「歌舞伎素人講釈」観劇断想 ( 〜昭和49年)
*単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。
二代目九朗右衛門の梅王〜国立劇場開場の「車引」
八代目坂東三津五郎(松王)、二代目尾上九朗右衛門(梅王)、七代目尾上梅幸(桜丸)、二代目中村鴈治郎(藤原時平)
(国立劇場開場記念公演)
国立劇場開場公演とあって全員力が入って、なかなか見応えがある「車引」 となりました。吉之助が特に注目したのは、二代目九朗右衛門の梅王です。九朗右衛門は六代目菊五郎の実子ですが、芸歴として恵まれたとは云えませんでした。壮年期に脳溢血で倒れて身体が不自由になって、その後はハワイに移住したので歌舞伎の舞台に立つことが少なくなって、吉之助も最晩年の動かない僅かな役でしか記憶に残っていません。
この映像は九朗右衛門がまだ元気だった時代のもので、梅王は九代目団十郎の直伝を受けた六代目菊五郎の当たり役のひとつでしたから、九朗右衛門もこの役にはひときわ気合いが入ったことだろうと思います。この梅王は台詞もなかなか良いし、かっきりした荒事らしい動きを見せて、さすが六代目菊五郎の息子だなあと思うところを見せています。花道での飛び六法もよく決まっています。「車引」というのは歌舞伎の型ものの典型で、ひとつひとつ細かな決まった手順がありますから、吉之助がこういう映像を見る時には、例えば九朗右衛門の梅王を見ると同時に、吉之助はもちろん写真でしか知らないわけですが、九朗右衛門の脳裏にあるに違いない父・六代目菊五郎の梅王の面影や、さらにその奥にある九代目団十郎の梅王の面影を重ねて想像してみたくなります。もちろん吉之助の頭のなかに浮かんだ六代目菊五郎がホントにそんなだったかなんて分かりませんけど、いろいろ場面を変えて見て行けば、六代目菊五郎はこうだとだんだん分かって来るはずだと思って見るのです。もう無くなって見れない芸を見てるかのように想像する、これが伝統芸能を考える時に、とても大事な訓練になります。そのような見方をする為には、手前勝手に崩すことをせずしっかり形を守った筋目の正しい芸の方が有難いわけです。教えられたことを、正しく素直にその通りやれるということは、そのことだけで貴重なことなのですね。
七代目梅幸の桜丸については、幸い吉之助も晩年の舞台を見ることができました。やはり桜丸は、車引でも賀の祝でも、梅幸を一番に思い出します。きりりとした強いところと、ふくよかな味わいがほど良くマッチした絶妙のブレンドは、梅幸だけにしかないものです。八代目三津五郎の松王も古怪なマスクが生きて、大きな味わいが実に素晴らしい。三津五郎も六代目菊五郎崇拝の役者でしたから、今回の「車引」の三兄弟は六代目菊五郎を共通項にしており、共に芸の筋目の正しさを見せてくれたと云う点で、とても貴重な映像でありました。最後になりましたが、二代目鴈治郎の時平も、小さい体がとても大きく見えて、これも素晴らしい。
(H29・9・25)
八代目幸四郎の松王・二代目吉右衛門の梅王〜国立開場2月目の「車引」
八代目松本幸四郎(松王)、二代目中村吉右衛門(梅王)、七代目尾上梅幸(桜丸)、八代目坂東三津五郎(藤原時平)
(国立劇場開場記念公演・二月目)
国立劇場開場記念公演の通し狂言「菅原伝授手習鑑」・後半の2月目は、八代目幸四郎・二代目吉右衛門親子が登場したところが話題でした。この頃、幸四郎一家は松竹ではなく・東宝と専属契約しており、歌舞伎の出演は限られていました。この年(昭和41年)9月20日に帝国劇場が杮落としして、11月1日から「帝国劇場開場披露歌舞伎公演」として、萬之助改め二代目吉右衛門襲名披露興行が行われました。したがって、ここに取り上げる映像は、襲名翌月の吉右衛門成り立ての舞台ということです。
国立劇場初登場の幸四郎の松王はさすが気合いが入って、登場する前のカゲでの「待てえ」と叫ぶところから、もう大歌舞伎と云う感じがします。幸四郎の台詞の良さは言うまでもないことですが、映像を見て改めて感じ ることは、舞台に登場した時の押し出しがまことに大きいのです。顔が大きくて、身体との比率が江戸の錦絵から飛び出て来たような、抜群の安定感を見せています。同じことは、先月に引き続き出演の梅幸の桜丸についても言えます。松王と桜丸に関しては、文句なくベストの出来だと云えます。
吉右衛門の梅王については、当時武智鉄二が批評で「吉右衛門の腰が浮いている」と随分厳しいことを書きました。(昭和42年「伝統演劇の発想」より)吉之助は武智の批評を随分昔に読みました。それでどんなものかと思って吉右衛門の梅王を見ましたが、吉之助の目にはなかなか良く頑張っているじゃないかと見えました。武智師匠はちょっと厳しすぎますねえ。台詞は力が入って若干の硬さはあるけれども、声もよく張れています。動きもそう悪いように思えません。腰も思い切り落としているし、形を決めようという意識をしっかり持っています。この時、吉右衛門22歳。ここから現在の吉右衛門へ向かって線を引いてみると、吉右衛門が辿ってきた芸の道程がありありと浮かんで来て、とても興味深く思いました。
