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伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論


古典ということ

本年(2008)は昭和63年(1888)7月26日に亡くなった武智鉄二の没後20年にあたります。武智鉄二(大正元年〜昭和63年)は演劇評論家であり ・伝統芸能の最後のパトロンであり、優れた演出家・映画監督でもありました。最近の歌舞伎の世界では武智鉄二の名前を聞くことはほとんどなくなりました。「武智歌舞伎」もはるか昔の出来事のようです。しかし、今の藤十郎や富十郎のきちんとした 風格の舞台を見れば・その芸の原点にあるところの「武智歌舞伎」での修練とはどんなものであったか・ということも思い浮かぶかと思います。

生前の武智に影響を受けたと発言している方は少なからずいらっしゃいます。しかし、批評の世界で武智の思想を継承発展したと思える方は残念ながらあまりいないようです。せいぜい階級闘争史観やフロイト心理学を作品解釈に取り入れるといった武智理論の表層的な摂取に留まっています。いわゆる武智理論と言われるものは歌舞伎をそのような社会学的・心理学的視点から解釈するものだと一般的に理解されていると思います。まあそういう点では出現当時は斬新な見方と言われた武智の歌舞伎観も定着して・普通の見方になってきたということができる と思います。しかし、そういうものは武智がある種の時代的 な流行(はやり)から取り入れた理屈であって、実は武智理論の本質的なところではないのです。マルクスの階級闘争史観もベルリンの壁が崩壊して・ソビエトという共産国家さえなくなった現代においてはもはや時代遅れの感があります。フロイト心理学も何でもかんでも性(セックス)の視点から裏の心理を読むものだというのが昔のイメージ だったと思いますが、そう思っている限り発展はありません。もうそろそろそ れを越える視点があっても良い頃だと思うのです。しかし、歌舞伎批評を見る限り武智の指摘したところから発展した様子はないようです。

歌舞伎批評において武智が真に重要であるのは、芸能の世界に「クラシック(古典)」という概念を武智が提示したということです。この認識から武智は伝統というものが民族に及ぼしている影響とは何か・伝統に立ち返ることはどうしたら可能か・ということを考えるのです。この問題は歌舞伎という芸能にだけ係わるものではなく、我々日本人が日本人であるということはどういうことかという問題にもなって きます。このことが現代において重要さを増していることは言うまでもありません。しかし、実はこれが最も疎かにされている問題です。これでは武智の名前が忘れ去られるのも無理もありません。

「歌舞伎素人講釈」で吉之助は武智鉄二を勝手に「我が師匠」としています。吉之助は武智と個人的な面識はありません。吉之助が見た武智の演出作品は歌舞伎では10本程度、あとは「月に憑かれたピエロ」(シェーンベルク)や「カーリュー・リバー」(ブリテン)くらいのものです。しかし、武智の著作 (定本「武智歌舞伎」全6巻)は吉之助にとってバイブルです。サイト「歌舞伎素人講釈」は武智理論を出発点としており、これを継承発展することをひとつの方向に持っています。吉之助が提唱している「かぶき的心情」も・バロックの概念も、実は武智の思想と方法論をそのルーツに持っています。 そこで我が師匠武智鉄二没後20年にあたり、本稿では武智の多彩な側面のうち・芸能思想家 (芸能史家)としての武智に焦点を絞って・吉之助が武智の思想からどのような影響を受けたか思いつくまま書いてみたいと思います。

(H20・5・14)


2)西洋音楽のこと

最晩年(昭和63年)のことですが・武智鉄二が座談会で・今後はどのような活動をしていくつもりかと問われて、「僕についてこのことは誰も指摘してくれないのだけど・・」と前置きして、自分の評論の出発点はクラシック音楽のレコード批評にあったこと・そしてできればもう一度その方面の活動に戻ってみたいと語った そうです。このエピソードに吉之助が感じることはふたつあります。ひとつは誰でもそうですが人は最後に自分の原点に戻っていくものかなという感慨と、もうひとつは伝統芸能の分野に関してはもう自分の仕事は終わったというような武智の軽い脱力感とふたつです。そのふたつの気持ちが武智のなかで交錯しているようです。

武智本人が自分の評論の出発点はクラシック音楽のレコード批評にあると語ったことは非常に興味深いと思います。実は吉之助も歌舞伎批評をやる以前にクラシック音楽批評を志していたということがあり、歌舞伎よりクラシック音楽の方がつきあいが長いのです。吉之助と武智はその出発点に共通項があるわけです。武智は大正元年(1912)の大阪生まれですが、学校での音楽授業のこともあって・武智は少年時代からせっせとSPレコードを集めて・蓄音機でベートーヴェンなどよく聴いていました。今の時代ならばこれは当たり前のことのようですが、大正の当時にそういうことが出来たのは金持ちに限られていました。蓄音機自体がまだ日本では世に出たばかりでしたし・洋楽に親しむ習慣自体が一般的でありませんでした。

武智少年が蓄音機でレコードを聴いていると・武智の母親は頭がガンガンして気持ちが悪いから止めてくれとよく言ったそうです。周囲に西洋音楽が溢れている現代では想像が出来ませんが、当時の日本人は洋楽を聴くと気分が悪くなる人が多かったのです。邦楽と比べると西洋音楽は音もリズムも明解で・かっきりした構造を持っています。邦楽脳で聴けば・西洋音楽はとても窮屈で自由度がないように聴こえるようです。逆に西洋音楽脳で聴けば・邦楽は曖昧模糊としてとらえようがないということになります。ここで注意せねばならないのは武智少年がベートーヴェンを聴いて頭が痛くならなかったらしいことです。大事なことは武智少年がまだ完全ではないにしても多分に西洋音楽脳的な音楽の聴き方をしていたということです。もちろん武智少年の周囲にはそれ以上に邦楽が溢れており・それを精神的土壌とするところがあったのですが、武智少年にそのどちらも受け入れる素質があったということです。これが晩年の武智自ら言うところの武智理論の原点です。

