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六代目歌右衛門の今日的意味

*平成13年3月31日に亡くなった六代目中村歌右衛門への追悼文です。


1)歌右衛門とは「現代の歌舞伎」そのものである

その歴史的起源についての議論は抜きにして、歌舞伎の「女形」は、男が女を演じるという、まぎれもなく虚構の存在です。実世界を映し出し現実にあるものだけが演劇の素材とされるべきならば、女形は間違いなく反リアリズムであり否定されるべき存在だと言えます。

リアリズム(自然主義・写実主義)というのは簡単に言えば「本物そっくり・在るがままがいい」ということです。リアリズムに根ざした映画やテレビなどに慣らされた現代人が歌舞伎を初めて見た時に鮮烈に感じるのは「反リアリズム的リアリズム」ということではないでしょうか。大仰で様式的な動作・誇張された表情・音楽的な抑揚を持った科白・原色的な色彩美、それらすべてが実生活における世界・人間の様相とは異なります。現実には存在しない、人工的な世界です。それでいて人生の持つ断面を見る者に実感させます。いやむしろそれがリアリズムに根ざしていないだけにいっそう鮮やかに感じられる、これが現代人が見た歌舞伎の魅力の一端であろうと思います。

歌舞伎はもともと江戸の庶民の生活から発生した芸能ですが、江戸の庶民の時代には「反リアリズム」ということはもちろん意識もされなかったことでしょう。それは江戸の庶民の美意識のデフォルメ(誇張されたもの)ですが、庶民の生活と等質のものでした。しかし日本人の生活・風俗が洋風化し、和服が消えていく中で歌舞伎は日本人の生活とは次第に遊離した芸能になっていきました(つまり「リアルでない」ということです)。そうした流れの中では歌舞伎のなかの「日本人」は観念的なイメージとならざるを得ません。歌舞伎は現代人にとってリアルな演劇ではなく、「顔に色を塗りたくって大げさな表情で抑揚をつけた変な科白をしゃべる」芝居ということになってしまいました。

しかしここが「我々にとって伝統とは何か」という問題にもなるわけですが、我々が日本人であることは間違いのない事実であり、歌舞伎を見る時に自分の中にある「日本人」が疼くのが実感されます(つまり「リアルである」ということです)。多分、歌舞伎の感じ方・受け止め方が同じ日本人でも昔と今とは変わってきているのだろうと思います。それは良いとか悪いとかの問題ではなくて、時代にともなう美意識の変化なのです。「和服が着れない日本人が見る現代の歌舞伎」とは、それ自体が自己矛盾をはらむ「反リアリズム的リアリズム」なのです。

だとするならば、「女でない者が女を演じる」という自己矛盾を持つ「女形」はその在り方においてまさに「現代の歌舞伎」そのものだと言えるのではないでしょうか。だからこそ、現代人が感じる「歌舞伎」の魅力のかなりの部分を「女形」が占める、あるいは現代人にとっての「歌舞伎」というものを女形が象徴する、ということが言えるのではないかと思うのです。

六代目歌右衛門の今日的意味を考えるとき、たんに歌右衛門の俳優個人としての技芸を論じるだけではなく、現代における歌舞伎というもののあり方まで考えざるを得ないと思います。三島由紀夫は「六世中村歌右衛門序説」冒頭において、

「ひとつの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。一時代を代表した俳優の名を思いうかべる 時に、その俳優の名のまわりに、時代の直接の雰囲気、時代の直接の雰囲気、時代の肌ざわり、肌の温かみともいうべきものをひろげる。俳優とは、極言すれば、時代の個性そのものなのである。」

と書きました。いまこそその意味を問うべき時が来たということでしょう。女形の魅力こそ歌舞伎の魅力であるとすれば、「歌右衛門とは現代の歌舞伎そのものである」と言ってもいいのですから。(注:ここで「現代」と称しますのは、昭和20年の敗戦からの約50年を指すこととします。ほぼ「戦後の昭和」を指すと言ってよろしいでしょう。)


2)歌右衛門の「古風さ」と「近代性」

日常における歌右衛門はじつに優美で、物腰の柔らかなひとでした。それでいて芯は非常に強いものを持っている人でした。そのイメージは初代芳沢あやめの芸談「あやめ草」に出てくる「女形の心得」と同じようなものを連想させます。まさに身も心も「女になりきる」ことに徹して生きている感じで、「昔ながらの女形の伝統を守って生きている人」という感じがしました。こうしたことが歌右衛門の「古風」なイメージにつながるのだと思います。