ただこの頃の吉右衛門は 身体がひょろりと細長くて、顔が小さく見えて重心が高い。横に立っているベテランの幸四郎・梅幸とは身体の比率が全然異なるので、比べると貧相に見えるということがあります。吉右衛門が腰を思い切り落としたつもりでも、横にいる先輩と比べてしまうと決めた形の安定感が欠けて見えます。そこを武智師匠に突かれたわけですが、この点は致し方ないところかなと思います。身体の横幅が付いた現在の吉右衛門ならばこんな風に見えることはないわけですが、特に「車引」のような様式美の舞台であると、これは一人の役者だけの問題ではなく、時平も含めた全員が作り出す様式バランスの問題ということになるでしょう。ベテラン若手混在というのは歌舞伎の舞台ではよくあることですが、配役というのはなかなか難しい問題をはらんでいますね。
(H30・6・20)
澤瀉屋宙乗事始(おもだかやちゅうのりのはじまり)
三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(源九郎狐・佐藤忠信二役)、六代目沢村田之助(静御前)、四代目尾上菊次郎(源義経)他
本稿で取り上げるのは、昭和43年(1968)4月国立劇場での「義経千本桜〜川連法眼館」の映像です。これは、その後の歌舞伎を牽引した猿之助歌舞伎の呼び物となった「宙乗り」が劇場で初めて試みられたエポック・メイキングな上演でした。この時、猿之助は28歳。昭和38年5月歌舞伎座で三代目猿之助を襲名し、大派閥に属さずに独自の活動を続けていました。猿之助が狐忠信を演じるのは、この時が4度目のことになりますが、それまでは宙乗りではありませんでした。
戦後の歌舞伎での宙乗りは、昭和42年9月国立劇場での、十七代目勘三郎の「骨寄せの岩藤」の花の山の宙乗りが、初めてのことでした。しかし、これは舞台の上を通過するだけの宙乗りでした。もうひとつ、昭和43年大阪新歌舞伎座での、三代目延若の「石川五右衛門」の葛籠(つづら)抜けの宙乗りは花道上でしたが、最後は揚幕近くの花道に着地するものであったそうです。現在行われているような、花道のはるか上空を通過して三階客席に設置した仮揚幕へ消えるという大規模な宙乗りが試みられたのは、平成43年4月国立劇場での、三代目猿之助の「四の切」が最初のことになります。
記録によれば幕末の名優・四代目小団次の「四の切」の狐忠信は宙乗りにて見物席へ入ったそうです。見物の目を楽しませるアクロバティックな工夫がいろいろ凝らされたようです。また明治期にも、小団次の実子である初代斎入によって狐忠信の宙乗りが行われたことがありました。しかし、そのような演技はケレン(外連、つまり芸の本道ではないと云うこと)であると嫌われて、九代目団十郎・五代目菊五郎らによる歌舞伎の近代化・高尚化の過程で排除されて、やがて忘れられてしまいました。
その後の歌舞伎の「四の切」のスタンダードとなったのは、五代目菊五郎によって整理され、六代目菊五郎によって洗い上げられた音羽屋型の狐忠信です。これはケレンの要素を最小限に抑えて、狐の情愛の描写に重点を置いた型と云えます。音羽屋型では幕切れは、上手の立木にワリゼリでセリ上がり、引っ張りの見得で幕となります。
昭和41年11月に開場して間もなかった国立劇場は、この時期、歌舞伎座で行われる既成の歌舞伎とはひと味違う独自色を出そうと頑張っていました。通し狂言や復活狂言は国立劇場の大きな柱ですが、忘れられてしまった型や演出を復活させることも、国立劇場の大事な仕事でした。当月の筋書のなかで、演出を担当した戸部銀作は、
『四代目小団次は実力の大名優だが、彼の型は明治の団菊にさえぎられて今日ほとんど生きていない。江戸庶民の名優小団次の価値を再認識させるのが、歌舞伎世直しのための猿之助の仕事である。』(昭和43年4月国立劇場筋書)
と書いています。結果的に、戸部のこの文章がケレン復活に向けての、猿之助歌舞伎の方向性を決定付けることになりました。戸部は、音羽屋型の「四の切」ばかりになってしまった状況に敢えて一石を投じようと意図したのです。もうひとつ、若い猿之助(当時28歳)が狐忠信を演じるならば、情感描写に重きを置いた音羽屋型よりも、むしろ身体を張ったケレン味の強い演出の方が面白くなるという目算もあったようです。
ところで当時の「四の切」の「演劇界」劇評(山口廣一)をチェックすると、宙乗りに関してはほとんど無視のようです。或る大幹部からは「この歳になって猿の犬掻きを見た」という嫌味が出たそうです。業界筋からは、大方そんな感じの冷ややかな反応が多かったと思われます。このような反応は、明治の団菊以降に歌舞伎が辿って来た高尚志向の流れから理解できます。大体「四の切」は、ケレンばかりで内容が乏しい幕だというのが、この時代の見方でした。その立場からすればケレンは所詮小手先芸であって、まともに取り上げるものではなかったのです。