現代においては学校教育・あるいは社会環境によって・日本人は西洋音楽と無縁でいられることはあり得ません。どんな人でも良かれ悪しかれ西洋音楽の影響をこうむっています。例えば民謡でも現代の歌い手による民謡は・どことなく西洋音楽音階的に聴こえます。NHKの古い音源で昭和初期の同じ民謡の歌唱を聴くと、これはちょっと同じ音楽とは思えないほどです。昔の音源を聴くと・こちらの頭のなかにある西洋音階が全然当てはまらないようです。これがどういう音程なのか・自分で同じようにうなってみてもその音のツボが全然分からないということがしばしばあります。無調音楽を聴いている気分になります。これがホントの「正調」かということに軽いショックを覚えます。一方で現代の歌い手による民謡は正調と銘打っていても・どこか聴きやすいのです。どこがどうと明確に指摘できないですが、知らず知らずに西洋音楽の影響を強く受けている のだろうと思います。これは必ずしも邦楽が駄目になったということではなく・現代に生きている以上そうならざるを得ない・仕方のないことだと思います。

同じことは民謡だけでなく、実は文楽の義太夫・長唄やその他の邦楽でも言えます。山城少掾の録音を聴きながら・それに合わせて同じように口のなかで音を追っていると・「これは何の音だ」と思うものに必ずぶつかります。吉之助にとってそれはある種の違和感であり・不快でもあり、しかし刺激的でもある不思議なものです。それは無調感覚であり・意識がふっと宙空に飛ぶ感覚です。山城少掾以前の古い義太夫の録音ではこうした 感覚がしばしばあります。ところが現代の大夫ではそう した場面がぐっと少なくなります。頭のなかで処理しやすい音であり・西洋音楽を聴きなれた耳には聴きやすいのですが、意識が宙を飛ぶ場面は少ないようです。演奏する側と・聴き手の相互の関係もあり、これは邦楽の堕落だと安直に決めつけるわけに行かない・なかなか複雑な問題を孕んでいます。

(H20・5・18)


3)邦楽と西洋音楽

武智の出発点がクラシック音楽にあることは、武智の批評のどういうところに出ているでしょうか。その原点は邦楽を聴くとそれがどういう音程なのか・その音のツボが全然分からない・無調音楽を聴いている気分になって・意識がふっと宙空に飛ぶという感覚にあると思います。

武智は三味線のモデルは安土桃山期に南蛮人によってもたらされたギターであると推察しています。(注:これについては未だ結論は出ていないようです。)同時に間違いなく西洋音楽(主として教会音楽)が流れ込んできたでありましょう。(これも 十分な史料がなく・実態は推測の域を出ない。)当時の西洋音楽はルネサンス期の教会旋法による音楽で・我々がよく知っているバッハ以降の西洋音楽よりも以前のものです。武智は三味線の登場が邦楽にもたらしたものは、音程・明確な定間のリズムの概念・そしてそこから派生するところの間(ま)の概念であると指摘しています。「歌舞伎素人講釈」ではそのすべてを検証してはいませんが、 例えば「試論「間(ま)について考える」をご参照下さい。音程のことで言えば、義太夫では大夫はしばしば三味線の作り出す音程のツボをはずそうとし・逆に三味線は大夫の音程に近づこうとする(ニジる)ということがあります。ここに武智は西洋音楽由来になる三味線と・邦楽の語り物音楽の系譜を引く大夫との 軋轢と融合を見るのです。こういうイメージは武智が西洋音楽も邦楽も理解しているから出来る推察です。

邦楽が西洋音楽の概念に当てはまらない独特なものだということを説くのにやっきになってるみたいな本を見かけま した。(書名はあえて伏す。)西洋音楽がグローバル・スタンダードのように思っているのでしょうが、実は世界の音楽からすればむしろ西洋音楽の方が特異な発展を遂げた形態であって・邦楽の方がノーマルな形態なのです。(同様のことは思想分野での西洋合理 主義についても言えます。)そう考えればシェーンベルクの十二音音楽(無調音楽)が西洋音楽史のなかでどういう意味を持つかはおのずと分かります。それは調性音楽の崩壊ということではなく・民族音楽への回帰という面を持つわけです。武智はシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」に触れて・十二音音楽と邦楽との感覚的な類似を記しています。日本人の生活のなかに西洋音楽がこれほど当り前になった現代において、邦楽が西洋音楽の概念で解明できない独特のものだと力説するのは尊皇攘夷論みたいで滑稽なことだと思います。むしろ西洋音楽理論をしっかり踏まえた視点での邦楽論がそろそろ出てきても良い頃だと思います。武智の邦楽論はまとまったものがあるわけではありませんが、その音楽論・リズム論はとても示唆あるものです。

(H20・5・21)


4)ノイエ・ザッハリッヒカイト

武智少年がベートーヴェンを聴いて頭が痛くならなかった・多分に西洋音楽脳的な音楽の聴き方をしていたらしいことは非常に大事なことです。吉之助の体験で言えば・クラシック音楽にのめり込んだきっかけは、ベートーヴェンの交響曲第5番が建築とも言える論理構造にとって作られていると 知った時でした。ヨーロッパでは音楽を論理学の一種として教えるそうです。吉之助にとってクラシック音楽の事件はいくつかありますが、いくら聴いても線と色の変化にしか聴こえなかったワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が突然構造で明確に聴こえてきた体験は吉之助にはとても感動的なものでした。

このように音楽を構造として捉えるのが吉之助の聴き方ですが、もうひとつの聴き方は音楽を情緒(気分)として捉える行き方です。日本人の場合かなりのクラシック音楽通でも音楽を情緒で聴く傾向が強いようです。別に聴き方に良し悪しがあるわけではないですが、実は音楽の感じ方に結構違いがあります。(この点はいずれ別の機会に考えたいと思います。)武智の場合は吉之助と同じく音楽に構造を聴くという傾向です。この類似は武智の文章を読めば・吉之助には明確に感じ取れます。

