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三島由紀夫没後50年記念企画

三島由紀夫:短編「サーカス」と「伽羅先代萩」

*三島由紀夫は昭和45年(1970)11月25日没。


1)七代目宗十郎のこと

三島由紀夫が初めて歌舞伎を見たのは、学習院中等科一年(13歳)の時であったそうです。演目は祖母と母に連れて行ってもらった昭和13年(1938年)10月歌舞伎座での「仮名手本忠臣蔵」通しでした。配役は、十五代目羽左衛門の由良之助・勘平、六代目友右衛門の師直、十二代目仁左衛門の顔世御前・お軽などでした。少年三島は花道近くの桟敷席からこの芝居を見ました。

大序が始まり花道から不思議な人が出て来ました。それは十二代目仁左衛門扮する顔世御前でした。傍から見るともう皺くちゃ顔で、これが忠臣蔵という大事件の原因になる美人とはとても想像も出来ない。それが、いきなり声を出すので少年三島はびっくりして、よく男でこんな声が出るもんだと、ただただ呆気にとられて見ていたそうです。この時、三島は、

「歌舞伎には、なんともいえず不思議な味がある。くさやの干物みたいな、非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味があると子供心に感じた。」(「国立劇場俳優養成所での特別講義」、昭和45年7月3日)

と後年語っています。それから昭和25年ごろまでの約十年間、三島は歌舞伎を「一生懸命に」見たそうです。後年出版された「芝居日記(平岡公威劇評集)」を見ると、三島はこの頃、歌舞伎を毎月のように見ており、歌舞伎座だけでなく、本所の寿劇場・渋谷劇場などの小芝居にまで通って、感想をノートに几帳面に記しています。

少年時代の三島が特に好んだ役者は、七代目澤村宗十郎(明治8年・1875〜昭和24年・1949)でした。ずいぶん通っぽい好みだなあと驚きます。宗十郎は、草双紙のような古風な芸風をもった役者でした。顔が長くて背が低い肉体的な特徴がねっとりと艶のある芸風を生み出し、現代の観客の好みからすると、時代遅れで大袈裟な痴呆的な演技と批判されかねないところもあったのですが、そんなところが宗十郎の大きな魅力でした。戦後はその芸風が他に求められない古風な味わいがあるとして、「宗十郎歌舞伎」と呼ばれて珍重されました。当たり役は「矢口渡」のお舟、梅の由兵衛、「野崎村」のお光、「毛谷村」のお園、「吉田屋」の伊左衛門など。

写真上は、七代目宗十郎の当たり役のひとつ・「神霊矢口渡」のお舟。

ところで後年の三島が六代目歌右衛門を贔屓にしたことはよく知られています。三島は歌右衛門のために「地獄変」・「鰯売恋曳網」など歌舞伎脚本を5本も書きました。三島が歌右衛門の芸風を好む理由は、吉之助にもよく分かります。歌右衛門は戦後の歌舞伎が女形を必要としなくなるかも知れないという空気を感知し・それに鋭く反応して、「わたしが女形じゃなくなったら、わたしじゃなくなるんだから」という危機意識のなかで自らの芸を先鋭化させていく過程をたどりました。時代の空気に鋭く反応する若き作家の感性が、歌右衛門の芸の在り方に魅せられたのは当然だと思います。(別稿「六代目歌右衛門の今日的意味」を参照ください。吉之助の最初期の論考です。)

「中村芝翫論」(昭和24年・1949)は、六代目芝翫(後の六代目歌右衛門)の賛美にとどまらず、三島の美学の秘密を解き明かす上でも興味深い評論です。ここで三島は、芝翫の美は「一種の危機美」であると云っています。たとえば芝翫の雪姫が後ろ手に縛られたまま大きく身を反らせる、こうした刹那に芝翫の柔軟な肉体から「ある悲劇的な光線が放たれる」、それが舞台全体に妖気を漲らせる。芝翫の美には古典的均整のなかに「近代的憂鬱の入り混じったなにか」が潜んでいる。歌舞伎とは「魑魅魍魎の世界」であり、その美は「まじものの美」でなければならない。また「その醜さには悪魔的な蠱惑」がなければならない。そして歌舞伎の怪奇な雰囲気は「黒弥撒」に他ならない。芝翫の美は、そのことを想い起こさせると三島は云うのです。