しかし、観客は若き猿之助が身体を張った宙乗りを大歓迎しました。吉之助が初めて猿之助の「四の切」を見たのは、この約10年後くらいのことになりますが、猿之助の汗が飛んで来るかと思うような三階席で宙乗りを見た時には、ホントに感激しました。観客の興奮は、昭和43年当時ならば、なおさらのことだったと思います。もちろんこの時の「四の切」の意義が宙乗りばかりにあったのではないですが、宙乗りはその後の猿之助歌舞伎の旗印になって行きます。猿之助歌舞伎と云えば宙乗りがないと収まらないほどになって行くのです。
*「四の切」演出については、猿之助の筆による詳細な記述があるので、興味がお有りの方は「演者の目」(朝日新聞社)をご覧ください。狐忠信が三代目猿之助の最大の当たり役であることは疑いないですが、その後に何度も猿之助の狐忠信を見て来た吉之助が改めて見直しても、この時(昭和43年4月国立劇場)の猿之助はニンがぴったりと云うか、とても当時弱冠28歳とは思えない完成度を見せています。動きが自信に溢れていると見えるのは、当たり役と云うのはやっぱりそういうものなのでしょう。当たり役というのは苦手だったのを努力してやっとモノにするという性質のものではなく、当たり役は、最初から当たり役なのですねえ。ケレンが前面に出過ぎることもなく、狐の情感が素直に出せているのは、若さとひたむきさの勝利だと思います。(その後に吉之助が見た猿之助の「四の切」には、ケレンが鼻に付いた舞台もなくはありませんでした。長く演じた役は、演じる間には、やっぱりそれなりの紆余曲折があるものです。吉之助が最後に見た平成12年の猿之助の「四の切」については、別稿「四の切」の程の良さ」をご参照ください。)
猿之助の「四の切」はその後上演を繰り返すなかで更に練り上げられて行きますが、この時の「四の切」で段取りとして大筋のところは出来上がっていたと云うところも映像で確認できました。
(H30・6・8)
〇昭和43年9月国立劇場:通し上演「双蝶々曲輪日記」〜「角力場」
珍しい上方演出の「角力場」〜二代目扇雀の与五郎と長吉
三代目実川延若(濡髪長五郎)、二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)(放駒長吉・山崎与五郎二役)、七代目市川寿美蔵(平岡郷左衛門)、十一代目嵐三右衛門(三原有右衛門)、七代目嵐吉三郎(山崎与次兵衛)、六代目澤村田之助(藤屋吾妻)
人形浄瑠璃「双蝶々曲輪日記」は寛延2年(1749)7月大坂竹本座での初演。つまり「仮名手本忠臣蔵」初演の翌年の作品です。(ちなみに「引窓」で与兵衛が手水鉢の水鏡に映った濡髪の姿を見咎める趣向は、「七段目」でお軽が手鏡で由良助の手紙を盗み読む趣向を逆さにしたものです。)しかし、四年前に初演された「夏祭浪花鑑」に似ているということで人形浄瑠璃では意外の不評で、むしろ歌舞伎で評判になった作品です。歌舞伎では天保頃までほぼ通しに近い形で上演されましたが、その後は二冊目「角力場」と四冊目「米屋」の2幕仕立て(時に六冊目「橋本」が付く)で上演されることが多く、八冊目「引窓」は上演が絶えていました。「引窓」が人気狂言になったのは、大正期に初代鴈治郎が南与兵衛を当たり役にしてからのことで、それ以降・現在まで「双蝶々」と云えば「角力場」と「引窓」の見取り上演がもっぱらです。つまり時代が変っても、昔も今も変わらず人気があったのは「角力場」だということになります。それはもちろん角力場という市井の風俗が愉しいと云うこともありますが、二人の相撲取り、濡髪長五郎と放駒長吉の出会いが観客に受けたからです。「双蝶々」と云う外題は、長五郎と長吉の長々を蝶々にもじったわけですから、この二人の侠客の立引きが芝居の中心です。
本稿で紹介するのは、昭和43年(1968)9月国立劇場での通し上演「双蝶々曲輪日記」から「角力場」の映像です。今回の角力場のひとつの注目は、上方の役者を多く揃えられたということもあるので・出来るだけ原作に近い丁寧な形で上演がされたことです。今回は舞台面を川端に仕立てて与五郎が屋形船に乗って登場する形を取っています。これは当時の大坂には、道頓堀川の北を流れていた(現在は埋め立てられた)堀江川に掛かっていた高台橋(たかきやばし)の南側に相撲興行の小屋や茶屋が並んでいたのを舞台面に取り込んだものだそうです。「角力場」には与兵衛と都(後のお早)は登場しませんが、それ以外の「双蝶々」通しに絡む主要人物が入れ替わり立ち替わり登場します。与五郎と吾妻の恋人関係は、この二人を護ろうとする濡髪が殺人を犯してしまう事情に深く絡みますから、角力場を見ると人物関係が何となく見えて来ます。角力場は「引窓」を理解するためにも大事な場なのです。いつもはカットされることが多い与五郎の父・山崎与次兵衛の件を復活して丁寧に通している点も興味深いところです。与次兵衛は大商人なのですが、非常なケチです。銭にうるさい父親に金銭感覚の甘い息子がいるという対照も面白い。しかし、与次兵衛は遊び歩いている与五郎のことを口では悪く云ってますが、実は息子のことが心配で仕方がないという情が深いところを見せています。