「音楽を構造として聴く」とは、音楽を音階とリズムの構造体として受け止めるということです。作曲者は何を訴えるのか・この旋律は何を表現しているのかなど文学的修辞(メッセージ)を恣意的に読まないということです。もちろん芸術作品のなかにメッセージが厳然としてあることは間違いないですが、メッセージは受け手の脳裏に映像のように浮かび上がるもので・媒体自体にメッセージはないとするのです。音楽の場合は楽譜がありますから、調性・音階は変えることが出来ません。作曲者が楽譜に明確に規定することが出来ずに・演奏者の裁量に任されるところが大きいのはまずテンポ・次に音量ですが、特にテンポの影響が大きいことは言うまでもありません。音楽表現に恣意的な要素を介在させないということになれば、取るべきテンポは 当然「イン・テンポ」(最初に取ったテンポをあまり動かさないで・できるだけ一定に保つ)ということになります。これを演奏様式のなかに当てはめるとノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)ということになります。

別稿「左団次劇の様式」のなかで「ノイエ・ザッハリッヒカイト」について触れました。 それは20世紀初頭に勃興した芸術思想を指し、当時の音楽界では指揮ではトスカニーニ・ピアノではギーゼキングがその代表でした。日本では昭和初期に西洋から流入した芸術思潮です。ノイエ・ザッハリッヒカイトの特質は演奏用様式としてはイン・テンポ、解釈の態度としては原点主義になって現れます。武智の根本にノイエ・ザッハリッヒカイトがあることは武智がかっきりとした理知的な芸風を評価したことを考えればわかります。武智は歌舞伎では六代目菊五郎を評価し、初代鴈治郎や十五代目羽左衛門をその対極に見ていました。文楽では山城少掾や初代栄三を評価し、三代目津大夫や文五郎(難波掾)を評価しようとしませんでした。また歌舞伎批評においても徹底した丸本の読み込みによって・歌舞伎の仕勝手を糾弾しました。これすべてノイエ・ザッハリッヒカイトの態度から出ている のです。ただし、イン・テンポや原点主義という要素はノイエ・ザッハリッヒカイトの思想の表面に出てくるものに過ぎません。武智理論の根本を考える為には芸術思潮としてのノイエ・ザッハリッヒカイトがどういう意味を持つのかを考えてみる必要があります。

(H20・5・25)


5)聴覚の基準

義太夫の三味線と大夫の駆け引きに、西洋渡来楽器である三味線と語り物の系統である(在来の邦楽である)浄瑠璃とのぶつかりあい・つまり西洋音楽と邦楽の衝突であると捉えるところに武智の独特の感覚があります。その発想の原点は武智が大夫の語りを聴く時にそれが三味線のツボにはまらないことがある・そこに何とも言えない無調感覚を感じることにあります。逆に言えば武智は聴感に基準になるツボを持っているということです。基準があるから「はずれる」という感覚があるわけです。聴感に絶対的な基準がなければ「はずれる」という感覚もないことになります。武智はその感覚をどこから得たかと言えば・それはやはりクラシック音楽です。

山田耕作が長唄交響曲(昭和9年・1934)を作曲した時、「長唄においては三味線が常に定旋律を形成し、唄はその定旋律に対して自由に流転する対位的旋律を形作っている」と見なし、三味線の旋律から管弦楽をの旋律を対位的に作曲していったそうです。これは長唄は唄が主旋律で・三味線は伴奏であるという一般的見解と全く異なる考え方です。しかし、武智の三味線渡来楽器説を知っていれば・長唄のなかに西洋音楽との接点を見るならば・三味線をベースに管弦楽を構築していく ことはまったく道理だと思います。長唄を研究するなかで山田耕作も武智と同じような結論に達したと思います。 (別稿「山田耕作の長唄交響曲」をご参照ください。)

同様なことはリズムについても言えます。正しい拍(リズム)の感覚がなければ「間が良い・間が悪い」ということの解明はできません 。武智の「間(ま)」の理論もクラシック音楽から得たものです。義太夫でも長唄でもその拍の基準は三味線が作り出しています。ですから「邦楽は西洋音楽的な音程がない・リズムがない」とよく言われますが、武智は西洋音楽的な視点から邦楽の独自性を押さえようとしています。三味線の示す音程を大夫がその独自性を主張するかのように音をはずしにかかる・あるいはそのはずした音程に三味線の方からにじり寄る。義太夫を聴きながらそこに西洋音楽と邦楽の軋轢と融合のイメージを武智が思い描いたということは、その感覚の鋭さと想像力に感嘆するばかりです。

(H20・5・30)


6)バロックへの意識

西欧の音楽表現の流れを見ると、ロマン主義的な表現が19世紀に全盛期を迎え・爛熟して・やがて行き詰まり・ 崩れていったものが世紀末芸術であり、これを古典的な感覚へ引き戻そうとするものがノイエ・ザッハリッヒカイトであると一般的に考えられています。これはもちろんそういう見方 もできます。一方、「歌舞伎素人講釈」のバロック論ではロマン派芸術の本質に潜んでいるバロック性が露わに顔を出したのが世紀末芸術であると言う見方を提唱しています。この見方を取れば、古典的な方向に表現を引き寄せながら・逆に自らのなかにあるバロック性を強く意識しているのがノイエ・ザッハリッヒカイトなのです。

「歌舞伎素人講釈」では江戸の状況は19世紀の西欧の状況を先取りしており、19世紀末のジャポニズムは西欧の芸術家たちに自分たちの進むべき道を指し示したのであると考えています。興味深い現象が20世紀初頭に起きています。まず歌舞伎において明治36年(1903)に九代目市川団十郎の死 ・つまり江戸歌舞伎の終焉が起きます。そして西洋音楽においては大正1 5年(1926)ミラノにおけるプッチーニの「トゥーランドット」初演・つまり19世紀グランドオペラの観念上の終焉が起きるのです。(別稿「歌劇におけるバロック」を参照ください。)ノイエ・ザッハリッヒカイトはこのような時期に勃興した芸術思潮であることに注目をしてください。

