天王寺の西〜日想観の奇跡の成就
〜「摂州合邦辻」
1)「弱法師」の原風景
鎌倉末期に描かれた「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」には、その当時の大坂・天王寺の風景が描かれています。それを見ると、西門は今は石造りになっていますが、当時は赤く塗られた木の鳥居であったことが分かります。鳥居の横には掘っ立て小屋があって、そこには施しをする 大勢の人々の姿があります。また車輪をつけた背の低い小屋(車小屋)がいくつも並んでいます。この頃から天王寺には施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていたものと思われます。 天王寺・あるいは熊野は、そのように病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でありました。
天王寺には、特に彼岸の中日に「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が集まってきたものでした。「日想観」と言いますのは、天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っている、という信仰から来たもので す。そのために人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝んだのです。まず夕日をじっと眺めて、目を閉じてもその像が消えないようにして、その夕日の沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべます。だから太陽が真西に沈む彼岸の中日が一番良いとされていました。
昔は大坂湾の入り江はずっと奥地にまで入り込んでいて、天王寺の西門から海がほど近かったそうです。人々は海面を真っ赤に染めて沈んでいく夕日を見ながら神秘的な感動にひたったものなのでしょう。 吉之助も天王寺にわざわざ出かけて西門からの夕日を眺めてみたことがあります。今は西門から もちろん海など見えませんし雰囲気も まるで違っていますが、この天王寺の境内でかつて寺を参拝する人たち・乞食・病人と・それに施しをする人々とが雑踏に入り混じり、一体どのような光景を呈していたのであろうかということを思いました。
三島由紀夫は昭和42年にインドのベナレスに行った時の思い出をこう回想しています。聖ガンジス河のほとりで居並び水浴びをする癩病の乞食たちを見て、 「あんな恐ろしいものを見たことはなかった、すべての文化があそこから、あのドロドロとした、あれをリファインすると文化になっていくというその大元を見てしまったような気がして、こんな素をみたらたいへんだという感じがした」と語っています。 (対談「文学は空虚か」昭和45年)
そのような風景がかつての天王寺の境内でも見られたに違いありません。その風景は謡曲「弱法師」(観世元雅作)の原風景なのですが、その舞台ははるかに洗練 されたものになってしまっています。それは眼前の聖と汚穢の混合物のなかから素手でつかみ出されたものです。それが強烈な文化意志によってスッキリと洗い上げられて、 余分な汚れはみんな削ぎ落とされて、このような聖澄な能の舞台芸術に 仕上がっていったのです。(これについては別稿「三島由紀夫の歌舞伎観」をご参照ください。)しかし、その洗い上げの過程のはるかな道のりもちょっと考えてみる必要がありそうです。
その日想観のもっとも見事な昇華が謡曲「弱法師」に見られます。「弱法師」もまた説経「しんとく丸」の系譜を引いた作品です。「弱法師」は 説経の秘蹟・復活譚のドロドロした部分は捨て去ってしまって、その上澄みだけをすくい取ったような作品です。夕日に向かって手を合わせる盲目の俊徳丸に見えるはずのない難波の海の景色がありありと見えてくるシーンは感動的です。
人々に混じって日想観をするうちに、俊徳丸はしだいに気分が高揚してきます。目が見えていた頃に見慣れていた難波の海を心に思い浮かべて、ものを見るのは心で見るのだと、夕日を観想するうちに俊徳丸の眼前に不思議な光景が現れるのです。
「住吉の松の暇より眺むれば、月落ちかかる、淡路島山と、眺めしは月影の、今は入日や落ちかかるらん、日想観なれば曇りも波の、淡路絵島、須磨明石、紀の海までも見えたり見えたり、満目青山(ばんぼくせいざん)は心にあり、おう、見るぞとよ見るぞとよ」
この時、俊徳丸は自分の身に奇跡が起こって神通力を得たと感じたのではないでしょうか。 家を追われ・病魔に冒された俊徳丸が、日想観のなかで得た宗教的法悦です。しかしその法悦は長くは続きません。」ふらふらと歩き始めた俊徳丸は人にぶつかり・突き飛ばされ、たちまち現実に引き戻されます。俊徳丸は深く恥じて「今よりはさらに狂わじ」と肩を落とすのでした。
「弱法師」が観客に慰め・静かな感動を感じさせますのは、追放した息子を捜し求める父・高安左衛門が俊徳丸と再会して・息子を家に連れ帰る結末があるからでしょう。この結末が無ければ、観客は突き放されたような運命の 絶対の厳しさだけが心に残ったことでしょう。この結末によって、俊徳丸だけでなく、観客もまた救われるのです。しかし、この結末は作者の優しさというよりは、日想観の奇跡のなせるものという風に解したいと 吉之助は思います。それでこそ「弱法師」は説経「しんとく丸」の系譜であります。
