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初代鷹之資・初役の鳴神上人

令和8年1月新橋演舞場:「鳴神」(Bプロ)

初代中村鷹之資(鳴神上人)、二代目大谷廣松(雲の絶間姫)他


1)御霊劇としての「鳴神」

令和8年1月新橋演舞場での初春大歌舞伎・昼の部、近年メキメキ評価を上げている若手の鷹之資の鳴神上人・廣松の雲の絶間姫の組み合わせ(共に初役)による「鳴神」(Bプロ)を見てきました。まずは舞台のことを書く前に、例によって作品周辺を逍遥することにします。

歌舞伎十八番の主人公に「御霊(ごりょう)」が多いことは、よく知られています。例えば曽我五郎(矢の根・助六)・鎌倉権五郎(暫)がそうです。御霊とは、何らかの社会的な恨みをもって非業の死を遂げた人物が、死後に怨霊となって祟り、民を脅かす天災や疫病などをもたらす、民はこれを畏れて「御霊」と呼んで手厚く祀りました。これを御霊信仰といいます。成り立ちは御霊によって様々ですが、ここでは御霊が何らかの政治的・社会的な恨みを含んでいることを押さえて置きたいと思います。どこか反体制的なイメージを帯びているのです。

もっとも歌舞伎十八番の主人公がすべて御霊だと云うわけでもなさそうで、例えば毛抜の粂寺弾正は明晰な科学的思考で難題を解決して颯爽と去りますが、政治的な恨みからは無縁のようです。他方、鳴神上人の場合は、朝廷と何らかの揉め事があって怒った鳴神上人が竜神を滝つぼに封じ込めてしまい、それからというもの雨の降らない日が続き国中は飢饉で苦しんでいると云う設定ですから、上人には政治的な恨みがあるわけです。困り切った朝廷は、宮廷第一の美女を上人の元に送り込み、色仕掛けで上人を堕落させてその通力を無にしてしまおうと考えました。ここまでが「鳴神」の前半です。後半は酒に酔いつぶされた上人が雨音に目を覚まして、やっと自分が騙されていたことに気が付いて烈火の如く怒り狂い、髪を逆立て怒りの形相で姫の後を追います。ここで展開される立ち回りが、荒事の「荒れ」のシーンです。まことに歌舞伎十八番らしい場面ですね。

ここまで「鳴神」をざっと振り返りましたが、絶間姫に上人がたらしこまれる過程(プロセス)がこの芝居の最も面白いところですから、するとこの芝居が何となく「艶笑譚(えんしょうたん)」みたいに見えてくると思います。艶笑譚とは、男女の色恋に関することや、あだっぽい笑い話のことです。すると後半で上人が怒って「荒れ」る理由は、上人が女に騙されたから怒ると云うことになるのでしょうかね?まあそれもあるだろうとは思います。しかし、それだけであるとこれは上人の個人的理由であって、「何らかの政治的・社会的な恨み(公憤)を含んでいる御霊」と云うことにならないと思いますがね。

だから「鳴神」を正しく歌舞伎十八番に位置付けるためには、上人が「荒れ」る理由は、朝廷の計略によって色仕掛けで落させられて・通力を破られたことへの屈辱的な怒り(公憤)と云うことになるべきでしょう。これで鳴神上人に反体制なイメージを与えることが出来ます。ですから絶間姫はドラマのなかでは朝廷によって遣われた政治的な手段(ツール)と云うことですね。(この稿つづく)

(R8・1・31)


2)鷹之資の鳴神上人

いつも「鳴神」を見てちょっと心配になるのは、観客も含めて何となく、雰囲気がともすれば「艶笑譚」の方へ傾きそうな気配がすることです。芝居が下世話な方向へ振れてしまいそうな感じなのです。これを見て観客が笑う。そうすると芝居が小っちゃくなってしまうと云うことです。

もちろん絶間姫に上人がたらしこまれる場面はこの芝居の見せ場であるし、時代を超えて今日的な芝居に仕立てられそうな要素を持っており、ここをしっかり描かなければ「鳴神」の面白さはないはずなのです。だから艶笑譚的な要素は確かにあるに違いない。しかし、その「笑い」は鼻の下を長くしてデへへへへ・・という下卑た感じで笑うものではなく、どちらかと云えば狂言の笑いに近いものでしょうね。イデ笑おうかハハハハハ・・みたいな「大らかな笑い」です。これが初代・二代と続く成田屋の江戸荒事の古劇の感触だろうと思います。朝廷の計略によって色仕掛けで落され・通力を破られたことへの怒り(公憤)で鳴神上人は荒れる。この点をしっかり押さえておけば、芝居は下世話に振れることはなく、御霊劇の骨太の構図は崩れません。

しかし、芝居は役者と観客の相互関係で出来上がるものです。現代の観客はどうしても艶笑譚的な笑いでこれを受け止めたがるでしょう。またその見方が間違いであるとも云えません。だから厄介な問題になりますが、歌舞伎役者はこの問題を認識して、「大らかな笑い」を心掛けて、自分なりの対処をせねばなりません。(既に舞踊「身替座禅」などは難しい状況に陥っていますね。)吉之助は、歌舞伎役者は「現代に生きる江戸人」のようで在って欲しいと思っています。

そこで今回(令和8年1月新橋演舞場)の「鳴神」ですが、3年前の「鳥居前」の狐忠信の荒事で力強い台詞と演技を見せた鷹之資であるので・大いに期待しましたが、もちろんよく頑張っているのだけれど、予想したよりもスケールが小さい・と云うかこじんまり纏まった印象がしますねえ。もっと大らかで鷹揚なところが欲しいと思います。鷹之資の上人は、最初庵にいる間は低く重い調子でしゃべっていましたが、絶間姫の仕方噺に夢中になって石段から転げ落ちてからはトーンがグッと明るくなって台詞のテンポが早くなりますね。どういう意図でこういう声の使い分けをするのか吉之助には理解出来ませんが、このために何となく後半の芝居が軽く世話っぽい感触になる。だから芝居が小っちゃくなってしまうのです。観客はそこを好意的に反応してくれていますが、ここは笑いを生(なま)にしないように・意識的に抑えに掛かることです。もっと「大らかな笑い」を心掛けて欲しいですね。狂言をやるようにやって下さい。

ところで廣松の絶間姫が素晴らしい。祖父(四代目雀右衛門)譲りの美しさもさることながら、着実に色仕掛けで上人を篭絡(ろうらく)する手腕、それでいて演技が生っぽくならず・出過ぎるところがない行儀の良さ。近年では出色の絶間姫でありましたね。

(R8・2・2)

(追記)今回(令和8年1月新橋演舞場)の「鳴神」は、福之助の鳴神上人(Aプロ)とのダブルキャストでの上演でした。


 


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