九代目団十郎の死の後・歌舞伎は滅びるという危機を残された歌舞伎役者たちは「団十郎はこうやった・菊五郎はこうやった」ということを金科玉条にして切り抜けたということは別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎」において考えてきたことです。九代目団十郎の死以後の歌舞伎は、もはや同時代の演劇ではなくなったのです。この時から歌舞伎の「型」は、その通りにしなければ歌舞伎にならない・その通りにしさえすればとりあえず歌舞伎に見えるというものにな りました。逆に言えば「歌舞伎」とは何であるか・どうすれば歌舞伎に見えるのか・ということを常に自らに問い掛けねばならぬ芸能になったということです。これが「歌舞伎の古典化」ということです。

江戸の時代には歌舞伎は同時代の演劇であり、何をやっても歌舞伎は歌舞伎でした。面白いとか・詰まらないという議論はあったでしょうが、それをやったら歌舞伎じゃないという議論はなかったのです。しかし、現代においてはそうではありません。いくら舞台として面白かろうが・客が入ろうが・それをやっちゃあ歌舞伎じゃないよ・お終いよということが確かにあるのです。しかし、現代でもこの事実は未だに認識が十分にされていません。役者も観客もどこかで「歌舞伎はまだ死んでいない」と思っています。確かに興行としては十分成り立っていますが、伝統芸能の理念から見れば歌舞伎はもうとうに「死んでいる」のです。歌舞伎の「型」がその通りにしなければ歌舞伎にならない・その通りにしさえすればとりあえず歌舞伎に見えるというものになったということは・そういう意味です。手順をなぞればそれで良いと言っているのではありません。歌舞伎はもう死んだと認識することで、歌舞伎のなかにある「かぶいた」表現を逆に強く意識しようとするものです。ノイエ・ザッハリッヒカイトも同様です。「ロマン的な表現は死んだ」と宣言することで・逆にロマン主義のなかに存在するバロック的な本質を強く意識する芸術思潮がノイエ・ザッハリッヒカイトです。

(H20・6・1)


7)時代との乖離

ここで時系列を整理しておくとノイエ・ザッハリッヒカイトの思想が西洋から日本に入ってきたのが大正から昭和初期頃のことで、青年武智はクラシック音楽を聴きながら・その 芸術思潮に染まっていったと考えられます。ちなみに九代目団十郎の死が明治36年(1903)のことで、昭和元年が1926年になります。このように時系列を見ると歌舞伎の古典化は・西洋のノイエ・ザッハリッヒカイトの勃興と時期的に並行している のですが、歌舞伎の古典化それ自体はそうしたことと関係なく・明治半ば頃から進行していたことが分かります。

例えば義太夫の「風」の概念は杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」によって初めて世に出たものです。「浄瑠璃素人講釈」の出版は昭和元年(1926)ですが、その原稿は雑誌「黒白」に連載されたものですから成立は大正10年 より以前のことです。其日庵の言うことは即ち「名人芸妙の風を守るべし」ということです。これも明治半ばから大正期の文楽が時代と乖離していくことの危機感から生まれたものと言えます。もちろん其日庵自身はノイエ・ザッハリッヒカイトの洗礼は受けていませんが、「浄瑠璃素人講釈」を座右の書とした武智は明らかにノイエ・ザッハリッヒカイトの芸術思潮においてこれを読んだわけです。

こう考えた時に武智が伝統芸能において尊敬してきた芸術家たち、歌舞伎で言えば六代目菊五郎・七代目三津五郎、文楽で言えば山城少掾や初代栄三といった人たちの芸 の共通したイメージが浮かび上がってくきます。彼らは芸術思潮など語りもしませんでしたが、その仕事が時代・社会との距離を拡げつつあることを感覚で感じ取っていました。そして「古典化」という手法で時代との乖離を強く意識する態度が、まさにノイエ・ザッハリッヒカイトの芸術思潮と期せずして合致するのです。ですから武智の功績のひとつは歌舞伎の古典化の流れを西洋のノイエ・ザッハリッヒカイトの 芸術思潮を借りて・それを「伝統芸能」という概念で受け止め・概念化しようとしたことにあると吉之助は考えています。

(H20・6・5)


8)記録媒体の登場

ノイエ・ザッハリッヒカイトの思想の背景に、写真・映画・録音などの近代技術の影響があるということも付け加えておきます。少年武智が蓄音機でのクラシック音楽に親しみ・それが武智の批評の出発点となっていることも・そこが原点となります。写真・映画・録音などの近代技術が音楽・演劇あるいは絵画に与えた影響という ものは計り知れないものがあります。例えば絵画でも写真登場以前には「まるで本物を見ているみたい」という細密描写を売り物にした絵画が多かったのですが、写真の登場はそうした絵画を無意味にしてしまいました。パフォーミング・アートでも映画・録音の登場以前は「感情表現を細やかに」という意図で・結果的に細部にこだわり・全体のフォルムを見失う表現が少なくありませんでした。映画・録音はこれをいつでも見直せる・あるいは比べられるものにしました。このことがパフォーミング・アートに与えた概念上の影響は非常に大きいものがあり ます。現在においてもその影響は正確に見定められてはいません。しかし、「芸が残せるものになった」ということはノイエ・ザッハリッヒカイトの思想に直接的に影響しています。

明治の義太夫の名人・摂津大掾は大正2年に引退しますが、明治38年(1905)に「本朝廿四孝・十種香の段」を録音しました。粗悪な音質ですが、美声で鳴らした大掾の芸が伺える貴重な録音です。山城少掾によれば・「大掾師匠の「十種香」はこんなものではありません」ということのようです 。しかし、 武智はこの録音について「大掾は恐らく古格を正しく後世に伝えるために・忠実に師伝を祖述したのだろうと思う」と書いています。(昭和50年・「レコードに残された名人芸」)其日庵の「浄瑠璃素人講釈」のエピソードを読めばその理由が分かります。。大掾に「寺子屋」を教わっていた其日庵が叱られる話が出てきます。其日庵が「健気なヤアツーウウアアーアア」(後半のモドリの松王が死んだ小太郎のことを言う台詞)と語ったら大掾がこれを制してこう叱ったそうです。