もうひとつの注目は、この角力場で扇雀が放駒長吉・山崎与五郎の二役を演じていることです。加えて扇雀はこの公演で「浮無瀬・引窓」で遊女都(後に女房お早)も演じていますから、忙しいことでした。扇雀は昭和50年代に入ると、急速に立役志向を強めて行きます。しかし、昭和40年代の扇雀は、全然立役を勤めなかったわけではないですが、女形のイメージがまだまだ強かったと思います。当時の扇雀としては長吉と与五郎の二役・特に長吉は思い切った配役だと思います。後年の扇雀(後の四代目藤十郎)の道程からみれば、この時期が立役志向への端緒でした。ただまあこの時期の扇雀の立役は手探り状態です。
「角力場」で長吉と与五郎の二役を兼ねるやり方は、昔からよく行われていたものです。侠客で威勢の良い相撲取りと、和事の若旦那を仕分けるところに興味があるわけですが、一見すると水と油みたいな・この二役を兼ねたら面白くなるだろうと云う発想がどうして出て来たのかは、その理由を少し深く考えてみる必要があると思います。別稿「五代目菊之助の与五郎と長吉」のなかで、与五郎と長吉は「ひたむきさ・一途さ」と云う気質の裏表だと云うことを書きましたが、実際の舞台では役の硬軟を仕分けるところに芸域の幅の広さを見せ付けようと云う意図(下心)がチラつくようです。
別稿「和事芸の多面性」のなかで触れましたが、上方和事はもっぱら哀れとか滑稽という側面・ナヨナヨとした弱い印象で捉えられて「つっころばし」の芸として、以後の歌舞伎に受け継がれました。そのような「つっころばし」の典型的な役が与五郎で、西の成駒屋としては当然出来なければならない役です。こういう役は演者が照れ臭く感じてしまったらもう駄目で、オツムがちょっと弱そうな・気が良いところを愉しみながら演じるものです。そこのところ扇雀はしっかり押さえて、さすがに上手いものです。しかし、実は与五郎のなかにも「ひたむきさ・一途さ」と云うような強さがあるわけで、そこを踏まえれば与五郎のイメージも少し変わってくるだろうと思います。後年扇雀は紙屋治兵衛など近松作品の主人公をいろいろ演じていくなかで、彼らに共通する「ひたむきさ・一途さ」の本質を学び取って行くことになりますけれど、なるほど最初の段階においては、上方和事の習得はこんなところから始めて行けばいいのだろうなと思います。
放駒長吉も扇雀は元気の良いところを見せて頑張っています。長吉の一本気な性格をしっかり押さえていますが、ちょっと線の細いところが出てしまうのは仕方ないところです。この時期の扇雀はまだ女形のイメージが強いせいもあるでしょう。決して悪くはないのですが、長吉と与五郎の二役を兼ねるのはやはり若干の無理があるなあと思います。吉之助としては、角力場の長吉と与五郎は役者を分けて配役して欲しいと思います。
延若の濡髪長五郎は、特異なマスクも良く似合って、律儀で誠実な濡髪の人柄がよく出ています。今回の角力場は上方勢が揃って、テンポも小気味良く愉しめる舞台となりました。やはりこういう演目はアンサンブルが大事ですね。
(追記)同じ月の「引窓」については、別稿「引窓の様式〜二代目鴈治郎の与兵衛」、「与兵衛と長五郎・運のよいのと悪いのと」をご参照ください。
(R2・6・24)
○昭和44年6月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」〜「道行恋苧環」
六代目歌右衛門国立劇場初登場のお三輪
三代目市川左団次(鳥帽子折求女)、七代目中村芝翫(橘姫)、六代目中村歌右衛門(杉酒屋娘お三輪
国立劇場の開場は昭和41年11月のことでしたが、開場2年半過ぎてもなかなか登場しない大物役者がいました。それが六代目歌右衛門です。本来ならば真っ先にお呼びが掛っておかしくないのにと思いますが、理由は良く分かりませんけど、巡り合わせが悪かったのかな。自分が出るのに相応しい演目とタイミングを図っていたのだろうとも云われています。父親の五代目歌右衛門も帝国劇場(明治44年3月開場)が出来てから五年半くらい出なかったそうです。舞台裏の政治力学にはあんまり興味ないのですが、いろいろ面倒なことがあるようですねえ。かくして「満を持して」ということで、国立劇場初登場に歌右衛門が選んだのが、妹背山のお三輪であったわけです。
