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十八代目中村勘三郎・没後10年

*十八代目中村勘三郎は、平成24年(2012)12月5日没。

*十七代目と十八代目勘三郎が交錯することがありますが、勘三郎とのみ記する時は、十八代目を指すとお読みください。


1)十八代目勘三郎・没後10年

あと2週間ちょっとで十三代目団十郎襲名披露興行が始まると云う時期です(本日は10月15日)が、何となく盛り上がりに欠ける印象がしますねえ。コロナ禍がまだ終息していないこともあり、パッと晴れやかな気分に、どうしてもなりません。理由はいろいろと考えられます。昭和の大幹部連中がまだ元気なうちに行なわれた昭和60年(1985)の先代(十二代目)団十郎披露興行は、それはそれは豪華なものでした。しかし、今回(令和4年・2022)の場合、昨年(2011)11月に二代目吉右衛門が亡くなったり、幹部俳優連中に体力的な不安が目立ち始めています。長い期間の無理が効かなくなっている。当代披露興行の演目・配役を見ると、ワクワク感がいまいち乏しいと感じるのは、編成面に大きい制約があったのも一因かと思われます。コロナのせいで襲名披露興行が約2年半延期されたことの影響は、思った以上に大きかったのです。

しかし、もしあの役者が生きていれば、きっと彼がこの大穴を埋めてくれたはずだと思うのです。お祭り男でしたから、団十郎襲名披露を盛り上げてくれたに違いありません。それはもちろん十八代目勘三郎のことです。勘三郎が亡くなったのは、平成24年(2012)12月5日のことでした。団十郎襲名披露興行中に、勘三郎・没後10年を迎えることになります。

本サイトでも何度か書いたことですが、勘三郎と吉之助はほぼ同世代(正確に云えば学年は勘三郎の方がひとつ上)で、勘三郎が70歳を過ぎた頃に、舞台を見て「勘三郎もやっと先代(十七代目)の域に近づいて来たなあ」とか何とか、ブツブツ呟きながら泣くのを愉しみにして、歌舞伎を見続けて来たのです。吉之助が勝手に思っていたことですが、「俺も頑張るから・お前も頑張れよ」と云う関係であったのです。もし勘三郎が生きていれば、本年(2022)12月の時点で67歳と云うことです。だからまだ70代になっておらぬわけで・お愉しみはまだ先のことになるのだが、67歳と云えば、技芸体力の総合で見ればバリバリの全盛期であるわけで、今回の団十郎襲名披露でも、勘三郎は大きな役割を担ったはずです。

昨年(2021)の「歌舞伎素人講釈・第三期口上」にも書きましたが、吉之助も身の回りに片付ければならぬ事案などもあり・ドタバタ格闘しているうちに、勘三郎の死を自分のなかに落し込んでいく余裕がないまま、気が付いたら10年経ってしまいました。そして、団十郎襲名披露チラシを見て歌舞伎にポッカリ空いた穴の大きさに驚いて、また改めて勘三郎のことを思うと云うことになったわけです。

吉之助も最初の本は「十八代目中村勘三郎の芸」であるので、勘三郎には随分お世話になりました。まあそう云うわけで、本稿では役者論と云うような構えたものではなく、吉之助の観劇歴のなかでの勘三郎との関わりを、つれづれなるまま書くことと致したいと思います。ゆっくりペースの連載になるかと思います。(この稿つづく)

(R4・10・15)


2)暗い勘三郎のイメージ

先日(9月16日)NHK・Eテレの「にっぽんの芸能」で「没後10年・十八代目勘三郎の名舞台」と云うことで放送がありました。今月(10月)から始まる浅草・浅草寺境内での平成中村座公演(〜11月まで)の前宣伝も兼ねていたようだし、放送時間も短いので・仕方がないことでしたが、勘三郎の芸として紹介されたのは、いずれも平成中村座での公演で、「法界坊」・「夏祭」・「身替座禅」の3本の映像断片でありました。番組時間枠が許せば、野田歌舞伎とか舞踊物の映像も入れたいところではある。それと古典の世話物でも何か欲しい気がする。これで勘三郎の芸が語り尽くせたと、番組ゲストで登場した勘九郎だって・もちろん考えていないはずです。しかし、没後10年経って、多くの観客の脳裏に残っている勘三郎のイメージは、結局、「熱くて・エネルギッシュで・パアッと明るくて・愛嬌があって・笑える役者だった」ということになるのだろうとは思いましたねえ。別稿「勘三郎・一周忌」で吉之助は「勘三郎は記録よりも記憶に残る役者となるだろう」と書きましたが、そんな感じになって来たようです。それならば上記の平成中村座の3本だけでも、或いは十分なのかも知れぬ。何だか寂しいような、しかし、これも時の流れかなと無常の思いにさせられました。