「なぜそんな所で売りに来やはります。みっともないじゃおまへんか。年取ってどうにか前をせねば商売ができぬ私などの高座でする悪いことばかり覚えはってはドモなりませんな。アンタには本当の長門はんの浄瑠璃の息込みで教えてあげたいと思いまして、一々調べたうえでお聞かせ申しておりますがナ。少しは気を止めて聞いとクンなはれぬと困りますがナ。」

其日庵に教える場合でもこの通り。要するに「この録音は残るものだからみっともないことはできん・自分は後世に正しい芸を残す」という意識です。そこに未来の聴衆が意識されています。録音技術が進歩して編集やミスの修正が出来るようになるとその事情は多少変わりますが、当時の録音技術では一回演ったら録り直しは効きませんでした。いずれにせよそれまでは演ったらその場で虚空に消えていくしかない・見た人の記憶にしか残らないと思われていたパフォーミング・アートが「残せるもの・伝えられるもの」となったのです。歌舞伎など伝統芸能の古典化が始まったちょうど同じ時期にこうした記録媒体が登場したことは概念的に非常に大きな意味を持ちます。「団十郎はこうやった・菊五郎はこうやった」という型の記録も江戸時代にはなかった意味を持ってきます。それは残されることを前提としているのです。つまり、それはどこかで「科学」とつながっています。

武智は能・文楽・歌舞伎というパフォーミング・アートに実践的に係わり・その芸の深さを知っている人ですから、「録音なんぞにその芸の真髄は記録できない」と否定的発言をしたっておかしくはないのです。しかし、武智には記録媒体に対する拒否感覚が全然ありません。また武智は映画製作にも積極的に係わっています。これらすべて少年武智が蓄音機でのクラシック音楽に親しんでいることから来ているわけです。

(H20・6・8)


9)科学的感覚

ご存知の通り・現行の歌舞伎十八番の型は九代目団十郎が最後に弁慶を演じた明治32年(1899)4月歌舞伎座 での舞台を原型としていますが、たび重なる九代目の工夫により父・七代目団十郎が演じた「勧進帳」の舞台とは 随分違ったものになってしまいました。武智がいわゆる武智歌舞伎で「勧進帳」を演出(弁慶は富十郎・富樫は雷蔵)した時・七代目の舞台を復元してみようということになり、武智は九代目なら「こう考えてここを変えただろう」というプロセスを逆に取って型を検討していったそうです。すると九代目の型は筋道がしっかりしていて・そこを直すと・ぴった りと元に納まって七代目の型らしくなっていく・まことに直しやすい。武智は「なるほど九代目の手を経た歌舞伎は確かに筋目がしっかりしている」という印象を持ったそうです。実はこの事実は「科学」というイメージにとても近い感覚です。(別稿「科学的な歌舞伎の見方」を参照ください。)恐らくは明治から大正にかけての雰囲気と密接につながるもので、九代目団十郎の時代に芽生え・六代目菊五郎の時代に全盛期を迎えるものです。つまりそこに明確な論理性があり・この時期が歌舞伎の古典化の時代であったということを示しています。「科学」というものがある種の明るさに見えた時代でありました。むしろこうした科学的感覚は現代の方が希薄になっています。 ところでグレン・グールドがこんな発言をしていて面白いなあと思いました。

『私が信じられないのは、わざわざこう発言する人がいることです。「この曲を弾いてみようと思います。なぜならXとYとZが弾いているからです。ただし私なりの独自性を少々主張するために、ほとんどXの弾き方を踏襲しつつ、Yの弾き方の10%を加味し、もしかしたらZのテンポを採用するかも知れません。そうすればこの三人の誰とも微妙に異なって聴こえるでしょうから、前にもそうやって弾いた人がいたよ、などと言われずに済みます。」これは音楽を構造として捉える私の態度とはかなり異なるプロセスです。』(グレン・グールド・1980年のインタビュー)

歌舞伎の役者でも似たような発言をする人がいますね。また劇評家にもそういうのを役者の工夫だと評価する方もおられるようです。しかし、解釈や型というのはここをつまんで・ここは捨てて・ここをもらって・くっつければ独自の ものが出来上がりというものではないのです。部分を変えれば・全体の解釈のバランスが崩れてくるのです。表面的な演技の手順が「型」だと思っているからそうなるわけです。 あるいは面白ければそれで良いじゃないかと思っているのかも知れません。「歌舞伎素人講釈」では「型の概念の転換」ということを何度か取り上げましたが、現代においてはその辺がますます曖昧になっています。「型」というのは解釈・その作品(あるいは役)をどう捉えるかの筋道です。「筋道が通ってるかどうか」ということを計るのにはやはり科学的感覚が必要です。武智はそのような科学的感覚を大事にした演出家であり・批評家でありました。

(H20・6・14)


10)科学的感覚・続き

武智の著書に「舞踊の芸」(東京書籍・1985年・今は古本屋さんでないと手に入らないと思います)がありますが、「娘道成寺」か「鏡獅子」がよく分かる入門書みたいな期待をして読むとこれが大違いで・まるで日本古代史か民族史のような感じで話が始まるのでビックリするだろうと思います。しかし、武智の考えでは日本民族の成立過程を踏まえないと・日本舞踊の動きの本質は分からないということかと思います。

武智は日本の民族舞踊を研究していくなかで・そこに農耕民族としての生産性に根ざした動き・大地をしっかりと踏みしめる安定感のある動きが基本であることに注目します。跳躍のような反動をつけた動き・旋回のような遠心力をつけた動きは騎馬民族の動きであり、日本舞踊にはこの動きがあまり見られないと武智は分析します。また日本の伝統音楽の基本は二拍子であり・三拍子の民謡はあまりありません。これは朝鮮半島でも状況は同じで・農耕歌はだいたい二拍子で、三拍子の民謡はほとんど生産から離れた遊び歌です。三拍子は馬が駆ける時のギャロップの時の縦振動のリズムから来るもので、こうした動きは日本の民族舞踊に見られません。この認識から武智は江上波夫が提唱した「騎馬民族征服王朝説」に異議を唱えるのです。江上説が正しいのならば・日本人の動きのなかに騎馬民族の動き(跳躍・旋回など)が混入するはずだと武智は言 います。武智の「古代出雲帝国の謎 」(祥伝社・1975年)も同様な考えからのものです。このように武智は伝統芸能を実践する立場から歴史学・社会学に対して反証し・提言を行なうのです。

