六代目菊五郎の芸を探して〜二代目右近の「盲目の弟」
令和7年7月浅草公会堂:「盲目の弟」
二代目尾上右近(兄角蔵)、初代中村種之助(弟準吉)、春本由香(お琴)、二代目中村亀鶴(インバネスを着た客)他 川崎哲男:演出
(尾上右近自主公演・「研の會」・第9回公演)
*本稿は未完です。最新の章はこちら。
1)曾祖父の芸への憧れ
右近の自主公演・「研の會」を見てきました。「研の會」では毎回意欲的な企画で話題ですが、今回は山本有三作の新歌舞伎(と云っていいのか)「盲目の弟」を取り上げると云うので、ちょっと驚きました。もちろん自主公演だから自分のやりたい芝居をやれば良いことですが、これはまたえらく渋い演目を持ってきたものだなと思いました。これで切符は売れるのかと余計なことが心配になって来ます。(当日の席の埋まり具合を見ると、結果的には心配はなかったようですが、これも右近人気のおかげですね。)
本作は昭和57年(1982)3月歌舞伎座で九代目幸四郎(二代目白鸚)の兄・二代目吉右衛門の弟で上演されて以来43年振りの上演だそうです。調べてみると吉之助は確かにその舞台を見ているのですが(手元にチラシも残っていますが)、その時の記憶がまるで抜け落ちています。同月・昼の部での「吉野川」(六代目歌右衛門の定高・十七代目勘三郎の大判事であった)、T&T(孝夫・玉三郎)初共演の「かさね」のことは鮮明に思い出されるのに、お恥ずかしいことに「盲目の弟」のことがどうにも思い出せません。これはまあ演目が地味なこともあるが、当時の吉之助の見方が古典偏重であったせいもありますね。
*昭和57年3月歌舞伎座チラシ:昼の部に「盲目の弟」。
こうして43年振りに「盲目の弟」と改めて向き合うことになりました。本作は昭和5年(1930)5月東京劇場で六代目菊五郎の兄角蔵・十三代目勘弥の弟準吉で初演されました。そのことを知って右近は「盲目の弟」に興味を抱いたそうです。近年の右近は機会ある度に曾祖父(六代目菊五郎)への畏敬の念を熱く語っていますし、本年(令和7年)4月歌舞伎座での「鏡獅子」も、曾祖父の芸への憧れを感じさせるものでした。ですから今回演目に地味であまり客受けしそうにない「盲目の弟」を選んだことについても、右近なりの目論見があるのでしょう。「盲目の弟」を通じて、右近は曾祖父の芸の、どんなところを吸収したいと思っているのかな?吉之助としてはそこら辺りを考えてみたいのです。
*令和7年7月浅草公会堂・研の會:「盲目の弟」
六代目菊五郎は昭和24年(1949)の没です。吉之助の生まれる以前の名優ですから、吉之助にとっても六代目の芸は未知の存在です。しかも「盲目の弟」に関しては材料があまり多くありません。「盲目の弟」初演の舞台がどんなであったかは想像するしかありません。ところで調べてみると、菊五郎は「盲目の弟」を初演しただけではなく、そもそも山本有三にこの戯曲の執筆を懇願したのが菊五郎であったことを知りました。そこで遠回りするようですが、その経緯を以下に記しておきます。
大正10年(1921)のことですが、山本有三はオーストリアの文豪アルトゥール・シュニッツラー(1862〜1931)の短編「盲目のジェロニモとその兄」(1900年)を翻訳して雑誌に発表しました。この翻訳は文壇の評判になったそうで、翌年に出版された「シュニッツレル選集」(楠山正雄と共訳)にも収録されました。六代目菊五郎はこれを読んだようで、それでこの「盲目のジェロニモとその兄」を芝居にして自分が演じたいと頼んで来たのです。ところが翻案と云うのは傍から見るほど楽な仕事ではない。ある意味では創作よりも困難なものであるので山本は気乗りがせず、数年間これを放置していたそうです。ところが昭和4年(1929)3月新橋演舞場で山本執筆の新歌舞伎「坂崎出羽守」(菊五郎の主演)が初演されて大成功を収めた後に、菊五郎が改めてこれを言い出したのです。「この短編は活動写真や歌劇にも取り入れられているようだし、何も君が上演するほどのことでもなかろう、止めた方がいい」と山本が断ると、菊五郎が憤然としてこう言ったそうです。
