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九郎判官義経の話〜民俗芸能と義経


1)「勧進帳」・四天王の会釈のこと

本稿では、九郎判官義経の話を雑談風にたらたらと綴ります。話が行ったり来たりするかも知れませんが、概ね歌舞伎の義経の周辺を逍遥することになるはずです。

「勧進帳」で、〽これやこの、行くも帰るも別れては・・で笈を背負った義経が右手に金剛杖、左手に傘を持って花道へ登場し、七三で止まってポーズを取る。この後四天王が登場して、後ろ向きになって通路を空けた義経の背後でちょっと立ち止まり、「後ろを失礼いたします」と云う感じで会釈してから通り過ぎます。ここで四天王が会釈するのは、吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代からお馴染みのシーンで、それ以外の舞台を見たことがない気がします。

ところが、映画で遺っている昭和18年11月歌舞伎座での、七代目幸四郎(弁慶)・十五代目羽左衛門(富樫)・六代目菊五郎(義経)という超豪華配役の映像では、四天王は止まることなく・会釈もせず・そのまま義経の背後をスーッと通過してしまうのです。ちなみにこの時の四天王には、後の十一代目団十郎(亀井)・後の八代目幸四郎(駿河)と、戦後昭和の代表的な弁慶役者を含みます。映画の・この場面から分かることは、なるほどこの場面では四天王は止まることなく・会釈もせず・そのまま義経の背後をスーッと通過するのが「勧進帳」の本来のやり方なのだ、あそこで会釈するのは「御主人を決してないがしろにしてはならぬ」と云う旧封建道徳の悪描写であるなあと云うことですね。義経は笈を背負っており、既に一行のなかで偽の強力としての役割を勤めているはずです。ちょっと目から鱗が落ちた気分がして、やっぱり昔の人は「正しく」やっていたのだなと思うのです。

それにしても、いつ頃から四天王は義経の背後を通過する時に、わざとらしく私は御主人を敬っておりますと見せるが如く会釈するようになったのか。誰がこれを始めたのでしょうか。どなたかの指示があったのでしょうか。これは全然分かりません。弁慶がこうやった・富樫がああやったと云う型の記録はありますが、四天王のことなど誰も記録しないから分からないのです。吉之助が調べたところでは、志野葉太郎氏が雑誌「演劇界」(昭和47年6・7月)の「歌舞伎名作選」のなかで、「(四天王が義経の背後を通り抜けるのに)一々会釈するのは不要ではないか。ましてする者しない者とアンバランスがあるのは目ざわりである」と指摘したのを知るのみです。まあそれは兎も角、吉之助の手元にある、昭和36年2月歌舞伎座(八代目幸四郎の弁慶)、昭和40年3月歌舞伎座(十一代目団十郎の弁慶)の映像でも、四天王は会釈しています。従って、誰の指示で始めたと云うでもなく・何となく誰かが会釈したことから始まって、会釈する者しない者バラバラと並列する時代が長く続いて、恐らくは昭和40年辺りから、四人全員が会釈する現在の状況に固まったということではないかと推測します。

ただしこのことは四天王の型という問題だけに止まりません。と云うのは、ドラマは幕が開いてからの様々な印象の積み重ねで出来上がっていくわけですから、どなたかが御主人様の背後を通過する時に四天王が会釈しないのは「不敬」だと感じて、この感じ方が長い時間を掛けて役者のなかで共有されていくなかで、細かいところで「勧進帳」自体の感触も次第に変わって来たであろうと云うことは、ちょっと考えてみる必要があると思うのです。(この稿つづく)

(R3・9・25)


2)義経・弁慶の主従関係のこと

文学でも演劇でも、作品が成立した当時の倫理・道徳観念が色濃く反映されるものです。「勧進帳」ならば、天保11年(1840)の道徳観念と云うことになります。もうすでに封建社会が終わりに差し掛かる時期でした。(大政奉還は慶応3年・1867) この時期の封建道徳は、実質を失って半ば理想化・お題目化したものになりかけています。七代目団十郎が能の「安宅」を市川家伝来の荒事化しようと云うならば、劇中で弁慶が富樫を威嚇して関所を押し通る筋をそのまま活かせば、それで十分だったはずです。ところが七代目団十郎はそれでは飽き足らず、弁慶の智略と「忠義」をドラマの前面に持ってきました。もちろん七代目なりの思惑あってのことです。この七代目の思惑は、後に明治の九代目団十郎の時代に忠君愛国の思想と組み合わさって、忠義のドラマとしての「勧進帳」の位置付けは、さらに強固なものとなって行きました。(別稿「勧進帳の二つの意識」を参照ください。)そうすると前述の四天王の会釈も、長いスパンから見れば「勧進帳」の表現ベクトルの上に乗って来ることになり、そうなると一概に間違いと決め付けるわけに行かないのかも知れません。