例えば社会思想史などで江戸期の社会・世間についての見方を論じる場合、劇作品としては近松門左衛門の世話物が引き合いに出されることが多い(近松以外は触れられることさえない)ですが、社会学の先生の読む近松の読み方は芝居好きから見ると納得行かないものが多いと感じます。芝居を見たことあるのか知らんと思います ねえ。逆に言うとその本で論じられているところの江戸期の社会・世間 あるいは武士道などの概念がどこかしら変だと感じられることが多い。ところが、逆に歌舞伎の研究者や劇評家の方にそうした社会学・思想史の成果をそのまま鵜呑みにして歌舞伎を解釈してるものが多い。だから結果として歌舞伎研究や批評には珍妙な作品解釈が少なくないと思います。伝統芸能は歴史的過程の積み重ねですから・経時変化があるとは言え・いわば生きている時代の証人です。タイムマシンがない以上は、当時の人々の心理感情をヴィヴィッドに追体験するには文学や芝居など芸術体験に頼るしかありません。文学や演劇研究の立場から もっと感覚的に生きた・積極的な提言が歴史学・社会学・思想史の分野にもっとされても良いと思うのです。武智の業績がその分野でどのように評価されているのかは定かではありませんが、吉之助の見る限りでは芸能の世界でそういう活動を意識的にしているのは武智以外では・映画評論の佐藤忠男氏くらいのものだと思います。

民俗学研究においては現地でのフィールドワーク・つまり実証という作業が大事な仕事です。ところが芸能分野はその変容の度合いが非常に大きなものがあって・その変り様がまったく別物と考えてもいいほどのものもあります。したがって、田植え唄であるとか・巡礼唄のような素朴な芸能ならば話は別ですが、今現在の舞台で見られる形態の能狂言や歌舞伎を認めつつ・これらをフィールドワーク的に研究していくことは 非常に難しいことになります。しかし、能狂言も歌舞伎も間違いなくそのルーツを民俗に持っているのですから、現行の舞台からそのルーツを類推あるいは想像することは決して不可能ではありません。どこかにその痕跡が間違いなくある。だからこそ能狂言も歌舞伎も「伝承芸能」と称するのです。能狂言や歌舞伎のような芸能分野を研究対象にしようとするならば、その見方にある種の感性の飛躍(ワープ)が必要になります。そうすることでそこに原点からまっすぐにつながる一本の線を見出すことが出来ます。これが科学的思考(プロセス)というものです。折口信夫と武智鉄二はそういう思考が出来た人だったと吉之助は思います。(別稿「科学的な歌舞伎の見方」をご参照ください。)

(H20・6・18)


その11)「正しい・正しくない」という感覚

戸板康二氏は武智と同時代の批評家ですが、戸板氏の批評は文章スタイルにおいても・批評の立場においても・物事の白黒をはっきり付けて容赦がない武智の批評と対照的でした。吉之助は武智の弟子を自称している位ですから、戸板氏の批評を「ぬるい」と思っていた時期が確かにありました。(現在は 中庸を保った戸板氏のスタイルは学ぶところが多いと思っています。)ある時 、戸板氏が「岡(鬼太郎)さんは文章が下品。私の理想は三宅(周太郎)先生である」と書いていたのを思い出します。戸板氏にしてははっきり書いたなあと思って強く印象に残っています。多分、戸板氏は武智の文章 を下品と感じていたと思います。武智は役者の演技をこきおろす時に「国語の勉強をやり直せ」とか「脳膜炎」とか罵詈雑言をぶつける傾向があったのでそれで要らぬ敵を随分作ったと思います。 まあ武智本人は憎まれ役を気取っていたとは思いますが。

歌舞伎学会誌「歌舞伎」26号で・山田庄一氏が武智氏の思い出を語っておられます。昔、山田氏は「武智はけしからん。あんなことやっていたら、むしろ歌舞伎は滅びる」ということで友人と夜中に武智氏宅に押しかけたのだそうです。

『そしたら武智さんがいて、「どうぞ上がってくれ」と。それで上がってしゃべったら、書いていることとしゃべるのと全然違うんだよ。こっちが自分の意見を言うと「その通りだ」って言われて、こっちは何か拍子抜けして、しゃべっているうちに何かうまくまるめこまれちゃった。それがつきあいの始まり。(中略)悪いところもすっかり分かっていて、しかもそれが必ずしも嫌いじゃなかったと思う。直接に話をしていると、それをすごく感じた。』(座談会「武智歌舞伎とその時代」)

文学でも音楽でも芝居でも同じですが・「私はこれが好き・これが嫌い」という感想は誰でも持てます。批評も好き嫌いが確かに原点ですが、これとは別に「正しい・正しくない」という尺度が存在します。「好き・嫌い」は個人の嗜好に過ぎないと決め付けることもできますが、何が正しくて・何が正しくないかというのは難しい問題ですが・これは観念的なものを含んでおり、ある意味で主体を突き放したところの客観性を持っているのです。「この演技は好きだけど正しくないね」 ・「この演技は面白いけど良くないね」という場合があるのです。 もちろん「この演技は正しいけれど面白くない」ということもあるでしょうが、その場合はまだ何かが足らぬのです。残念ながら日本では書き手の側にも・読み手の側にもその辺の線引きが曖昧です。個人の「好き・嫌い」を前面に出して・辛口批評を気取っているようなものが少なくありません。日本で真の批評文学が育たないのはその辺が原因かと思います。「好き・嫌い」だけで舞台のことを書くならば・それは素人のご感想と変わりありません。自分のなかの「好き・嫌い」と「正しい・正しくない」を明確に分けて分析できるのが批評家なのです。