「熱くて・エネルギッシュで・パアッと明るくて・愛嬌があって・笑える役者・勘三郎」と云うのは、多分、平成期の・思い返せば勘三郎のピーク時期であった時期の勘三郎の一面を、正直に反映しているものだと思います。ただし、吉之助は、同世代として・勘三郎の活躍をずっと横から眺めて来て、少し違った感覚を以てこれを見ているのです。

吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代(と云うことは父・十七代目勘三郎が元気でいた時期ということなのだが)の勘九郎時代(彼がほぼ20代であった時期)の舞台映像をいくつかご覧になれば、平成期の勘三郎しか御存知でない歌舞伎ファンは、イメージが随分異なるので吃驚なさると思います。恐らく、勘三郎が暗く・沈んでいるように見えて、驚くはずです。この時期の勘三郎(当時勘九郎)は、どの映像を見ても、「神妙に勤めている」と云う言葉しか出ないものです。悪いと言っているのではないので、誤解がないようにしてください。良いのだけれど、どこか色調が暗いということです。父や先輩から教えられたことをきっちりその通りに勤めようとする、そういう気持ちがとても強いのです。これは親父さん(十七代目勘三郎)が芸に非常に厳しい人であったことから来ると思います。六代目菊五郎の血を継ぐ勘三郎は、「芸を引き継ぐ」ということにひときわ強い責任を感じていた(裏返せばプレッシャー)を感じていたと思います。武智鉄二は次のように書いています。

『彼(五代目勘九郎)は、現代売れっ子の若手に似ず、芸の怖さを知っている。今の若手でそれを知っているのはまずいないが、彼は珍しくそれを知っている。芸の怖さを知らなければ、主観的信念の赴くまま、自由闊達に振る舞うことができる。いまの人気役者の過半数はこの部類である。少数の者だけがそれを知り、なかでも勘九郎はそれを知り、雁字搦めにからまれている。これは良いことだ。この上ないことだ。ただそのような主知性が、彼の芸を暗くしている。彼の「鏡獅子」は如何にも陰気で、「春興」の名にふさわしくなかった。ソツはない優等生だが、バッカスの饗宴のような一時の陶酔を与えはしない。』(武智鉄二:「告解的勘九郎論」・昭和53年・1978・3月・「演劇界」)

勘三郎の芸の本質について「暗い」ということを指摘したのは、多分、武智鉄二と・弟子である吉之助だけでしょう。この「暗い勘三郎」のイメージから、吉之助の、勘三郎との関わりが始まったのです。(この稿つづく)

(R4・10・18)


3)十七代目と十八代目勘三郎

親子ならば、声が似るとか・目元が似る・身体付きが似る・癖が似る、まあいろいろあるだろうと思います。これはDNAを引き継ぐとか・家庭環境でそうなるのでしょうが、歌舞伎役者のことですが、世代が違えばこうも違うものかと云うか、親子でも世代の違いを感じることの方が結構多いように思いますね。しかし、十七代目勘三郎と十八代目勘三郎の親子の場合は、背格好も似てるし・役どころも似ている、普段はそう似てるようにも思わないけど、舞台姿や雰囲気はホントそっくりだなあと思うことが多いのです。歌舞伎界の親子でも・これほど似ると思うのは、この親子だけではないでしょうかね。