2)日想観の奇跡
「合邦辻」が「弱法師」と同じく・説経「しんとく丸」の系譜を引いた作品であることは歌舞伎の本にはどれにも書いてあることです。それでは説経「しんとく丸」の根本教義とも言うべき日想観の片鱗が・謡曲「弱法師」にも通じる日想観の法悦が歌舞伎の「合邦庵室」のどこかに見られるのでしょうか。「合邦庵室」だけ見ていると、日想観ということはあまり浮かんでこないのではないでしょうか。それでは、どこに日想観の思想が反映されているのでしょうか。
残念なことに、こういうことは歌舞伎の本ではあまり論じられていないと思います。むしろその興味は説経のもうひとつの系統である「愛護の若」(つまり、継母が義理の息子に恋をするという趣向)の方に向いてしまっています。しかし、「合邦辻」の日想観の思想との関連は十分に検討されなければならないことだと思います。それをしなければ「合邦辻」は説経「しんとく丸」の系譜であることを主張できずに終わるでありましょう。
「合邦辻」下の巻「万代池」の場は、歌舞伎ではほとんど上演されませんが、これに続く「合邦庵室」を考える意味でも重要だと思います。「万代池」は天王寺の境内にあり、つまり、それは謡曲「弱法師」の舞台でもあります。 「万代池」が舞台である以上、観客は「弱法師」の世界の再現をここに求めるでしょう。しかし、その期待は見事に裏切られます。吉之助が「万代池」を重要だと考えるのは、むしろこの場が「弱法師」のような完成した世界に達していないからです。ここで「完成していない」というのはネガティブな意味で言っているのではもちろんありません。それはその次の場である「合邦庵室」に引き継がれて、そこで完成されるように設計されているのです。
「万代池」の場において、俊徳丸は夕暮れになって境内の菰(こも)垂れの小屋・つまり非人たちの寝泊りする小屋から出てきます。
「はや夕暮れも近づかん、今日ぞ彼岸の日想観、目は見えずとも拝さんと、小屋の菰垂れ押し上げて、西に向かいて音(ね)をぞ鳴く、心を阿字(あじ)の門に入り、合掌してぞおはします」
まさにこのシーンは「弱法師」の名場面の再現のようです。しかし夕日は俊徳丸に救いをもたらしません。その場に俊徳丸の許婚・浅香姫が登場して、姫は俊徳丸をただの乞食と思い込んで俊徳丸の行方を尋ねます。俊徳丸は業病で目が見えないのですが、その声で浅香姫と気付きます。しかし、その変わり果てた姿を恥じて名乗ることができません。そして、俊徳丸は「もしわが妻と名乗る者来らば、身を万代が池に沈んで死せしと伝えてたべ」と言い残して西国三十三ヶ所の旅に出たと嘘をついて寂しく去ります。
ここには「弱法師」の日想観の法悦も、最後に父親に再開して家に一緒に帰るというハッピーエンドもありません。説経「しんとく丸」でのしんとく丸の許婚・乙姫(=浅香姫に相当する)との再開も奇跡をもたらしません。ここには救い もなく、俊徳丸は改めて孤独と絶望のなかに置き去りにされてしまうのです。
観客に日想観の奇跡の再現を期待させながら、歌舞伎の「万代池」はついにその再現をしないままに終わります。それならば「万代池」は「弱法師」のパロディーなのでありましょうか。 この場は合邦道心が地車の上に閻魔大王の頭部を乗せて勧進をつのり、群集の前で道化たお踊りを踊ったりする場面があったりして、どうも軽い印象が付きまといます。恐らくそのように「万代池」を見なして・出来損ないの・質の低い「弱法師」だとしか見ていないから、「万代池」の場は歌舞伎で上演されないのでしょう。
この「万代池」はこれに続く「合邦庵室」とセットで考えるべきだと思います。セットで考えないと、「合邦庵室」の意味も見えてこないように思います。「万代池」で完結しないままに残された奇跡が「合邦庵室」において起きるからです。 非常に重苦しい・ドロドロとした雰囲気のなかで芝居は進行していきますが、「合邦庵室」は「万代池」において成されなかった日想観の奇跡の成就を目指して展開していくのです。
「合邦庵室」において、俊徳丸は玉手御前の血潮を受けた盃を押し戴き、一気に飲み干します。すると不思議や、俊徳丸の両目は開いて昔の花の姿に忽ち戻ったのでした。その俊徳丸の姿を見て、玉手御前は苦痛に顔を歪めながらも片頬に笑みを浮かべて息絶え ます。
これはたんに血潮が引き起こす不思議ではありません。 「血の奇跡」などと考えてしまうと何だか呪術的な・ブラックマジック的な奇跡を想像してしまいますがそうではありません。これは、玉手御前の自らを犠牲にして「愛する者」を守り抜こうとする菩薩の慈悲の心が引き起こす奇跡なのです。間違いなく民衆仏教的な信仰の心から来ているものです。(このことは別稿「哀れみていたわるという声」において考察しました。)これは日想観の奇跡の確かな成就であると思います。
なぜならば、合邦庵室というのは「合邦が辻」、つまり天王寺の西門の先に位置するからです。弥陀の奇跡の成就は、天王寺の西方においてなされるということなのです。
*折口信夫:「玉手御前の恋」(折口信夫全集 第18巻 藝能史篇2 (中公文庫 )に収録。)