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大坂歌舞伎旧跡散策・その5

新清水・浮瀬亭跡〜「双蝶々曲輪日記」の舞台

大坂歌舞伎旧跡散策・その4:谷町筋沿いの寺町の続きです。


1)新清水のこと

「双蝶々曲輪日記」(寛延2年・1749・大坂竹本座初演)は人気狂言ですが、現在上演されるのは二段目「角力場」と八段目「八幡の里(引窓)」がもっぱらで、他の段はあまり上演されません。そのなかで「引窓」の理解のために内容をちょっと知っておくと良いのが、一段目「浮無瀬(うかむせ)」と三段目「井筒屋」です。現行歌舞伎では機会は少ないですが、この二つの段を一幕にアレンジして、「浮無瀬〜清水観音堂」として上演するのが定形になっています。近年では平成27年(2015)9月歌舞伎座(梅玉の与兵衛・魁春の都)で上演がされました。

どうしてこれが大事かと言うと、「引窓」のなかで濡髪が「同じ人を殺しても、運のいいのと悪いのと、ハテ幸いなことじゃのオ」と独り言を言いますが、この台詞自体は結構有名なものですけれど、「引窓」だけであると、何のことやら意味がサッパリ通じないからです。しかも、この台詞はその後の「引窓」の展開のなかで機能しないままウヤムヤになってしまうように見えます。その意味を解き明かしたのが、別稿「与兵衛と長五郎・運の良いのと悪いのと〜「引窓」の人物関係」論考です。浮無瀬〜清水観音堂」に目を通せば、女房お早の前身が遊女都(みやこ)であったこと、その都と馴染みで・大坂で笛売りに身をやつしていたのが与兵衛であったと分かります。さらに与兵衛はひょんなことから人を殺してしまい・罪を他人になすりつけて、その後・八幡の実家に戻っていたのです。「引窓」では、与兵衛は郷代官に取り立てられますが、濡髪の方は追われる身です。濡髪が「同じ人を殺しても・・」と思わず漏らすのは、そう云う理由です。詳しいところは吉之助の論考をお読みください。

「双蝶々曲輪日記〜清水観音堂」の舞台面

そこで「双蝶々:浮無瀬〜清水観音堂」の舞台になったのが、大坂四天王寺の西の夕陽丘にある新清水(しんきよみず)です。大坂の「新清水」と云っても、今の大阪人でもピンと来ないかも知れません。その昔・江戸前期頃の大坂に、京都の清水寺を模して高舞台をしつらえた観音様(新清水)があったのです。当時はすぐ近くにまで海が迫っていて、新清水の高舞台から眺める景色が素晴らしかったようです。新清水にある料亭・浮瀬(うかむせ、浄瑠璃では浮無瀬と記する)と併せて人気の行楽地でした。


2)大阪の清水寺

大阪の清水寺(きよみずでら、大阪市天王寺区伶人町5−8)は天台宗のお寺で、創建の時期は判然としません。寛永17年(1640)に、延海阿闍梨により再建され、観世音菩薩のお告げを受けて、京都の清水寺を模した高舞台造りの本堂を建立しました。享保年間(1716〜1736)には「新清水寺」と呼ばれるようになったそうです。「双蝶々」初演の頃は、大坂町人なら誰でも知っている名所でした。

上の写真は、左の道を行くと清水寺の高舞台へと通じます。右の夕陽丘の急坂は、「清水坂」(きよみずざか)と呼ばれています。往時の雰囲気が偲ばれます。

写真上は、清水寺の高舞台から西方向を見る。遠方に通天閣が見えます。現在はビル街しか見えませんが、江戸初期にはここから前方に海が見えたと想像してみてください。さぞや景色が良かったことでしょうね。

写真下は、清水の高舞台を下から見上げたものです。「双蝶々」三段目では、この高舞台から与兵衛が傘を差して飛び降りて・追っ手から逃げたと云うわけです。高さは数Mほどでしょうかね。当時はもちろん木造でした。なお以前の清水寺本堂は高舞台のところにあったそうです(「双蝶々」の現行舞台でもそのようになっています)が、地盤沈下と老朽化のために撤去されたそうです。

下の写真は、清水寺にある玉出の滝(たまでのたき)です。大阪市内唯一の天然の滝だそうです。これも京都清水寺の音羽の滝を模したようですね。つまり、清水坂・高舞台・滝と、新清水の名所が揃っているわけです。


3)浮瀬亭跡

「双蝶々」・一段目の舞台になっている浮瀬亭(うかむせてい)は、「摂津名所図会」(せっつめいしょずえ、寛政10年・1759刊行)にも紹介されており、挿絵を見ると、総二階の大きな料理屋であったようです。いつ頃からの開業かは分からないようです。元禄7年(1694)の文献には晴々亭と記されているそうで、もともとの店名は晴々亭であったのが、「浮瀬」と云う奇杯が有名になって店名も浮瀬亭と呼ばれるようになったと云う経緯であるようです。「浮瀬」と云うのは、大きな鮑の穴をふさいで作った7号半(約1.35ℓ)ほどの大きさの貝の杯の名前だそうです。この他に「幾瀬」と呼ばれる巻貝の杯とか、「鳴門」と呼ばれる夜行貝の杯など、いろいろな奇杯を取り揃えて、お客はお酒を楽しんだようです。浮瀬亭は明治まで続いたとされ、その跡地は、現在の私立大阪星光学園・中学高校の敷地内にあります。清水寺の高舞台からであると、清水坂を挟んだお隣りになります。

上の写真は、清水寺の舞台からお隣りの大阪星光学園敷地(北方向)を眺めたもの。テニス・コートの左に見えるこんもりとした茂みが、かつて浮瀬亭があった辺りになるようです。

上の写真は、清水坂を下って大阪星光学園敷地の南側の道路からフェンス内を見たもので、石組みの階段跡などが見えます。これがかつての浮瀬亭の庭園の遺構かと思われます。なお浮瀬亭跡地は、現在は学校の敷地内になっているので自由な見学が出来ませんが、事前に申請して許可をもらえば見学は可能だそうです。今回の吉之助は時間がなかったので、見学はフェンスの外からのみとしました。

*写真は、令和5年7月3日・6日、吉之助の撮影です。

大坂歌舞伎旧跡散策・その6:野崎・慈眼寺(野崎観音)もご覧ください。

(R5・7・28)


 



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