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八代目菊五郎と六代目菊之助襲名の「二人道成寺」

令和7年10月御園座:「京鹿子娘二人道成寺」

八代目尾上菊五郎(白拍子花子)、六代目尾上菊之助(白拍子花子)

(八代目尾上菊五郎・六代目尾上菊之助襲名披露狂言)


名古屋御園座での八代目菊五郎&六代目菊之助襲名披露を見て来ました。襲名披露狂言は新・菊五郎と新・菊之助による「京鹿子娘二人道成寺」です。この演目に関する吉之助の興味がひとつあって、それは今回の「二人」道成寺のコンセプトを菊五郎がどのように組み立てて来るかと云うことでした。

実は本年5月歌舞伎座での襲名披露興行でも、当初は同じ外題の「京鹿子娘二人道成寺」が予告されていました。それが二月ほど前に玉三郎が加わることが決まって・三人花子で勤める「京鹿子娘道成寺」に急遽差し替えられました。この時の舞台については観劇随想で触れました。舞台は一層華やかなものになりましたが、やはりショーピース(見世物)的なものにならざるを得ない。ショーピースで結構じゃないかと云う御意見は多いでしょうが、吉之助としては「三人花子」であるための・それなりの理屈が欲しいのです。例えばこの時の舞台では菊五郎と菊之助・二人の花子が同時にスッポンでせり上がり、道行が終わったら今度は菊之助だけがせり下る。(玉三郎は鐘供養から参加。)おかげで二人の花子を虚(きょ)の・実体を持たない空疎な存在に見せてしまいました。

襲名披露狂言として・はたまた「道成寺」物として・どういう理屈が立つか、そうものがコンセプトとして構成のなかにはっきり見えなければなりません。そういうものも繰り返し上演されるなかで・やがて形骸化し当たり前のものになって、そのうち誰も顧みなくなるでしょう。しかし、最初に変える時には必ず変えるための「申し訳」が要るのです。例えば「奴道成寺」でも・その昔は道成寺を踊るはずだった女形が登場して「今日はこの人(立役の踊り手)に代わってもらうことにしました」と挨拶して・それで踊りが続いたものでした。このような申し訳が付くから女形舞踊の最高峰である道成寺を立役が踊ることの理屈が立つ、そう云うものなのです。道成寺を女形が二人で踊る・或いは三人で踊る、そのような場合であっても、必ず「申し訳」が顧みられなけばなりません。そういうことを想起することで舞台は単なるショーピースではなく、はるか古(いにしえ)の道成寺説話の系譜を引く舞踊に連なることになるのです。歌舞伎は伝統芸能なのですから、「こっちの方が見た目面白いんじゃないの」みたいなセンスで安直に変えるものではありません。

吉之助は「道成寺」にスッポンを使うことを是としませんけれど(その理由については別稿をご覧ください)、仮にあの時(本年5月歌舞伎座)の舞台で百歩譲ってスッポン使用を認めるのならば、これからの歌舞伎の未来を嘱望される花子(菊之助)を実(じつ)に見立て・これを揚幕から花道へ登場させる、息子を見守ってこれを導く守護霊だか背後霊にでも見立ててもう一人の花子(菊五郎)がスッポンからせり上がる、これならばまあ渋々だけれど同意いたしましょう。これならば申し訳は立つと思います。

そこで今回(令和7年10月御園座)の「二人道成寺」のことですが、これが恐らく5月歌舞伎座で差し替えられて日の目を見なかった元々の「二人道成寺」のコンセプトではなかったかと思われるので、興味を持ってこれを見ました。今回の「二人道成寺」は、今度は登場にスッポンを使わず、菊五郎と菊之助が一緒に揚幕から花道へ出て道行を踊るやり方でした。これが歌舞伎での真っ当なやり方です。ただし今回は道行が終わったところで菊之助がセリ下がって消え・菊五郎だけが本舞台へ歩きましたが、これはイケませんね。これでは菊之助が虚の存在になってしまいます。聞いたか坊主との問答で二人の花子のどちらを残すか・迅速に役者の入れ替えをしたかったのかも知れませんが、まあ先ほどの申し訳の件からすると・スッポンで消えるのならば菊五郎であるべきと云うことになりますが、二人して本舞台へ歩んで・菊之助が奥へ退いて菊五郎だけ残ることにしても良かったのではないかと思いますがね。或いはなかなか芝居上手な菊之助のことですから、いっそのこと菊之助が残ることにして・聞いたか坊主との問答を聞いてみたかった気がしますが、むしろそちらの方が面白かったのではないでしょうか。

さて肝心の踊りのことですが、菊之助の花子は東京襲名(5月)も落ち着いた踊りで評判が良かったですが、それから数か月経過して気持ちにさらに余裕が出てきたという事でしょうかね、今回の舞台では親子が二人して踊れることの歓び・愉しさと云ったものが、舞台に一層溢れていました。このことは菊五郎の花子にも強く感じました。菊五郎の花子が令和の道成寺の標準となるものであることは疑いありませんが、どちらかと云えばこれまでだと若干暗めの感触がしたものでした。(別稿を御覧ください。)それは花子の性根として「鐘の恨み」を強く意識するからそうなるわけです。しかし、今回の菊五郎の花子は色合いが幾分明るくなったのではないでしょうか。パッと明るいというわけではないが、感触が明るくなりました。これは菊五郎としてステージが一段上がったこともあるが、それよりも菊之助効果なのかも知れませんねえ。そんなことを考えさせる「二人道成寺」でありました。

(R7・10・22)


 

 

 


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