吉之助には三島が歌右衛門を贔屓にしたことは理解できますが、少年三島が七代目宗十郎を贔屓にしたということは、聞いただけではスンナリ理解しがたいところがありました。なぜならば歌右衛門の先鋭的な芸の在り方と、宗十郎のそれとは、正反対であるように思えたからです。三島は宗十郎のことがどのような理由で好きだったのでしょうか。それは、少年三島が、宗十郎の芸風の、「時代遅れで・古風で・芝居掛かって大袈裟な」芸風が好みだったと云う単純なことではなさそうです。その背後に少年三島の美学があるはずです。

吉之助がつらつら思うには、歌右衛門と宗十郎との間に、三島が見出した共通項は、どうやら「芝翫論」で三島が使った「危機美」というところにありそうです。ただし歌右衛門の場合は未来形の「危機美」、宗十郎の場合はほとんど過去形の「危機美」なのですが。

三島は「沢村宗十郎について」(昭和22年・1947)のなかで、こんなことを書いています。かつて近世の歌舞伎劇はひとつの宗教であった。貴族的な洗練を経ない・異様な新しさの具現がそこにあった。それらが、ひとたび現実であり生身であった美しい俳優(わざおぎ)たちの顔であった。しかし、時代が過ぎ好尚が衰えて尚古癖や好事(こうず)に席を譲る他はなくなると、残された絵姿は自らが立脚していた時代の好尚を厳しく拒み始めた。自らのうちに花やいださまざまな願望をおのれ一身でせき止めて、その断面の美しさのみを伝えようと決心したと云うのです

『しかしここにその顔を生んだ時代の好尚をもはや拒みえない悲劇的な顔がある。(吉之助注:つまりそれが七代目宗十郎の顔だと三島は云うのです。)時代が滅びた後にただ一人生き残った顔がある。これは役者絵が果たした決心と責務のちょうど裏腹のもの、古名優が死によって成し遂げたのとあたかも逆の働きを運命付けられて生き残ったとしか思われぬ。あれは時代の盛時を荷(にな)って亡びたものの再生であった。これは亡びつつある一時代の返り花に他ならなかった。』(三島由紀夫:「沢村宗十郎について」・昭和22年・1947)

思えば三島は、「滅び」について形を変えながら何度も何度も語って来た作家でした。そもそも昭和45年11月25日の三島の自決がそう云うものであったと思うし、遺作となった「豊穣の海」四部作もそうでした。昭和42年(1967)の戯曲ですが、太平洋戦争戦中・戦後の2年間を舞台に侯爵家である朱雀家の崩壊を描いた「朱雀家の滅亡」もそうです。その結末部に次のような台詞があります。

瑠璃子:「滅びなさい。滅びなさい!今すぐこの場で滅びておしまいなさい。」
経隆:(ゆっくり顔をあげ、瑠璃子を注視する。- - 間。)「どうして私が滅びることができる。とうのむかしに滅んでいる私が。」
(三島由紀夫:「朱雀家の滅亡」・昭和42年・1967)

とうのむかしに滅んでいる歌舞伎の昔の芸が、時代に対して滅ぶことを拒むかの如く眼前(舞台)にあったということなのです。宗十郎の芸も、歌右衛門の芸とはベクトルの方向が真逆になりますが、まさに時代に対して先鋭的なものであった。宗十郎本人がどう思っていたかは分かりませんが、本人の意思に係わらず、宗十郎の芸が時代に対して自らの存在を主張する。いわば現代は過去から鋭く批評されることになるのです。少年三島は宗十郎の芸をそのように見たわけです。(この稿つづく)

(R2・11・8)