この映像(昭和44年6月国立劇場)の、左団次・芝翫・歌右衛門という顔合わせは何とも豪華です。残念ながら、吉之助は三代目左団次の舞台を生では見ることが出来ませんでしたが、この舞台が左団次の最後の出演でした。(三代目左団次は昭和44年10月に没) 左団次の求女が持つ透明で香しい気品ある芸は、まったく年齢を経なければ出せないものに違いありません。折口信夫は「源氏物語における男女両主人公」(昭和26年9月)のなかで、「色好みというのはいけないことだと近代の人は考えるけれど、昔の人は、人間の一番立派な美しい徳は色好みである、少なくとも当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にある人だけは、どんな女性も選ぶことが許されると考えていた」ということを云っています。もちろん折口は光源氏のことを云っていますが、このことは求女(実は藤原淡海)にも当てはまります。左団次の求女は、そのことを説明がなくても納得させます。吉之助が生で見た舞台での求女はどこか女っぽくナヨナヨとして変成男子に見えることが多かったですが、この左団次の求女はしっかり男であって、しかも柔らかさと品位が失われていない。まことに貴重な映像であります。
芝翫の橘姫・歌右衛門のお三輪と云う、姫と村娘の対照も実に面白いものです。さすが六代目菊五郎に仕込まれたということで芝翫はかつきりと踊る楷書の踊り、対する歌右衛門は草書の踊りで、しなやかと云うよりも実に入念に・くどいほど入念に身体を内輪に使ってお三輪の想いを振りで描いていきます。そこで描き出されるものは、二人の女性の恋心ということはもちろんですが、決してそれだけではない。彼女たちが奉じている「夫たるべき男(恋する相手は自分と結婚するものだと彼女たちは信じているのであるから)に妻たるべき私はどのように尽くすべきか、どのように振舞うべきか」という婦女庭訓(女の道徳律)はそれほどに重いものだということです。そこに姫と町娘の区別などないのです。
「主ある人をば大胆な、断りなしに惚れるとは、どんな本にもありやせまい。女庭訓躾け方、よふ見やしやんせ、エヽ嗜みなされ女中様」
「イヤそもじとてたらちねの、許せし仲でもないからは、恋は仕勝よ我が殿御」
「イヽヤわたしが」
「イヤわしが」これらの台詞は床で語られ、役者が云うものではありませんが、言葉なしでも、芝翫と歌右衛門の身体の遣い方、身体のどの部分も内輪に内輪にと、しっかり制御された動き から、彼女たちを律する婦女庭訓の重さがひしひしと伝わって来ます。彼女たちは求女に恋しているというよりも、婦女庭訓の命じるまま自己実現に向けて突っ走っていると云っても良いほどです。たまたま近くにいた求女といういい男を きっかけにしているだけなのです。こうして橘姫もお三輪も、婦女庭訓に殉じることになります。それにしても、これほどまでに全身を使って濃密に描きこまれた踊りを、近頃の舞台では滅多に見ない気がしますねえ。一瞬たりとも画面から目が離せません。
(追記)同じ月の「妹背山婦女庭訓・御殿」についてはこちらをご覧ください。
(H29・10・20)
十四代目勘弥の綱豊卿
十四代目守田勘弥(徳川綱豊)、四代目中村雀右衛門(お喜世)、五代目沢村訥升(九代目沢村宗十郎)(御祐筆江島)、六代目市村竹之丞(五代目中村富十郎)(富森助右衛門)
(巌谷慎一演出)
本稿で紹介するのは、昭和44年(1969)12月国立劇場が初めて取り上げた真山青果の「元禄忠臣蔵」通し上演のうち、十四代目勘弥が綱豊卿を演じた「御浜御殿」の映像です。戦後昭和の綱豊役者と云うと三代目寿海がまず思い浮かびます。寿海が最後に綱豊を勤めたのが昭和41年4月歌舞伎座のこと(寿海が亡くなったのは昭和46年4月)で、その次の綱豊役者が勘弥と云うことになると思いますが、調べてみると意外なことに、この時の国立劇場の舞台が勘弥の初役です。しかし、台詞廻しの上手さに定評がある勘弥だけに、さすがの出来を示しています。
勘弥の綱豊は、台詞を張り上げることをせず、語り口はソフトで・芝居掛かったところがまったくありません。台詞をリズムで押す感じはありませんが、言葉ひとつひとつが明瞭なので、これで助右衛門をソフトに押していく感じです。それで台詞に説得力を出しているのです。新劇にでもありそうな自然な演技に見えますが、そこに如何にも甲府宰相の品格が滲み出て、これで立派に新歌舞伎になっているのです。なるほどこう云う感じの綱豊もありだなと、ホントに感心する出来映えです。綱豊と云う役は、下手をすると外野から助右衛門に武士の心構えを垂れるかのように見えかねませんが、勘弥の綱豊には身分の格差で助右衛門にプレッシャーを掛けるような印象がまったくありません。助右衛門に対し余裕を以て接しています。だから幕切れの後味がとても良いのです。
竹之丞(後の富十郎)は、声がよく通って言語明瞭な点は、終生変わりませんでした。しかしこの助右衛門では勘弥の綱豊とやりあう時にその明瞭な台詞が理性的に聴こえるようで、声質的に若干噛み合わぬ感じがしますねえ。助右衛門はもう少しイライラと感情に任せて会話する感じでなければなりませんが、竹之丞のまっすぐな芸風であると、泥臭いひねくれ者の助右衛門は、ちょっと仁が合わぬところがあるようです。仁から云えば、竹之丞は綱豊の人だろうと思います。ただし竹之丞は一度も綱豊を勤めることなく終わりましたが。振り返って見れば、歌舞伎は彼の才能を十分に活用することが出来ませんでしたね。このことは残念なことでした。