『活動になっていようと、歌劇になっていようと、そんなことは構わない。芝居は早いか遅いかではなく、上手いか、拙いかだ。山本さんの脚色で尾上菊五郎がやる時には、前に誰がどんな風にやっていたって、そんなものとはまるっきし別物だ。あっしにはあっしの自信がある。』
菊五郎のこの権幕に押されたような格好で、山本は「盲目のジェロニモとその兄」の翻案脚色を引き受けたそうです。こうして出来たのが戯曲「盲目の弟」でした。(以上のことは「山本有三全集」・新潮社の解説に所収の山本本人の手記に拠ります。)
*山本有三全集・定本版・第3巻(新潮社)・「盲目の弟」を収録。
この逸話で吉之助がホウと思ったのは、六代目菊五郎が新たな芝居の題材を求めて日頃から周囲に目を配っていたらしいことです。菊五郎は海外の小説、シュニッツラーにまでも目を通していたのだなあと、そこのところにちょっと感心したのがまずひとつ。
もうひとつホウと思うのは、原作である短編「盲目のジェロニモとその兄」を読んでみると、大した筋の盛り上がりもなさそうで、一見したところ芝居になり難い題材のように感じることです。主人公のカルロ(兄)の内面の心理の動きの綾を細かに描写する文章が淡々と続きます。一体これのどこを菊五郎は新歌舞伎に出来ると感じたのでしょうかねえ?しかし、映画や歌劇の材料にもなったそうですから、そうした困難が却って表現者の意欲をそそったのかも知れませんね。どうやら菊五郎もそうであったようです。微妙な心理の揺れ動きを、台詞で長々説明するのではなくて、と云って表情や仕草であからさまに表現するのでもない。そう云えば歌舞伎には、九代目団十郎以来、「肚芸」と云う技法があります。「主人公カルロの心理の揺れ動きを、俺ならば肚芸で簡潔に表現して見せる」、菊五郎はそう考えたのではないかと想像するのですがね。(この稿つづく)
*花・死人に口なし 他七篇 (岩波文庫)・「盲目のジェロニモとその兄」(番匠谷英一訳)を収録
(R7・7・17)
歌舞伎に相応しい題材なら他にいくらもあるだろうに、どうして六代目菊五郎はシュニッツラーの短編「盲目のジェロニモとその兄」を芝居にしてみたいと考えたのでしょうかねえ?もしかしたら歌舞伎にごだわっていたのではなく・演劇的な題材にこだわったのかも知れませんが、山本有三も菊五郎のために翻案するならば、それが歌舞伎になるかと云うことを真剣に考えたに違いありません。山本が菊五郎からの提案を数年間放置せざるを得なかったのは、山本のなかに「菊五郎のためにどのように書くか」と云う内的必然が思い浮かばなかったからだと思うのですね。作品が生まれるためにはタイミングがとても重要です。作品は作家のなかで生まれるべき「必然」を以て生まれるものです。最終的に山本が菊五郎の提案を受け入れたのは、多分山本が「坂崎出羽守」初演(昭和4年・1929・3月新橋演舞場)稽古に立ち会い、菊五郎の「方法論」に直に接した学びから思い直したのであろうと推察が出来ます。例えば「坂崎出羽守」初演に関する山本の手記に目を通してみると、こんな話が出てきますね。
『六代目の前で初めて本読みした時は、寺島君(菊五郎)は狂言方の人に代わって読ませてはと言ったのですが、私は自分で読んだ方が気持ちがよかったので、四幕六場を全部ひとりで読み通しました。すると寺島君は、「山本さん、これはあっしのことを書いたんじゃないかね。出羽守はあっしだよ。」と何度も繰り返して言いました。私は当時六代目には一・二度会っただけで、同君のことについては、何にも知るところがなかったのに、初めて寺島君のために書いた脚本が、同君の柄にはまったのは、むしろ意外でした。』(山本有三:「坂崎出羽守」漫談、昭和4年3月・読売新聞)