しかしその優美な容姿から受ける印象とちがって、歌右衛門の演技の本質はじつは現代という時代にふさわしい「近代性」にあったと思います。その演技は心理主義的で、精緻と言えるほどに演技の細部にこだわり、そこからほとばしる情念は研ぎ澄まされた刃のように冷たい輝きを持っているように思われました。歌右衛門の演技のなかでも「長い・長い」と言われた「鏡山」の尾上の花道での引っ込み、「四谷怪談・浪宅」でのお岩の髪梳きにしても、その表情・仕草の中に心理の綾を細部まで描き尽くさんとするかのようでした。「道成寺」においても歌右衛門の場合は、踊りの振りの一つ一つがそれぞれの意味を持って観る者に対して放たれ、その個々のイメージがモザイクのように集合してひとつの大きな世界を作り上げます。

歌右衛門のなかに「古風さ」と「近代性」、この矛盾するふたつの本質が同居しているのです。その不思議さが現代人が歌舞伎のなかに見る魅力と重なって見えてきます。三島由紀夫は「六世歌右衛門序説」においてこのことを次のように書いています。いかにも文学者らしい洞察と表現で、しかもその本質をみごとに突いていて、これ以上の表現はちょっと真似して書けないような気がします。

『なるほど岸田劉生氏の定義にあてはまるような、古い手織木綿に似た歌舞伎の感触は、歌右衛門の持ち味ではない。しかし岸田氏の定義にあてはまる歌舞伎を、生きて喋って歌いさざめいていた娘にたとえると、歌右衛門は少しも腐敗せずに雪の山の中に閉じ込められていたその娘の屍が、永い年月ののちに発見された姿に似ている。その姿形からは、すでに生のいやらしい活力と体臭は失われているが、生きていたうちに持っていたあらゆるものは、雪白の凍った肌の奥深く、ひとつもそこなわれずに蔵されているのである。歌右衛門の「鷺娘」を見るたびに。私はいつも、このさりげない舞踊劇が、清潔な雪白の屍姦のイメージを起こさせるのをふしぎに思ったが・・・・』(昭和34年9月「六世歌右衛門序説」)

昭和22年10月東京劇場で上演された「籠釣瓶花街酔醒」序幕新吉原仲の町の場での八ッ橋の花道で佐野次郎左衛門へ投げかける「笑み」について、初役で八ッ橋を演じた歌右衛門の演技は今でも語り草になっています。(この時に次郎左衛門を演じたのは初代吉右衛門でした。)この演技は歌右衛門の新境地を拓いたというだけではなく、それが人々に与えた衝撃は戦後の歌舞伎の復興がここから始まったと言っても過言ではありません。渡辺保氏は別の機会、昭和26年1月の新装改装なった歌舞伎座での八ッ橋を見て

『この歌右衛門の八ッ橋が笑うのをみたとき、私は歌右衛門の美しさをみながら、ほとんどなにをみているのかわからなかった。私はそのとき私 自身の肉体の中でなにかが美しい音をたてるような感触を体験した。まるで私自身がなにものかにひたされていくような感触のものであった。こういう体験はこのさきにもなく、あとにもない。』(「女形の運命」)

と書いています。それはそれまで笑うということのなかった女形が「初めて笑う演技をした」瞬間でした。人々はそこにリアルな「女性」を見て衝撃を受けたのです。八ッ橋は遊女ですが、もちろん職業として遊女である前にひとりの人間です。そのことを歌右衛門はリアルに実感させたと思います。 吉之助はもちろん昭和20年代の八ッ橋は見ていません(まだ生まれてなかったのです)が、後年、歌右衛門の八ッ橋を見た時にはすでに渡辺氏の「女形の運命」は読んでいましたので、この衝撃を追体験というより再検証するような感じでこの歌右衛門の演技を見ました。

この歌右衛門の「笑み」の意味についてはいろいろな人が論じていますが、この笑みにその背後に心理的裏付けを読もうとするのは無意味なことのように吉之助には思われました。ここにあるのは感情でも思考でもなくて、観念としての「女の愛嬌・可愛さ」そのものであって、それを見た瞬間に次郎左衛門をして「宿に帰るのがいやになった・・・」と叫ばせるような何ものかでした。歌右衛門の八ッ橋の「笑み」こそ歌舞伎の魅力たる「反リアリズム的リアリズム」そのものでありました。


