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イーヴォ・ポゴレリッチ来日公演2023〜コロナ以後のポゴレリッチ


1)コロナ以後のポゴレリッチ

イーヴォ・ポゴレリッチの2023年来日公演の、1月11日・赤坂サントリーホールと1月13日・築地浜離宮朝日ホールの、二つのリサイタルを聴いて来ました。来日公演としては、2020年2月16日サントリーホール以来、三年振りのリサイタルでした。あの時はちょうど世界的な新型コロナ・パンデミックが始まった最初期に当たり、コンサートに行くのに多少の緊張はありましたけれど、まだ検温だのマスク着用義務だのと云うことはなく、無事にリサイタルは行われました(しかし吉之助はマスクをした記憶がありますが)。しかし、翌月・3月に入るともう状況は一変して、演奏会も演劇も軒並み中止に追い込まれる状況になってしまいました。ポゴレリッチの2021年の来日リサイタルは3月6日サントリーホールが予告されていましたが、これは当然キャンセルになりました。あれから3年の月日が経過しました。吉之助にとってポゴレリッチの来日公演は、コロナ・パンデミックを挟んで、コロナ以前(2020年)とコロナ以後(2023年)ということになります。正確に云えばまだ現在は「コロナ以後」と断言出来ない段階かも知れませんが、そのように考えたいと思います。

*2023年1月11日サントリーホール。吉之助の撮影です。

コロナ禍によって、音楽も演劇も、パフォーマンス芸術の「場」の在り方を自ら問い直さねばならない事態になったと思います。「芸術はみなさんの生活になくてはならないものです(だから劇場を閉鎖しないでください)」という主張は、「人が密集する機会が増えればコロナ蔓延を防げない」という声に封殺されてしまいました。パフォーマンス芸術は、「不要不急」のものにされました。そうした状況のなかで、パフォーマンス芸術は何のために存在するのか・この時代にパフォーマンス芸術は必要とされているのかを、自らに問わねばならなくなったのです。これは、もちろん答えが出せない問いです。しかし、パフォーマンス芸術に係わる者は常に考えなければならない問いなのです。今回の来日公演に際し、ポゴレリッチがこの件で何らかのコメントしたということはなかったようですが、ポゴレリッチに限らず、時代に先鋭的に対している芸術家がそう云うことを考えないということは有り得ないことです。(別稿「コロナ以後の生活」を参照ください。)音楽も、聞き慣れたベートーヴェンやショパンも、もはやかつてと同じに聴こえることはないのです。

ひとつ取っ掛かりとして挙げたいのは、今回(2023年)の来日公演で、恐らくポゴレリッチの初レパートリーではないかと思われる、シューベルトの「楽興の時」Op.94が取り上げられたことです。別稿「コロナ以後の歌舞伎」のなかで触れましたが、ハンブルク・バレエ団の芸術監督ジョン・ノイマイヤーがコロナ・パンデミックで劇場が閉鎖されたなかで創作した「ゴースト・ライト〜コロナ時代の或るバレエ作品」(初演は2020年9月6日ハンブルク)のなかで使用された音楽がシューベルトでした。19世紀前半ウィーン体制下の権力者たちは、不特定多数の民衆が集まる「三密」を恐れました。もちろん事情はコロナ禍と異なりますが、やっていることは同じです。このためウィーン市民たちは、自由や理想を追い求めても・それは内なることにして決して外には漏らさず、家に引きこもって趣向を凝らした家具調度品・工芸品・装飾品・衣服を好み、内なる思索と趣味にふけるようになりました。この時代の文化をビーダーマイヤー文化と呼びます。(小市民文化と呼ばれることもあります。)このことは、コロナ以後の心の在り方のひとつの示唆となるものです。シューベルトは典型的なビーダーマイヤー文化の作曲家であり、ノイマイヤーが「ゴースト・ライト」の音楽にシューベルトを取り上げた背景もそこにあります。ポゴレリッチが初レパートリーとしてシューベルト晩年(と云ってもシューベルトは31歳の若さで亡くなったのだが)の「楽興の時」を取り上げた理由もコロナと無関係ではなかったと思います。「楽興の時」は、死の迫ったシューベルトがひたすら自己と向き合うなかで生まれた音楽なのです。

