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曽我狂言の「やつし」と「予祝性」

〜吉之助流「仇討ち論」・その2

*別稿:吉之助流「仇討ち論」:その1かぶき的心情と仇討ちの続きです。


1)毛利家の儀式

毛利家は元就の最晩年期においては、中国地方の西半分四国・九州の一部を支配下に置いて、その版図は当時としては全国で最大の大名でありました。しかし、関が原の戦い(慶長5年・1600年)で負けて、結局 、毛利家は周防・長門の二カ国に押し込められてしまうことになります。大々名が膨れ上がった家臣団をそのまま維持したまま、狭い領土に押込められてしまえば、家存続の苦労は並大抵のものではなかったでしょう。その後、毛利家では毎年正月1日の夜明けに奇妙な儀式が行なわれていたということです。

それは萩城大奥において新年の挨拶を終えた後、家老が進み出て「徳川家征伐の準備いよいよ整いましてございまする。いざや出陣のご命令を」と当主に問い掛けます、すると、しばしの沈黙の後、当主は「いや、今年はまだその時機にあらず。隠忍自重し時を待ち武道に励むように」と答えるというものだったそうです。毛利家ではこの儀式を密かに二百五十年続けていたということです。

この儀式は当主と家臣の「対面」の儀式なのですが、非常に興味深いものがあります。まずひとつは、関が原の敗北の後・西国の雄であった毛利家が徳川家にひれ伏さなければならなかった屈辱をつねに思い返して・それをバネにして家存続の危機を乗り越えようとしてきたということです。そしてもうひとつは、来るべき打倒徳川の「大願成就」がその儀式のなかで予期されているということです。

「予祝性」・そこに大願成就が予期されているということは、結果として二百五十年後に毛利家(長州藩)が島津家(薩摩藩)と共に倒幕の中心となった(慶応3年・1867年が大政奉還)からこそ言えることじゃないのと仰るかも知れません。が、そうではありません。それは「いつかは徳川を倒してやる・いつのことかは分からないが・そのことを考えれば目出度い・その目出度きことを思って今は耐える」という考えから来るものだと思います。宿願が成ることは目出度い、その時を思うからこそ・絶え難きことも耐えることができるのではないでしょうか。だからこそ、それが正月の目出度き儀式にもなるのです。


2)曽我狂言は5月狂言であった

ところで、江戸歌舞伎の最初の曽我狂言は明暦元年(1655)8月山村座において上演された「曽我十番切」だと言われています。その脚本も配役も今ではまったく分かりませんが、「戯場年表」には、

「舞台へ甲冑鎧の出立にて十四五人居並び立廻りなどせしかば、見物大いに驚き、芝居の面白き事を知りて見物日々大入りをなし三十日余の興行せしといふ」

とありますから、当時としてはこれは大変に斬新な舞台であったのでしょう。これは出雲のお国が京都でかぶき踊りをしたという慶長8年(160 3・関が原の戦いの年)からすると52年後ということです。つまり、女歌舞伎が禁止され・さらに若衆歌舞伎が禁止されて、野郎歌舞伎が始まった・その直後という時期に当ります。

曽我狂言というと歌舞伎では正月狂言だというイメージがありますが、それはもうちょっと後になってからのことです。創成期の江戸では曽我狂言はむしろ5月狂言として定着していました。どうしてかと言うと曽我兄弟が富士の裾野で行なわれた征夷大将軍源頼朝の催す大巻狩りにおいて仇敵工藤祐経を討ったのが建久4年(1193)5月28日のことであったからです。つまり、曽我兄弟の追善あるいは祭礼を舞台で行なおうとするものであったのです。

創成期の江戸歌舞伎では曽我祭というのを毎年行ないました。曽我祭というのは楽屋において曽我兄弟の祭礼を執り行い・酒宴を催して祝ったものだそうです。その始まりについて「歌舞妓年代記」には宝暦3年の項に、「春狂言6月まで大入大当(中略)この年より五月曽我祭はじまる」とあります。この年の正月中村座の初春狂言は「男伊達初買曽我」でした。この狂言が6月まで上演が続く大当りで、それで区切りの良い5月28日の兄弟の忌日に内輪で大当りのお祝いを行なったもののようです。

6月というのは年の半ばです。6月の興行が終ればあとは夏狂言ですが、主だった役者は夏休みに入ってしまいます。あとはありきたりの出し物を出して、11月の顔見世を迎えるだけです。つまり、6月興行を迎えることができれば、その年度の興行はほぼ終ったことになります。つまり、曽我兄弟の討ち入りの5月28日を無事に迎えることが興行の目処をつけることになり、曽我兄弟がいわば大入御礼の神様的存在になっていったのでしょう。

そういうわけで曽我祭というのはもともと楽屋の内輪のお祝いであったのですが、やがて曽我祭は楽屋だけのことではなくなって、舞台で役者が揃って着飾って、大おどり・にはか狂言・物まね・芸づくしなどを行なうようにもなっていきました。このようなことから、次第に曽我祭が舞台の上の5月狂言として定着していくのです。曽我祭が狂言として大切に定着するのは寛政6年5月都座での「花菖蒲文禄そが」の切狂言であったそうで、同時に不思議なことですが、この年から曽我祭が消滅しています。(「歌舞妓年代記」・寛政6年の項・「この年より曽我祭なし」)つまり、歌舞伎の興行における曽我狂言の位置付けが確立した時に、楽屋の内輪のお祭りであった曽我祭の役割は終ったということなのです。