吉之助が思い出すのは、昭和57年(1982)9月・新装改築なったばかりの新橋演舞場で行なわれた若手花形中心での「仮名手本忠臣蔵」通しの舞台のことです。この時、勘三郎(当時は五代目勘九郎・27歳)が初役で勘平を勤めました。当時親父さん(十七代目勘三郎)は健在でありました。五段目で・花道から登場した勘平が、暗闇のなかで仕留めた獲物を手探りで探します。ここに音羽屋型の細かい手順があることは、ご存じの通りです。吉之助は三階席から勘九郎の勘平を見たのですが、勘平が本舞台に掛かった辺りから、何だか歌舞伎座で親父さんの勘平を見ている錯覚に陥ったようで、舞台の板までが歌舞伎座に変わってしまったことを今でもはっきり思い出します。ハッとして周囲を見回すと、そこは歌舞伎座でなくて・やっぱり演舞場でした。勘平と云えば、六代目菊五郎も十七代目勘三郎も得意とした役。父親は息子に相当厳しく教え込んだであろう。息子も父親に教えられたことを懸命に・虚心に・その通りに勤めたでしょう。自慢じゃないが、若き日の吉之助も息を詰めて、真剣にこれを見た。それで起こったことなのでしょうねえ。こう云うこともあるんだなと思いました。吉之助ももう観劇50年になりますが、後にも先にもこんな経験は二度とありません。

その時、客席で吉之助が感じたことは、勘九郎が70代になった時(その時は吉之助も70代になっているということだが)に、またこんなことが起きたら、きっと俺は泣いちゃうだろうなあと云うことでした。それなら勘九郎が70・80代になるまで俺は彼の舞台を見続けることにしよう、そしてこういう奇蹟がまた起きたら、「あいつもますます先代に似て来たなあ」とか客席でボソボソと呟こうか、またそういう時が来るまで、俺は歌舞伎を見続けようなあと心に決めたわけです。こう云うお愉しみを与えてくれそうな親子は、役者の親子は多いと言えども、十七代目勘三郎と十八代目勘三郎の親子しかいないと思うのです。

ところが、平成24年(2012)12月5日に勘三郎が57歳で逝っちゃいました。吉之助のお愉しみは永遠に失われてしまいました。どなたか年配の方がお亡くなりになった場合は、心の準備がそれなりに出来ているから静かにお見送りが出来るでしょうが、若い方であるとそうは行きません。まして勘三郎の場合、自分と同年代で、ずっとあいつの舞台を見ていくと決めていた役者であったので、吉之助にも辛いものがありました。確か通夜で十代目三津五郎が・彼も同世代ですが、「身体の一部をもぎとられたような気分」と漏らしたそうです。吉之助も同じような気分でした。その三津五郎も先に逝っちゃいましたがねえ。

まあそう云うわけであの時を思い出すとなかなか辛いのですが、吉之助が勘三郎に期待したことは、まず父親を通して六代目菊五郎の理知的な芸(アポロン)を蘇らせること、次に父親を通して初代吉右衛門の情熱的な芸(ディオニッソス)を蘇らせることでした。武智鉄二が次のように書いています。

『五代目勘九郎にかけられる期待は、おおむね血筋を負うところが多い。(中略)彼は母方の祖父に六代目菊五郎を、父方の伯父に初代吉右衛門を、それぞれ持っている。競馬のサラブレッドではないが、クモワカの仔のワカクモの仔がテンポイントといった調子である。(中略)菊吉の血を一身に兼ね備えている俳優は、他にはいない。吉右衛門系が情熱的な役者馬鹿系で、菊五郎系はどこか理知的なところがある。(中略)そういう二つの陰陽相反する特徴が、さて具体的にどのように結実しているのであろうか。アポロン的な菊五郎と、ディオニッソス的な吉右衛門、その二神を一身に兼ね備えるということは、人の身で可能なのであろうか。』(武智鉄二:「告解的勘九郎論」・昭和53年・1978・3月・「演劇界」)

実を云うと、吉之助は血筋とか家柄とか・そう云う言葉があまり好きではないのですが、吉之助が勘九郎に期待したことは、まさに血筋に負うところで、十七代目勘三郎がある程度にまで迫ってみせた命題(アポロンとディオニッソス)に、十八代目がどこまで肉薄し・そして追い越せるかというところだったのですがね。勘三郎はこの命題と真正面から向き合う前に57歳で逝っちゃったので、回答は留保されたままとなりました。しかし、この命題は、勘三郎の一生に重く圧し掛かっていたと思います。(この稿つづく)

(R4・10・28)


