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「伝承」について考える


1)「暗記能力」ということ

幼い子供が親の読み聞かせたお話をスラスラと暗誦してみせて周囲の人たちを「この子は天才か」などと驚かせるというのはよくある話ですが、実はこれは文字のない時代の人間が生来持っていた暗記能力によるもので、子供の時にはそうした能力の片鱗・あるいは根っこがしばしば見られるものなのだそうです。文字のない時代には人々は口移しで昔の出来事や先祖の残した教訓を次の世代に伝えていったのです。数々の神話や民話、あるいは古事記などの伝承文学というものは、こうして何世代もに渡って口承で伝えられていったわけです。ところが文字というものが登場すると、記憶をついつい文字に頼るようになってしまって人々は生来の暗記能力をあまり使わないようになってしまいます。こうして人間からは暗記能力が急速に失われてしまうようになります。

文字があれば内容は正確に伝えられるのかというと、実はこれは間違いです。文字による情報というのはいかにも客観的で狂いがないように見えますが、じつは読み手の解釈によって内容が変わる余地をそれまでより大きくしてしまったのです。恣意的な情報の読み換えが起きることさえあります。

丸山真雄といえば言わずと知れた日本の政治思想史の大家ですが、音楽にも造詣が大変深かったようです。そのクラシック音楽に関する発言をもとに丸山真雄の人物像を描いた中野真雄著『丸山真雄「音楽の対話」』は思想家丸山真雄のもうひとつの側面を描いてなかなか興味深い本です。このなかで次のような発言に目が止まりました。

「日本でも徳川時代は(教育制度が)うまく出来ていたんですよ。学問には寺子屋という制度があって、一般教養を教える。日本人の識字率の高さが世界一だったのは寺子屋のおかげです。とにかく平均レヴェルが高い。芸事の方は家元制度です。一子相伝ですね。マン・ツウ・マンで教えるから伝統が正確に伝わる。ぼくは楽譜の発明が西洋音楽の世界制覇の要因の最大なるもののひとつと常々話しているけれど、音を視覚的・客観的に表現することによって、解釈という問題を生んでしまった。一対一、つまり口伝で伝えていけば、原型はあまり崩れない。ぼくは邦楽の方が洋楽よりも伝統が正しく残っていると思う。」(中野雄著『丸山真雄 ・「音楽の対話」』・文春新書)

*中野雄:丸山真男 音楽の対話 (文春新書)

クラシック音楽の場合は、楽譜に音の高低・音の長さ・テンポなどが精密に書き記されています。それを辿れば誰でも音楽を再現できるようになっています。演奏者は誰でも作曲者の書いた楽譜に忠実であろうと勤めます。この態度自体は誰でも同じなのですが、それが「楽譜をどう読むか・どう解釈するか」という問題にすりかわってしまうのです。ベートーヴェンの解釈の原型というようなものは伝わっていません。ベートーヴェン本人の指定したメトロノーム記号が残っている曲もありますが、指定通りのテンポで演奏すると不自然なことが多くて、その記号の真意さえ議論されています。ヨーロッパでの「伝統」の考え方はもともと他人と同じことをしていたら芸の工夫が足りない・個性が大切だという考え方ですから、楽譜に基づいて客観的であろうと努めれば努めるほどかえって主観的に傾いていく、そんな感じさえあります。

クラシック音楽の演奏者は誰でも「楽譜の裏にある作曲者の意図を読む」のを旨としていますが、ヨーロッパの音楽は伝承芸能ではありませんから、丸山真雄の言うように「べートーヴェンと同じ解釈を伝承して演奏すべき」というのは当たらないと思います。また誰それの弟子であるからその先生と同じ解釈で演奏しなければならないなんてことは絶対にないのです。(このことは「歌舞伎の雑談:クラシック音楽における伝統」をご覧下さい。)しかし、丸山真雄が言っている「口伝で伝えていけば原型はあまり崩れない」というのは、まったくその通りだと思います。

邦楽の場合には、例えば三味線には「朱譜」というものがあるのですが、西洋での「楽譜」・客観的な音楽の記述法と比べればこれは三味線の手数の備忘録みたいなものに過ぎません。その伝承は師匠との一対一による口伝が基本です。恐らく微妙なところでの差異はあるにしても邦楽の大筋の形(フォルム)はこうして守られているということなのでしょう。


2)「俊寛」の伝承

上演があまりされていないと、その舞台を知っている人が少ないわけですから正確な伝承ができないと思うかも知れませんが、これは必ずしもそうではありません。上演回数が少ないほうが、形が崩れる機会が少なくなるからむしろ原型が保たれていると言えるようです。

近松門左衛門の「俊寛」(平家女護島)は文楽でも今では人気曲ですが、これは昭和になってからのことで、昔はそうではありませんでした。江戸時代には「俊寛」は重い曲とはされていたようですが、決して当たったとは言えない作品なのです。「俊寛」の初演は二代目義太夫(播磨少掾)ですが、このあと初代染大夫・三代目染大夫・四代目染大夫と、江戸時代には四回しか上演されていません。四代目染大夫から昭和7年に山城少掾が復活上演するまでおよそ二百年もの長い間上演が絶えていたのです。