曽我狂言を5月狂言とすることには、民俗学的にも意味がありました。5月28日の兄弟の討ち入りと・田植えの時期が重なっていることです。「曽我物語」は討ち入りの当夜は大雨であったと伝えています。また、この時期の雨は曽我十郎の恋人・大磯の虎の涙雨だとも言われたもので した。(別稿「曽我の雨〜曽我兄弟をめぐる女たち」をご参照ください。)5月の曽我狂言は田植えの時期の恵みの雨を祈願して・その年の豊作を予祝するものにもなってい たわけです。


3)初春狂言としての「対面」

話が変わりますが、 江戸城には対面の間というのがあったそうです。対面の間においてお正月に徳川将軍の諸国の大名との謁見が行なわれたのです。それは表面上は将軍に対して祝言を献上する儀式 なのですが、同時に将軍の側から見れば大名の服従を確認する儀式でもありました。郡司正勝先生は、この江戸城での対面の儀式を庶民でも悪所でもやってみようという「もどき」こそが「曽我の対面」ではなかったかと述べておられます。

後に江戸歌舞伎において曽我狂言は初春狂言として定着することになるわけですが、じつは江戸歌舞伎にはもうひとつの対面がありました。歌舞伎十八番のひとつにもなっている「暫」がそうです。芝居の正月とも言われた・11月の顔見世狂言のなかで「暫」は「曽我の対面」と同じように重要な祭祀的な役割を持っているのです。役名はその時々でいろいろと替わりますが、これは青隈取りの公卿悪と・赤面の暫の若衆との対面なのです。去る歳の冬将軍の公卿悪と・来る歳の十八歳の日の出の若者との対面はすなわち交代劇である・そして初春に行なわれる「曽我の対面」は翌年の春を迎えて重陽の式をなす「再度の対面」であったと郡司先生は指摘しています。新年の儀式とは古い魂を送り出し、新しい魂を迎え入れる儀式なのです。(郡司正勝:「対面の予祝性」・季刊雑誌「歌舞伎」第39号・昭和53年)

曽我兄弟は御霊として昔から江戸の庶民には親しい存在でありました。御霊というのは初春にはまず鎮撫しておかなければならない存在であって、そうしておけば御代安泰を約束してくれる存在でもありま した。新しい年の替わりに当って・将軍の対面に習って「曽我の対面」を行なう・それが祝いにもなり・その年の大入りを願うことにもなったのです。このようなことが曽我狂言が最終的に初春狂言に落ち着いていく背景にあるようです。やがて、初春狂言としての曽我狂言は筋はべつに曽我と関係なくてもよくて・都合のいい所で「じつは曽我であった」と言えばそれで曽我狂言ということになるという所まで変化していきます。

このように曽我狂言が江戸歌舞伎に取り上げられて・曽我祭を経てやがて5月狂言となり・さらにそれが正月狂言となって定着していくわけです。ある意味では江戸庶民の信仰であった曽我信仰の土俗性は次第に失われて、さらに大入祈願の神様として権威化され・格上げされたということなのでしょう。そうやって歌舞伎興行のなかで儀式化して・形式化していきます。


4)「やつし」の趣向

さらに話は展開します。江戸の将軍の面前において平伏している大名の心のなかはどうであったでしょうか。屈服させられた先祖の屈辱と怨念を胸に秘めながら・新年の祝言を述べた大名も大勢いたでありましょうか。いつか見ておれ・この屈辱を晴らしてやると心のなかで思っていたでありましょうか。郡司先生は次のように書いています。

『対面所における祝言性は、おそらく有史以前から流れがあり、門毎に訪れてくる末社の神の、外来の神の権力に屈服・服従して・こびる姿を「めでたし」と見た視野があって、そこに「やつし」の本来の姿があったかも知れない。対面の曽我兄弟が何らかの姿、ことに遊芸人にやつしていろいろに見せる対面の姿の変化こそは、この一幕の眼目であった。「曽我の対面」は「暫のやつしの対面」でもあったのである。「再度の対面」とはこの「やつしの対面」の謂であり、これで対面の儀式は完結することになる。』(前掲書)

曽我狂言というのは一見すると曽我と全然関係ないようなのが多いですが、それが「じつは曽我であった」ということになります。それが「趣向」なのですが、それは関係ないものを無理に曽我にこじ付けるという無茶苦茶なものなのではなくて、それ自体が「やつし」の趣向であったのです。曽我兄弟が艱難辛苦を舐めながらも・さまざまな姿を変えながらも仇敵を追い求める「やつし」の姿のなかに、やがて宿願を果たすことの「予祝性」が秘められているのです。

歌舞伎の「曽我の対面」は曽我兄弟がその場で工藤祐経に襲い掛かって討ってしまわないから「対面」なのです。兄弟は仇敵をその場で討てるけれどわざと討たないのです。そして、後日に再会を約してその時に は必ず討つのです。ある意味では怨念のエネルギーは その時に向けて蓄積されて・より高められたとも言えます。「今日のところは生かしておいてやる、おのれ、今に見ておれ」というように。そして兄弟は来るべき宿願の成就を確信します。そこに予祝性があるのです。だから曽我狂言は初春狂言になるのだと考えるべきでしょう。

「徳川家征伐の準備いよいよ整いましてございまする。いざや出陣のご命令を」・「いや、今年はまだその時機にあらず。」という毛利家の新年の対面の儀式もまったく同じなのです。そこに「やつし」と「予祝」の思想があるのです。いまは大願を胸に秘めて徳川に平伏してやる、そうやって自らの体内にエネルギーをじっくりと蓄積して高めていくのです。いつかは分からないが・いつかは時節が来るであろう・その時こそは大願成就の時である・その時を思えば今の苦しいことも耐えられる・ならば目出度いのです。

(H16・1・4)

*続編:吉之助流「仇討ち論」・その3・「今日の檻縷(つづれ)は明日の錦(にしき)」もお読みください。


 

 

 

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