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母性喪失の「隅田川」

〜「桜姫東文章」を同時代化の発想で読む


1)「隅田川の象徴」としての桜姫

「桜姫東文章」は文化14年(1817)3月河原崎座での初演。この作品がユニークなところは、由緒ある高貴な姫君を最下層の女郎にまで堕としてしまったところにあります。本作はいわゆる「隅田川の世界」を根本に持っています。つまり、梅若伝説に基づく謡曲「隅田川」(観世元雅作と伝えられる)を源流としている作品ということです。「隅田川の世界」から発する吉田家のお姫様(桜姫)は江戸の隅田川の象徴だということになります。その一方で、江戸時代においては隅田川周辺というのは吉原を中心とする最下層の風俗地域でありました。「隅田川の象徴」である桜姫を女郎(風鈴お姫)にしてしまうというのは、南北一流の同時代化の作劇のテクニックなのです。

桜姫(風鈴お姫)が暮らしているのは「山の宿町」、これは浅草花川戸の北隣りにあたります。女郎に墜ちた桜姫は、お姫言葉と女郎言葉をチャンポンに使います。つまり、気位の高い姫君ときっぷの良い姐御肌の女郎の人格が同居している面白さです。同居している二つの人格の、そのどちらもが真実なのです。

『判人衆の為にゃァなるが、亭主の為には、わらわはならぬかへ。コレみずからがくらがへより、アレ、あの女はどっから連れてきたのだ。これ、口広いこったが、ぬしの下タ歯と極まった女子はみづからより外、この日の本に二人とあっていいものかな。その上にまだいとけなき、ありゃァ、アノ女の子か。とっけもねえ、お乳や、めのとに抱かせて、養育あらばイザ知らず、みづからなぞは子供は嫌いだよ。アアしみったれな。好かねえ事はよしねえな。』

初演の桜姫は「目千両」と言われた美貌の女形・五代目半四郎です。文政元年刊の「役者当選鏡」によれば、半四郎の桜姫は「桜姫後に小塚原の風鈴お姫、押し出しの美しさから気の変わり様、いやはや褒めようのないほど面白いこと」と絶賛されています。

近年では、何と言っても当代玉三郎の桜姫が絶品でありました。玉三郎は、桜姫と風鈴お姫の人格のチャンネルをカチャカチャと鮮やかに切り替えてみせて、しかも、両者の人格の関連など観客に何にも悟らせません。これは大事なことなのでして、「あのお姫様が女郎に墜ちて苦痛でないのか」・「女郎から何食わぬ顔でお姫様に戻って汚らしい」などと観客が感じてしまって同情したり怒ったりしてしまったら、この芝居の面白さはなくなってしまいます。お姫様と女郎の二つの人格は何の関連もなく、しかし当然の如くに桜姫のなかに同居していなければならないのです。

文化4年(1807)、品川の安右衛門という者の経営する遊女屋に、「こと」という名の遊女がいて、この女が浅草源空寺の門前の善兵衛という者の養女になった後、自分は京都の日野中納言の息女であると言い出して世間の評判になったそうです。どうやら養女というのは表向きで、隠し女郎であったようです。彼女は官女のような格好で奉行所に乗り込んだり、客に正二位とか左衛門とかいった署名をして和歌を書いてやったりして、さらに評判は高くなりました。捨て置けなくなった奉行所がこれを調べた所、これはまったくのデタラメだと分かり、その行為が不届きだというので追放されたそうです。善兵衛も手鎖の刑を受けています。

南北はこのことを作品に取り入れたのでしょうが、隅田川の象徴である桜姫を女郎にしてしまうことで、南北は「隅田川の世界」を文化文政期の江戸にタイム・スリップさせて、まったく違う様相のドラマに変質させてしまったのです。桜姫を女郎にしてしまうのは、お姫様の聖性をひっくり返すものであるとは必ずしも言えないのではないでしょうか。同時に、遊女の穢れを聖化しようとするものであるのかも知れません。


2)輪廻転生の物語

「桜姫東文章」において、高僧清玄はどうして桜姫に邪恋を抱くのでしょうか。どうして清玄はその地位を捨て非人に堕ちるほどの邪恋に苦しまねばならないのでしょうか。清玄と桜姫との関係がなぜこのような変転を辿るのかについては、発端「江ノ島児ヶ淵」の場に桜姫の前世・清玄との関わりが説明されています。