雀右衛門のお喜世は嫌味がない出来ですが・それ以上ではなく、新歌舞伎の女性にはなっていないと思います。この時代の雀右衛門の、立役に対して一歩下がって自己主張をしない・悪いところが出ています。この時期は雀右衛門にとって一番苦しい時期じゃなかったかなと思いますねえ。
ところでお喜世のことですが、助右衛門が能楽堂横手で吉良を討とうとするのを・綱豊が入れ替わって阻止するわけですが、この情報を綱豊が入手したのはお喜世からに違いありません。それでは綱豊はいやがるお喜世を無理やり白状させてこの情報を得たのでしょうか、それともお喜世が自ら進んで綱豊にこれを知らせたのでしょうか、この点は大事なことではないですかね。これは後者に違いありません。と云うことは、御居間で助右衛門が吉良に斬りかかろうとするところをお喜世が「能楽堂で討たせるよう手引きする」と偽って、お喜世が身を挺して助右衛門を止めたと云うことなのです。もちろんお喜世は義兄の気持ちを分かり過ぎるくらい理解しています。しかし、ここで暴れられたら綱豊にも罪が及ぶ、お喜世はこれだけは阻止せねばならぬのです。もし能楽堂の場で綱豊が助右衛門を手討ちにしたのならば、お喜世も生きていないでしょう。お喜世にはそれだけの覚悟があるのです。雀右衛門のお喜世はひよひよ泣くばかりで、お喜世の決死の覚悟が見る者に伝わって来ません。ここに新歌舞伎の、意志的な新しいタイプの女性像の一端が見えるのですから、ここは大事に演じてもらいたいものです。
(R2・3・14)
四代目菊之助の弁天小僧
四代目尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)(弁天小僧)、八代目坂東薪水(初代坂東楽膳)(南郷力丸)、十七代目市村羽左衛門(日本駄右衛門)、三代目河原崎権十郎(忠信利平)、七代目坂東蓑助(九代目坂東三津五郎)(赤星十三郎)、五代目市村竹松(二代目市村萬次郎)(千寿姫)、七代目尾上梅幸(青砥左衛門)他
本稿で紹介する映像は、昭和46年(1971)3月・国立劇場での「弁天小僧」通しです。弁天小僧を演じるのは、四代目菊之助つまり現・七代目菊五郎、当時29歳です。菊之助が弁天小僧を初めて演じたのは、昭和40年(1965)6月東横ホールでのことでした。この昭和46年国立所演は4演目に当たりますが、通しでの上演はこれが初めてのことでした。恐らくこれが残っている現・七代目菊五郎の弁天として一番古い映像だろうと思います。菊之助は、昭和41年(1966)にNHKの大河ドラマ「源義経」の主役で一躍国民的スターとなりました。さらに翌年・昭和48年(1973)10月歌舞伎座で、七代目菊五郎を襲名することになります。まさに若手花形ピカッピカの時代の菊之助の弁天です。
別稿「三代目猿之助の初宙乗りの狐忠信」でも書いたことですが、役者の当たり役と云われるものは、「数多く演じるうちに役をついに自分のものと した」と云う性質のものではなく、最初からその役者の仁にあつらえたように役がピタリと嵌(はま)るものだということ、当たり役と云うのは最初から当たり役なんだということを、菊之助の弁天小僧を見ても実感させられます。恐らく歌舞伎の観客の多くがそうだと思いますが、吉之助の弁天のイメージも、長年見て来た七代目菊五郎の弁天で出来上がっています。現在の菊五郎は立役ですが、当時の菊之助はもっぱら女形を勤めました。だから「浜松屋」前半娘姿で登場する菊之助がぴったりするのは当然のことですが、玉島逸当に「まさしく男」と見咎められて正体を顕わす変わり目のスカッとした爽快感、ここで娘役の嫋々とした後味を引っ張らずに、若衆(男)の感触へと鮮やかに切り替わります。要するに、前半の娘も後半の若衆も、どちらも見事に嵌って来るのです。普通だと程度の差はあれど、娘か若衆かどちらかの感触に寄ってしまうものです。つまり前半がどこか男っぽい娘にみえたり、後半がどこか女っぽい若衆に見えたりするものです。例えば息子の現・五代目菊之助でも二十代の頃はちょっと娘の方に寄った感触だったと思います(最近はだいぶ男っぽくなってきました)が、別にそれが悪いということではありません。それは役者の個性から自然と滲み出て来るものだからです。ところが四代目菊之助の場合であると、変成男子的な印象にはならずに、娘から若衆へ、カチャとテレビのチャンネルを切り替えたようにどちらもぴったり嵌って、変わり目が実に鮮やかなのです。つまり見顕わしの前と後の、バランスが理想的に良いのです。だから見顕わしがとても健康的な感触になります。旧来の江戸の暗く湿った淫靡な感触を引きずった見顕わしではありません。そこが昭和46年当時の菊之助の弁天の「新しさ」です。そこがカラッと明るい「戦後」の感覚に通じます。「カチャとテレビのチャンネルを切り替えたように」と先ほど書きましたが、現在のパソコンによるチャンネル切り替えとは若干違った感触の、アナログ的なチャンネル切り替え、その意味でもこの菊之助の弁天の出現は、戦後歌舞伎のひとつの事件であったと思いますねえ。
