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ツッパリの助六

平成12年(2000)1月・新橋演舞場:「助六由縁江戸桜」

七代目市川新之助
(十三代目市川団十郎)(助六)、四代目中村雀右衛門(揚巻)、 四代目市川左団次(意休)、 十代目坂東三津五郎(白酒売)ほか


1)荒事の助六

「助六」について七代目三津五郎が次のようなことを語っています。

「九代目(団十郎)の芝居と今日の芝居と、何が違うたって助六ほど違うものはありません。花道などでも今日のように間延びはしませんし、それは素晴らしいものでした。股くぐりでも、どうしても助六の威勢で股をくぐらなきゃならなくなるような助六でしたからね。」(今尾哲也編:「七代目坂東三津五郎芸談」:「歌舞伎・研究と批評」第27号」

民俗学者折口信夫もこんなことを語っています。

「(十五代目)羽左衛門は助六という役の概念を変えた人だ。(九代目)団十郎の頃の助六は頑丈だったが、羽左衛門になってからは弱々しいものになった。」(戸板康二:「折口信夫坐談)

これらの証言から想像されるのは、九代目団十郎の助六はさぞかし荒事味の勝った力強いものだったのだろうということです。「助六」というのは江戸荒事の本家である市川家の家の芸・歌舞伎十八番なのですから、助六が荒事のキャラクターだというのはなるほど言われてみればそんなものですが、しかし、現代の我々の助六は荒事と言うよりは・もう少し優美で洗練されたイメージではないでしょうか。大正から昭和にかけての十五代目羽左衛門の助六あたりから、助六のイメージは優美な助六に次第に変化してきたようです。

正徳3年(1713)に二代目団十郎が山村座ではじめて「助六」を上演した時の名題は「花館愛護桜(はなだてあいごのさくら)」と言いました。その時は「助六は実は曽我五郎である 」という設定はなかったのです。初演の時の「 助六」は、いまのわれわれが目にするよりも荒事の要素が強くて、助六は尺八を振り上げて意休の子分たちを追い駆けながら登場し、派手な大立廻りを演じたと言われています。また河東節の浄瑠璃もなかったようです。 これが3年後(享保元年・・1716年)の再演において、助六と曽我五郎が結びついて現在の形に変化していきます。

また「助六」というキャラクターは延宝元年に大坂で実際に起きた万屋(よろずや)助六と京都の島原扇屋の遊女揚巻との情死事件から発したものと言われ、もともとは上方和事の系統の役でした。

こう考えると羽左衛門の優美な助六というのは、実は助六という役のなかに内包されている和事の性格が強く引き出されてくるものだと言うことができます。(本来はそれは助六の兄である白酒売新兵衛の領分なのですが。)現代において助六が優美に流れるのも自然なことであるのかも知れません。悪く言えば、助六はさらに様式美に傾いて・折口信夫の言うように「弱々しいものになっていく」のかも知れません。


2)助六の和事への傾斜

どうして助六の荒事から和事への傾斜が起こったのかは考えてみる価値があります。「助六」における意休の正体については「身分問題から見た歌舞伎十八番・その2・助六」において触れましたからそちらをご覧下さい。初演時の「助六」は、歌舞伎役者とこれを支配するようとする弾左衛門との構図において把握することができます。「勝扇子事件」をモデルにしたこの芝居は、ある意味では江戸の 似た者同士の内輪揉めみたいなものなのです。

再演の「助六」においてはこうした性格は薄められています。そして代わりに町奴対旗本奴みたいな対立構図が強められています。意休が旗本奴みたいな感じになっています。完全に はすり替ってはいないのですが、そのようにも読める ようになっているのです。 ここが大事なところです。現代においてはこれがさらに変化して、現代では町人対武士の構図で読まれるようになってきています。つまり、助六は町人の代表・町人のヒーローであって、これが武士をやっつけるから痛快である、ということになっています。