ただ吉之助は「勧進帳」の義経と弁慶の主従関係を、そのような堅苦しい忠義の論理で厚く塗り固めるのでなく、忠義々々はほどほどにして、二人の関係をもう少し軽く描けば却って歌舞伎らしさが出せるだろうに・・と思うことがあります。忠義は大事なことですが、加減が大切ではないでしょうかねえ。

例えば、近松門左衛門に殩静胎内捃」(ふたりしずかたいないさぐり・正徳3年・1713・5月竹本座)という時代物浄瑠璃があります。序段では北野天神の境内で義経一行が酒宴を催しています。義経が都落ちする・その直前の出来事です。義経は願掛けで絵馬を奉納するつもりです。絵馬には長刀を持った稚児が逃げる荒法師を追い駆ける光景が描かれています。実はこの荒法師は義経の母・常盤御前を殺害した盗賊・熊坂長範で・弁慶ではないのですが、絵馬を見た義経の家来・鷲尾三郎と熊井太郎が、「これは五条橋で牛若丸が弁慶をやっつけている場面じゃないか」と弁慶をからかいます。弁慶は憤慨し、「俺ではない、俺は逃げ回ったりしなかったし、あの時は長刀を取り落として太刀の柄で押さえられただけのこと。それに橋が描かれてないじゃないか」と言って義経に同意を求めますが、義経が「昔のこと過ぎて忘れてしまった」とトボけるので、仲間たちがドッと笑います。弁慶はついに怒り出し、「それならば今一度勝負のやり直しだ、さあ我が君御座れ」と刀の柄に手をかけるので、静御前に止められます。

ここで近松が描いた義経と弁慶ら家来たちの主従関係は、生き生きとしてなかなか素敵じゃないかと思いますねえ。主従のけじめはもちろんありますが、根本は友情にも似たものです。「あいつ(義経)のことが大好きだから、俺たちはあいつの後を付いていく」と云う感じなのです。実は江戸初期の主従関係には、まだまだこんな感じがあったのです。当時は「男道(おとこみち」とか「侍道(さむらいみち)」とか云いました。気に入った主人にはとことん尽くし・命を捨てるのも惜しまない。しかし、気に入らないことがあると、主人が相手でも猛然と反抗したりしました。(別稿「かぶき的心情とは何か」を参照ください。)近松の時代には、まだ武士のなかにそんな気風が色濃く残っていました。「勧進帳」の忠義もこれに近い感じに収めてくれるといいなあと思うのですけどねえ。イヤちょっと無理かな。(この稿つづく)

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3)御霊のこと

歌舞伎の荒事の主人公には御霊(ごりょう)が多いことは、ご存知の通りです。御霊信仰とは、不特定多数の人々を脅かす天災や疫病の発生は、政治的な怨みを持って死んだり・非業の死を遂げた人物の怨念が引き起こしたものだと考えて、これを「御霊」として畏怖し・これを鎮める行為を行なうことで、世の中の平穏と繁栄を実現しようとしたものです。文献的に確認されるのは、貞観5年(863)に京都・神泉苑で行なわれた御霊会(ごりょうえ)が最初のこととされます。平安貴族の間に広まった都市信仰みたいなもののようです。菅原道真(菅丞相)は、代表的な御霊神でした。一方、民間の怨霊信仰にも似たものがあって、例えば歌舞伎十八番の「暫」に登場する鎌倉権五郎景政は平安末期の実在の人物ですが、五郎(ごろう)の音が御霊(ごりょう)に似るとして、これを御霊だとする説があります。「寿曽我対面」や「助六」ほか歌舞伎の曽我物の主人公である曽我兄弟も、これも有名な御霊です。また実在の人物かは定かでありませんが、「佐倉義民伝」に登場する佐倉宗吾も、これを宗五郎と呼ぶことが多いのは、これに御霊信仰のイメージを重ねようとする意図が隠れているとされます。ただし、平安貴族の御霊信仰が怨霊信仰としてどこまで昔に遡れるか、御霊信仰と民間の怨霊信仰との関連について、色んな仮説が言われていますが・未だに定説がないようなので、本稿もこれ以上深入りしません。本稿では、歌舞伎の荒事の主人公には御霊(=怨霊)が多いと云うことだけにしておきます。

