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身分問題から見た「歌舞伎十八番」

その2:「助六」


1)「勝扇子」裁判

宝永5年(1707)というのは、前年11月に富士山が爆発するという穏やからなぬ世相の年でした。この年、小林新助という京都の絡繰師(「からくりし」、糸でからくり人形を動かす芸人)が江戸に興行にやってきました。その新助が安房の国で旅芝居をすることになりましたが、舞台の準備をしているところへ江戸の弾左衛門の手代、革買い治兵衛という者が現れ、関八州での興行は弾左衛門の許しがなくてはならぬと言って、配下三百人を使って芝居小屋を襲い、芝居がつぶされてしまったのです。新助はすぐさま江戸へ戻り、このことを奉行所に訴えました。

江戸では江戸四座は幕府の許可をもらって興業を行っており櫓銭(興行税)を払う必要はありませんでした。しかしそれ以外の興行、特に旅芝居においては弾左衛門の支配を受けることになっていました。これより四十年ほど前のことになりますが、寛文7年に金剛太夫という能役者が弾左衛門に断りなしに勧進能を行なおうとして、桟敷をつくるのを弾左衛門に頼まなかったことがありました。その初日の舞台に、弾左衛門は配下五十人をつれて乗り込み、見物の大名が居並ぶ前で舞台を滅茶苦茶にしたのでした。このときの老中は弾左衛門の主張を認め、能役者は弾左衛門の支配下にあると判決したのです。

この時の判例が今回も適用されるものと思われました。しかし上方生まれの新助は納得せず、京都で修行をし御所でも芝居をしたことのある自分がなぜ弾左衛門の支配を受けねばならぬのか、大体どこの役者でも旅芝居に出て稽古を積み腕をあげてから江戸、京大坂の芝居にでられるようになるのだ、と主張したのでした。町奉行はこの新助の訴えを一理あると認め、裁判は続けられました。

この時代の弾左衛門は四代目集久といいました。弾左衛門は証拠として源頼朝が祖先にくれたという証文を奉行所に提出しました。その証文には、座頭や陰陽師・猿飼・歌舞伎役者などの二十八座はすべて弾左衛門の支配下にあると記されていると主張しました。それに対し新助は、その証文は四百年以上も前のもので、歌舞伎は出雲のお国が八十年ほど前に京都の四条河原ではじめたものなのに、どうして八十年前に始まったものが四百年以上前の証文に載っているのか、と反論したのです。

結局、町奉行は新助の主張を認めて、革買い治兵衛らを島流しにし、役者は弾左衛門に櫓銭を払わなくてよいという判決を出したのです。もっとも弾左衛門の提出した証文には確かに歌舞伎役者の名は載っていないけれども傀儡師(くぐつし)の名は載っており、からくり師というのはほとんど傀儡師と同じことなので、町奉行は弾左衛門の勝ちと判決しても良かったのです。それを新助の勝ちとしたのは、大きくなってきた弾左衛門の権勢にブレーキをかけようという政治的意図もあったのでしょう。

この裁判の結果を聞いてもっとも喜んだのは、江戸の歌舞伎役者たちでした。江戸四座は弾左衛門に櫓銭を払わなくてもよいとは言え、世間では歌舞伎役者は河原者と呼ばれ、江戸庶民の差別意識は強かったからです。二代目市川団十郎はこの時21歳、新助の旅日記に記してあった裁判の経過を丹念に書き写し一巻にまとめて、「勝扇子(かちおうぎ)」と名付けて家宝としました。


2)意休とは何者なのか

その5年後、正徳3年(1713)に二代目団十郎は山村座ではじめて「助六」を上演しました。現在の「助六由縁江戸桜」では、助六は実は曽我五郎であり名刀友切丸を探して吉原に潜入する、という設定になっていますが、これは3年後(享保元年・・1716年)の再演からのもので初演の時にはなかったものです。初演の時の名題「花館愛護桜(はなだてあいごのさくら)」は、いまのわれわれが目にするよりも荒事の要素が強く、助六は尺八を振り上げて意休の子分たちを追い駆けながら登場し、派手な大立廻りを演じたと言われています。また河東節の浄瑠璃もなかったようです。ただし、助六とその恋人の三浦屋の太夫揚巻、それに横恋慕する髭の意休という設定は今日のものと変わりありません。

この髭の意休ですが、吉原の連中から嫌われていることが一見して分かります。男伊達だと威張ってはいるが、子分を大勢引き連れて金にものをいわせているだけの嫌な奴という感じです。あるいは助六が荒事で庶民のヒーローですから、意休はそれに対抗するような旗本奴か何かの体制側の人間なのでしょうか。廓の人気者助六と揚巻太夫を張り合っているのだから、どうしたって分が悪いことにはなるでしょうが、それにしても何故こんなにも意休が嫌われるのか、そのことがずっと気になっていました。

意休のモデルには諸説あるようですが、塩見鮮一郎氏がその著書「弾左衛門の謎」のなかで意休のモデルは四代目弾左衛門集久であると指摘しています。塩見氏によれば、「助六」は前述の「勝扇子事件」で歌舞伎役者が弾左衛門の支配下に置かれないことが裁判で判決されたことの、団十郎たちの高らかな「勝利宣言」だというのです。以下これに沿って「助六」の内容を見ていきたいと思います。(以下の引用は現行台本による科白です。)

