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八代目菊五郎と六代目菊之助襲名の「鼠小僧」

令和7年10月御園座:「鼠小紋春着雛形」〜鼠小僧次郎吉

八代目尾上菊五郎(稲葉幸蔵・鼠小僧次郎吉)、六代目中村時蔵(大国屋抱え松山)、四代目片岡亀蔵(辻番与惣兵衛)、六代目尾上菊之助(蜆売り三吉)、初代中村萬太郎(刀屋新助)、初代中村芝のぶ(芸者お元)、九代目坂東彦三郎(早瀬弥十郎)、二代目市村萬次郎(養母お熊)、四代目河原崎権十郎(本庄曽平次)他

(八代目尾上菊五郎・六代目尾上菊之助襲名披露狂言)


1)小団次劇の「写実」(リアル)

令和7年10月御園座での、八代目菊五郎&六代目菊之助襲名披露の「鼠小紋春着雛形」(ねずみこぞうはるぎのひながた)・通称「鼠小僧次郎吉」(以下「鼠小僧」と略す)を見てきました。八代目菊五郎の鼠小僧は、令和4年2月歌舞伎座(当時は菊之助)の初役以来、約3年ぶりの2回目です。その時の観劇随想に作品論的なことを書きましたので、詳しくはそちらをお読みください。本稿では少し視点を変えて書いてみたいと思います。

「鼠小僧」は黙阿弥が幕末の名優・四代目小団次のために書き下ろしたもので、安政4年(1857)1月江戸市村座で初演されて大評判を取りました。(初演外題は「鼠小紋東君新形」・ねずみこもんはるのしんがた) この時に、後の五代目菊五郎が13歳(満年齢・当時は十三代目羽左衛門)で蜆売り三吉を勤めました。深川蛤川岸へ実地見学に行ったりして口の利き様など覚えて熱心に演じて大出来で、小団次もこの少年の技量に大いに感心したと云うことです。五代目菊五郎が「弁天小僧」を演じて大ブレークしたのは、この5年後のことでした。

「鼠小僧」を考える時に念頭に置かねばならぬことは、小団次劇は「写実」(リアル)を旨とするということです。このことは巷間正しく理解されているとはとても思えませんが、とりあえず別稿「小団次の西洋」などをご参考にしてください。小団次劇の写実とは、「そっくりそのまま」・自然主義演劇的なリアルということです。例えばそれは初演の蜆売り三吉に当時13歳であった五代目菊五郎を充てたことにも表れていると思います。13歳というとちょうど声変わりの時期にあたり、役者としては使い方が難しい時期でもあります。小団次が今回は三幕目に当たる稲葉幸蔵内の場でいつもの子役芝居(高調子で一本調子に台詞を連ねる発声法)をやろうと考えたのならば、何もここでわざわざ13歳の役者を起用する必要はなかったはずです。しかし、ここまでの「鼠小僧」上演史を見ると・数はわずかですが、例えば六代目菊五郎が「鼠小僧」を出した大正14年・1925・2月市村座の時も当時10歳だった七代目梅幸が三吉を勤め、七代目菊五郎が平成5年・1993・3月国立劇場でやった時には当時8歳だった松也が三吉を勤めたのです。そして前回(令和4年・2022・2月歌舞伎座)上演の時は、当時8歳であった菊之助(当時は丑之助)が三吉を勤めました。したがって明治以来の歌舞伎では稲葉幸蔵内はほぼ子役芝居のコンセプトで処理されてきたことが明らかなのです。しかし、13歳であった五代目菊五郎を三吉に起用した初演だけがそうではなかったと推測が出来る、これは非常に大事なことだと吉之助は睨んでいるのです。黙阿弥−小団次は13歳の五代目菊五郎を三吉に起用して、型にはまった子役芝居ではない感触・13歳の蜆売りの少年の「写実」(リアル)な演技・台詞回しを期待したに違いありません。

今回(令和7年10月御園座)の3年ぶりでの「鼠小僧」再演は、襲名披露狂言としてはいささか地味な演目を持って来たと思います。敢えて襲名興行に「鼠小僧」を選んだ新・八代目菊五郎の気概に吉之助が勝手に期待したことは、前回は8歳だった菊之助が今度は11歳で三吉を再演することで、もしかしたら稲葉幸蔵内が「写実」の芝居へグッと引き寄せた感触に仕上がるかもしれないと云うことでした。引いてはそれが「鼠小僧」全体の八代目菊五郎の鼠小僧の感触にどのような影響を及ぼすか、まあそんなことなど勝手に期待して芝居を見たわけです。(この稿つづく)

