると、その離れた土地においてはその人物が高貴であることの理由(生まれであるとか・肩書きであるとか)は全く役に立ちません。主人公は自分の資質と努力によってのみ、自らに降りかかった試練・窮地をどうにかしのぐことができるのです。自分の資質と努力ということが大事なところです。結局はそこにこそ彼が「高貴な者」であることの証があるのです。ある意味で彼は選ばれるべき人物なのであって、選ばれるために彼は「試練」を与えられるのだとも言えます。


2)仇討ち物と予祝性

読者のみなさんは本稿をここまで読んで来て、貴種流離譚が「仇討ち」と何の関係があるのだろうかと疑問に思われたことと思います。もちろん「百合若大臣」は仇討ち物ではありません。百合若が最後の場面で許婚の立花姫に言い寄る別府雲足を殺すのは女敵討ちの一種かも知れませんが、しかし、やはり「百合若大臣」を仇討ち物だと言うわけにはいきません。じつは冒頭に貴種流離譚を例に引きましたのは、仇討ち物において討ッ手が仇の行き先を追い求めて各地を流浪しながら苦労するその姿がまさに貴種流離譚のパターンそのものであると思われるからです。

歌舞伎の仇討ち物に共通して見られる点は、仇討ちのプロセス、すなわち討っ手の艱難辛苦・受難・そして本懐の賛美高揚こそが仇討ち狂言の面白さのすべてだと言うことです。山あり谷ありの仇討ちの旅のなかで、いかに主人公が苦悩するか・いかに主人公が災難に合いその窮地を切り抜けるかが仇討ち物の面白さなのです。それを見ながら観客はハラハラドキドキして、主人公の苦難のドラマを見て涙します。このことがまさに貴種流離譚を思わせます。

もちろん仇討ち物の主人公は高貴な人物であるとは限りません。たいていの場合の仇討ちの主人公は武士ですが、町民もいますし・農民もいます。時には主人公が女性の場合さえあります。しかし、主人公がどういう立場の人物であったとしても、仇討ちの旅に出立して・故郷を離れてしまえばただの人なのです。いわば身分を捨ててしまった・非人のようなものです。民俗学では村からの放逐・追放などのことを論じることがあります。つまり村八分のことです。その人間に不徳の行為があった時、共同生活を荒らしたなどと言うと、村八分などと言って周りの人たちが交際をしない・あるいは村を追い出してしまいます。仇討ち物の主人公は、仇討ちをせねばならない事態に追い込まれて・やむなく現在の身分を捨てて故郷を去るのです。これは世間がそうさせるとも言えるし、自らの意志でそうするとも言えます。これは通過儀礼で言うところの「分離」の儀礼なのです。

行方の知れない仇を追い求める旅は楽ではありません。風雪に打たれ・病苦に耐え・山野を巡らなければなりません。それに路銀の工面も必要になります。資金が尽きれば、渡り中間(ちゅうげん)や物売り・日雇人足になったりして仇の行方を探さねばなりません。ひどい時には乞食になって仇を追い求めます。これは通過儀礼で言うところの「移行・試練」の儀礼です。

そして晴れの大願成就・仇討ちの場面において、主人公は晴れて故郷に錦を飾ることができるのです。彼は栄光を手にして・故郷においてそれにふさわしい地位を用意されるでありましょう。(実際の仇討ちでは必ずしもそうではなかったようですが。)つまり、主人公は来るべき社会においてその身分を認知されることになります。すなわち、これは通過儀礼で言うところの「合体」の儀礼です。

すなわち、仇討ち物は討っ手の艱難辛苦・受難がその眼目ではありますが、作品の構造は分離・移行・合体という・貴種流離譚の基本パターンを踏まえているのです。主人公にとって仇討ちとは自分に降りかかってきた試練だと言えます。そして、いつ果てるとも知れない試練の先には栄光がつねに予測されているのです。

