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「市村座」という伝説

〜団菊を継ぐ者たち


1)市村座の芝居・歌舞伎座の芝居

「市村座のほかに歌舞伎座の芝居というものがあるように思っていたことがありました。」

ある時、七代目三津五郎が利倉幸一氏(劇評家)にこう語ったそうです。利倉氏は「一瞬驚いた」と手記に書いています。

「市村座の歌舞伎が本道で、歌舞伎座の歌舞伎は興行上の歌舞伎だ。とそれほどまでに極端には考えたのではなかったようだが、少なくとも伝統の歌舞伎は市村座が伝承しようとしている。・・それほどの強い自負があったように理解した。」(利倉幸一:「雑談・大正の歌舞伎」:「演劇界」昭和57年5月号)

吉之助がこの話を読んで「ああ、なるほど」と思ったのは戸板康二氏の著書「六代目菊五郎」にもある有名なエピソードを思い出したからでした。

大正3年1月に市村座は歌舞伎座と競演になる形で「曽我対面」を出しました。因みにこの時の配役は市村座が七代目三津五郎の十郎・十三代目勘弥の五郎で、菊五郎は八幡三郎。一方の歌舞伎座の方は五代目歌右衛門の十郎・十五代目羽左衛門の五郎でした。この時に市村座の方が一日早く打ち出したので、リーダー格の六代目菊五郎は一座の連中を引き連れて歌舞伎座の正面桟敷に陣取って見物をしたそうです。その幕開けの鳴り物が始まると、菊五郎は後ろの席を振り返って「いけねえ、撥がちがってらァ」と言って笑ったそうです。

周知の通り、六代目菊五郎は九代目団十郎のもとでほとんど親代わりと言ってもいい形で修業をしました。明治36年3月歌舞伎座での六代目菊五郎・六代目梅幸襲名の口上はもちろん団十郎が勤め、披露狂言の「対面」は団十郎のつきっきりの指導によるものでした。配役は菊五郎の五郎・梅幸の十郎。現行の「対面」の舞台はこの時の演出が原型になっています。

上記の「対面」のエピソードは、そうした菊五郎の宗家・九代目団十郎直伝の本格の「対面」を知っているのは俺だけだというエリート意識が言わせたものという風に 吉之助は読みましたし、戸板氏もその著書で はそのような感じでエピソードを紹介しておられると思います。しかし、冒頭の三津五郎の述懐を聞くと、このエピソードは別の視点で読めるように思いました。

菊五郎を始めとする市村座の若い役者たちに「本格の歌舞伎を演じている・歌舞伎の伝統を継ぐのは市村座の自分たちだ」という共通意識があったということなのだろうと思います。だから「いけねえ、撥がちがってらァ」と菊五郎に後ろの席の仲間に向って言わせたものは、菊五郎個人の「エリート意識」というよりは、市村座の役者たちの「連帯感・一体感」であったということなのだと思いました。市村座の若い役者たちは「俺たちが歌舞伎の本格を継ぐ者たちである」と思っていたのでしょう。


2)名興行師田村成義

団菊没後の明治末から大正にかけての歌舞伎の新時代を考える時に「市村座時代」は必ず取り上げられる伝説です。若き六代目菊五郎と初代吉右衛門を中心とした火花の散らすような舞台の数々の記憶は今も語り継がれています。

「市村座」というのは江戸三座の伝統のある名前ですが、本稿にて取り上げる「市村座」は明治41年11月に始まり、大正初期をそのピークとします。これは「大田村」と呼ばれた名興行師田村成義により始められたもので、もともと七代目三津五郎を座頭にして、その弟である十三代目勘弥の一座に、若い菊五郎(当時24歳)・吉右衛門(当時23歳)が加わったものでした。市村座での興行自体は昭和3年1月まで続きますが、「市村座時代」という時にはそれは田村が死んだ大正9年11月、その三ヵ月後の大正10年2月に吉右衛門が退座した時点を以って終りを告げます。

