(TOP)           (戻る)

千代について〜推理:「忠臣蔵」事件

〜「菅原伝授手習鑑・寺子屋」

*本稿は「切り取られた風景」の続編です。


1)文楽「寺子屋」演出への疑問

「寺子屋」幕切れの「いろは送り」の場面を、文楽では千代が人形遣いの足拍子を伴ったリズミカルな振りで、子供を失った母親の悲しみを表現します。「あすの夜たれか添乳せん」では小太郎の経帷巾を広げて極まったりします。文楽の「いろは送り」は千代の見せ場なのです。(これについては別稿「切り取られた風景」をご参照ください。)

しかし、実は吉之助はまるで千代の一人舞台のクドキみたいに見える・この文楽の「いろは送り」があまり好きになれません。「いろは送り」は小太郎の葬送の場であって、千代の悲しみを歌うものではない と思います。千代が頑張れば頑張るほど観客の気持ちが小太郎から遠ざかってしまうような気がします。小太郎への哀悼の情感を母親の嘆きの声で塗りつぶされているような気がします。千代がまるで「でしゃばっている」ように感じられます。

そう考えると、文楽の「寺子屋」には千代絡みで・気になる場面が実はもうひとつあるのです。後半で松王が千代の泣くのをたしなめて「内で存分ほえたでないか、御夫婦の手前もあるわい」という箇所です。ここで義太夫では、続けて松王は気を変えて「イヤなに源蔵殿、申し付けてはおこしたれども、(小太郎は)定めて最後の節、未練な死を致したでござろう」と 言うのですが、初代栄三が三宅周太郎氏に語ったところでは、昔の人形ではこんな型があったということです。

なんと昔の人形の型では、松王が「内で存分ほえたでないか、御夫婦の手前もあるわい」の後で、太夫が語りを止めてしばらく義太夫が中断してしまう、そこからがしばらく千代の仕どころになるというのです。松王にたしなめられると、千代はツンとすねた感じで立ち上がり、上手へ行って一人で座ってしまうのです。「アンタ、何言ってんのよ」という感じでしょうか。千代は一分間ばかりそこで座っているのですが、やがて下手へ行って源蔵の傍に座り、「ネエ源蔵さん、あなたからも何か言ってくださいよ」というように応援を請うようなしなを作るのだそうです。そこまで 義太夫は休止して、他の人形も何もしないで完全に千代の一人舞台なのです。これが終ってやっと松王の「イヤなに源蔵殿・・」の台詞になるわけです。こ ういう手法を人形では「待ち合わせ」というそうです。(三宅周太郎:「演劇的に見た文楽の寺子屋」より〜「演劇評話」)

現行の文楽では、やはり松王の「御夫婦の手前もあるわい」の箇所で千代はプイッと上手へ行ってしまいますけれど、義太夫が止まってしまうわけではありません。そのまま千代は上手で座って松王と源蔵の会話を聞いており、小太郎が笑ったなどと聞いて涙をぬぐったりしております。恐らくは現行の人形の型は栄三が語った古い型が基礎になっており、それが部分的に改訂されたものなのでしょう。しかし、この場面でプイッと千代がすねて上手へ行ってしまうのは明らかに舞台面のバランスを崩していると思いますし、千代が下司な女の感じがしてあまりいい気持ちがしません。

さて、この文楽の古い「待ち合わせ」の型ですが、ちょっと「とんでもない」という気がします。(ちなみに三宅氏は面白い型だと言って評価されておられますが。)義太夫の流れが中断されてしまうというのはもちろんですが、詞章を読んでもここは完全に松王の流れでしょう。それを中断して無理矢理に千代の流れに持っていくのがよく理解できません。やはり千代が「でしゃばっている」感じがしてなら りません。

いずれにせよ千代の動きを見ていると文楽の「寺子屋」の舞台にはドラマの流れに逸脱して千代が自分だけ目立とうというような・ちょっと不自然な感じがあるのです。その理由ですが、ここからは 吉之助の根拠がない・勝手な推論なので注意いただきながら読んでください。これは 初演の時に千代を遣った名人・吉田文三郎の発想なのではないかということです。

延享3年(1746)大坂・竹本座での「菅原」初演の時、文三郎は丞相・白太夫・千代の三役を使っています。このような大名人が遣っているからには「菅原」における千代は、我々が考えているより 本来はもっと重い存在なのかも知れないということも一応考えてみる必要があります。しかし、丸本を読む限りはこの場面で千代を特別に扱わなくてはならない理由は感じられないようです。

