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中川右介著・「歌舞伎 家と血と藝」について


つい最近のことですが、講談社現代新書から中川右介著「歌舞伎 家と血と藝」という本が出まして、なかなか売れ行きも良いようです。歌舞伎の家系というのは複雑に入り組んでいて、芸脈ということを考える時に姓名だけでは良く分からないことがあります。例えば市川家の家の芸のはずの「勧進帳」がどうして松本家の幸四郎の代表的演目になるのか、市川家と松本家の関係はどういうものなの?みたいなことです。そういう知識は長年、雑誌「演劇界」や何やら読み続けていれば次第に蓄積されて来るものですが、吉之助の知識も雑多にはあるけれども、断片の集積にすぎません。

そういうことが整理してある本がありそうで意外とないのも、やってみるとあちこち途切れたり・変なところで繫がったりして、整理が一筋縄ではいかぬところがあるからだと思います。そういう面倒な仕事に中川氏が挑戦してくれまして、うっかりすれば筋が錯綜して・却って分かりにくくなりそうなところを、歌舞伎の七家の変遷を軸にして、主として明治から現在までの歌舞伎の家系の流れをスッキリと整理して見せてくれました。歌舞伎の歴史をこれから学ほうという方は、これを起点にさらに深いところへ入っていければよろしいでしょう。

中川右介:歌舞伎 家と血と藝 (講談社現代新書)

ところで、インターネットを見る限り、この「歌舞伎 家と血と藝」の本をお読みになった方のご感想としては、どこか国盗り物語か・コッポラ監督の映画「ゴッド・ファーザー」でのマフィア・ファミリー興亡の歴史を見るような面白さであったというものが多いようです。確かにそういう読み方もあると思います。役者に生まれれば誰だって主役を取りたいはずで、そう出来るようにひたすら芸を磨くわけですが、しかし、実力だけではどうにもならないことがある。そこには血筋とか人間関係とか興行的な思惑が、理不尽なほど強く作用することがしばしば起こります。だから舞台裏での駆け引きが頻繁に起こるわけで、そういうものに読み手の目が行くのは当然ですし、またそういう話は裏話的にも面白い。だから、そういう読み方もあるのです。ただし、これから歌舞伎を学んでいこうと真剣にお考えの方には、中川氏が「あとがき」でお書きになっていることをしっかり頭に入れたうえで、この本をお読みいただきたいと思いますね。そこに中川氏の本意があるからです。中川氏はこのように書いています。

『2013年4月2日、歌舞伎座新開場柿葺落の初日に出かけた。この日、いちばん盛り上がったのは、人間国宝や芸術院会員たちの重厚な演技ではなく、中村勘九郎の息子・七緒八が花道を歩いて出てきた時だった。台詞を言うわけでもなければ見得を切るわけでもない。ただ歩いて出てきただけだ。この子に役者としての才能があるかどうかなど、誰にも分からない。それなのに「中村屋」との掛け声と万雷の拍手、こういう光景は歌舞伎ならではのものだろう。』(中川右介:「歌舞伎 家と血と藝」・あとがき)

この本に書かれていることはすべて、この場面(歌舞伎座での七緒八の登場)に流れ込んでいるわけで、この光景の秘密が理解できるならば、みんなすべてなかったことにしても良いものなのです。それで歌舞伎の四百年の歴史と、これからの歌舞伎の未来の数十年くらいがパッと繫がって見える。そういう光景なのです。七緒八ってそれほどの子供なのかって?だからそういうことを言ってるのじゃないの。歌舞伎の歴史というのは、ぶつぶつ切れて・よじれて・曲がっていて全然繫がっていないのだけれど、しかし、こういう光景を見れば、歌舞伎の歴史は繫がっていて・これからもそうだと信じられる・そのような感覚なのです。その感覚が分からなければ、伝統芸能の芸というものは分からないと断言しておきます。

マスコミは市川家は元禄の昔から続く宗家だというけれど、実はあちこち途切れて・それをまた継ぎ木して・続いたことにしている十二代だということが、この本を読めば分かります。中村勘三郎家は江戸三座の猿若勘三郎から発する由緒ある十八代だというけれど、役者の家としては十七代目と息子の十八代目の二代で大きい名前にしたに過ぎないということも、この本を読めば分かります。しかし、「江戸の心」はずっとはるか昔から現代まで確かに続いているのです。だからマスコミの言っていることは、事実としては正しくないけれども、真実なのです。ぶつぶつ切れているのに、それは確かに繫がっている。

『そうするとだね、僕という人間が生きているのは何のためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承したらいいのかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達した時になにかつかむ。そうして僕は死んじゃう。次に現れてくる奴はまだ何にも知らないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。何にもメトーデがないところで模索して、最後に死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は歴史全体に見ると、結晶体の上の一点からずっとつながっているかも知れないが、しかし、絶対流れていない。』(三島由紀夫:の安部公房との対談:昭和41年2月・「二十世紀の文学」)

ですから、吉之助が言いたいことは、この「歌舞伎 家と血と藝」の本をお読みになる方は、まず「あとがき」の冒頭をお読みいただき、歌舞伎の歴史は過去から現代へしっかりと繫がっており・これからもそうだということを、まず腹のなかに納めたうえで、本書をお読みいただきたいということです。そうすると、本書のなかにあるいろいろなエピソードは後ろに遠退いて、伝統芸能の芸脈は、切れたり・よじれたりしながらも、どこからどういうところに繫がって・現代に伝えられて来た、ということを考えるきっかけが得られるはずです。そのようにお読みになれば、本書は芸の理解に必ず役に立ちます。

(H25・8・26)


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