そこで武智のことですが・山田氏の証言でもお分かりの通り、武智は「好き・嫌い」と「正しい・正しくない」を自分のなかで明確に一線を引いていたと思います。批評家の態度として「この演技は好きだけど正しくない」というものは頑として排除したと思います。「あれも好きだけど・これも悪くない・これも味があって捨てがたい」では批評にならないし・演出もできないのです。しかし、武智が六代目菊五郎や山城少掾を評価していたのは別に「正しい」からではなく・それはもちろんのことですが・やはり個人としてその芸が好きであったと思いますねえ。

(H20・6・21)


12)階級闘争史観

批評家としての武智が異彩を放ったのは階級闘争史観を理論的背景にして、浄瑠璃・歌舞伎を徹底的に読み込んだことです。例えば「歌舞伎演出〜絵本太功記を中心として(昭和23年)で武智は次のように書いています。

『歌舞伎劇は由来封建制度の非人間性に対する新興町人階級からの批判の立場で書かれたのであったが、後に町人階級の身分制度が本来的な封建的性格に基づいて確立されるにつけ、町人金融資本や問屋親方などの支配的身分のための御用演劇と化し、それが政治的支配階級の利害と結びついて幕末においては本来の批判精神を失い、犠牲と諦観の封建思想宣伝機関と化し・・・』

歌舞伎の劇評は・江戸の評判記の系譜を引いており・その舞台が良かった悪かったを書くのが主目的です。紙数の制約もありますが、批評の裏づけになるところの歌舞伎観・作品論を感じさせる劇評は少ないようです。武智の出現は、いわゆる「通」とか見巧者が幅をきかせる歌舞伎劇評の世界に・初めて鋭い「理論」を持つ書き手が登場したということでした。武智は歌舞伎を「民衆劇」として位置付けます。そして歌舞伎の民衆劇としての初心が政治権力によってどこのように捻じ曲げられ変容したか・あるいは権力と妥協して民衆を裏切る形でどう変質したかを解き明かします。しかも、その視点が丸本の深い読みに裏づけ られているのですから、吉之助が影響を受けないはずがありません。

まあ今から思えば・階級闘争史観は時代の流行みたいなものでした。これはマルクス主義の影響で、当時の学生なら誰でも一度はかぶれたものです。しかし、マルクスの階級闘争史観もベルリンの壁が崩壊して・ソビエトという共産国家さえなくなった現代においては時代遅れの感があります。「民衆=善」・「社会・権力 ・資本家=悪」のステレオ・タイプの二元論だけではどうにも割り切れないものが出ます。上記に引いた武智の文章についても、その昔・吉之助の「歌舞伎素人講釈」が武智の視点から出発したことは事実ですが、現在の吉之助は細かい点で見解の違いを感じます。本稿ではその相違について述べることはしませんが、江戸期においての心情を「対社会」の視点で捉えるのではなく・ これを個の問題として捉え直した点が、師匠武智と吉之助との違いかと思います。しかし、今でも吉之助は折に触れて武智の批評を読み返しますし、そのたびに新しい発見をします。

(H20・6・25)


13)階級闘争史観の弊害

階級闘争史観は武智理論の根幹のように言われますが、弟子を自認する吉之助はそう考えていません。階級闘争史観は武智が 自説(理論)を展開するためのきっかけに過ぎないのです。(同じことは武智が利用したフロイト心理学にも言えます。) 理論とはすべて方法論・あるいは思想と言っても良い ものです。武智理論とは・芸の本質を見据えることで・人間の本質あるいは日本人の本質に如何に迫るかという科学的な筋道のことを言います。(このことは本論前半でその概略を説明した通りです。)階級闘争史観はそこに表層的に現れた切り口に過ぎません。事実、晩年の武智の言説はその著作をずっと読んできた人間から見ると・時折あれっと思うような・逆さまのことがあったりしたものでした。

ベルリンの壁が崩壊した現代では階級闘争史観はもはや流行遅れの感あり・ひとつの切り口に過ぎなかったことが明らかです。 社会学も思想史もそこからずっと先のところに行っています。しかし、歌舞伎研究や劇評を見ると階級闘争史観はむしろここ十数年ほど前から流行になっているようです。(ちなみにベルリンの壁崩壊は1989年のことです。)まあ武智理論もだいぶ浸透してきたということでしょうが、吉之助から見ると・「個人=善」・「社会・世間=悪」のステレオ・タイプに作品を安易に読んだ珍妙な解釈が近年少なくありません。これは武智の悪影響かも知れません。しかし、繰り返すと・階級闘争史観もフロイト心理学も武智理論の表層的なものに過ぎないのです。

例えば「忠臣蔵」を忠義批判・封建批判であるとする読み方は歌舞伎の劇評によく見られます。「六段目」の勘平や「九段目」の本蔵の死の・そのことだけを見るならば確かに それはあり得る見方です。吉之助はひとつの見方としてこれを認めますが、それだけで作品全体を矛盾なく見渡せる見方となり得るかということをもう少し考えねばなりません。多角的なアングルからその見方を検証してみる必要があります。例えばもし「忠臣蔵」が忠義批判ならば勘平・本蔵を死に追い込んだ由良助はどう見るべきか・ということです。仇討ちの論理を押し付ける由良助は否定すべき存在でしょうか。しかし、「忠臣蔵」における由良助の立場は絶対的ではないでしょうか。ならば「忠臣蔵」を忠義批判であると100%完全に決め付けることはできないと吉之助は思います。忠義批判という視点を作品全体の解釈のなかにどういう形で取り入れれば居心地 (バランス)が良いかということを多角的に検証せねばなりません。こうした振り返りが絶えず内部でなされることで・見方はその作品の構造のなかで矛盾のない・バランスの取れたものに育っていきます。(吉之助が「九段目」の由良助をどう見るかについては別稿「九段目における本蔵と由良助」をご参照ください。)