2)七代目宗十郎と三島

三島が自ら「一生懸命に歌舞伎を観た」とした昭和十年代から二十年代前半の歌舞伎界の頂点に立っていた役者は、六代目菊五郎でした。だから三島が菊五郎の芸をどう考えていたかはとても大事なことであるので、ここでちょっと触れておきたいと思います。三島は、「中村芝翫論」(昭和24年)のなかで、菊五郎についても書いていますが、芝翫賛美の傍らで三島はしばしば菊五郎批判を展開するのです。これはいささか唐突な印象を受けます。別に菊五郎を引き合いに出さなくても、「芝翫論」の論旨は変わらないと思うからです。むしろ論旨を不必要にややこしくしているように感じます。しかし、三島としてはまず菊五郎を批判した後で「だから自分は芝翫を評価するのだ」と言いたかった気持ちは、文章を読むと、何となく分かって来ます。例えば、菊五郎が政岡を演じる時、「菊五郎は知恵ある観客と競争をしてみせる」と三島は言います。三島は、

(菊五郎の政岡の感動は)観客が政岡を観ることの感動ではなく、観客自身が菊五郎に倣って政岡を演じることの感動なのである。却って政岡という役は観客と演者との間に介在する魂のない土偶になる。」(「中村芝翫論」昭和24年)

とまで書いています。戸板康二は、著書「六代目菊五郎」のなかで、「菊五郎は要するに正面をきらない人だった。きれなくはなかったが、きりたくないのだ」と書きました。普通の役者が大きく二呼吸ほどの時間をかけて見得をするところを、菊五郎は一呼吸、あっという間に見得を終えてしまい、すぐ次の動きに移ってしまったそうです。それは旧来の見得の持つ或る種の「臭み」、観客が望んでいる見得の「ツボ」をあえて拒否する行為でした。このような菊五郎の演技は、ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の感覚です。ここに「近代的な芸術家」の姿がほの見えるとして、武智鉄二などはこれを大いに評価したわけですが、しかし、三島の方は、菊五郎の近代性を一刀両断にしてしまいます。

「菊五郎の近代性というべきは、実はあまり根ざしの深くない現実主義、合理主義、自然主義などの、概論風な近代性であった。教科書を読めばわかる程度の近代性である。菊五郎の新しさはあくまで方法の新しさで、本質的な新しさではなかった。」(「新歌右衛門のこと」昭和26年)

菊五郎の時代には、まだ古い時代の雰囲気を濃厚に残した錦絵役者が生きていました。(宗十郎がその一人であることは云うまでもありません。)その中で歌舞伎役者としては不利なずんぐり体型の菊五郎は、自のハンデキャップを封じるために、芸を心理の内面へ向けて行きました。したがって菊五郎には対立すべき規範が先に存在しており、菊五郎はその持ち前の写実の芸を深めていく事で近代的に見せていただけであり、菊五郎の芸に本質的な新しさはないと三島は断じるのです。そして、歌右衛門の役割は「菊五郎の近代性へのアンチテーゼ」だと三島は高らかに宣言します。

ちなみに昭和24年(1949)3月2日に七代目宗十郎が亡くなり、同年7月10日には六代目菊五郎も亡くなりました。宗十郎の亡き後、三島は、菊五郎の近代性へのアンチテーゼを、若き六代目歌右衛門に託すことになるわけですが、歌右衛門以前(つまり戦前の歌舞伎)においては、菊五郎の近代性へのアンチテーゼの役割を、三島は宗十郎に見出していたと云うことなのです。

ところで三島の初期短編「サーカス」は、昭和23年(1948)1月に「進路」という小雑誌に掲載されたものでした。三島は前年(昭和22年)11月に東京大学を卒業し、同じ月に念願であった短編集「岬にての物語」を出版、12月には高等文官試験に合格して大蔵省に入庁したばかりという・慌ただしい時期に当たります。三島は当時を回想して、終戦直後のわずかな期間、新しい雑誌が生まれては消えていったが、そこでは高度な観念主義がどの雑誌をも支配しており、あらゆる商業的規制から自由であった、「サーカス」はそんな間隙から生まれたわがままな小品であると後に書いています。「サーカス」についての作者の愛着が伺われます。