4)勘三郎の重圧

野田秀樹・串田和美・渡辺えりなど、勘三郎の周囲の人たちの証言は、「熱くて・エネルギッシュで・パアッと明るくて・愛嬌があって・笑える役者・勘三郎」のイメージを裏付けるものばかりですね。その証言に全然嘘はないと思います。そう云う感じで勘三郎は周囲に対していたのでしょう。しかし、近くにいる方は木を見て森を見ないことになり、遠くにいれば見えたはずのものが見えないと云うことも、これはしばしばあるものです。勘三郎は内部にある鬱々としたものを隠して、周囲にこれを決して見せないようにしていたと思います。そのために無理して明るく振る舞っていたと思うのです。

吉之助は勘三郎とは面識はありませんが、一度だけ素顔の勘三郎を見掛けたことがあります。それは平成17年(2005)2月歌舞伎座前でのことでした。因みに、その翌月(3月)が十八代目勘三郎襲名披露興行に当たります。したがって当時彼はまだ五代目勘九郎で、当月(2月)の出勤はありませんでした。吉之助はたまたま用事で銀座に行って、時間が余ったので・次いでに歌舞伎でも見るかということで、一幕見待ちの行列に加わりました。しばらく待っていると、歌舞伎座前の天津甘栗(昔はそういう露店があったんです・今はないけど)の煙の向こうから、Gパンのポケットに手を突っ込んだ、浮かない表情の勘九郎がやって来たのです。それはいつものテレビ雑誌で見る・賑やかな勘九郎とは全然違う印象でした。勘九郎は顔を上げて・行列している我々を見て、一瞬「こりゃマズいところに来ちゃったな」という表情を浮かべました。が・すぐ表情を直して、我々の方に「スミマセン」という感じでヒョコンと頭を下げて、無言で通用口に消えました。声を掛けた人は誰もいませんでした。そう云う雰囲気ではなかったのです。思えばそれは七之助の不祥事報道があってから1週間も経っていない時のことでした。多分勘九郎の表情が暗かったのは・そんなことが原因していたかとも思いますが、真相は分かりません。

まあこれだけで判断するのは早計ですが、どちらかと云えばネクラな人だなと云うのが、その時に吉之助が受けた勘三郎の印象です。これは昭和の勘九郎時代の、どこか色調が暗めの舞台とも印象がピッタリ符合します。人気コメディアンでも普段は寡黙な人が少なくないのと似たようなものです。傍から見ると、勘三郎は菊吉の血を一身に引き、つまり歌舞伎界の正統派サラブレッドであり、父親とセットで人気もあって、しかもこれが何より大事なことですが・確かな技芸を持っていました。実に恵まれた環境にあったわけです。普通にやっておれば、そこそこの努力さえしておれば、そのままエスカレーターに乗って歌舞伎界を背負う役者になると期待された存在でした。「そうなって当たり前」と誰もが思う存在だったのです。しかし、逆にそれが本人への相当な重圧(プレッシャー)になっていたのです。周囲から「出来て当たり前」と思われることほど辛いことはない。その重圧は本人にしか分からないものです。

勘三郎の平成中村座や野田歌舞伎などの実験歌舞伎は、そうした重圧への反発から生まれたものだと思います。三代目猿之助の場合は、沢瀉屋は元々歌舞伎界のなかで主流ではなく、最初から異端を標榜してのスタートでした。猿之助には自ら退路を断ったようなところがありました。勘三郎の場合には、「将来は歌舞伎の正統を担うと目される役者が、伝統に甘んじることなく・敢えて異端に挑戦する」というポーズがカッコいいということになるので、そこが猿之助歌舞伎の姿勢とちょっと異なります。勘三郎には帰れる場所があったのです。それは正統歌舞伎のことですがね。(昭和と平成と云う時代の違いもあるでしょうね。平成の方が感覚的に保守に傾いていると思います。)

ここで伝統と革新という二つのテーゼが出て来ます。つまり「愉しく笑える実験歌舞伎もやりますが、伝統を守った正統歌舞伎もしっかり勤めます」ということになるのです。こうして勘三郎は、芸道二筋道を歩むことになります。しかし、これが勘三郎に新たな重圧を与えることになるのです。(この稿つづく)

(R4・11・4)