この頃(昭和40年代)の菊五郎劇団には、六代目学校の薫陶がまだしっかり残っていました。アンサンブルも良いし、芝居がテンポが速めで心地が良い。「浜松屋」も「稲瀬川勢揃い」も手順が練り上げられて、安心して見られます。父親(七代目梅幸)や叔父(十七代目羽左衛門)の指導よろしく、菊之助の弁天小僧も良い感じの七五調を聞かせてくれます。もちろん後年の七代目菊五郎の練れた 巧さはまだないけれど、ちょっと硬くも初々しく感触のなかに将来の大器が十分に予感出来ます。
(H31・1・4)
二代目松緑の和尚吉三、八代目三津五郎の伝吉のこと
七代目尾上梅幸(お嬢吉三)、二代目尾上松緑(和尚吉三)、十七代目市村羽左衛門(お坊吉三)、八代目坂東三津五郎(土左衛門伝吉)
別稿「梅幸のお嬢吉三」は昭和47年1月国立劇場での「三人吉三廓初買」映像による随想ですが、七代目梅幸に焦点を合わせて書いたので、文章の流れ上割愛せざるを得なかったことを、稿を改めて書くことにします。
まずは二代目松緑の和尚吉三のことです。七代目梅幸のお嬢吉三の揺れる感覚の七五調と比べると、若干の違和感が見られます。それはほんのちょっとの差異なのですが、それが決定的な感触の違いになって来るのです。松緑の台詞は、言葉の粒がどこも揃っていて、だから五の部分は五の長さに、七の部分は七の長さになっています。結果として、台詞の尺が五と七の長さが交互に出て来ることになり、感覚的には黙阿弥の七五の台詞を早い二拍子で処理する感じに聞こえます。つまりこれは吉之助が云うところのダラダラ調の台詞です。ただし、この時代の松緑の台詞は、吉之助が記憶している晩年の松緑よりも台詞の速度が若干早いようです。だから威勢よく気風が良く、江戸っ子の気忙しい感じが出ている 利点があるかも知れませんが、言葉がタラタラ出る感じで台詞の感情があまり描けていないと思います。梅幸のお嬢が飛び切りよかったので、これはちょっと残念な和尚でしたねえ。
思い返せば、昭和50年代後半から歌舞伎の黙阿弥物はテンポが遅いダラダラ調の定型に陥って行く傾向があると吉之助は考えています。現在の平成歌舞伎は、その流れの上にあるのです。吉之助は、晩年の松緑や十七代目勘三郎の七五調はダラダラ調の気味があったと思っており、その舞台を見て帰ってから、六代目菊五郎の「弁天小僧」の録音(昭和7年ビクター録音)などを聴き直して正しい黙阿弥の七五調の様式感覚を確認し直したものでした。同じ六代目学校の生徒でも、六代目の様式を正しく継承した梅幸や十七代目羽左衛門と比べると、松緑や勘三郎は若干自己流に崩したところがあったかなと思っています。今回(昭和47年1月国立劇場)の映像を見ると、そこを改めて確認できた気がします。
昭和初めのことですが、六代目菊五郎が「橘屋の兄貴(十五代目羽左衛門)の黙阿弥の台詞は親父(五代目菊五郎)のものではない、あれじゃあまるで時代世話だ」と云うニュアンスの発言をして、大勢の橘屋贔屓を怒らせて物議を醸したことがあったそうです。発言の背景に親父の芸を継ぐのは俺だという自負心があったことは明らかですが、六代目菊五郎が先代の芸を崩していないというところを踏まえれば、その言いたいところはよく分かるのです。十五代目羽左衛門の七五調は、台詞が緩急に揺れる感覚が少なく、どちらかと云えば表面上の流れ重視です。こちらの方が様式的に則って聴こえる(いくらか音楽的に聴こえる)ようで、それと比べればむしろ六代目菊五郎の方が新劇的にパサパサに聴こえるかも知れません。吉之助は、恐らく松緑や勘三郎の台詞は、十五代目羽左衛門の影響を強く受けており、それがダラダラ調へ訛ったと推測しています。これは、その後の歌舞伎が、黙阿弥の本来のドラマ性から遊離して、様式感覚を意識する方向へ傾斜していく大きな流れを示しています。この流れを踏まえれば、現在の平成歌舞伎の黙阿弥がどうしてあのような状況になるか、その根本原因は明らかなのです。芝居の感覚がドラマから遊離したところの、写実への意識の欠如ということです。
今回の映像を見て吉之助がショックであったのは、八代目三津五郎の伝吉の台詞もどちらかと云えばダラダラ調に近くなっており、正しく七五に揺れる感覚に感じられなかったことです。三津五郎と云えば、「芸十夜」で武智鉄二と対談して、吉之助に六代目菊五郎崇拝を植え付けた一人なのですが、その三津五郎からこういうダラダラ調の台詞を聴くとは思いませんでした。