「サーカス」創作ノートには日付がありませんが、一応「サーカス」執筆時期は概ね昭和22年半ばのことであろうとして話を進めます。この創作ノートのなかに歌舞伎の記載がちょっとだけ見られます。ただし「サーカス」との関連は、まったく暗示されていません。ただ芝居の配役のみメモっただけに過ぎません。恐らく歌舞伎に関心のない研究者の大半は見過ごすと思います。ここではメモのうち主要配役のみを記載します。(なおメモには代数は記されていませんが、分からなくなるといけないので・ここでは付記します。)

「曽我対面」:工藤祐経 十五代目羽左衛門、曽我十郎 七代目宗十郎、曽我五郎 六代目菊五郎

「伽羅先代萩」:細川勝元 十五代目羽左衛門、政岡 七代目宗十郎、仁木弾正 六代目菊五郎、八汐 十二代目仁左衛門

「与話情浮名横櫛・源氏店」:与三郎 十五代目羽左衛門、お富 十二代目仁左衛門、 多左衛門 七代目宗十郎、蝙蝠安 六代目菊五郎

たったこれだけです。「先代萩」に関しては、配役が若干異なったメモ書きが、創作ノートにもう一箇所見えます。これは吉之助の勘ですが、恐らく創作ノートに記された三作品では「先代萩」が、「サーカス」読解のうえで最も重要です。

「伽羅先代萩」:細川勝元 十五代目羽左衛門、政岡 七代目宗十郎、仁木弾正 六代目菊五郎、八汐 六代目寿美蔵(後の三代目寿海)

注目すべき点は、どの配役にも共通して七代目宗十郎の名前が見えることです。(十五代目羽左衛門についても同様ですが、三島の歌舞伎観を考える上で、これも興味深いことです。)そこに当時の三島の宗十郎に対する傾倒が伺えます。なお十五代目羽左衛門は、昭和20年5月6日に、疎開先の長野県湯田中で亡くなりました。また十二代目仁左衛門も、昭和21年3月16日に、戦後混乱期の不幸な事件で亡くなりました。したがって「サーカス」執筆(昭和22年半ば?)時点では、上記はもはや望めない配役でした。上演記録を調べてみると、少なくとも三島が初めて歌舞伎を見た昭和13年(1938年)10月以降から昭和20年8月終戦までの間には、上記の配役での上演記録は見られません。したがって、創作ノートでの配役メモは、三島が実際に目にした舞台の配役メモではなく、三島が想像した(理想の?)配役だろうと思います。

創作ノートの記載に近そうな配役を上演記録から探してみると、例えば「源氏店」に関しては、

昭和17年6月歌舞伎座:与三郎 十五代目羽左衛門、お富 十二代目仁左衛門、多左衛門 七代目宗十郎、蝙蝠安 六代目友右衛門

という記録が見えますが、蝙蝠安が異なっています。また「伽羅先代萩」に関しても、

昭和16年3月歌舞伎座:細川勝元 十五代目羽左衛門、政岡 七代目宗十郎、仁木弾正 七代目幸四郎、八汐 十二代目仁左衛門

昭和18年4月歌舞伎座:細川勝元 十五代目羽左衛門、政岡 十二代目仁左衛門、仁木弾正 六代目菊五郎

という記録が見えますが、これも配役が若干異なります。なお、上記の三公演に関しては、「芝居日記(平岡公威劇評集)」のなかに直接の言及が見られません。東京歌舞伎座の上演なので青年三島が上記舞台を見た可能性は大いにありますが、実際に三島が目にしたかどうかの確認は出来ませんでした。

一方、宗十郎が演じる政岡に関しては、「芝居日記」に記載があって青年三島がこれを見たことが明らかです。それは歌舞伎座ではなく・小芝居での御殿一場のみの上演になりますが、