貴種流離譚の場合は、その栄光は主人公の高貴な出目によって・それが必然のものとして最初から予想されています。高貴な人物というのは、その生まれながらにして備わった高貴な資質によって・その身から自然に湧き出るような気品・特質によっていずれはその試練を脱して・新しい身分を得るであろうということが神によって約束されているというか期待されているのです。彼らはあらかじめ選ばれるべき人物としてあるとも言えます。

実際の仇討ちの場合にはそうではありません。討っ手の多くは身分においても・能力においてもごくありふれた市井の人間たちです。 挫折したり・返り討ちに合う可能性もあります。しかし、栄光が予測されていることは実際の仇討ちについてもそう言えると思います。想像を絶する長期間の苦難の旅のなかで討っ手の気力を何が維持させるのでしょうか。それは来るべき大願成就の時の栄光にほかならないでしょう。その時には名誉は回復され、その人物の一分・意地は立つということになります。それが果たされる時はいつのことかは分かりません。しかしいつかはその時は来るであろう、そう信じるからこそ・討っ手はその気力を維持できるのです。つまり、そこに「予祝性」があるのです。

別稿「曽我狂言のやつしと予祝性」において、長州藩・毛利家で二百五十年以上も続いたという新年の秘密の儀式のことに触れました。「徳川家征伐の準備いよいよ整いましてございまする。いざや出陣のご命令を」・「いや、今年はまだその時機にあらず」という君主と家臣の対話の儀式は慶応3年(1867年)に長州藩が倒幕の中心になった結果を知っているから如何にもそれらしく思いますが、この儀式が始まった時にはもちろん大願成就のアテなどあったものではなかったでしょう。しかし、こういうことも言えます。もしかしたら形骸化した儀式に最後の方はなっていたかも知れませんが、それでも「いつかは徳川を倒してやる・・」という儀式を二百五十年以上も続けたからこそ、長州藩はついに「選ばれた」のだとも言えます。

そこに「予祝性」があるならば、たとえボロを纏っていたとしても心は高貴であると言えましょう。非人討ち物として有名な「敵討檻縷錦(かたきうちつづれのにしき)」には、「今日の檻縷(つづれ)は明日の錦(にしき)」という言葉が出て来ます。その志があればこそ、仇討ちの討っ手は高貴な人であると言えるのです。だとすれば仇討ち物を貴種流離譚のバリエーションであると見ることができると思います。いわば仇討ち物というのは、貴人ではない・民間人レベルの流離譚なのではありますまいか。


3)仇討ち物と「やつし」

さらに、仇討ち物と貴種流離譚はその「やつし」の趣向においても共通しています。「やつし」というのは、高貴な人が何かの理由で落ちぶれて・みすぼらしい様子をしていること を言います。歌舞伎のやつしの演技では、もとは高貴な身分ですから、そこから自然と滲み出る上品で柔らかな仕草の落差がやつしの面白さになっています。

やつしの代表的な役は「廓文章」の藤屋伊左衛門です。歌舞伎での本来の「やつし」というのは、伊左衛門のような富豪のボンボンが家を追い出されて、紙衣姿で編み笠の哀れな姿を見せるものです。伊左衛門は学問・遊芸の素養はあっても体力や腕力などは持ち合わせていません。しかし、お育ちはいいから人は良くて鷹揚で、だから哀れな姿のなかにも育ちの良さが自然と表れるのです。

これが和事の本来の「やつし」の芸なのですが、「やつし」ではその境遇の哀れさ・その落差を強調します。貴種流離譚にも仇討ち物の・その「移行・試練」の段階において艱難辛苦する主人公の姿がそのまま「やつし」の趣向に重なるわけです。

例えば貴種流離譚である「百合若大臣野守鏡」において百合若が体中に苔むして苔丸と呼ばれるようなみすぼらしい乞食の姿で登場するのは「やつし」であると言えます。百合若の元の若々しい英雄的なイメージとその乞食姿の落差が激しいほど、その面白さが出ます。それは主人公がいかに苦労してきたか・苦難に見舞われたか・その哀れを視覚的に見せるものだからです。