「三人吉三」での伝吉は、芝居のなかの因果応報の律の発端を作った人物で、とても重要な位置を占める役です。伝吉は前非を悔いて、その後は隅田川での身投げの死者 を弔ったり信心深く暮らしていました。これで自分は因果の報いを受けないで済むだろうと内心期待ながら生きて来たのです。ところが、これはすべて発端は自分の罪行から発したと思える出来事が次から次へと出て来る。それで錯乱して、もう神も仏もないと怒り狂うのです。だから伝吉は表面的には百両を返してくれないお坊吉三に怒って斬り掛るのですが、実はそれ以上に自分を許してくれない神や仏に対して 、或いは悪事を犯した自分に対して、伝吉はもっともっと怒っているのです。だから伝吉を因果応報の律に絡め取られた人物に過ぎないと考えると、それはちょっと違う でしょう。当時の上演プログラムの「出演者のことば」のなかで、三津五郎は「今のお客さまには、因果だの、祟りだの、たとえそれが芝居の上にせよよく分からないのは世の趨勢でいたしかたない」と語っています。現代人に伝吉が分からなくたって仕方ないとしているようです。恐らく 同じ現代人として三津五郎は、作者(黙阿弥)への信頼、役(伝吉)への信頼が若干弱いのだろうと思いますねえ。だから黙阿弥の本来のドラマ性から遊離して、これならば現代人にアピールできると彼らが思えるところの様式感覚に逃げ込みたくなるということです。松緑の和尚吉三についても、多分、同じようなことが言えるのだろうと吉之助は考えています。(H30・2・17)
七代目菊五郎の若き日の勘平
七代目尾上菊五郎(早野勘平)、五代目坂東玉三郎(お軽)、三代目尾上多賀之丞(おかや)、三代目河原崎権十郎(斧定九郎・原郷右衛門)、沢村精四郎(二代目沢村藤十郎)(千崎弥五郎)、六代目尾上菊蔵(判人願六)、七代目市川門之助(一文字屋お才)
本稿で紹介するのは、昭和48年(1972)12月国立劇場での「仮名手本忠臣蔵」〜五・六段目の舞台映像です。勘平は菊五郎・お軽は玉三郎と云う当時のフレッシュ・コンビです。菊五郎の勘平初役は昭和38年10月ホール・22歳の時のことで、この国立の時点では31歳で4回目でした。まさに「勘平さんは30になるやならず・・」のお年頃であったわけです。玉三郎の六段目のお軽初役は昭和45年7月国立劇場・20歳の時のことで、この時点では22歳で3回目でした。現在(令和2年時点)の若手と比べると、菊五郎も玉三郎も、ずいぶん早い時期に役の経験を積んでいたわけです。この件だけでは判断はできないけれど、別稿「平成歌舞伎の31年」で「現状の世代交代は親世代よりも10年遅れている」と書きましたが、多分そんな感じだと察せられます。現在の若手はどうやってこのハンデキャップを取り戻して行けば良いでしょうかねえ。これは結構大変なことだと思います。(別稿「歌舞伎は危機的状況なのか」をご参照ください。)
映像を見て思わずそのようなことを考えてしまうくらい、若き日の菊五郎の勘平が良い出来なのです。もちろん「年相応に良い」と云うことです。この勘平を起点として現在の菊五郎へ向けて真っすぐに線を引っ張ってみると、約50年の歳月(ほぼ吉之助の観劇歴と重なって来ます)の芸の道程が想像が出来ます。現在の菊五郎ならば、無駄な力を入れることなく・しかし決めるべきところを決して外さない・さらに余裕の上手さの勘平を見せてくれるに違いありません。しかし、将来そうなるためには、若い時分に堅苦しいくらいきっちり楷書で勤めることが大事だと云うことが、若き日の菊五郎の勘平を見ると、実にスンナリ納得が行きます。この時代があったからこそ、今の菊五郎の芸が在るのです。特に感心するのが、トントントンと常間に取る演技のリズムの小気味良さです。今回の映像では、特に五段目にそれを感じますねえ。音羽屋型の五・六段目は、綿密に段取りが仕組まれています。そこから六代目菊五郎の、定規を当てたような規格正しい芸のイメージが浮かび上がって来ます。これが六代目菊五郎から直接指導を受けた親世代(つまり七代目梅幸や二代目松緑・十七代目勘三郎らのこと)が、息子たちの世代に是非とも伝えたかったことなのです。教えた方も厳しく教えたに違いありませんが、教えられた方もこれをしっかり守って演じています。
役の設定に近い年齢で演じる勘平には、その時分にしか生じないリアリティがあるものです。真っすぐでフレッシュな感覚の勘平になっているので、それほど大きな不満はありませんが、もちろん改良の余地はまだまだあると思います。若き日の菊五郎は声の通りが良い。それだけに台詞がつい高調子になってしまうところがあって、例えば六段目だど縞の財布を見て驚いてから気を変えて「茶を一杯くりゃれ」とお軽に言う場面、或いは二人侍を迎えて「これは御両所見苦しきあばら家へ・・」と言う場面など、もっと低調子で言った方が世話の感触になります。六段目ではそういうところが何ヶ所か見えます。
一方、若き日の玉三郎のお軽は神妙に勤めていますが、半分くらい遊女かお姫様を引きずった妙にクネクネした印象があって、まだ十分世話女房になり切れていません。まあ玉三郎の場合は七段目の遊女のお軽は雰囲気的にぴったりなのですが、六段目の女房お軽だと色気が出過ぎて難しいところがあるとは思います。精四郎の千崎はきっちりやって行儀が良い。全体として脇で多賀之丞や菊蔵・権十郎などベテランが目を光らせているおかげもあって、引き締まった舞台になって、気持ち良く映像を見ることが出来ました。
(R2・1・25)