(R7・10・25)


2)小団次の「間合い

そこで今回(令和7年10月御園座)の「鼠小僧」再演ですが、八代目菊五郎の稲葉幸蔵には前回よりも写実を志向した気配が確かに見えました。例えば・ここは前回所演の時に指摘したことですが、黙阿弥の原作脚本では、

三吉:「あい、泥棒がどこに居るか、教えておくんなせえ」
幸蔵・左内:「えっ」(ト顔見合わせ思い入れ)
幸蔵:「藪から棒に盗人を教えてくれとは、どういうわけだ」

とある場面で、前回の菊五郎の稲葉幸蔵は、ここで何の思い入れも見せず・じっと前を向いたままでした。確かに普通歌舞伎ではこういう場面では生(なま)な反応を見せないものなのです。しかし、今回の菊五郎は、この箇所では驚いた表情をちょっと見せました。初対面の三吉がいきなり「泥棒」のことを言い始めれば、「もしかしたら小僧は俺の正体を知っているのか?」と幸蔵はギクッと驚いたに違いありません。そう云うところに菊五郎の写実志向が垣間見えた気がしました。

だから菊五郎の芸が少しずつ変化していることは確かだろうと思います。(ちなみに7月大阪松竹座での襲名興行で菊五郎は「うかれ坊主」を踊りました。長年のご贔屓はエッ?と思うところかも知れませんが、こういうところにも菊五郎の変化が表れていると思います。)ただし吉之助の小団次劇の見立てからすると、驚きの反応がまだまだ控え目です。多分菊五郎には、あんまり生な反応を見せると芝居がクサくなっちゃうから・・という躊躇(ためら)いがまだあるのだろうと感じます。しかし、ホントはここはもっとクサいくらいの演技であって良いのです。ここはアッと目を見開いて驚愕の反応を見せ、体勢を三吉の方にキッと向き直り、低調子に口調を変えて「藪から棒に盗人を教えてくれとは、どういうわけだ」と三吉に真剣に語り掛けるくらいのはっきりした反応が必要です。小団次ならばそこを一瞬の息でやって見せて、その間合い(リズム感)が絶妙であっただろうと想像するのですがね。クサく感じるくらいに・しつこく・細かくやるのが小団次の「写実」(リアル)、しかしそこをクサいままに置かせないのは小団次の「間合い」が絶妙であったからでしょう。小団次劇とは「自然主義のカブキ」であったわけです。この点はこれからの八代目菊五郎にとって大きな示唆のあることではないかと思います。

ところで小団次の間合いについては、こんな逸話もあります。二代目左団次の思い出話ですが、

『或る時、私(二代目左団次)が河竹糸女さん(黙阿弥長女)に会うと、あなたのお祖父さん(四代目小団次)が鼠小僧をなされたときの、着ておられた唐織の半纏はまだ残っておりますか?という問いを受けて弱らせられました。(中略)亡くなられた大彦さんのご隠居さんの話では、祖父が鼠小僧に扮して忍び込むとき、パッとこの半纏を裏返しに着て天井へ飛び上がる手際が馬鹿によかったそうです。このご隠居さんは、よくその仕草をしては、祖父の声色を使っておられました。』(二代目市川左団次:」「父左団次を語る」)

半纏をパッと裏返しに着るという当時の職人の動作を鼠小僧に取り入れた「写実」(リアル)の面白さですが、それを更に面白くするのがパッと裏返しにする時の小団次の絶妙な「間合い」・手さばき、これが小団次劇をカブキにしたのです。まあそんなことなど思いながら今回二幕目の稲毛屋敷盗みの場の菊五郎の鼠小僧を見たわけですが、菊五郎は一生懸命やって決して悪くありませんが、印象論的になるけれども、この盗みの場でさらにスリリングな面白さを追求するのならば、工夫すべきは鼠小僧の盗みの「間合い」と云うことになるでしょうね。(この稿つづく)

(R7・10・27)