折口信夫は「手習鑑雑談」のなかで、「菅原伝授手習鑑」の題名の由来について仮名草子の伝統に「賢女鑑」というものがあるとして、手習いと賢女は艶書手習いと関係があり・賢女の艶書で行くべきところを正しい教えの書道で行くところに、ひょうきんな洒落があるのだと書いています。そう考えてみると 文楽の「いろは送り」 が千代の持ち場になっている理由も分かるのではないかというのです。だとすれば、「手習鑑」とは千代のことを指しているのでしょうか。しかし、これは吉之助には何だか腑に落ちない感じがします。 吉之助は「手習鑑」というのは小太郎のことを指すものと単純に考えておりました。「手習鑑」とは「仮名手本」というのと、そう変わらないような気がします。いずれにせよ「寺子屋」で千代が突出する積極的な理由は見出せません。

義太夫を休止させ・他の人形の動きを封じてしまうような強引なことが誰もが出来たとは思われません。それは相当な実力者の仕業に違いありません。このような「寺子屋」での「待ち合わせ」・「いろは送り」での千代の一人舞台は、文三郎の「これではワテの見せ場がおまへん・ワテの仕どころを作ってくんなはれ」という強引な主張で生まれたものではないのか。このような強引なことができるのは名人・文三郎しかいないと推測するというわけです。


2)「忠臣蔵」事件

このような強引なことをすれば、それを快く思わない人が出てくるのも当然のことでしょう。特に「待ち合わせ」の場面で語りを止められた太夫側の憤懣は大きかっただろうということは十分に推測されます。

ここで吉之助はその2年後の竹本座で起きた重大事件を思い出します。寛延元年(1748)8月14日に大阪・竹本座で開幕した新作・「仮名手本忠臣蔵」は大評判で、10月になっても大入りを続けておりました。10月のある日のこと、由良助を遣っていた文三郎が「九段目・山科閑居」の「雨戸を外す我が工夫、仕様をここにて見せ申さんと、庭に折りしも雪深く」の辺りで、「見せ申さん」で立ち・「庭に」で下駄を履き・「折りしも雪」で竹の傍へと移動する段取りが窮屈だからもっと間を延ばしてくれと櫓下の此太夫に申し入れたのです。それが大騒動の発端でした。

その語りに自信のある此太夫は、日ごろから文三郎の横暴に腹が立っていたのでこの申し入れをはねつけます。文三郎も一旦言い出したものを「さよか」とは言えず、両者はつかみかからんばかりの喧嘩になったと言います。なにしろどちらも芸にかけては超一級で自信満々でプライドが高く、「九段目」の此太夫の語りは元祖義太夫の再来かと言われるほどの出来栄え、文三郎の由良助もこれまた大変な評判であったのです。

その夜、竹本座で行なわれた緊急経営者会議で出た結論は、文三郎の言い分を取る、文三郎の人形には代わりがいない・此太夫は他座へ行っても仕方がないというものでした。これによって、此太夫は弟子を引き連れて隣の豊竹座へ移籍してしまい、太夫が竹本座とごっそり入れ替わ ってしまうことになります。「菅原」では「寺子屋」を語った島太夫も 師匠の此太夫と一緒に退座しています。義太夫の西風(竹本系)と東風(豊竹系)の混交はここに始まるのです。これが世に言う「忠臣蔵」事件です。

この竹本座での会議の結論でも分かる通り、当時の人形浄瑠璃は太夫ではなくて・人形遣いでもっていたということのようです。 ドル箱スターをむくれさせるわけには行かなかったということなのでしょう。しかし、「忠臣蔵」事件が何の伏線もなく突然に起きたわけではないと思います。「九段目」の間の取り方、たった 一回のそれだけで、これほどの喧嘩が起こったわけではない。日頃からの文三郎のスター気取りの振る舞い・横暴な言動、それを不愉快に思って・いつかは仕返しをしてやろうというような気分が太夫連中に高まっていただろうことは容易に想像されます。

「忠臣蔵」事件をさかのぼること2年前の「菅原伝授手習鑑」初演の舞台においてもそのような文三郎の強引さが見えるように思われます。「寺子屋」での義太夫を休止させてまで自分の見せ場を作ろうとする「待ち合わせ」、幕切れの情感を自分の色に塗り替えるかのような「いろは送り」は、そうした文三郎の「強引さ・横暴」の産物なのではないのか。おそらくその頃から此太夫たちは文三郎の振る舞いに不満を持ち始めていた のに違いありません。竹本座の太夫と人形遣いの間の亀裂は、すでに「菅原」の頃から入りはじめていたのです。その痕跡が「寺子屋」の千代の動きに見えるというわけです。

以上のことは吉之助の推論・想像に過ぎません。初演当時の文献などを漁って、さらに周辺作品の文三郎の遣った役の演出の詳細を検討していけば推論が裏付けられて、さらに面白いものが見えてくるかも知れませんが、素人ではどうにもなりません。ここは「推理エンタテイメント」としてお楽しみいただきたく。

(参考文献)

三宅周太郎:「演劇的に見た文楽の寺子屋」〜「演劇評話」

折口信夫:「手習鑑雑談」(かぶき讃 (中公文庫)に収録されています。)

(H15・4・27)



 

 (TOP)           (戻る)