また、仇討ち物にも「やつし」の趣向があります。討っ手がその本来の身分を捨てて、渡り中間(ちゅうげん)や物売り・日雇人足、ひどい時には乞食の姿になって仇の行方を追い求めます。仇討ち旅の過程でその変わり果てた姿・艱難辛苦のなかで 翻弄される姿はまさに「やつし」そのものなのです。実際、赤穂浪士などは米屋・小豆屋・小間物屋など様々な町人姿に身を変えて江戸の町に潜伏していました。また、大石内蔵助の茶屋遊びなども「伊左衛門の廓通いのやつし」そのものではありませんか。

つまり、仇討ち物に見られる「やつし」というのは、主人公が本来の出目・身分を離れて、その志を内に秘めつつ・さまざまな難題やあわやという危機にさらされながら・その苦労や試練を、視覚的に見せるものなのです。その視覚的落差が激しければ激しいほど哀れが効くのです。

さらにこの発想を突き詰めていくと、主人公がその本質を隠して・その身を別の姿(仮の姿)に変えることさえも広義の「やつし」であると考えることができます。例えば 「助六由縁江戸桜」において曽我五郎時致が助六に身を変えて江戸の吉原に潜入し友切丸という刀の詮議をしているという設定も、すいぶん突飛な発想ですが、よく考えてみればこれも「やつし」なのです。「やつし」の必要がないのならば、主人公は堂々と俺は曽我五郎だと名乗って刀の詮議をすればよいのです。助六は何か理由があって・身分・本名を隠して仮の姿で行動をしているわけで、そこのところが「やつし」になるのです。

このパターンが出来てしまえば、あとは主人公の名前・設定を取り変えて・最後に実は彼らは曽我兄弟でした・彼らは仇の詮議のためにその身分本名を隠していたのです、としてしまえばどんな狂言でも出来てしまうわけです。だから「助六」も「梅の由兵衛」もすべて曽我狂言であるということになってそれでいいのです。それらは曽我兄弟の「やつし」であるからです。だから、例えば「助六」や「梅の由兵衛」のような全然曽我と関係ないような狂言が曽我狂言だというのは、曽我狂言の本質が形骸化したものなのだろうと吉之助も考えていたことがありますが、じつはそれは間違いなのです。仇討ち狂言が持つ「やつし」の本質がそうしたバリエーションを生むと考えるべきです。そして、その「やつし」の向こうに予祝性があるのです。

「盟三五大切」大詰において、人殺しの源五兵衛が塩冶浪士・不破数右衛門の人格に戻って仇討ちに出立する時に今の観客はそこに割り切れない断層を感じるでありましょうが、しかし、ここにも「予祝性」があるのです。(別稿「こりゃかうなうては叶うまい」「今日もまたそのようになりしかな」をご参照ください。)源五兵衛は数右衛門の「やつし」の姿です。突然にして登場する塩 冶浪士たちの登場によって主人公は本来の姿に引き戻されます。ここでは塩冶浪士の仇討ちの成功が予感されています。だから、初演当時(文政8年・1825)の観客はこの結末を見て・筋が落ち着くべきところに落ち着いたと安堵感を感じたはずです。この感じ方はこの作品を見た時の現代の観客の感じ方とまったく違うかも知れません。しかし、本作が貴種流離譚・仇討ち物のパターンを踏まえていることが分かれば、このことは理解されるでしょう。

歌舞伎の「やつし」の芸は傾城買・廓通いで見せる上方の和事から始まりました。しかし、「やつし」は主人公の境遇の哀れさ・その落差を表現するものですから、その芸がさらに応用されて・貴種流離譚や仇討ち物にも適用されていったわけです。こうして歌舞伎は仇討ち物という厖大なレパートリーの金脈を探り当てたことになります。

(H16・1・18)

*続編:吉之助流「仇討ち論」・その4:女敵討ちを考えるもお読みください。


 

 

   (TOP)          (戻る)