『初日の時に、ト書きのなかに二幕幕切れで、千姫と忠刻が並んでいる後ろ姿を見て出羽守はキッとなると書いてあるのに、六代目の出羽守は二人の姿を見ると、急に花道の切り穴(再演後は舞台の切り穴)に駆け込んでしまったので、稽古の時はそういう段取りになっていなかったので、見物席にいる我々はびっくりしましたが、後で六代目に聞くと、悔しくって悔しくて、あの場に立っていられなかったから、急に駆け込んでしまったと云うことでした。なるほどああいう場合に遭遇したら、そういう気持ちになるのは尤もだと思って、六代目のト書きを無視した演技に、少しも不服を感じませんでした。イヤそれどころか、それほどまでに張り切った演技に、私は深く敬服しています。』(山本有三:「坂崎出羽守」漫談、昭和4年3月・読売新聞)
『大詰めの幕切れも、私は出羽守が切腹するしぐさを見せなくても切腹するのだという気持ちさえ分かればいいと思って、ただ、切腹の用意をすると書いておいたところ、六代目は脇差を抜いてブツリと腹に突き立ててしまったので、私はこれにも驚きましたが、しかし、六代目にすると、もうああいう結果になった以上は、一分間でも一秒間でも生きているのは嫌だと云うのです。(中略)ただ自分の仕勝手からや、儲けようとするさもしい根性から、こんな我儘をやられては閉口ですが、六代目のように、やむにやまれぬ勢いから、脚本の指定と違った演技をやるのだったら、私はちっとも構いません。』(山本有三:「坂崎出羽守」漫談、昭和4年3月・読売新聞)
これら山本の証言から役に成り切って演技する菊五郎の「方法論」が察せられますが、どこからどこまでが「やむにやまれぬ演技」で、どこから先が役者の「仕勝手」なのか、その境目は分からぬものです。やはり本来そこは作者によって・つまり脚本のなかで指定されねばならないものだと思います。そのような作者と役者との「やり取りの必要性」(作者と役者との心の交流)を山本は、「坂崎出羽守」初演の経験から学んだのかも知れませんね。
そこでシュニッツラーの原作「盲目のジェロニモとその兄」と、出来上がった翻案「盲目の弟」を読み比べてみると、総体には原作の筋に沿って忠実に翻案していますが、大きな相違は兄カルロが二十フランの金貨を盗みに同宿の客の部屋に忍び込む場面が翻案にないことです。芝居としては見せ場になりそうな場面なのに、翻案では兄角蔵の盗みの場面が描かれません。それは翌朝盗みが発覚して騒ぐ人たちの声を無言のまま背中で聞く角蔵で暗示されます。無言だから台詞がないわけですが、観客は演技から角蔵が罪を犯したことを察します。そこをどのように演技するかは役者に意図的に委ねられます。これは、「サア君ならここはどうやるかね?存分にやってみ給え」と云う、作者山本から菊五郎への挑戦ではないでしょうかね。これは山本が「坂崎出羽守」の菊五郎から学んだ方法論ですね。
遡って原作では兄カルロが弟を喜ばせるため盗みを決意するまでの心理の揺らぎがかなり長々描写されています。翻案では裏手のあばらやで角蔵が盗みを決意することをほのめかしはしますが、そこは必要最低限に抑えられています。角蔵が何をするつもりかは観客には分かりません。どのように演技するかは、やはり役者に委ねられているのです。
このような演技は、歌舞伎では「肚芸」として理解されるものです。肚芸は簡潔を旨とします。例えば歌舞伎では普通は「夢であったかア〜」と詠嘆調に末尾を長く引き延ばすところを、九代目団十郎は「夢か」と簡潔に言い切って・そこに万感のニュアンスを含ませたものでした。肚芸は歌舞伎のリアル感覚と背中合わせに出てくるものです。「盲目の弟」のなかに、こんな風に肚芸の応用ができそうな箇所がいくつも見られます。これはみな山本が「坂崎出羽守」の菊五郎から学んだ方法論なのです。(この稿つづく)
(R7・7・18)