3)歌右衛門の「危機美」

もちろん歌右衛門以外にも優れた女形は大勢いますし、美しい女形もいます。しかしそのなかで歌右衛門が「時代を代表する俳優」であり得たのはなぜか、そのことを考えたいと思います。

先に引用した三島由紀夫の「六世歌右衛門序説」の文章は昭和34年の文章ですが、吉之助の知っている昭和50年代の円熟期の歌右衛門によりふさわしいという気がします。もちろん当時の歌右衛門からは若き日の「時分の花」は既に失われていたわけですが、むしろそれだからこそ歌右衛門の芸の本質がより鮮明になってきたのかも知れません。三島の文章では文学的な表現で隠されていますが、歌右衛門の芸の本質は「女形である自分自身への懐疑」にあったと思います。

歌右衛門は女形という存在が「時代に取り残された存在・消えてしまっても構わない存在」だと世間で思われ始めていることを感じていたと思います。リアリズム全盛の世にあっては、女形というのは「男が女の真似して演技をする」という不自然かつ不健全な存在です。しかし歌右衛門は歌舞伎の家に生まれ育った女形であり、その矛盾のなかで歌舞伎俳優として生きていかなくてはならなかった。このことを歌右衛門自身がどのくらい意識していたのか分かりません。しかし、だからこそ歌右衛門は自らの存在意義を世間に確固たらしめるために、その演技を細密画のように精巧に、宝石のように美しく仕上げようとした、そのように感じられてなりません。

このことは別稿「三島由紀夫の歌舞伎観」でも取り上げましたが、渡辺保氏がその著書「女形の運命」で面白い指摘をしています。たとえばスーッと手を前に出す振りがあるとします。七代目梅幸なら、それをひとつの振りとして素直にスーッと出す。その振りのイメージは骨太で揺るぎない安定感を示します。ところが歌右衛門だと、手を左右にくねくねとさせながら出す、そのアクセントのつき方で振りが三つにも四つにも見えると言うのです。部分部分が肥大化しそれがモザイクのようになって踊りを形成していきます。そのイメージは繊細である種の揺らぎを持ち、ちょっと押すとバランスを崩して傾きそうな危うさのなかで佇んでいるのです。渡辺氏は「歌右衛門は梅幸のように伝統的な規範を素直に信じることができないのだ」と書いています。

歌右衛門は背広を着せたらどうにも似合わない、これはホントに女形以外にあり得ないという感じの人でしたが、歌右衛門に対比される存在であった梅幸は日頃は背広の似合う温厚な紳士で、どこかの大会社の社長さんだと言われればそれで通る雰囲気の人でした。ちょっと但し書きを付けたいのですが、梅幸は立役も数多く勤めた人でしたし、ここで梅幸が「時代における女形の存在」に疑問を抱かなかったと問題としている訳ではありません。むしろ梅幸は伝統の力を信じ、「歌舞伎の女形」の古典的なたたずまいを幸福な健康的な形で時代に向けて提示したと言うべきで、それはまた「女形」の別の形での時代への対し方であったということだと思います。つまり「女形」をひとつの特殊な技芸であると割り切ることで世間に認知させるという対し方です。多くの女形はこの方向で時代に対しました。

それに対して歌右衛門は女形というものを技芸ではなく「存在」として(あるいは「自分自身として」)とらえたということだと思います。歌右衛門は「女形である自分自身」を賭けて時代に対峙しなければならなかった。この危機感こそが、歌右衛門を「時代を代表する俳優」(あくまで「俳優」であって「役者」ではない)にさせたものだと思います。

三島由紀夫はこのことを「中村芝翫論」(昭和24年)で指摘しています。芝翫(つまり後の六代目歌右衛門)の美は「一種の危機美」にあると三島は言います。たとえば芝翫の雪姫が後ろ手に縛られたまま大きく身を反らせる、こうした刹那に芝翫の柔軟な肉体から「ある悲劇的な光線が放たれる」、それが舞台全体に妖気を漲らせるのです。芝翫の美には古典的均整のなかに「近代的憂鬱の入り混じったなにか」が潜んでいるのです。

