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1875年・明治8年・パリ

*本稿は「19世紀の西欧芸術と江戸芸術」に関連した記事です。


まず下の写真をご覧下さい。1870年(日本で言うと明治3年)・まだ建設中のパリ・オペラ座(ガルニエ宮)の屋上から正面方向にパリ市街を見た写真です。前方遥か向こうにうっすらとパンテオン、そのちょっと左にノートルダム寺院が見えます。しかし、アレアレ?と驚くのはオペラ座正面にあるはずの・有名な大通りがないことです。当時のパリ市街は建物が密集していて、随分ごちゃごちゃした感じであったことが分かります。

実はあのオペラ座前の大通り(今は日本人観光客向けの土産物屋通りと化しておりますが)は、オペラ座開場(1875年・明治8年)前に大規模な区画整理が行われて・通りを切り開いて出来たものなのです。下の写真が完成したオペラ座大通りの写真(1880年頃)です。

ちなみにパリ・オペラ座というと思い出すのは、ミュージカル「オペラ座の怪人」(原作はガストン・ルルーの同名小説・1911年)に出てくる「オペラ座の地下には湖がある 」という話ですが、これはまんざら作り話というわけでもないそうです。オペラ座を建設することになって・地盤を掘ったところ、大きな水脈にぶつかって・水が湧き出し、そのために設計をやり直して・杭を何本も地盤に打ち込むことになり、その工事の為に水を汲み出す作業をしなければなりませんでした。それは八台の蒸気ポンプで8ヶ月も掛かったと言われています。「オペラ座の怪人」の地下湖の発想はそこから出ているのです。もしかしたらパリっ子たちの噂話(都市伝説)としてはあった話なのかも知れません。

我々が知っている「花のパリ」の町並みが出来たのは、実はそう昔の話ではないのです。19世紀半ばのパリはあちこちに中世の雰囲気をまだ濃厚に残してい ました。そのようなパリの町の大改造を命じて・今のパリの町並みを作ったのはナポレオン3世です。ナポレオン3世がパリの大改造をどうして企てたのかは諸説あるようですが、その当時のパリは路地が狭くて・不潔でジメジメしていたそうです。リューマチを患っていたナポレオン3世はそれがいやだったということです。パリの町並みから不潔さ・暗さを一掃し、明るさを呼び入れ て、パリを「光の都市」に作り変えること、これがナポレオン3世の目指したことでした。

そのために小さな家が密集していた地区は取り壊されて・区画が思い切って整理されました。道路は馬車が楽々すれ違えるように広くなって・広い道路がどこまでもまっすぐに伸びていきます。オペラ座だけでなく、ガラスと鉄で出来た産業館、鉄筋建築の中央市場などの巨大な建物が次々と建てられていきます。このことはもちろんナポレオン3世の個人的嗜好というだけでなく、欧米の近代化という課題と大きく関わっています。産業革命・資本主義はどんどん進行して、西欧諸国は近代化が大きな課題であったのです。それにふさわしい大首都の構築が急務でした。

昔のパリの町並みがどんなものであったのかは、当時の写真から伺うことが出来ます。上は、1874年頃のパリ・モンデトゥール通り。暴動の際には、こうした狭い通りはバリケードを作るのに 好都合でありました。フランス革命以後政情不安の続いたパリでは事が起こると・民衆はすぐ路地にバリケードを作って自衛しました。ビクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」には、1832年6月に起こった「6月暴動」の時に反乱軍に味方したジャン・バル・ジャンが仲間とともにモンデトゥール通りに築かれたバリケードに立て篭もる場面があります。多分パリ大改造は、こうした状況を排除し、治安対策も兼ねていたのでしょう。

上の写真も当時のパリ市街。狭く・暗くて・悪臭が漂うような路地であります。こういう不潔さをナポレオン3世は嫌ったわけです。

下の写真は1869年頃のモンマルトルの丘の写真です。当時は有名なサクレ・クール寺院はおろか周辺に建物も何もない・ただの果樹畑でありました。19世紀末のパリの若き芸術家たち・ボヘミアンが暮らすモンマルトルの街は、出来たばかりの安アパートがひしめく新興住宅地であったというわけです。(別稿「死への憧れ〜ボヘミアンの生活」をご参照ください。)

下の写真は1913年、まだ建築中のサクレ・クール寺院です。建設は1875年に始まり、完成は1918年のことでした。完成までに実に40年以上の歳月が掛かっています。

パリ大改造は1853年(日本は嘉永6年・ペリーが浦賀に来航した年)から始まり、1910年頃まで続きました。そのパリ大改造のシンボルがオペラ座であったわけです。「改造なったパリにふさわしいオペラ座を作るべし」というナポレオン3世の勅命により、建築家シャルル・ガルニエが設計したオペラ座は当時の世界最大級の劇場ですが、1862年に工事が始まり・13年の歳月を掛けて、1875年(日本では明治8年)に開場しました。まさにパリが変貌を遂げる期間の・ちょうど真ん中辺りが1875年なのです。

開場したパリ・オペラ座は第3共和制時代の重要な社交の場となりました。(1870年にナポレオン3世退位・第3共和制始まる。)そこは世界の最も裕福で・おしゃれな人々の集まる場所であり、貴族から新興ブルジョアまでいろんな階層の人々が集まる社交場でした。そこで人々は最上の芸術を楽しみ、ゴシップ話に花を咲かせました。

『たまたま「ファウスト」が上演されていた。場内はこの上もなくきらびやかだった。それは貴族社会の象徴だった。その当時(1880年代)、劇場の定期会員たちは決して席を譲らず、貸したり、転貸したりもせず、また財界人や商人や外国人たちとボックス席を共にすることもなかった。(中略)オペラ座のボックス席はかつては音楽を愛していた社交界の人たちに、ほぼ確実に出会ったり見たりできるサロンだったのである。』(ガストン・ルルー:「オペラ座の怪人」)

*ガストン・ルルー:オペラ座の怪人 (角川文庫)

当時の西欧文化のなかでフランス・特にパリの占める位置は非常に重いものがありました。この1875年(=日本で言えば明治8年)パリ・オペラ座開場という年はパリの歴史の重要な指標であると同時に、 西欧史のなかでも・ひとつの指標になるかも知れません。「歌舞伎素人講釈」では1875年辺りを西欧文化史・精神史のひとつの指標として・このことを別稿にてさらに考えていきたいと思います。

もうひとつ別視点から見てみますと、失われてしまったパリの古い町並みの写真はどこか江戸の下町の長屋が立ち並ぶ風景をどことなく思い出させます。徳川の世から明治になって・江戸も東京に名前を改めて・町並みは大きく変貌を遂げるわけですが、上記パリ大改造と意外と時代は離れていないわけです。明治元年(1868年)が日本史 の指標であるならば・東京大改造もほとんどオーバーラップ(同時進行)しているのです。このことは注目して良いことだと思います。

(H19・4・30)



 

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