毎度ポゴレリッチがリサイタル前の指慣らしでピアノを弾くことを書くけれど、2010年来日の時はポツーン・ポツーンと短音しか鳴らさなかった人が、年を経るに連れ・次第に音が連なり、更にそれが旋律らしきものに変わっていく様を聴くことは、ポゴレリッチの精神状態が少しづつ回復していく過程を音で聴くようで、非常に興味深いものがあります。今年(2023年)の指慣らしは、旋律を弾きながら和音の響きの混ざり具合を何度も何度も執拗に確認しているようでした。もちろんポゴレリッチの音は変わらずクリスタルな美しい響きなのだけれど、これまでとちょっと違った色合いに聴こえたのは、今回は響きのなかにどこか暖かなロマンティックな感触を感じたことでした。響きの混ざり具合を確認しながら、響きのなかに想念が沈み込んでいくような内省的な感覚を覚えました。こんなところにコロナ以後のポゴレリッチを聴く気がしたのは、吉之助の思い込みでありましょうか。(この稿つづく)

(R5・1・22)


2)ポゴレリッチ回復の軌跡

ポゴレリッチは1996年頃に相次ぐ身内の死(妻と父親)が引き金になって(それと恐らく1999年3月・旧ユーゴスラビアでの内戦・いわゆるコソボ紛争も影響したでしょう)、神経的におかしくなって2年ほど演奏活動から退いた時期があっりました。(ただし完全休止ではなく、記録を見ると断続的ですが演奏会を開いてはいたようです。)ポゴレリッチはそれまでも十分過ぎるほど個性的な演奏を聴かせていましたが、復帰後は表現のデフォルメがますます強くなり、世評では「音楽的に壊れた」という言われ方もされていました。

ところで先日、ポゴレリッチの2000年シカゴでのオール・ショパン・プログラムのリサイタル・ライヴ録音を聴きました。2000年と云うと、ポゴレリッチが精神的に最も落ち込んでいた時期(ドン底期)に当たります。こう云う録音を聴くのは、誰にでもお薦めはしません。吉之助も23年後の現在の立場から・回復したポゴレリッチを知ったうえで聴くので、ひとつのドキュメントとして冷静に受け取ることが出来ますが、これを当日の演奏会場に居合わせて生(なま)で聴いたとすれば・一体どう感じただろうかと思いはしました。当日には、多分、途中で席を立つ方も、「もう以後はポゴレリッチは二度と聞くまい」と心に誓った方も少なからずいたであろう。それもむべなるかなと感じるような、「痛い」演奏でありました。ポロネーズ第5番(Op.44)、ピアノソナタ第2番(Op.35)など早いパッセージに於いては、迸る感情をうまく制御出来ず、「のたうち回る」みたいな印象でした。相変わらず技巧は見事でしたが、ペダリングのせいか響きが混濁した感じがするのも、ポゴレリッチの精神状態の不安定さを示しているようです。これはちょっとなあ・・と思いましたが、しかし、印象的な場面も確かにあって、例えばマズルカ第39番(Op.59-3)の終結部がそうでした。この曲の終結部については別稿「音楽ノート」に、「こんな激しい曲にこんな厳かで静かな終結部があり得るのか」と書いた記憶があります。ところがポゴレリッチの演奏では、苦しんで地面に転がっていた主人公(つまりポゴレリッチと云うことだが)が最後にやっとのことで立ち上がり、「とにかく俺も前に進まなければ・・」と呟いて・よろめきながら歩き始めるようなストーリーが吉之助の脳裏に浮かんできて、ちょっと胸を衝かれました。まあいずれにせよ、23年後の現在のポゴレリッチとその精神的な軌跡を或る程度・同時代的に体験してきた者(吉之助)の感想です。ポゴレリッチもこう云うドン底から回復してきたことを思えば感慨もひとしおと云うものです。