「忠臣蔵」は封建批判であるという見方を延長すれば「忠臣蔵」は徳川幕府批判であるという見方も出てきます。さらに高師直を討つのは実は徳川将軍を討つ暗喩で あった・「忠臣蔵」は将軍呪詛の芝居であったという発展もあり得ます。これも実は「民衆=善」・「社会・権力・資本家=悪」のステレオタイプな階級闘争史観の産物です。しかし、出雲・千柳らが徳川将軍を討つ暗喩をこめて「忠臣蔵」を書き・庶民はこれを自明のこととして「忠臣蔵」を見たと言うのなら、徳川政権が二百数十年も続き・民衆革命がついに起きなかった・明治維新も民衆革命ではなかった・その理由がまず検証されなければなりません。「忠臣蔵」は昔も今も日本人の美談であり・日本人の倫理道徳に強い影響を与えてきました。だとすればそこに日本人の心の真実のどういう要素を見るかということです。実はこちらの方が本当に大事な・我々の考えるべき問題です。そこから見て・「忠臣蔵」の構造のなかで無理が出てくる解釈ならば・それは見直されなければなりません。このような方法論こそ吉之助が師武智から学んだものです。作品をあれこれと解釈してみるのは楽しいことです。しかし、これは批評行為であるということを自分に課すならば話は別になります。

(H20・6・28)


14)フロイト心理学

フロイト心理学は古代から占い師らが行ってきた「夢見」と表面的なところが似ています。そのせいかフロイト心理学も人間の行動の裏に隠された性的な本音や欲望を見立てによって探るものという誤解が世間に 根強くあります。まあ悪く言えば下衆の勘ぐりということですかねえ。フロイト自身もこのような世間の見方に悩んで、その著書「ナルシシズム入門」では「このようなことを書くからと言って・私が女性蔑視者だと誤解しないで欲しい」というような言い訳を書いているくらいです。このようなフロイト心理学に対する偏見が今も世間に強く存在しますし、残念ながら武智の場合も少なからずそんなところがあります。フロイト心理学の正しく科学的な姿はユングらによる批判検討と・ラカンらによる再評価を経て見出されることになります。

ともあれ武智が「武智歌舞伎物語」(昭和30年)において、これをフロイト心理学の応用だとして歌舞伎における振袖の扱いの解釈を語ったことは 非常にショッキングでしたし、またこれは正鵠を射た指摘でした。これについては別稿「振袖について考える」を参照ください。しかし、「合邦」の玉手御前が深層心理では俊徳丸を愛していたのであるとする解釈については吉之助はそう考えませんし、これはフロイト心理学の表層的な理解に止まっていると思います。またその後の歌舞伎の作品解釈に少なからず悪い影響を与えたと思います。これについては別稿「科学的な歌舞伎の見方」の最後の章で取り上げましたからそちらをご覧ください。

フロイト心理学における無意識(深層心理)とは内心に隠された具体的な欲望・願望のこと(例えば「合邦」で言えばホントは俊徳丸が好きというような願望)を指すのではないのです。それはもっと根源的なところから自己を突き動かすもので、本人から見ると「抵抗しようにもしようがなく・ただ操られるがまま」の認識しがたい巨大な存在として立ち現れます。フロイトの無意識の発見はとても「世紀末的」な事件でした。個人が状況によって圧倒され・乖離感覚を感じ始めた19世紀末という時代を認識しなければ・この時代にフロイト心理学が登場することの必然が理解できません。

ご承知の通り「歌舞伎素人講釈」は歌舞伎に見られる江戸の精神状況は19世紀末の西欧の状況を先取りしたということを大きなテーマとしています。なぜならば「かぶき的心情」はジャポニズムに心酔した西欧の心情とぴったりと重なるからです。正しく科学的なフロイト心理学の利用によって歌舞伎の検証が可能になります。ですから師匠・武智がフロイト心理学を標榜したのはその先駆けであり、弟子の吉之助もまだ十分にフロイト心理学を理解したわけではないですが、本「歌舞伎素人講釈」において歌舞伎の心理学的解析を続けていきたいと思うわけです。

(H20・6・30)


15) 蜀の犬

中国の蜀の国は霧の深い土地柄で・霧が濃い時は太陽が見えないほどで、朝に太陽が昇る時刻になると・霧のなかで蜀の犬は一斉に吠えるのだそうです。太陽に憧れて吠えるのか・それとも太陽を畏れて吠えるのか・それは分からない。武智の第二劇評集「蜀犬抄」の題名はこの逸話 を取ったものです。(「蜀犬抄」は昭和25年の出版ですが・内容は主として戦前に雑誌に発表された劇評を集めたものです。)武智の場合も何に対して吠えるのか・ 伝統芸能の真実か芸の秘密か・それとも既成概念に凝り固まった役者か劇評家か・はたまた資本家松竹でありましょうか。武智の生涯はこの蜀の犬のエピソードに集約されるような気がします。

断弦会に代表される最後の芸能パトロンとしての武智の功績、武智歌舞伎での演出家としての武智にも触れるべきですが、本稿では吉之助にとっての武智理論というところに焦点を置きましたので割愛をします。冒頭書きました通り吉之助は武智を師匠と仰ぎ・武智理論を継承発展することを本「歌舞伎素人講釈」の旗印としています。振り返れば「歌舞伎素人講釈」はその道程は取れていると思いますし ・まあ多少は師匠に顔向けはできるものと思っていますが、それにしても吉之助にとって武智はなお偉大な存在なのです。

武智理論をお知りになりたいのならば・いきなり定本武智歌舞伎・全6巻(三一書房)を読むよりも、軽い入門編としてまず八代目坂東三津五郎との対談「芸十夜」(昭和47年・駸々堂出版)あるいは富岡多恵子氏との対談「伝統芸術とは何なのか」(昭和63年・学芸書林)から始めることをお勧めします。

(H20・7・2)


吉之助の三冊目の書籍本です。

「武智歌舞伎」全集に未収録の、武智最晩年の論考を編集して、
吉之助が解説を付しました。

武智鉄二著・山本吉之助編 歌舞伎素人講釈



 

 


 

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