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須磨浦からの眼差し〜六代目勘九郎・初役の熊谷

令和8年2月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜陣門・組討」

六代目中村勘九郎(熊谷次郎直実)、三代目中村勘太郎(熊谷小次郎直家・無冠太夫敦盛)、初代坂東新悟(玉織姫)、三代目中村吉之丞(平山武者所季重)他

*この原稿は未完です。


1)須磨浦からの眼差し

本稿は令和8年2月歌舞伎座・猿若祭での、勘九郎の熊谷直実・勘太郎の敦盛(小次郎)による「一谷嫩軍記〜陣門・組討」(須磨浦)の観劇随想ですが、まずは例によって作品周辺を逍遥することにします。

時代浄瑠璃「一谷嫩軍記」のなかで、須磨浦は二段目端場・熊谷陣屋は三段目切場に位置します。この二つの場面は、江戸期に於いては、通し上演として続けて上演されることが多かったのです。ところが大正期辺りから、陣屋だけが見取り狂言として上演されることが増えて来ます。同時に、須磨浦の上演が極端に減って行きます。その理由は誰の目にも明らかです。それは熊谷が幕外の憂い三重で花道を引っ込む九代目団十郎型の陣屋が主流になって来たからでした。二つの場面を続けて上演すると具合の悪いことが色々と生じるのです。詳細は別稿に譲りますが、例えば現行の須磨浦では熊谷と馬が本舞台で決まって幕となります(今回もそうです)が、昔の型では熊谷が馬を引いて花道を経て揚幕に入ったものでした。須磨浦が現行の幕切れになったのは、団十郎型の陣屋では直実が花道を引っ込むものだから、須磨浦でもそれをやったら引っ込みが重複してしまうので・須磨浦の方を取り止めたからでした。このように現行の歌舞伎の「嫩軍記」は、ほぼ百年の間、「まず団十郎型の陣屋ありき」という考え方があったかのようで、須磨浦から陣屋への連続性・連関性が忘れ去られてしまいました。それぞれが別個の芝居みたいに扱われて来たと云えます。

このため陣屋の熊谷は勤めたことがあるが・須磨浦の熊谷はやったことがないと云う役者が少なからずいます。(さすがに二代目白鸚、故・二代目吉右衛門はどちらの熊谷も演じていますが。)まあ役者が演じたくても興行上の事情が絡むから仕方がないこととは云え、ここで吉之助が申しあげたいのは、陣屋の熊谷を演じるのに陣屋のことだけを考えていればそれで良いのか?と云うことです。昨今の陣屋は自らの感情に浸り過ぎの熊谷ばかりになってしまいました。陣屋の見取り上演であっても、須磨浦から陣屋への連続性・連関性を念頭に入れた熊谷の役作りをせねばならぬのではないか?役者はもちろんですが・観客も、須磨浦から陣屋へ向けての眼差しを持つことが大切なのです。(この稿つづく)

(R8・2・22)


2)須磨浦の愉しみ方

須磨浦のドラマをどのように愉しむべきか、これは難しい問題ですね。須磨浦において熊谷は敦盛・実は我が子小次郎を前に「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり、「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えたりします。どうして熊谷はこういうワザとらしい・回りくどいことをするのか。この場で討たれるのが我が子である・これが作者並木宗輔の虚構(トリック)であるならば、それはどうも嘘臭く感じられる。逆に須磨浦で討たれるのが敦盛だと思って見ると、今度は陣屋の虚構が許せなくなってきます。このように須磨浦を真に見れば陣屋がやり難くなり、陣屋を真に見るならば須磨浦がやり難くなるのです。

この問題については、吉之助はこんな風に須磨浦のドラマを愉しめば良いと考えています。そこで以下に吉之助の須磨浦の愉しみ方を披露することにいたしましょう。なおこの愉しみ方は「嫩軍記」にのみ適用されるものでなく、「千本桜」でも「実盛物語」であっても、すべての時代浄瑠璃に応用出来るものです。

現代の我々にとって「平家物語」は文学作品と云うことになるでしょうが、江戸期の民衆にとって「平家物語」はまずは歴史書でありました。当時の教養常識であったのです。「平家物語」は熊谷が敦盛を討つ場面を次のように締めています。

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」
(現代語訳:まるで作り話のように思われるであろうが、(敦盛を討ったことが)後に熊谷が出家する原因になろうとは、あわれなことであった。)「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾

須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる、これが「平家物語」が教えるところの歴史の理(ことわり)です。だから観客は芝居の須磨浦の場を見る時に、この歴史の理を踏まえて舞台を見ることになるのです。いわば観客は歴史の一コマの目撃者です。「須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる」、観客はそのような結末になるはずのドラマを筋を追いながら懸命に見ようとします。

舞台での熊谷親子はホントは、父は息子に「やはり俺にはお前を殺すことは出来ない」と弱音を吐いたり、息子は父に「父さん、僕はもう覚悟を決めているんだ、早く首を討ってくれ」と叱咤したかも知れません。しかし、遠くからそんな会話は聞こえません。熊谷親子が逡巡する様子は、遠くから現場を眺める目撃者(観客)の目には、熊谷が敦盛に対し「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり、「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えたりしている光景に映るのです。江戸の観客には常識としての「平家物語」が頭に在りますから、そのように「在るべき光景」を舞台に見ることになる。作者は観客に対し「見たいのですね、ならばこれを見なさい」と云うものを提示し、観客はこれを見るのです。