ところで今回(2023年)来日公演ではアンコールにショパンの夜想曲第18番(Op.62-2)が演奏されましたが、これは2010年来日公演プロでも弾いた曲でした。この時は途中で音楽が止まるかと思うほど音を長く引っ張った演奏(ただし早い部分は流れ星が煌めくように早い)で、吉之助に強烈な印象を与えたものでした。今回の演奏では時計で計ったわけではないですが、速度は倍以上早かったでしょう。ノーマルな演奏(何を以てノーマルと云うのかは兎も角)よりは遅めだったかも知れませんが、別に驚くほどの遅さではありませんでした。ポゴレリッチもずいぶんノーマルになったなあと感じましたが、そう云えば、今回(2023年)のリサイタルでは、吉之助のお隣りの席の若い女性お二人は休憩時間に帰っちゃったようでした。やっぱりポゴレリッチはまだまだアブノーマルらしい。しかし、我慢して最後まで聴いてくれれば良かったのにと思います。(この稿つづく)

(R5・1・23)


3)感覚的な曖昧さ

今回(2023年)のリサイタル前のポゴレリッチの指慣らしが、響きの混ざり具合を執拗に確認している感じであったことは前述しました。もともとポゴレリッチのタッチは音の粒立ちがはっきりした硬質の響きです。この印象は本質的なところでしっかりキープされているのだけれど、どこかにちょっと柔らかい・ちょっと温かみがある感覚が重なってきたような気がするのですね。「響きのなかに想念が沈み込んでいくような内省的な感覚」と書いたのは・そこのところです。これはこれまでのポゴレリッチになかった感覚だと吉之助は感じています。これこそコロナ以後のポゴレリッチの変化なのです。

このことは、前回(2020年)来日リサイタルと曲が重複する「舟歌」(Op.60)を、前回と今回(2023年)で比べてみれば分かると思います。「舟歌」は当時のポゴレリッチにとって新しいレパートリーでした。当時の「舟歌」の演奏については、当時の吉之助は「まだ練り上げの余地がある」とメモしました。実は吉之助には若干不満があったのです。構えが大きく、良く云えばスケール大きい演奏でした。しかし、悪く云えば威圧的なところがあって、もっと繊細さが欲しいと感じました。不足していたのは、揺らぎの感覚でした。ベニスの運河の水面に映える月の明かりの揺らぎです。それはポゴレリッチらしい明晰さで描かれましたが、そのせいか・それは揺らぎと云うより・機械的な揺れのように感じました。ほんのちょっとした違いなのですが、感覚的な曖昧さがもう少し欲しかったのです。ところが今回(2023年)のリサイタルでの「舟歌」は、やはり三年寝かしただけのことがあるなあと思ったのは、そこに曖昧さがいくらか加わったように感じたことでした。ここには揺らぎを確かに感じました。この「舟歌」ならば満足です。

この件を他人様に分かるように説明するのは難しいですが、吉之助はポゴレリッチの音楽を「平面的」であると捉えているのです。詳しいことは別稿「ラフマニノフ:ピアノソナタ第2番・スタジオ録音に関する論考」を参照いただくとしまして、ポゴレリッチはともすれば主旋律のせいで埋もれてしまう音符を楽譜の指定を無視して意識的に強調して弾いたりします。すると響きの中から異様なものが浮かび上がります。ポゴレリッチのタッチは粒が揃って響きが明確で、そこに曖昧な感覚がまったくありません。楽譜にある音符がすべて自らの役割を主張するかのようにシャープなイメージで聞こえるのです。このため響きの空間感覚がまったく変わって、音の遠近感覚が喪失し、Googleマップを見ながら曲を視覚的に見るかのような「平面的」な歪な感覚に襲われるのです。これが前回(2020年)来日までの、つまりコロナ前のポゴレリッチでした。

ところが今回(2023年)来日リサイタルでは、Googleマップ的な平面感覚にちょっと起伏が加わったように聴こえたのです。と云うことは、音の粒が揃って・楽譜のすべての音符が明確に自らの位置を主張する感覚が、若干弱まったと云うことです。曖昧さを許容する方向へと動いていると感じます。多少聴こえにくい音があってもいい、それは響きの混ざり具合にも拠ると、許せる感じへ少しずつ変わり始めている。もちろんこの変化はごくわずかであるので、総体に於いてポゴレリッチの音楽が明晰であることは、これは動かないところです。それがなくなってしまったらポゴレリッチじゃない。低音の強靭さは相変わらずです。しかし、威圧的な印象がわずかながら和らいだのは、右手の使い方にあるかも知れませんねえ。したがって、この違いは、(大変僭越ながら)ポゴレリッチの音楽をずっと経時的かつ同時代的に追ってきた者でなければ、その違いを感知できないくらいの、微小な差異なのです。しかし、その程度の微小な違いでも、曲の印象は一変してしまうのです。前回(2020年)と今回(2023年)の「舟歌」の印象のわずかな違いから、コロナ以後のポゴレリッチの変化が読み取れると感じています。(この稿つづく)