それにしても、御霊であることの第一条件が政治的な怨みを持って死んだり・非業の死を遂げた人物であるとすると、伝統芸能の観点では、この人物こそ御霊であっておかしくないのに・何故かこれを御霊とは呼ばないな?と不思議に思う重要人物が、二人いますね。ひとりは源義経であり、もうひとりは大石内蔵助(四十七士含む)です。どちらも華々しい実績を上げており・賛美すべき人物ですが、同時にいろいろな政治的障壁があって・幸せな人生を送ることができなかった、その意味で無念を含んで死んだであろうと、民衆が同情するところが多々ある人物なのです。しかし、義経や由良助が隈取して荒事をやる例を現行歌舞伎のレパートリーには見出せません。

義経で適当な例が思い付きませんが、内蔵助(=由良助)に関しては、「忠臣蔵・九段目」で由良助の荒事演出が試みられた例を見付けました。「九段目」幕切れ近くで・庭先の竹を鴨居にはめて・雨戸をはずす計略を披露する件は、現行歌舞伎では力弥の持ち場になっていますが、その昔、むきみの隈を取って・諸肌を脱いだ由良助がこれを行なって見得する型があったと云うことです。歌舞伎で由良助を御霊と見なす考え方が、昔はやはりあったのです。「忠臣蔵」はその昔は曽我の世界や小栗判官の世界に仮託されたこともあったので、似た例は他にも少なからずあったと推測します。しかし、荒事の由良助は定着しませんでした。この定着しなかったと云う事実こそ大事なのです。元禄赤穂事件は江戸の民衆にとって同時代の出来事ですから、理性的に人物を眺めることが出来たことが大きかったでしょう。その後の歌舞伎の由良助のイメージは、実事をベースにして・これに「やつし」の要素を加えた形で定着して行きます。その過程で由良助の御霊のイメージは浮いたり消えたりしながらも、終に無くなってしまいました。映画でもテレビでも「忠臣蔵」の一番の見せ場は、祇園一力茶屋で内蔵助が浮かれ遊ぶ場面なのです。

一方、義経は平安末期の人物ですから、事情はちょっと異なります。歌舞伎以前の芸能も含めて検討せねばなりませんが、芸能の初期段階では、恐らく義経を怨霊とみなす試みは多かったと想像します。しかし、最終的にそれらも消えてしまいました。能においても義経がシテとして扱われているものは少なく、例えば「船弁慶」・「鞍馬天狗」など、ツレまたは子方として扱われるものが多いようです。歌舞伎でも、義経は若手花形または女形が勤めることが多く、イメージは優美で、「もののあはれ」を知る菩薩のような存在なのです。(この稿つづく)

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4)民俗芸能での義経

江戸の昔、奥州の村芝居で、例えば「鮓屋」などで〽その時奥の一間より現れ出でたる義経公・・・の語りで突然上手から義経が登場し、〽さしたる用もなかりせばそのまま奥へぞ入り給う・・・で何もせずに奥へ引っ込んでしまう。ただそれだけのことで村人は拍手喝采、何の芝居でも、このような義経が登場する場面がないと村人が納得しなかったのだそうです。この話しはよく知られていますが、文献或いは考証として・どこどこの村芝居ではいつ頃までこう云う演出が残っていたとか、どのくらいの範囲(地域)でそれが行なわれたかということになると、どうもはっきりしたことが分かっておらぬようですが、それはまあいいことにしておきます。本稿では、そういうことが奥州では広く行なわれたほど義経は人気があったらしいと云うことのみとします。

義経は壇の浦に平家を滅ぼし華々しい武功を立てたにも係わらず、兄頼朝に疎まれて・追われ・寂しい生涯を終えました。それだけでも民衆には同情すべきところがあるのに、加えて義経は奥州平泉で死んだので、云わばご当地ものとして奥州の人々に義経は特別な人気があったのだろうと思ってしまいますが、実はそんな単純なものでもありません。これは創成期の歌舞伎が念仏踊りと深い関連があったことから来ます。