「桜姫東文章」は輪廻転生の物語です。この発端は省かれて上演されないことが多いようですが、この場は決しておろそかにしてはならない場です。この場がなければ、「桜姫」の意味は半減してしまうと言っても言い過ぎではないと思います。

この「江ノ島児ヶ淵の場」の南北の着想は、万治2年(1659)に出された中川喜雲の「鎌倉物語」に出て来る児ヶ淵伝説に拠っています。「鎌倉物語」が伝えるところによれば、若宮別当僧正院の白菊という稚児が建長寺の僧に見初められ、その情の恩に対して江ノ島児ヶ淵より身を投げ、建長寺の僧もその後を追い身を投げた、と言います。つまり衆道の後追い心中です。

南北はこの後追い心中を取り上げて、しかも不心中に作り変えてしまいました。相承院の稚児白菊丸が投身したあと、長谷寺の所化自休は岸壁の波に恐れをなして身を投げることが出来ず、死に損ないます。衆道の美談がここでは反美談になってしまいます。死に損なった自休・すなわち後の清玄はその報いを受けなければなりません。死に損なった男の 後ろめたさ・惨めさを背負いつつ清玄は生き続け、十七年後に桜姫に出会うことになるのです。

自休(=清玄)は白菊丸と衆道の誓いとして同じ香箱を取り交わしていました。序幕「新清水の場」は、児ヶ淵での不心中から十七年後、桜姫が清玄阿闍梨の手によって剃髪し尼になろうとする場面から始まります。桜姫は左手の指の開かない片輪に生まれた前世の因果・また父少将や弟梅若の菩提を弔うという理由から剃髪しようとしていたのですが、その時、突然左手の指が開きます。桜姫の開いた左手から出てきたのは、清玄にとっては忘れられない十七年前の香箱でありました。この瞬間に清玄は、桜姫がまさに白菊丸の生まれ変わりであることを直感して、その運命が一変してしまいます。

自休(=清玄)は生まれ変わった白菊丸(=桜姫)に復讐されるのです。白菊丸に対する贖罪の気持ちが、桜姫への邪恋に変質していきます。しかも当の桜姫は自らの因果を知りません。彼女の意志にかかわらず、桜姫の存在自体が清玄を苦しませ、因果の業にのた打ち回らせるのです。


3)母性喪失の「隅田川」

「桜姫東文章」は清玄と桜姫の運命のすれ違い劇だと言うこともできます。四幕目の「三囲(みめぐり)の場」はそのような二人の運命を美しく悲しく描いた名場面です。

場所は隅田川のほとり、三囲神社の近く。清玄は破れ笠・破れ衣のなりで、桜姫の裂けた振袖の片袖に包んだ赤子を抱いて本花道から登場します。赤子は桜姫が釣鐘権助との間で設けた子供です。この赤子を抱きながら、この赤子を手掛かりにして清玄は桜姫の姿を探し求めています。桜姫は仮花道から、古簑を着て黒傘を差して登場します。

この作品全体としては桜姫は母性を喪失し、我が子を捨てて顧みない女性として描かれていますが、この「三囲の場」での桜姫は捨てた我が子にどうにかして逢いたいと願っています。この部分は桜姫の人物が一貫していないようにも見えますが、実は「桜姫東文章」がその背景に持っている「隅田川の世界」がふっと顔を覗かせたものと見えます。

この桜姫の姿は、謡曲「隅田川」で我が子梅若丸の姿を求めてさまよう狂女の姿とだぶります。観世十郎元雅の作とされる「隅田川」では、子供を人買いにさらわれた都の女が、子供の姿を求めてあちこちを尋ねまわり、ついにははるばる東国の隅田川のほとりにたどり着きます。その日はちょうど一年前、隅田川のほとりで非業の死を遂げた少年があったことを知ります。その少年こそが我が子梅若であったことを知った狂女は塚に向って念仏を唱えます。すると我が子の幻が狂女の前に立ち現れるという悲しい物語です。

この謡曲「隅田川」を典拠にして、これに貴種流離や母子神信仰が結びつき、「隅田川物」と呼ばれる作品群が作られていきました。それは江戸の歌舞伎にとってもいわばご当地物と言ってもいい題材です。まさに「三囲の場」は、「隅田川の世界」の聖性としての母性のイメージをその原点に持っていると言えます。