(R5・1・24)


4)ポゴレリッチは静かな心境に至ったのか

と云うわけで、今回(2023年)来日リサイタルでの(アンコール曲目を含めた)ショパンの作品は、これまでのがっちり枠組みを組んだうえで音の宝石を積み上げていく印象が次第に和らいで、強い緊張の縛りから解放された感覚があって、これまでになく心地良く聴けました。音色にも心なしか温か味が感じられた気がしました。曲目は概ねショパン晩年の作品ですから、主題は死への畏れ・死への憧憬と云うことになると思います。これまでのポゴレリッチであると、或る瞬間に漆黒の死の闇が覗くと云うところでしたが、今回は意識がいくらか生の方向へ向かっていたように感じました。

だからポゴレリッチが随分ノーマルな状態に戻りつつあることを慶ぶ気持ちと、これからはもう異形の演奏が聴けなくなりそうなことにちょっと残念な気持ち(何しろいろいろな驚きと発見があったものですから)が吉之助のなかで交錯したりします。しかし、それは吉之助がずっとポゴレリッチを追って来たからそう感じるだけのことであって、当日リサイタルでも途中で帰っちゃった方がいらっしゃったことでも分かる通り、総体に於いてまだまだポゴレリッチは異形のピアニストと云うことになるのかも知れませんねえ。まあ同じ演奏でも聴く人によって見える景色はかなり異なるらしいと云うことです。

ところで恐らくポゴレリッチの初レパートリーになるらしいシューベルトの「楽興の時」Op.94ですが、事前に何人かのピアニストの名録音を聴いてポゴレリッチがどのようなアプローチを聴かせるか考えてはおったのですが、遅めのテンポではありましたが・遅過ぎることはなく、恣意的なところはまったくありませんでした。思いのほか心静かに淡々と古典的な佇まいの演奏であったと思います。シューベルトの場合は、ショパンと違って音色のパレットが少ないわけで(それは当時のピアノの特性がショパンの時代とは違っていたからです)、ポゴレリッチはそこのところも踏まえたうえで、曲を自分の方へ強引に引き寄せることをしなかったのでしょう。精妙に描かれた音の静物画を見るような心地がしましたね。ポゴレリッチも自身の内面を見つめ直す静かな心境に至ったのでありましょうか。しかし、この「楽興の時」はこれから弾き込んでいくなかで、まだまだ解釈が変わって行きそうな気もします。それも聴いてみたい。

それにしてもステージ・マナーは相変わらず悪いですねえ。ピアノに着座するとこれから弾く曲以外の楽譜を床にバサッと捨てるし(これは昔からのことだが)、今回(2023年)からは、どうせアンコールやるなら・いちいち袖に引っ込んでまた登場して拍手を受けるなんて儀礼を繰り返すのは無駄だと気が付いたらしくて、ちょっと立って拍手を受けたら・着座していきなりアンコール。これがポゴレリッチの新しいルーティーンに加わりそうです。終わると蓋閉めて・椅子を片足でピアノの下に押しやる(これも昔からだが)。まあいい演奏を聞かせてくれれば、それでいいんですが。お辞儀だけはいつも丁寧です。

*2023年1月11日・赤坂サントリーホール
ショパン:ポロネーズ第7番Op.61「幻想ポロネーズ」
              ピアノ・ソナタ第3番Op.58
      ***
      幻想曲Op.49
      子守歌Op.57
              舟歌Op.60
              前奏曲第25番Op.45(アンコール)
              夜想曲第18番Op.62-2(アンコール)

*2023年1月13日・築地浜離宮朝日ホール
ショパン:ポロネーズ第7番Op.61「幻想ポロネーズ」
       幻想曲Op.49
              舟歌Op.60
      ***
シューベルト:楽興の時Op.94
ショパン:子守歌Op.57(アンコール)
              前奏曲第25番Op.45(アンコール)
              夜想曲第18番Op.62-2(アンコール)

(R5・1・27)





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