当初の市村座は役者の年齢・格から言っても五代目歌右衛門・十五代目羽左衛門・七代目中車らを擁する歌舞伎座に明らかに譲るものがありました。(他に七代目幸四郎・六代目梅幸・七代目宗十郎らを擁する帝国劇場がありましたが。)先ほどの「対面」のエピソードでも、歌舞伎座で十郎を演じていた五代目歌右衛門は楽屋で「何しろこっちには五郎らしい役者と十郎らしい役者がいるんだからね」という言葉を菊五郎に投げつけたそうです。これには市村座の連中も誰も反論できなかったようです。

しかし、田村は独特の興行師感覚で若い役者たちを操縦していきます。それは「催眠術師的な感覚」と言うべきものであったと言います。菊五郎と吉右衛門がぶつかりあう演目を採り上げただけでなく、例えば「菊畑」で智恵内を日替わりで・「扇屋熊谷」で熊谷と敦盛を日替わりで演じさせるなどして、若い二人のライバル意識を刺激し、またそれぞれの贔屓の競争を煽りました。

最盛期の大正初期の市村座の人気はすさまじいものであったそうです。利倉氏の回想によれば、駅から劇場に向かう人々の足取りは劇場に近づくにつれ自然と駆け足になったというし、まだ幕が開く前から三階席の大向うの「音羽屋 ぁ」・「播磨屋ぁ」の掛け声の応酬がものすごく、その熱気というのはあたかも熱病にかかった人の集まりのようであったと言います。また贔屓間に時として喧嘩が起きることもあったそうです。それは観客の中心が血気のはやった学生たちであったからでした。ここに大正という時代の雰囲気を感じることができるでしょう。

こうしたなかで市村座の役者たちが「自分たちこそ団菊の本格の歌舞伎を継ぐ者たちだ」という意識を持っていたとすれば、それは間違いなく田村成義の操縦によるものだと言わねばならないでしょう。田村は大正2年に歌舞伎座を松竹に明け渡し、追われるように市村座にこもって若い二人の役者の育成に専念することになります。田村自身にも松竹の歌舞伎座とは違うものを見せてやるという意地があっただろうと思います。実際、市村座の楽屋や狂言作者部屋のしきたりは、松竹の経営する歌舞伎座の効率的な行き方とは違ってずっと昔風を守ったものであったようです。

田村は演目では奇をてらったようなことはせず、正攻法で歌舞伎座に対抗しました。田村は、団十郎を尊敬していた吉右衛門に一番目ものとしての丸本時代物を、先代譲りの二番目ものの世話物を菊五郎に割り振り、中幕を菊五郎と三津五郎による舞踊という狂言建てを考案しました。

菊五郎や吉右衛門のその後の芸風は市村座時代に確立されたと言っていいのです。この田村の狂言建て(ほとんど自分ひとりで決めたらしい)は、菊吉二人の役者の個性をしっかり見極めたうえでの組み立てであったようにも言われますが、じつはかぶき興行の狂言建ての定石とも言うべきものでした。

同時に田村は新作(舞踊を含む)を積極的に取り上げました。その頻度は市村座での約百回の公演中で60本以上というほどでした。もっともこのなかで現在でも取り上げられるのは「身替座禅」くらいで、あまり出来のいいものはなかったようですが。その一方で、珍しい古典狂言の通し上演を頻繁に行なっています。


3)団菊を継ぐ者たち

明治36年(1903)に五代目菊五郎・九代目団十郎が相次いで亡くなった後の歌舞伎界の状況は、我々の想像もできないほどにお先真っ暗のようであったようです。

『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。実際団菊を除いた歌舞伎座では、そのころ芝翫といった今の(五代目)歌右衛門が何といっても筆頭に立つべき人であるが、そのほかには八百蔵(後の七代目中車)があり、あとは(十五代目)羽左衛門になりかけている家橘、改名したての(六代目)梅幸と高麗蔵(後の七代目幸四郎)いずれもまだ青二歳である。』(伊原敏郎:「団菊以後」)