昭和19年10月浅草松竹座:「伽羅先代萩・政岡忠義の場」 政岡 七代目宗十郎、八汐 六代目寿美蔵(後の三代目寿海)

という舞台でした。そこで次に宗十郎が演じる政岡について考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(R2・11・11)


3)七代目宗十郎の先代萩・政岡

『派手で古風な動きの美。難は千松が刺されておどろき床を叩く度数が多過ぎるのと、そこで懐剣の緒をくはへ、あとの八汐の「コレ政岡どの」のセリフで口から話す手順は良いが、少々この型は問題な気がする。(中略)「後には一人政岡が」で立たうとしかかつて立てぬ細かいところをみせる。「うかがいて」の切で死骸をみてアッとおどろく。打掛をだんだん脱いでいたのを脱ぎ捨てかぶせる。「神や仏も」も丁寧に分けてやる。「誠に国の」で懐紙を右手で出し、両手を上げ、「礎ぞや」で右手を上げてきまり、しかし、キツパリときまらずに「とはいうものの」にかかる。「七つ八つ」では千松の指を追ってかぞへ、「まだ見えぬ」で、哀切な感じをよく出した。「そなたは百年待つたとて」で千松の頭の方をまわり、上手へ来て、斜め後ろ向きで、袖を合はせて「千年万年待つたとて」をみせ、更に下手をまはつて「三千世界」になつた。茶袱紗と、小刀と、懐紙とを使ふわけだが、茶袱紗は「とはいふもののかはいやな」の件りで両手の指に巻いて使ひ、小刀は「三千世界」からあとでつかつた。「三千世界に子をもつた」からあとはすべてふつうのやり方である。』(昭和19年10月8日・昼:宗十郎・寿美蔵一座、浅草松竹座での、七代目宗十郎の政岡の項、「伽羅先代萩・政岡忠義)」〜「芝居日記」(平岡公威劇評集)

七代目宗十郎の伽羅先代萩・政岡(昭和10年3月、歌舞伎座)
*少年三島が見た舞台とは違います。

三島少年19歳の時の、七代目宗十郎の政岡に関する劇評です。随分入れ込んで実に仔細に見ていますねえ。これは恐らくメモを取りながら芝居を見たのでしょう。ところで「伽羅先代萩・御殿」では有名な政岡のクドキで、役者が三味線の糸に乗って・リズムに乗って踊り出す、それが面白いという不思議なことが起こることがあります。例えば戦時中に七代目宗十郎や三代目時蔵が演じた政岡は、そのような政岡であったようです。「所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや」で両手を開いて上を見上げる、その仕草がまるで我が子が死んだのが誇らしいか・嬉しくてならないような感じでもあって、「三千世界に子を持つた親の心は皆一つ・・」では「私は可愛いわが子を失ってしまったんです、私は悲劇の母親なんです」と観客に華麗に訴える、そうした古風で派手な演技を見せたものでした。そういう箇所で客席がワッと湧くのです。

この場面の政岡はもちろん子を失った悲しみを表現しています。しかし、同時に政岡の心理のなかに倒錯した被虐の喜びが潜んでいるように感じないでしょうか。これは政岡に対して少々意地悪い見方であることは承知ですが、このクドキは政岡の「引き裂かれた状況」を象徴しているのです。

「飯炊き」は役者にとって持ちこたえるのが難儀な場ですが、やはりこの場はなくてはなりません。この場で政岡と千松親子が直面する状況が示されます。幼君・鶴喜代の傍にいる限り、政岡は千松の母親であっても・母親ではないのです。また千松も政岡の息子であっても・息子ではない。このことをふたり共自覚して動いています。

「コレ母様、侍の子といふものは、ひもじい目をするが忠義ぢや、また食べる時には毒でも何とも思はず、お主のためには喰ふものぢやと言はしやつた故に、わしや何とも云はずに待つている。その代り、忠義をしてしまふたら早う飯を喰はしてや。」