念仏踊りは平安末期から始まり、その後江戸期に至るまで長い年月に渡って民衆の生活の生活のなかに溶け込んでいたものです。もともと念仏踊りというものは、稲作の行事と関係が深く、田を荒らす稲虫を退散させるために行なわれたものでした。その稲虫は、恨みを含んだ人がなるのだとします。村全体に反抗して死んだ者がいると、それが稲虫になったとするのです。それらしい者がいなくても、そういうことにするのです。それで村では、年中行事として盆の時期、もうひとつは田植えの時期に念仏踊りを行ないます。そうすると怨霊は収穫まで悪いことをせぬと考えました。そこで害虫とか疫病とか・説明の付かぬ悪い霊が出て来た時に、芸能者がこれを安心させるための物語を付けました。お前は生きている時にはこういう人物であったと語り聞かせて弔う、そうすると怨霊の方は自分はそうした名目で弔われてるのだと納得して成仏するのです。例えば斎藤実盛は、稲作に関係あるように思えませんが、加賀の国篠原の戦いで出陣したところ田んぼの稲の切株につまづいて・転んだところを手塚太郎に討ち取られた、それで稲を深く恨んで害虫になったというのです。そこで村人は怨霊にお前はもとは平家の侍・実盛だと教え諭すと、なるほどそうかも知れんと思って納得して成仏する。そんなところから村人は実盛人形を作って、田んぼを巡って稲虫を誘い、離れたところで焼いてしまう、そのような風習が各地に広がって行きました。実盛まつりと云う稲虫追いがそれです。地方によって、その地の歴史的人物と結び付いて、同様なことが広がって行きました。

『書き物、芝居で、目に触れているものもあり、また消えていっているものもある。怨霊たちに理解のうえに、矛先を収めてくれるのか、かしこいこの信仰が何べんも出て来る。そして怨霊に承知してもらう。お前は偉い人だ、お、そうかと言って退散する。名もない怨霊がそう言われると満足する。それには昔の名高い人が、苦しい悲惨な境遇に落ちた人でなくては効果がない。そう言って祀ると満足する。その代表が義経だ。何代か前には「義経記」が有力なのは、よく出来ているからではない。いい加減な書き物でも、身に沁むほど感じる。その土台が我々の心にあったわけだ。義経という人が、こうして死んだ人だから、こういう恨みを持っている。常に事あるごとにその人を思い出す。その場合が多かった。』(折口信夫:「歌舞伎芝居の一考察」〜昭和22年度芸能史講義・文章は若干吉之助がアレンジしました。)

奥州の田舎を歩く盲目の芸能者が、奥州に関係が深い義経を以て、田を荒らすものを義経だと考えて借用する。お前は九郎判官だと、そういう扱いをして怨霊を収める。こうして「義経記」が奥浄瑠璃となって栄えて行ったと云うわけです。(この稿つづく)

(R3・10・8)


5)怨霊としての義経の可能性

実盛まつり(虫追い・虫送り)の話しで深く感じ入るのは、昔の人々(農民たち)が、鬢鬚を黒く染め若やいで出陣して見事に戦死を遂げた老体の斎藤実盛の死に「あはれ」を感じ取り、死後・実盛は恨みで稲虫となったと考えたことです。「もののあはれ」という感情は、本来は喜び・笑い・悲しみ・苦しみ・妬み・恨みなど、すべての感情を包括したところで、胸がドキドキするほど心が動かされることを言いました。それが後世「あはれ」が悲しいことを指すようになったのは、この世においては悲しく・苦しいことがあまりにも多く、そういうことに人々が心を動かされることが多かったからです。(別稿「憤る心」をご参照ください。)喜びなどポジティヴな感情としての「あはれ」は、それが転化した「天晴れ(あっぱれ)」という形で残ってはいます。

一方、後世の武士たちは実盛の死を武士たる者の理想の死に方だと考え、これを「あっぱれ」だとしたものでした。武士は死を覚悟して戦場へ赴くのですから・そこに未練なものがあってはならぬわけで、実盛は潔く死ぬ覚悟が定まった最たる者だと見たのです。実際「平家物語」を読んでも・或いは歌舞伎の「実盛物語」を見てもそうかも知れませんが、実盛の死からは、死んで怨霊(稲虫)に転化しそうな陰湿さをあまり感じないと思います。しかし、これは知らず知らずのうちに理屈と云うか・倫理道徳に影響されて観念的に物語を読んでしまうから、そうなってしまうのかも知れません。昔の庶民(昔の庶民は大半が農民です)の多くは、遊行の琵琶法師が語って聞かせる実盛の死の物語を、生(なま)の感情で涙して受け止めたのです。農民たちは、実盛の死を悲しいことだ・あはれなことだと感じて、そう云うことならば自分たちが弔ってやろうかと思ったのです。そこでいささか唐突に(実盛と関係ないはずの)稲虫が登場して来るのは、農民たちがそれを彼らの生活感覚の範疇で受け止めたからです。日本の庶民は心根優しかったのですねえ。それは村での農民たちの人生が、悲しく・苦しいことがあまりにも多かったからに他なりません。これがフォークロア的な実盛の死の受け止め方でした。実盛の死が「あっぱれ」か・悲しみの「あはれ」かは、どちらの見方が正しいとか云うことでなく、そのどちらもが実盛の死が持つ「もののあはれ」の真実なのですが、庶民はそれを悲しみの要素の方でより強く受け取めたということなのです。源義経についても、庶民はまったく同様のプロセスでその死を受け止めたと思います。