南北は同時代化の発想で、桜姫を女郎にまで堕ちてしまったお姫様にしてしまいました。南北の時代の隅田川周辺と言えば、吉原を中心とする風俗地域であったわけですから、都から落ちてきた狂女を女郎の桜姫(風鈴お姫)に仕立ててしまうことくらい南北にとっては造作もないことです。しかし、「隅田川の世界」のシンボルを女郎に無理矢理に託してしまうとすれば、必然的にその母性は喪失せざるを得ません。その喪失した母性を劇中で補う役割を背負わされるのが清玄なのです。

(桜姫)いずくの誰が手塩にて、育つ我が子を一目なと、
(清玄)逢うて重なるこの恨み、
(桜)恋しゆかしの、みどり子の、
(清)顔が目先へ桜姫。
(桜)逢いたい、
(清)見たい、
(桜)仏神様、
(清)姫に、
(桜)我が子に、
(清)何とぞ(両人)逢わせて下さり ませ。

両花道での割り科白は、二人の悲しい運命を象徴しています。暗がりのために両人は互いにそれとも知らずにすれ違います。桜姫が一瞬見せた聖性(母性)は成就されず、桜姫は母子神には成り得ません。つまり桜姫は本来的な意味で「隅田川の世界」のシンボルたり得ないということです。

また、桜姫の子供を抱くという形でしか桜姫との絆を確認できない清玄も、前世の業の苦しみから逃れることができません。桜姫の産んだ赤子は、清玄にとってはいわば白菊丸(=桜姫)の分身です。清玄にはこの赤子を見捨ててしまうことはできません。劇のなかで清玄は、桜姫が喪失した母性を代替えすることを求められているのです。その役割を引き受けることによってしか、清玄は桜姫(=白菊丸)との絆を見出せないということでもあります。そこに清玄(=自休)の言い知れぬ孤独と悲しみが見えてきます。

こうして「三囲の場」で二人はすれ違い、観客に謡曲「隅田川」の世界をすれすれに垣間見させて素通りさせてしまいます。「三囲の場」は、母性喪失の・完成されないままに残される「隅田川」なのです。


4)「わが身よしなに、計らうてたも」

五幕目「岩淵庵室の場」において、清玄は桜姫にその前世の因果の物語を語ります。清玄が高僧の地位を追われ、非人の境遇に堕ちてまでも桜姫を追うのはなぜなのか、「この清玄とは前生より、重縁重なる互いの恋路。因果の道理をわきまえて、心に随い色よい返事。コレ拝むわいの」と語り、桜姫に迫ります。しかし桜姫にとっては前生のことは何であれ、現世は現世のことで関係がありません。こうなると清玄には桜姫を殺して・白菊丸の生まれ変わりである桜姫と無理心中する道しか残されていません。「病むほうけたるこの清玄、しょせん命は風前の灯火。破戒の上はなに厭わん。つれなきそなたを刺し殺し、我もそのまま自害なし。未来はひとつ蓮の楽しみ。」

江ノ島で死に損なった清玄は、「この世の縁は薄くとも未来で添おう。死んで下され。」と言って出刃包丁を振り上げて桜姫に迫ります。しかし桜姫との立廻りのあげくに、清玄は自らの出刃包丁に当たって死んでしまいます。この陰惨な殺し場から後の場面での気の変わりようが、いかにも南北らしいところです。権助が帰って来て桜姫を小塚ッ原の千代蔵に抱えてもらうことになったと言うと、桜姫はケロリとして、「わが身よしなに、計らうてたも」と言うのです。

この「わが身よしなに、計らうてたも」という科白はお姫言葉でおかしいですが、なかなか意味深の科白です。「もう、どうなったっていいわ」というような、開き直りの・捨て鉢の科白にも響きます。権助も「オヤ、亭主を捕まえて、わが身よしなに計らうてたもも凄まじい。コレ、お姫さん、商売屋へ行っちやァ、思い入れ下司ばりを覚えねえよ」と言っていますが、桜姫のただならぬ様子に気付いたのかも知れません。

清玄はこの後も幽霊になって桜姫につきまとうのですが、五幕目幕切れで、権助の面差しが清玄のように片頬が紫色に変わっているのを見て、桜姫はなにかを感じてキッと気を変えて「所詮この身は・・」「毒喰わば」と思い入れをします。自分の身にからみつく因果の流れ、自分の意志だけではどうにもならない運命の変転に対して、流れに身を任せてしまおうという開き直りの気持ちか、それともその流れのなかにあっても徹底して自分は自分であろうとする居直りの気持ちなのでしょうか。

(後記)

別稿・写真館「桜姫の聖性」もご参考にしてください。

(H14・4・7)




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