5)「法界坊」の思い出

勘三郎の思い出話をもうひとつ書きます。平成17年(2005)8月歌舞伎座での「法界坊」の思い出です。この舞台は当日券の・一階補助席で見ましたが、串田・勘三郎の悪ふざけが過ぎて・今思い出してもあまりいい気分がしない舞台でした。しかし、まあ勘三郎の法界坊はテンション高く騒いで・走り回っておりましたね。序幕のことでしたが、バタバタと客席通路を駈けて来た勘三郎が何か捨て台詞を言って・吉之助のお隣りの男性客の肩をポンと叩いて・またバタバタと走り去って行ったのです。つまりそのお客は関係者の方(サクラ)だったということなのですがね。その時、勘三郎の身体が吉之助に当たったのですが、法界坊の襤褸の衣装はヨレヨレの布で出来てるかと思いきや・糊でバリバリに固めて提灯みたいであったので吃驚した記憶があります。この時に感じたことですが、バタバタ客席を駆け回っていたせいもありましたが、水面に首を出してアップアップしている魚みたいに、勘三郎がゼイゼイして見えたことです。かなり無理をしてるなあ・・という印象でした。それでこの時の観劇随想に次のように書いたのです。

『勘三郎の法界坊はよく動き回り、テンポもあって客席を沸かせます。生き生きとしていて・水を得た魚のようです。こういうのが心底好きなのですね。確かに先代(十七代目)も法界坊ではいろいろ悪戯をやりました。それが可笑しかったことを吉之助も否定はしませんが、先代のファンを自認する吉之助でも法界坊を先代の代表作に挙げたいとは思いません。やっぱり歌舞伎役者は古典で成果を挙げて評価されてこそ本望というものです。当代(十八代目)勘三郎はどこへ行くつもりでしょうか。背反する要素を同時に追おうとすれば・どちらもうまく行かなくなるのです。人間はそんなに器用ではないのです。歌舞伎役者がスタンスをどちらに置くべきかと言えば・それが古典であるのは当然だと思います。古典のなかでこそ役者としての生き様が評価されます。「理屈ぬきで楽しく面白い歌舞伎」が片方にあって・「真面目で神妙な古典歌舞伎」がもう一方の対極としてあり、自分はそのどちらもきっちり演じ分けられると思っているならそのうち行き詰まるでしょう。盛綱を楽しげに・法界坊を神妙に演じる。そういうことを勘三郎はそろそろ考えてみてもいいのではないですか。それでちょうど良いと思いますが。』十八代目勘三郎の「法界坊」・平成17年・2005・8月18日)

吉之助がこのように書いたのには、実は背景がありました。これはもう時効みたいなものだから・初めて明かしますが、当時の吉之助はその2年くらい前から本業の会社勤めのストレスで若干鬱病気味で、軽めの薬を飲みながら仕事を続けていたからです。(当時の吉之助が書いた文章からはほとんどそのような気配が見て取れないので・傍目からは分からなかっただろうと思いますが、そう云うことでした。おかげさまで、現在はまったくそう云うことはございません。)勘三郎の法界坊の、ハイテンションの高くかすれた声・呼吸の浅いゼイゼイした台詞は、当時の吉之助の神経に痛く響きました。勘三郎も同じ病気だなあ・・このままだと勘三郎もそのうち倒れるだろうなあ・・多分そう遠いことではなかろう・・と感じたのです。

ビジネスでも芸事でも同じですが、仕事にはストレスが付き物です。また適度なストレスがなければ、良い仕事はならぬものです。しかし、波長があまり良くない種類のストレスと云うものがあります。そう云うストレスは、内面から精神を弱らせ、身体を蝕むことがあるものです。吉之助が勘三郎に感じたものは、その種の良くない波長のストレスでした。当時勘三郎に関してこのようなことを指摘した人は、吉之助以外には誰もいなかったと思います。これはそう云うことを経験した者だから分かることです。

勘三郎が特発性難聴の症状を発したのは、平成22年(2010)暮れのことであったようです。翌年・平成23年1月の勘三郎の出勤はありませんでしたから、2月新橋演舞場公演から休演ということになりました。(その後、同年9月・大阪新歌舞伎座公演で復帰。)当時のマスコミ報道では、「過労による体調不良」だとされました。吉之助は特発性難聴になるとまで思いませんでしたが、別に驚きはしなかったのです。ついにこの時が来てしまったか、あれから数えて5年目か・・よく我慢したもんだなあと云う感じでしたねえ。