このような女形としての自分自身に対する歌右衛門の危機意識は本質的なものなので、孤独なものであり同時に終わりがないものでした。歌右衛門の芸のもっとも光輝くのは、相手役と舞台で相対している時よりも、一人で演じる時、一人でいて相手を想いつづけているような時であるのも、歌右衛門の芸の本質である「女形である自分自身への懐疑」が自己完結型のナルシシズムによってのみ満たされるからであると考えれば理解できます。たとえば「道成寺」の花子、「十種香」の八重垣姫であり、「妹背山」のお三輪、「金閣寺」の雪姫、「合邦」の玉手御前、「孤城落月」の淀君、あるいは「隅田川」の班女の前です。

こうした歌右衛門の芸の本質も「女形とは相手役に一歩下がって勤めるべきもの」という考え方からすれば本来はルール違反なのです。歌右衛門は前に出すぎであるという批判は前からありました。「いや、私ごとき者が・・」と言っていながら気がつくといつも歌右衛門は最前列中央に座っている、と言われたりしました。しかし歌右衛門は「女形の美」が「歌舞伎の美」であると世間に認めさせ、その頂点に立つことで、そのような声を封じてしまいました。


4)歌右衛門時代の終焉とその後

昭和62年9月25日、歌舞伎座での「九代目坂東三津五郎襲名披露興行」での夜の部、新三津五郎の襲名披露狂言「喜撰」でお梶を踊った歌右衛門が転倒して骨折した事件については、渡辺保氏がその著書「歌右衛門伝説」でも触れています。じつはこの日の舞台は、吉之助も三階席から見ていました。まさか歌右衛門が転倒するとは思わなかったので、次第にこれはたいへんなことになったという感じがしてきてショックでした。この日のことは忘れられません。

「歌右衛門伝説」にもある通り、歌右衛門はお梶のくどきが終わって後見の方へ行こうとして、後ろへ廻った時によろけて衣装の裾を踏んでしまって転倒したのでした。客席に向かって仰向けとまではいかないが、左の腰の方から落ちました。それで舞台に手をついた左手首を骨折したのです。その光景は今もスローモーションのように思い出されます。ただしすぐに新三津五郎の喜撰の踊りにつながったので舞台に穴はほとんどあきませんでした。それだけに目の前で起こったことが余計に信じられない思いでした。申し訳ないがそのあとの新三津五郎の踊りはほとんど見ていません。 吉之助は後ろ向きになって激しく肩を上下させる歌右衛門の背中ばかり見ていました。

渡辺氏は「その時、私は歌右衛門は死ぬのではないかと思った」と書いています。吉之助はまさか「死ぬ」とまでは思いませんでしたが「引退」の文字は頭をかすめました。「もしかしたらこれが歌右衛門の最後の舞台になるかも知れない」と思ってそれが最後になるかも知れない歌右衛門の後ろ姿を必死で目に焼き付けました。それから歌右衛門が立ち上がってニッと笑顔を見せながら上手に引っ込むまでの時間はじつに長く感じられました。

この転倒事件は歌右衛門を語る時に大きな節目になる事件であったように思われます。その後の舞台を見ますとこの事件を境目に歌右衛門の体調は目に見えて落ちていったように思いましたし、はっきり最晩年期に入ったように感じました。振り返ってみて、昭和23年の「籠釣瓶」の八ッ橋のあの伝説的な「笑み」からこの昭和62年頃(ちょうど昭和の終わり頃まで)までの約40年が歌舞伎における「歌右衛門の時代」であったと位置付けできると 吉之助は思います。その最後の十数年くらいの歌右衛門の芸の円熟期(さらにその後数年の最晩年期)に接することが出来た幸運を改めて感謝したいと思います。

さて、歌右衛門は「女形という自らの存在」を時代における「歌舞伎の存在」と重ね合わせることで「歌舞伎の美とは女形の美」であると世間に(日本だけでなく全世界に対しても)認識させることに成功しました。それは決して平坦な道ではなかっと思いますが、このことが「歌右衛門の時代」の意味であったと思います。歌右衛門のおかげで次世代の女形は「自らの存在価値への不安」に悩まなくて良くなりました。「女形のアイデンティティー」は確立され、自信を持って胸を張って「私は歌舞伎の女形である」と世間で言えるようになりました。ここから出発して芸を開拓できる次世代の女形たちは幸福だと思うのです。

 

(参考文献)

三島由紀夫:「六世歌右衛門序説」・「中村芝翫論」

併せて別稿「三島由紀夫の歌舞伎観」もご参照ください。

渡辺保:「女形の運命」(紀伊国屋書店)・「歌右衛門伝説」(新潮社)

(H13・4・15)


 

 

 

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