このような混沌とした状況から「団菊以後」(つまりそれは「20世紀の歌舞伎」と言ってもよいわけですが)の歌舞伎は始まり、そこから新しい時代への模索が始まったのです。ひとつの流れは九代目団十郎の高弟であった五代目歌右衛門を中心とする歌舞伎座であり、もうひとつの流れがやや傍流のように見えたけれども「正統」を自ら任ずる市村座であったということでしょう。

前述のように市村座の観客の中心は学生たちでした。彼らは最初は新劇を見て、やがて新劇に飽き足らずに市村座へ流れて、そこで歌舞伎を「再発見」した若者たちでした。彼らは初代吉右衛門を九代目団十郎に・六代目菊五郎を五代目菊五郎に擬し、そこに「団菊」の再来を見ようとしたのです。 彼らの求める何ものかが歌舞伎座にではなく、市村座にあったということなのでしょう。当時の批評をみれば、つねに「菊吉」を「団菊」の芸風と比較し、その後継者に擬そうという方向が明らかです。

菊五郎は五代目の実子ですからこれは期待されるのは当然かも知れませんが、九代目団十郎の家に引き取られてみっちりと仕込まれた芸の素地がありました。吉右衛門の場合は家柄は名門とはいきませんが、子供芝居から評判の芸達者でありましたし、母親が団十郎贔屓だった影響から九代目を尊敬していました。若いけれども、ふたりとも「団菊」を崇拝し、その正統を継ぐにふさわしい人材であったわけです。

そうした将来性のある菊五郎と吉右衛門を見込んだ田村成義が、九代目の門弟新十郎・五代目の門弟菊三郎のような師匠のことなら何でも知っているというような役者を師匠番としてふたりに付けたのです。田村はここで「団菊」を新しい時代に蘇らせるべく・若いふたりを意識して仕込んだというべきでしょう。そしてこうした田村の指導の下、菊五郎・吉右衛門をはじめ市村座の若い役者たちは「自分たちは団菊を継ぐのだ」ということを強く意識していったのです。

今日の歌舞伎で菊吉の系統が主流になっていることを考える時、「市村座時代」はとても大きい意味を持っていると思います。この「市村座」の行き方が、「団菊」の芸を神格化し・古典化した流れにある現在の歌舞伎の方向を定めたと言えます。

このように「市村座時代」というのは「団菊」を原点とした回帰運動(ルネッサンス)であったと考えることができますが、しかし、それがただ「団菊」を模倣するだけのものであったのならば、学生たちの支持を得ることは決してできなかったでしょう。そこに「新しい時代の息吹き・リアリティ」を感じさせたからこそ、市村座は若者たちの熱狂的な支持を得たのであろうと思います。(別稿「初代吉右衛門の馬盥の光秀」も参考にしてください。)

鏑木清方は明治42年11月市村座での菊五郎の八重垣姫・菊次郎の濡衣・吉右衛門の勝頼という配役で「本朝二十四孝・十種香」の舞台を見た感想をこう書いています。

『今度の菊五郎と菊次郎の二人は、蓮葉な姫と若い腰元とでの仕草がまだうら若い女同士という事をよく現はして、この方が如何にも自然に思われ、いままで見たなかで、今度初めて本文の若い女同士という事が浮かばれた。ああいう綺麗なものは、皺へ白粉を塗って見せられるよりも自然に近く見られて恋の感じが強かったが、しかし技芸という点は別です。』(鏑木清方:「二十四孝を見て」:「歌舞伎」113号)

大事なことは若い観客たちに歌舞伎がリアルだと感じさせる何ものか・同時代的な感覚を市村座の舞台が感じさせたということなのです。と同時に、若手花形を見詰める若い観客の熱い気持ちはいつの時代も変わらないものだなと思うのです。

(付記)

併せて写真館:「伝説の市村座時代」もご参照ください。

なお田村成義には、「芸界通信無線電話 (1975年) (青蛙選書」という明治の歌舞伎界の内幕話が満載の滅法面白い著作があります。 機会があれば是非読んでみてください。



 

 

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