それにしても「忠義をしてしまふたら早う飯を喰はしてや」とは、辛い言葉ですねえ。毒味をして・もし「忠義」をしてしまったら、その時にはもう千松の命はないのです。ここで「忠義をしてもうたら」と云うのは、毒に当たって死ぬことです。千松には、そういうことがまだよく分かっていません。しかも、その忠義をする時がいつ来るかが分からない。と云うことは、ひもじい目をするのが・際限なく続くということです。そういう状況に政岡は我が子を置いています。この状況に千松も必死で耐えています。

別稿「曽我狂言のやつしと予祝性」において、「いつかは分からないが、いつかは時節が来るであろう、その時こそ大願成就の時である、その時を思えば今の苦しいことも耐えられる、ならば目出度い」という心理が、行方の知れない仇を追い求める討っ手に艱難辛苦を耐えさせている原動力であるということを考察しました。政岡・千松の親子の「忠義」においても、そうした「予祝性」のことを考えさせられます。

政岡・千松親子の「予祝性」のひとつは、その忠義がなされれば、天晴れじゃ・忠義の鑑じゃと世間から賞賛されるということですが、もうひとつ、重要な意味があります。そして、これこそ「先代萩」の核心につながる心情です。(そしてこれは三島の「サーカス」読解にも深く係わる心情です。これについては、次章をお読みください。)それは忠義がなされた暁には、政岡・千松親子は晴れて普通の母子の関係に戻ることが出来る、この辛い・果てしない苦しみから解放されると云うことです。繰り返しますが・その時は千松が死ぬ時です。しかし、このことは敢えて考えないことにして、「目出度い」ことだけを考えるのです。それほどまでに今のこの苦しみが辛いのです。こうした親子の思いが「飯焚き」の場で千松が唄う歌にも現れています。歌を聞いて政岡は思わず泣き崩れます。その文句とは、

「七つ八つから金山へ、一年待てどもまだ見へぬ、二年待てどもまだ見へぬ」

です。ここで八汐に千松が刺殺された時の政岡の反応を考えてみます。政岡の表情を観察していた栄御前は政岡にすり寄って、「年ごろ仕込みし其方の願望、成就してさぞ喜び」と言います。政岡が驚くと、「もしやと思ひ最前から窺ふて見る処、血縁の子の苦しみを何ぼ気強い親々でも、耐へられるものぢやない。若殿にしておく我子が大事、其方の顔色変らぬは取替子に相違はない」と栄御前は謀(はかりごと)を政岡に明かしてしまいます。これは政岡が取替え子したと早合点した栄御前が浅はかだったと云うことになっていますが、ここをもう少し深く考えてみたいのです。「もしやと思ひ最前から窺ふて見る処・・」と言っている通り、政岡の表情を栄御前は注意深く観察していたはずです。その栄御前がこれは確かに政岡が自分の子供を若君と取替え子したと判断したのには、何かそう思わせる強い根拠があったはずです。

栄御前は、「血縁の子の苦しみを何ぼ気強い親々でも、耐へられるものぢやない。若殿にしておく我子が大事、其方の顔色変らぬは取替子に相違はない」と言っています。八汐に千松が刺殺された時、政岡は硬く無表情のままにしていたとも考えられます。息子が殺される悲嘆・怒りの感情を政岡は押し殺し・ひたすら耐えたと、そう考えるのが普通です。しかし、そうすると栄御前が「取替子に相違はない」と判断するには、まだちょっと無理がある。栄御前を早合点させる為のもっと積極的な根拠が欲しいのです。栄御前は政岡の表情のなかに尋常ならざるものを見て取ったに違いありません。

吉之助は、その瞬間、政岡が歓喜の表情をフト浮かべたと想像をします。但し書き付けると、丸本には、そんなことはまったく書いてありません。しかし、そうでなければ、栄御前が「取替子に相違はない」と確信するまでに至らないと思うのです。それではどうして政岡は歓喜の表情を浮べたのでしょうか。それは「待っていたその時がついに来た」という感覚です。「予祝性」が実現される瞬間がついに来たのです。忠義の瞬間、母子が普通の関係に戻れる瞬間、いつ来るとも知れなかった苦しみから開放される瞬間です。それは可愛い我が子が死ぬ瞬間でもあるのですが。その時、思わず喜びとも・悲しみとも区別がつかない感情で政岡の身体がゾクゾクと震えたのです。政岡のその表情を栄御前は見て取って「取替子に相違はない」と決め込んだ。そこに政岡という女性の「引き裂かれた状況」が見えるのです。(この稿つづく)