義経は壇の浦に平家を滅ぼし華々しい武功を立てたにも係わらず、兄頼朝に疎まれて・追われ・寂しい生涯を終えました。歌舞伎以前の芸能も含めて検討せねばなりませんが、芸能の初期段階では、義経を怨霊とみなそうと云う試みは少なくなかったに違いありません。実盛の例を見ても、やはりそれがごく自然のことに思われます。江戸以前では「平家物語」のなかの、庶民の最大のヒーローは義経でしたから、それこそ菅原道真(菅丞相)に比肩する強力な御霊神となってもおかしくなかったはずです。しかし、結果的には、そうなりませんでした。この結果は、とても重大なことです。芸能に於ける義経は、静かで優美な菩薩のイメージに集約されて行きます。(この稿つづく)

(R3・10・14)


6)義経と弁慶・二人でひとり

折口信夫は随想「山の話」(昭和13年)のなかで、我々日本人は、例えば曽我十郎・五郎の兄弟とか、佐藤継信・忠信兄弟とか、そのような似よりの年頃の・二人の仲間の組み合わせを考えるのが何故か気持ち良かったと云うことを書いています。

『それを辿って行くと、恐らく誰でも古い昔の神様に関する色々な伝えを連想してくるだろうと思います。そして、神とそれに仕える者という風に考えると、それはこの二人という形です。神に仕える人には、五人・八人・九人もあるが、その単位は二人で、またこれが正副二人と云うことにもなるのです。これを他の方面で説明して見ますと、竹取物語は翁がかぐや姫を発見して育てたと云う物語ですが、この翁のほかに榲(おうな)がいます。そうすると、神と神に仕える者との二人であったのが、神に仕える者が二人ということになるのです。』(折口信夫:「山のはなし」・昭和13年・折口信夫全集・第15巻)

この「二人」の組み合わせには、色々なパターンがあり得ます。例えば「義経と弁慶」と云う二人の組み合わせと云うのもあります。この二人は主従関係、義経が主人・弁慶が家来ですが、同時に仲間同士でもあるのです。(これについては本稿2章を読み返してください) 芸能の初期段階においては、義経を怨霊(御霊)とみなす試みは少なからずあったと思います。義経も恨みを含んで死んだと考える、義経の悲しさに思いをはせることは、庶民としてごく普通の感情プロセスだと思われます。ところが結果として、義経は御霊になりませんでした。恨みや怒りの要素を取り落して、この世の悲しみ・苦しみを涙で以て受け止めて、これを癒してくれる菩薩の姿になっていくのです。このことはとても大事なことです。吉之助はそこに日本の庶民の悲しみと限りない心根の優しさを思います。

義経は、幼少にして父母に離れ・肉親の愛を知らずに育ち、武人として華々しい戦果を収めながらも、兄頼朝に疎まれ・追われ、やがて奥州平泉に寂しく散って行きました。義経は、生涯のなかで、人生の有り様のすべてを目の当たりにしたのです。だから「祇園精舎の鐘の声・・」という「平家物語」の有名な冒頭部分は、奢る平家だけを語ったものではなかったのです。それは壇の浦に平家を討ち滅ぼした義経にもやがて振り掛かって来ることでした。「平家物語」を語り伝えた琵琶法師は、もちろんこのことを知っていました。だからこの世で「もののあはれ」の一切を体現した義経がその死後に、恨みに凝り固まって御霊に転化すると云うことはなかったのです。死後の義経は恨みや怒りの要素を振り落として、「もののあはれ」の有り様を受け止め・涙する菩薩へと転化して行きます。能においても義経はツレまたは子方として扱われるものが多い。歌舞伎でも、義経は若手花形または女形が勤めることが多い。伝統芸能の義経はイメージは優美で、「もののあはれ」を知る菩薩のような存在なのです。

一方、義経が振り落とした恨みや怒りの要素は、弁慶が引き受けることになります。「平家物語」のなかに弁慶は義経の家来として出てきますが、あくまで「その他大勢」の扱いです。出生も明らかではなく、屋島や壇の浦でも目立った活躍はなく、実在の人物なのか疑う声さえあるようです。弁慶には菩薩を守護する不動明王のイメージがありますが、それは「義経記」などで庶民が作り出したものでした。歌舞伎の弁慶は、恨みや怒りの要素を「もののあはれ」の憤(いきどお)りの振動に変換した荒事のキャラクターとなって行きます。つまり義経と弁慶は「二人」の組み合わせになることで落ち着いたものになるわけですね。

(R3・10・16)




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