山城少掾が「俊寛」の復活の準備をしている時、東京に豊沢松太郎という三味線の名人がいて、その人が「俊寛」を覚えているというので山城少掾は東京へ出かけて松太郎に伝授を受けたそうです。その後、やはり三味線の名人・鶴沢道八も「俊寛」を覚えているというので、山城少掾は道八にも教えを乞いに神戸に行きました。すると 驚いたことに東京で松太郎に教わったことと神戸で道八に教わったことが寸分違わなかったそうです。

この話には続きがあって、復活上演をした後で山城少掾は四代目染大夫が使っていた「俊寛」の床本を手に入れるのです。するとその床本に打ってあった音の上げ・下げの記号が、松太郎・道八から教わったものとこれも寸分違わなかったと言います。

「この三つの経験を通して、私は教えというものが正しく伝わっているんだということを確信しました」、そう山城少掾は武智鉄二に語ったそうです。こういう作品は舞台にかかる機会が少なかったかも知れませんが選ばれた人たちだけに大事に大事に伝承されているので、それだけ伝承が崩れる危険が少なかったわけです。

もうひとつ大事なのは、浄瑠璃にはなまじっか「楽譜」などという客観的な記述法がありませんから、人間が生来持っているあの「暗記能力」をフルに活用しなければならない。その結果 として口伝で正確な伝承ができるということなのでありましょう。


3)正しい伝承とは

実は上演頻度の高い作品の方が型(フォルム)が崩れている危険が少なくありません。頻繁に上演されて誰でも知っている・舞台ビデオも残っていて誰でも分かっている(つもり)の作品の方が危ないのです。そういう作品は型がしっかりしていて動かしようがないように思いますが、実はそうではありません。それだけ演者の工夫・仕勝手というものが、次の人に伝承されてしまう危険が増えるからです。その人の仕勝手があたかも「伝統」のように受け継がれてしまうことがあり得ます。

芸の工夫はその役者が自分の責任においてするものですから、その人の工夫はその人だけに許されるものです。その型を受け継ぐ時には「何が原型(オリジナル)で、どの部分をその人がどう変えたのか」を十分知って受け継がなければなりません。

歌舞伎の見方講座・「型を楽しむ・2」で、七代目三津五郎に「吃又」の型の伝授を受けた六代目菊五郎の話を引きましたが、その頃の役者の型の教え方というのは、「○○の伯父さんはここをこう演った、△△の叔父さんはああ演じた、その部分を自分は柄も考えてこう変えて演っている」という教え方です。何が正しい演り方なのかをひとつひとつ確認していく作業です。そうやって教えてもらいながら、「変えてはならないこと」・あるいは「自分が変えるべき(変えてもいい)ところ」をひとつひとつ確認していくのです。このところをおろそかにしていると「正しい伝承」は決してなりません。原型(オリジナル)が明確でない型は「正しい型」とは言えません。

もうひとつは前述の・人間が生来持っている・あの超能力のような「暗記能力」の活用でしょう。「型」はビデオなどでは絶対に伝わらないものです。「型」は見て覚える、演ってみて覚えるというものです。ビデオは益になるどころか、伝承芸能においては大敵になりかねません。それは役者の生来の「暗誦能力」を失わせてしまう危険を孕むものです。分からなかったらまたビデオで見て確かめればいいやということになったら役者の「暗記能力」はみるみるうちになくなっていきます。

芝居を知っている人ならご承知の通り、1ヶ月25日の興行でも役者の息は違うしアンサンブルも違うし同じ舞台は1日とありません。そのたった1日の舞台がたまたまビデオに録画されて後世に残る、そのことの幸運と不幸も考えてみる必要があります。別の日にはそうしなかったものが、この日はたまたま演ってしまってビデオで後世に残ってしまうということもあります。歌右衛門は・勘三郎は・松緑はそうしたと言っても絶対的なものかどうかは誰にも分かりません。

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」には、名人・摂津大掾に「寺子屋」を教わっていた其日庵が叱られる話が出てきます。其日庵が「健気なヤアツーウウアアーアア」(後半のモドリの松王が死んだ小太郎のことを言う台詞)と語ったら大掾がこれを制してこう言ったそうです。

「なぜそんな所で売りに来やはります。みっともないじゃおまへんか。年取ってどうにか前をせねば商売ができぬ私などの高座でする悪いことばかり覚えはってはドモなりませんな。アンタには本当の長門はんの浄瑠璃の息込みで教えてあげたいと思いまして、一々調べたうえでお聞かせ申しておりますがナ。少しは気を止めて聞いとクンなはれぬと困りますがナ。」

この話を聞きますと、摂津大掾でさえも芝居では客のこともあるので多少受けを狙うところもしたということを自嘲的に言っているわけですが、しかし、何が正しいか・本道かということ をもちろん大掾はちゃんと知ってやっているのだということです。そして人に伝授するという時は責任を持って正しいことを伝授する・そういう気構えはあるということなのです。

こう考えますと「伝承」というのは、伝える者と受け継ぐ者の1対1の関係が基本なのでして、そこに文字とかビデオとかの媒体を介しない・まさに身体と身体・心と心において直接的に伝授されるべきものなのでありましょう。

(H14・9・29)



 

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