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安政大地震と白浪狂言

注:本稿の内容は、別稿「小団次の西洋〜四代目小団次と黙阿弥」に関連したものです。


安政2年(1855)10月2日の江戸大地震は、家屋の倒壊だけでなく・火災があちこちで発生したことにより、死亡者13万人以上・負傷者10万人以上とも言われる大きな被害をもたらしました。安政大地震は江戸幕府を崩壊に追い込み、関東大震災(大正13年)は日本を大不況に陥れ・戦争への道に引きずりこみました。天変地異というのは、時に歴史の流れを捻じ曲げるような働きをすることがあります。

安政大地震の直後、笠亭仙果(りゅうていせんか)の「なゐの日並」によれば、「鯰絵」と呼ばれる・地震と鯰を結びつけてこれを賛美するような絵が大変に売れたといいます。本稿ではそのいくつかを紹介します。

左の鯰絵は「三職よろこび餅」と題するものです。大工・鳶・左官の三職が「なまづさん、おめいのおかげで、今年ァ、久しぶりで、たわらで米をかつて餅をつきやしたから、たんとあがってくたせいや」と言って、復興景気で沸きあがり・鯰のためにせっせと餅をついている三職の姿が描かれています。

鯰(=地震)は多くの被害をもたらしながら、その一方で世の中を破壊し再生する「世直し」だと認められ、民衆に歓迎され崇拝されたのです。

次に紹介するのは、「世ハ安政民之賑」という鯰絵です。詞書に「それ人間の五道を守るも神仏の教えなるに、その道を忘れ貴賎ともにその恐ろしきいましめの欲の道に入りしゆえ、下万民を救わんと神や仏の相談にて、鹿島の神へお頼みゆえ、鹿島大神宮かなめ石を鯰に縛り付け、世の盛衰を直すべしとありければ、鯰はかしこまって、安政二年十月二日夜の四つ時、おん神のおつかいなりと、江戸をはじめとし凡十里四方あれちらせば、家を倒し、地を割り、出火することおびただし・・・」とあります。さらに鯰の科白として次のようにあります。

「ヤアヤア金持ちのぶんげんども、そのほか座頭に至るまでよく聞け・・貧乏人は年中苦しみどうしに苦しんで、いつまでたってもよくなるということがねえ・・神仏のお怒り強く、こんど世界太平にせよとの、天からの厳命なり、おどろくな、なげくな、金持ちどもみな自業自得なるぞ、これぞ下々安穏の平均だァ、騒ぐな騒ぐな、泣くことないぞ」

「金持ちどもみな自業自得なるぞ、これぞ下々安穏の平均だァ」というのはじつに物凄い科白です。積もり積もった怨みの科白とも、開き直った捨て鉢の怒りの科白とも、さらには革命への狼煙・来るべき新しい時代への予告とも取ることができるのではないでしょうか。相次ぐ飢饉・袋小路に追い込まれた経済状況・ペリーの黒船来航などの幕藩体制の政治混乱・社会不安への庶民の憤懣が、安政大地震をきっかけに、より一層明確な形で「鯰=地震=世直し」の図式で現れ、熱く暗い情念になって噴出し始めています。「鯰絵」の流行というのは、そうした庶民の精神の危険な兆候を示すものなのです。

こうした江戸庶民の不安感・閉塞感と、幕末の「白浪(泥棒)狂言」の流行が無関係なはずがありません。江戸庶民は、地震に「世直し」の先触れを見たように、泥棒にも「世直し」の何かを見たに違いありません。

白浪狂言とは「世直し狂言」である、そう考えなければ、四代目小団次・黙阿弥がやろうとしていたことを見落としてしまうのではないでしょうか。

さて上の舞台写真は「三人吉三」の大川端の場です。左から十五代目羽左衛門(お嬢)・二代目左団次(和尚)・初代吉右衛門(お坊)の三人の吉三郎です。

「三人吉三廓初買」は、安政7年(=万延元年)1月市村座での初演。作者はもちろん黙阿弥(当時、河竹新七)。初演での四代目小団次は和尚吉三と木屋文里を勤めました。ちなみに初演時のお坊吉三は九代目団十郎(当時は権十郎)、お嬢吉三は八代目半四郎(当時は粂三郎)でした。

(参考文献)

南和男:「幕末維新の風刺画 (歴史文化ライブラリー)(吉川弘文館)

(H14・5・10)


 

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