例えば、助六が髭の意休の頭のうえに下駄を載せて喧嘩を吹っかけるシーンです。

「どうだなどうだな、なぜ物を言わねえ、唖か、聾か、(刀を)抜きゃれな抜きゃれな、ハテ張り合いのないやつだ。猫に追われた鼠のように、チュウの音も出ねえな。可愛や、こいつ死んだそうな。よしよし、俺が引導渡してやろう。如是畜生発菩提心、往生安楽どんくゎんちん、ハハハハハ、イョ乞食の閻魔さまめ」

差別用語が連発されますが、「乞食の閻魔さま」というのはまさに被差別民(エタ)の元締めたる弾左衛門のことに違いありません。「女郎衆、この頃、この吉原へ蛇がでるぞや。」と助六が言うのも、エタである意休にあてつけて言っているのでしょう。「可愛や、こいつ死んだそうな」というのは、五代目弾左衛門集久が「勝扇子」裁判の翌年、つまり「助六」初演の年から見て4年前に死んだということを示しています。さらに戒名でそのものズバリ「畜生」とまで嘲られています。意休が老人が扮装であることも集休の年かさを考えれば理解できます。

その意休の頭に助六は下駄を載せます。それがどれほどに侮辱的な行為であるかは言うまでもありません。幕末のことですが、文久2年(1862)に人気役者の四代目中村芝翫が意休を勤めることになった時に、「頭に下駄を載せる役とは失敬だ」ということで贔屓筋が騒ぎ出して役が替ったということがありました。いまでも正直言ってこれを気持ちいいと思う役者はおりますまい。

意休の子分もからかわれています。例えば、、かんぺら門兵衛の頭にうどんをかけるシーンです。この場面はいまでは意味不明になっています。

助六がうどん箱からうどんを取り出し、「銭はおれがやる。これは精進か。」とウドン屋(福山のかつぎ)に聞きます。ウドン屋は「イエ、生臭うございます。」と答えます。ダシに魚か鶏の肉を使っているわけです。「お精進かは知らねども、わしが給仕じゃ、いっぱいあがれ」と言って、助六は門兵衛の頭にうどんをぶっかけます。

これは「門兵衛が法王だと言っているので門兵衛を坊主に見立てた」という説もあるようですが、これも門兵衛がエタだと考えるほうがすんなりと説明ができます。エタは穢れのうちにあり精進とは関係のない身分であるから、「お精進かは知らないが」と皮肉で言っているわけです。

弾左衛門の手代(エタ)でも、新町で革問屋などを営む者は金があったのでしばしば身分を隠して吉原に出かけたものと思われます。身なりがボロなら大門で追い返されたでしょうが、弾左衛門やその手代は帯刀も許されていましたし、見かけは武士と変わりありませんでした。だからエタであることがバレなければ上客で通ったはずです。

しかしひとたびエタだと分かった時は吉原から体よく追い払われることになるわけです。例えば、門兵衛と遊女屋の若い者のやりとりなどにも、吉原とエタの関係が察せられます。「なんと門兵衛の金じゃあ、吉原の女郎は売らないのか。ヤイ二才め、売らないのかよ。」 「モシモシ、門兵衛、野暮らしい。そりゃあなんのことでござります。」 エタが来た時は無視するのが吉原の撃退方法であったのかも知れません。門兵衛は女郎と風呂に入ろうとしますが、待てど暮らせど誰も来ないので、怒り出すわけです。


3)「江島生島」事件

このように「助六」では、弾左衛門とその手代たちが被差別民として徹底的にからかわれています。こうしたことは現代の人間にはわかりにくくなっていますが、当時の人には見れば意休はエタだとはっきり分かることだったのだろうと思います。このように初演の「助六」には、「勝扇子裁判」での「歌舞伎役者は弾左衛門の支配を受けない」という判決を受けて、「われわれ歌舞伎役者は河原者ではない」という二代目団十郎ら歌舞伎役者たちの高らかな勝利宣言といった感じが強く反映されているのではないかと思われます。

しかし本当は歌舞伎役者たちが自分たちの地位が上がったと言って喜んでいても所詮は被差別階級での内輪もめであって、江戸幕府から見れば何も変わった訳ではなかったのです。

「助六」も3年後の再演ではその性格が多少変化しています。「助六」は曽我兄弟の世界に設定され、助六は尺八を腰に差し蛇の目傘を手にして花道の出端で踊りを見せたりして、全体に上方和事的な演出が濃厚になり今日の「助六」の舞台に近いものになっていきます。(これは二代目団十郎のライバルであった上方出身の初代中村宗十郎の影響があったとも言われています。)こうなっていくと助六のライバル意休がエタである意味合いも必然性も薄れていく事になります。

このように初演には濃厚であった身分問題の要素が再演では薄められていくことになるわけですが、わずか3年足らずで「助六」の性格が大きく変化していく理由の一端は、「助六」初演の1年後(正徳四年・・1714年)に起きた歌舞伎史上の大事件「江島生島事件」にあったのではないかと思われます。

大奥の年寄江島が山村座の看板役者生島新五郎と密通していたということで摘発されたこの事件によって、生島新五郎や座主山村長五郎は島流しとなり、さらに山村座は断絶されることになります。この時から江戸の芝居四座は中村座・森田座・市村座の三座となりました。この事件をきっかけに、江戸幕府の歌舞伎役者への差別・弾圧はふたたび強化されていくのです。

(参考文献)

塩見鮮一郎:「弾左衛門の謎―歌舞伎・吉原・囲内」(三一書房)

西山松之助:「市川団十郎 (人物叢書)」(吉川弘文館)

(H13・2・2)




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