3)芝居の「写実」(リアル)って何

「黙阿弥−小団次は13歳の五代目菊五郎を蜆売り三吉に起用して、型にはまった子役芝居ではない感触・13歳の蜆売りの少年の「写実」(リアル)な演技・台詞回しを期待したのだろう」と書きました。それはつまり初演(安政4年1月江戸市村座での五代目菊五郎の三吉は子役芝居の発声(高調子に一本調子で台詞を連ねる発声法)をしなかっただろうと云うことです。これは吉之助の仮説ですがね。もしそうでないとするならば、三吉の台詞を聞いて幸蔵が、「エッ」(とギックリ思い入れ)などと云う黙阿弥のト書きの方が、逆に不自然に見えてしまうと思います。そこに黙阿弥の「写実」(リアル)があるのです。

そこで今回(令和7年10月御園座)の「鼠小僧」再演で吉之助が密かに期待したことは、前回は8歳だった菊之助が今度は11歳で三吉を再演することで、今回は思い切って菊之助に普通の(子役の発声ではない)発声をさせるのではないかと云うことでありました。菊之助に普通に芝居をさせれば、(声変わりはまだであろうが)口上では結構太目の低い声で通していたことで明らかなように、これでかなり「写実」の三吉になる期待が持てる。結果として稲葉幸蔵内の芝居全体がグッと写実の感触になって来るはずである、とマアこれが見る前の吉之助の勝手な期待であったわけです。

しかし、実際には菊之助の三吉の発声は前回とほとんど変わらずで、声の調子は高めに取り・定型の子役の発声とはちょっと異なる(その意味ではちょっと写実)が・その範疇から逸脱しないので、中途半端と云うか・写実とは云えないところに留まった気がします。せっかくの機会だから、ここは思い切って冒険して欲しかった気がしますね。惜しいことをしました。

前回上演もそうでしたが、「鼠小僧」は随分久しぶりの上演であるので、どの役者も「黙阿弥なんてこんなもの」的な先入観がない。新作に対する時に近い感覚で対しているから芝居がトントン進む、そこが例えば「弁天小僧」とか「髪結新三」とか、いつもの黙阿弥物とは違って新鮮に感じられる所ではあります。そこは良い点なのだけれども、黙阿弥−小団次のストーリー・テリングの、ホントの核心になるところは突いておらず、そこは表面をサラリと撫でてしまった感じで終わり。結果としてやっぱり「弁天小僧」とか「髪結新三」とさほど変わらぬ・内容のない芝居だなあという感想で終わってしまいそうなところは、座頭として・そして生世話の総本寺「菊五郎」として、八代目菊五郎にはもうちょっと突き詰めてもらいたかった気がしますね。

例えば前回になく・今回新たに加えた工夫ですが、「鼠小僧」幕開き前に黙阿弥の弟子なる人物が登場して作品を解説します。庚申の夜に生まれた子供は泥棒になると云う言い伝えがあったと云う、実はこれは大事なことをしゃべっているのだけれど、ここで問題になることは、そう云うことを事前知識として言葉で伝えても観客にとっては「昔の人はアホな迷信を信じたものだ」ということにしかならないわけで、ホントはそう云うことは芝居のなかで「実感」(リアルな理)として描くべきものなのです。ここに解説者を介在させることで、却って芝居で実感させることから逃げちゃっている気がするのですねえ。

ここで芝居の「写実」(リアル)ということが関わってくるのです。幸蔵は鼠小僧として大名屋敷で盗みを次々と働くが・その金はみんな貧しい人に配ってしまう、だから俺は悪いことはしていない・善行を施しているのだと信じていました。しかし、実はその盗まれたことの責任を取らされる格好で多くの人を新たな不幸に巻き込んでいたわけなのです。最後になって幸蔵はそのことに気が付きます。芝居ではその被害者が与惣兵衛であり新吉であってりするわけですが、さらに与惣兵衛が幸蔵の実の父親であり、新吉は蜆売り三吉の兄であったと分かる。因果の連鎖はどんどん繋がって、ヒョンなところから実は・・・であったの連続になる。これらのことによって幕末の民衆が信じていた「鼠小僧・義賊神話」が解体されている。このこと自体を驚くべきではないでしょうかね。これが黙阿弥−小団次のストーリー・テリングですが、ここで「実感」(リアル)を持たせることは芝居の語法で語るからこそ出来る。同じことを言葉でいくら解説しようとしても駄目なのです。この時に芝居の「写実」(リアル)って何だろかということに改めて深く考え込んでしまうのです。まだまだ「鼠小僧」には工夫の余地があると思いますね。

(R7・11・1)


 


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