しかし、助六というのは本当は町人ではないのです。町奴というのは無籍者であって、ごろつき・ならず者なのです。旗本奴も町奴も「突っ張っている野郎」です。道を歩いている者があれば・すれ違う時に肩をわざとぶつけて、「なぜ突き当りやがった」といって因縁をつける野郎です。こちらを見ている者があれば「俺に眼付けしやがった」と突きかかる、目をそらせば「なぜ俺を避けるんだ」と絡んでくる野郎です。後先のことなどは何も考えていません。要するに、何でも口実があれば誰にでも喧嘩を売ってくるという街の嫌われ者です。

ただし町人から見れば、助六は嫌われ者の旗本奴に無謀にも突きかかっていくのだから「痛快な奴である」と言えないこともありません。 「助六」の舞台を見ますと、かんぺら門兵衛にしても・朝顔仙平にしても間抜けの腰抜け野郎のように見えますけれど、本当はそんなことはありません。誰もが避けて通るような怖い奴であったに違いありません。 武士の権威を振り回しながら狼藉を働く旗本奴らを蹴散らす助六に町人たちが喝采を浴びせたのです。そこに助六が町人のヒーローになっていく下地があるのです。助六というのは吉原一のモテモテ男という 設定になっています 。敵役の意休が嫌われ者ですからその対照を際立たせるために助六はますます格好良く・優美ないい男の代名詞に仕立てられていくことになります。

こうした助六のイメージは、「助六」が市川家の専売特許として・滅多に上演されずに大事にされている間(つまり九代目団十郎の死まで)はそう大きな変化はせずに、荒事としての助六の 大元の骨格は守られてきたと言えるのでしょう。しかし、九代目の死後 、この状況が大きく変化していったわけです。それが現代の助六が優美に傾いている原因であろうと思います。

吉之助は「助六」という芝居が必ずしも好きではありません。様式化して・すでに活力を失った疲弊した演劇に見えます。折口信夫は、「助六」は煎じ詰めれば花道の出端だけの芝居ですと言いましたが、その通りであると思います。そのような芝居であるから、現代の「助六」が優美に傾くのは仕方ないと思っています。


3)ツッパリの助六

さて、そこで新之助の初役の「助六」ですが、この助六はなかなかの「突っ張り野郎」であるなあと感心しました。 新之助の助六は花道の出端だけ見てもなかなか挑発的なところを感じさせます。 どの助六役者も「どうです私はいい男でしょう」という感じで演じていると思います。もちろんそれは方向性として間違いじゃないし、新之助だって同じなのですが、新之助の場合はちょっと目付きにギラリとしたものがあるので、ちょっと違った感じがするのです。通りかかった者に難癖つけて喧嘩をしてしまいそうな・イライラした危ない感じがあります。「オイ、 どうして俺を見るんだ、何か文句あるのかい」というような感じがある。要するに「不良っぽい」のですな。

助六は行方不明になった名刀・友切丸の詮議をするために吉原に潜入しているわけで、道を行く男たちに喧嘩を吹っかけて刀を抜かせて詮議をしているという設定になっています。助六が意休に いやがらせをして喧嘩を仕掛けるのもそれが理由です。助六が足に煙管をはさんで意休に差し出すなど無礼の振る舞いはもちろんどう考えても助六の方が悪いのであって、意休が怒るのは当たり前です。これは正義の行為でも何でもありません。だから、助六は突っ張り野郎のならず者なのです。

新之助の助六はそういう「ツッパリの助六」なのが、近来珍しい助六でありました。そういう危ない感じが、新之助の鋭い目付きやキビキビした身体のこなしに現れているのです。 それは今風のすぐキレル若者の感覚そのものなのかも知れません。恐らく二代目団十郎以来の荒事の助六もそういう 感覚に通じるところがあるのでしょう。なぜならばかぶき者の心情もまた、現状への苛立ち・欲求不満から来るものだからです。この助六ならば、忘れかけていた江戸荒事の夢を思い出させてくれそうです。 新之助の助六は名乗りのツラネの台詞回しをもう少しテンポ早く歯切れよく・「甲の声(高い調子の声)」をうまく使いこなすことができれば、さらに素敵な当たり役になりましょう。

他の役者に触れる余裕がありませんが、三津五郎の白酒売には大変感心しました。ほんのりした色気と柔らか味があって、じつに江戸和事らしい良い出来です。新之助の助六とよい兄弟コンビになりました。

(H15・11・5)


 

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