(R3・2・17)


4)「待っていたその時が来た」

別稿三島由紀夫・小説「獣の戯れ」と歌劇「フィデリオ」」でも触れましたが、作家のインスピレーションというものは、過去の材料を取り込んで作品を作ったとしても、その内容を置き換える・倒置する、或いは雑ぜ合わせると云う手法で生じるものとは限らないのです。恐らく作家の高次元のインスピレーションは、過去の材料からエッセンスとしての核心のみを取り出し、これを感性によって止揚(アウフヘーベン)する、そのような形で生じるものです。したがって作家にとって大事なものは設定(シチュエーション)ではなく、感情(エモーション)です。感情の一点のみを取っ掛かりにしてワープするのです。こうして過去から来た材料は溶解し、まったく別のものへと変容するのです。ところで三島由紀夫23歳の時の短編「サーカス」は文庫本でも10頁の作品なので要約は必要ないくらいのものですが、大体次のようなものです。

或る晩、サーカス団長は天幕のなかで大道具係の少年と少女があいびきしている現場を捕えました。団長は急遽、少年に曲馬の芸を・少女に綱渡りの芸をさせることに決めました。練習は厳しかったが、二人はやがてサーカス団のスターとなりました。少年には「王子」という仇名が付けられました。団長は密(ひそか)に、少女が綱から落下し・これを受け止められなかった少年も落馬して死ぬ光景を夢見ます。しかし、少年と少女がサーカスから脱走し駆け落ちしたことを知って、団長は怒りに震えます。少年と少女は捕まって連れ戻されて、再び舞台に出ることになりました。少年の乗った馬が突然躍り上がって少年を振り落とし、少年は首の骨を折って死んでしまいます。それを見た少女も高いところから飛び降りて死にます。実は団長が部下に指示して、少年の靴裏に油を塗り・馬には興奮剤を注射していたのでした。・・・

本稿では三島由紀夫の短編「サーカス」と「伽羅先代萩」との関連を論じていますが、主人公のサーカス団長が政岡で・曲馬芸の事故で死んだ少年団員が千松であると、単純にお考えいただかないようにくれぐれもお願いします。両者の設定は、まるで異なります。まったく別の作品なのです。創作ノートに「政岡 七代目宗十郎」の記載がなかったとすれば、その関連に気が付く方は恐らく皆無だと思います。少年が死ぬ場面の描写は淡々としており、その光景を見た時の団長の心理にはまったく触れていません。しかし、「サーカス」の結末部を読むならば、19歳の少年三島が浅草松竹座で七代目宗十郎演じる政岡を見て、そこから何の感情を見て取ったのかは、明らかではないでしょうか。それにしても作家のインスピレーションは、不思議な展開をするものなのですねえ。

『「ともあれサーカスは終わったんだ」と団長は言った。「俺もサーカスから逃げ出すことができるんだ、「王子」が死んでしまった今では。」
-----そのとき天幕の外に蹄の音がきこえてきた。(中略)
朝の光りのなかを一頭の縞馬が荷車を引いてとおる。荷車には粗末な柩が二つ積まれ、王子と少女の名が不細工に書かれてあった。そのあとから
ぞろぞろと女猛獣使やピエロやブランコ乗りの行列がつづいた。
団長はポケットにつと手を入れて細い黒いリボンで結えた菫の花束をとりだすと、かつて熱狂した小学生たちが少女の髪にあの溶けたキャラメルを投げつけたように、手で勢いをつけて、それを二人の柩の上へ投った。』

(三島由紀夫:短編「サーカス」結末部、昭和23年1月)

(R3・2・21)





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