西洋絵画史では有名な逸話ですが、古代ギリシアで或る時、ゼウキシスとパラシオスという二人の画家が、「どちらがより写実的な絵を描けるか」をめぐって対決することになりました。ゼウキシスが描いたブドウの絵はあまりに真に迫っており、鳥がこれをついばみに来たほどリアルでした。一方、パラシオスが描いた絵は、覆い(カーテン)が掛かっていて見えませんでした。これを見たゼウキシスは、「おい、その覆いを取って早く絵を見せてくれ」と言いました。しかし、実は覆いはパラシオスが描いた絵だったのです。ゼウキシスは自分の負けを認めざるを得ませんでした。

『パラシオスの例が明らかにしていることは、人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見させるような何かでなくてはならない、ということです。(中略)どのような時に騙し絵がわれわれを魅惑し喜ばすのでしょうか。それは、我々の眼差しを移動させてみても、その像が動くことはないし、ただ目が欺かれていただけだと気付く時です。というのは、このとき絵画は、それがかつてそう見えていたものとは別のものとして現れるからです。あるいは、むしろそれは今や別のものとして見えてくるからだ、と言った方がよいかも知れません。』ジャック・ラカン:1964年のセミネール・「精神分析の四基本概念」〜「線と光」)

つまり江戸の観客は須磨浦の芝居を見ながら自ら「喜んで騙されに行っている」とも云えましょうか。しかし、後場の陣屋の幕切れを見れば、結局、江戸の観客の愉しみ方が正しかったことが明らかになるのです。熊谷が実検で提出した首は敦盛として須磨寺に葬られることになる。熊谷は剃髪して黒谷の法然の元へ向かう。紆余曲折があったけれども、ドラマは「平家物語」が教えた通りの結末となりました。これで騙し絵の完成です。江戸の観客は「イヤアまんまと作者にしてやられちゃったね」と云ってウフッと笑うでしょうね。これが吉之助の須磨浦の愉しみ方なのです。(この稿つづく)

(R8・2・23)


3)須磨浦からの眼差し・続き

以下の文章は陣屋について書くものですが、須磨浦からの眼差しを論じているのですから・そのようにお読みください。「須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる」、観客はそのような結末になるはずのドラマを筋を追って陣屋を見ているのです。浄瑠璃作者は観客に対し、「見たいのですね、ならばこれを見なさい」と云うものを提示し、観客はこれを見るのです。

陣屋での熊谷に課された使命は、明白です。それは「平家物語」が教えるところの結末へと、ドラマを無事に導くことです。熊谷は涙を殺して・心を落ち着けて、義経の首実検へ向かおうとしています。ところが周囲の面々が熊谷の心をかき乱すのです。須磨寺から立ち帰ると、そこにいるはずのない女房相模が陣屋へ来ています。おまけに敦盛の母藤の方まで現れます。熊谷の行動に不審を抱く梶原平次景高も陣屋に来ています。弥陀六の正体はまだ分かりませんが、一体どのような役割の人物であるか、これも不安材料に違いありません。それと観客はまだ知りませんが、実は義経も陣屋奥の間に潜んでいます。義経も延期延期でなかなか首実検に来ようとしない熊谷の行動を訝しく感じていたのです。(と云うことは、熊谷は首実検への踏ん切りがなかなか付かなかったということですね。)これから首実検と云う大事な時であるのに、これだけの人物が陣屋に現れて、寄ってたかって・いろんな方向から熊谷の心を不安定な状況にするのです。しかし、何としても熊谷は首実検を無事にやり通さねばなりません。それが父の意を組み納得のうえで身替りになって討たれた息子小次郎の遺志に報いることでもあるのです。このような絶体絶命の状況下で熊谷の「物語り」が行われます。これが陣屋のまず最初のクライマックスです。

「物語り」とは、過去に起こった出来事を当事者がありのままに語るのが、本来の在り方でした。そういうことならば、熊谷の物語りは若干ルール違反と云うことになるのかも知れませんねえ。ここで熊谷は須磨浦で自分が無冠太夫熱盛を討ったと語りますが、それは事実ではないからです。実際に討ったのは息子小次郎でした。しかし、熊谷は陣屋のドラマが最終的に目指すべきもの、作者が観客に「見たいのですね、ならばこれを見なさい」と云うことを語っているのですから、この観点からすれば、熊谷の物語りは「事実を語ってはいないが、真実を語っている」ことになるのではないでしょうか。だから熊谷の物語りは捻じれているけれども、確かに「物語り」なのです。

「心にかかるは母人の御事」と熊谷が語る時、或いは「早や首打てよ熊谷」と語る時、熊谷の胸中に須磨浦での息子小次郎との最後の情景が蘇ったことでしょう。しかし、その情景は覆いに隠されて向こうが見えることはありません。ラカンが云う通り、「観客を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見させるような何かでなくてはならない」のです。熊谷はドラマの向こう側を想像させるように物語るのです。

陣屋のドラマは、こうして紆余曲折しながらも・危ういところを避けつつ、どうにかこうにか首実検(第2のクライマックス)に漕ぎつけます。この首実検は、歌舞伎の時代物のモドリのパターンに乗りますから、さほど困難なものではありません。義経によってその首は敦盛のものと認められ、これでどんでん返しが成立し、「平家物語」が指し示すところの、「須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる」結末(観客が見たかったもの)と、ドラマがこれでやっと重なります。

それもこれも、須磨浦からの眼差しが、「在るべき」結末に向けて熊谷を導いてくれたお蔭なのです。何故ならば、もしこの身替わり大作戦が水泡に帰すならば、身替りになって討たれた息子小次郎の死を無駄にすることになるからです。つまり須磨浦からの眼差しとは、亡き息子から父への眼差しでもあったわけですね。(この稿つづく)

(R8・2・26)


 


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