安易な決め付けはイケマセンが、吉之助からすれば、勘三郎が倒れた原因は痛いほど分かったのです。「理屈ぬきで楽しく面白い歌舞伎」(平成中村座や野田歌舞伎)が片方にあり、「真面目で神妙な古典歌舞伎」がもう一方の対極としてある。しかし、アイツは血筋がいいんだから古典が出来て当たり前、本流だからいつか古典を背負うことになると誰もが見ている重圧(プレッシャー)が付きまとう。だから「古典の役も真面目に神妙に勤めます」というのが、勘三郎がおふざけの役を演ることの、あの世の祖父や父親への、申し訳になっているのです。このため勘三郎が勤める「古典」の役どころが妙に重く、暗いものになって行きます。だからあの時、「盛綱をもっと楽し気に・法界坊を神妙に演じなさい」と書いたのですがね。勘三郎はそのような「芸道二筋道」に追い込まれて、そして倒れたわけです。(この稿つづく)

(R4・11・17)


6)アポロンとディオニッソス

ここに「理屈ぬきで楽しく面白い歌舞伎」(平成中村座や野田歌舞伎)・つまり熱狂と祝祭の神ディオニッソスと、「真面目で神妙な古典歌舞伎」・すなわち理性と芸術の神アポロンという二つのテーゼが見出されます。「この相反する二神を一身に兼ね備えることが、人の身にして可能なのであろうか」ということ、これが勘三郎が背負わなければならなかった重い宿命であったのです。しかし結果として、不意の病魔によってその回答は保留にされてしまいました。

ここまで吉之助の観劇歴と重ね合わせて勘三郎のことを回顧してきました。本稿を役者論にするつもりはないので・話はこれで打ち切りにすることとしますが、新作歌舞伎の動きは令和の現在も続いており、これは明らかに三代目猿之助から十八代目勘三郎を経た流れのうえにあるものです。だから勘三郎の挑戦の精神は形を変えながら、現在も引き継がれていると思います。しかし、考えておかねばならぬことは、歌舞伎役者はいつでも歌舞伎座へ戻って「いつもの古典歌舞伎」をやらねばならぬと云うことです。歌舞伎役者のスタンスは、常に古典歌舞伎の方に置かねばならぬ、そうしないと古典歌舞伎の骨法がいとも簡単に崩れてしまうのです。勘三郎ほどの天才でさえ、「盛綱を楽し気に・法界坊を神妙に演じる」ことはついに出来ませんでした。21世紀の現代に、江戸の呪縛から逃れることが出来ない歌舞伎という演劇のなかで、新作歌舞伎と古典歌舞伎の流れを並列させることは、それほどまでに難しい。新作歌舞伎をやるからには、そのことの難しさを覚悟してかからねばなりません。勘三郎の役者人生から学ぶべき教訓は、そこだと思います。

もし勘三郎が病魔から見事生還して存命であるとすると、現在は67歳になるわけですが、多分勘三郎は、古典に専念して欲しいという吉之助の期待には応えず、相変らず(性懲りもなくと云うべきか)新作歌舞伎で舞台を駆け回って笑っていることでしょうねえ。だから勘三郎が「熱くて・エネルギッシュで・パアッと明るくて・愛嬌があって・笑える役者だった」という印象は、勘三郎は今後もそのように世間に記憶されていくでしょうし、吉之助もそれで良いと思っています。歌舞伎の家に生まれた子供は、幼い時から芸事の修業をさせられたりして、学校の友達と遊びたくても遊べない、それで「どうして自分は歌舞伎の家に生まれたんだ」と自問自答を繰り返して苦しみながら、一人前の役者に成長していくなんてことが多く、生まれた時から芝居大好きなんてことは少ないようです。勘三郎はその数少ない例で、初舞台から天才子役で人気者でありました。しかし、勘三郎も、血筋と家柄のおかげで・「ちびっこギャングの勘九郎ちゃん」から苦労なく・順調に成長してそうなったということではなく、その背後に、実は過酷なほどの「伝統の重圧(プレッシャー)」との戦いがあったのだと云うことだけ、ちょっと頭の片隅に置いていただければ、勘三郎・没後10年の・良き供養になるだろうと思いますね。

(R4・11・21)





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