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十五代目仁左衛門・81歳の熊谷直実

令和7年7月大阪松竹座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」

十五代目片岡仁左衛門(熊谷次郎直実)、五代目中村歌六(弥陀六実は弥平兵衛宗清)、初代片岡孝太郎(女房相模)、初代中村壱太郎(藤の方)、二代目中村錦之助(源義経)、初代中村隼人(堤軍次)、四代目片岡松之助(梶原平次景高)


1)「熊谷陣屋」の仕掛け(トリック)

猛暑のなか令和7年7月大阪松竹座での、仁左衛門81歳の熊谷直実による「熊谷陣屋」を見てきました。仁左衛門の直実は、令和3年3月東京歌舞伎座以来の舞台になります。この時の舞台については、吉之助はやや辛めに観劇随想を書きました。仁左衛門は細部に工夫を凝らし・そこに見るべきものがないわけではないが、息子を身替りに殺した父親の苦しみに自己本位に浸った印象が強くて、その点に若干の疑問が残るものでした。さて4年振りの仁左衛門の直実はそこの所にどのように新たな工夫を加えて来るか?と興味を以て拝見しましたが、結論から先に申し上げれば、共演の相模(孝太郎)・義経(錦之助)共に芸の進境を見せて・直実ー相模ー義経の人物関係がしっかり固まったことも相まって、仁左衛門が意図した直実の悲劇がそれなりの形で見えて来ました。おかげでなかなかの舞台に仕上がったと思います。はるばる大阪まで遠征した甲斐があったと云うものです。

舞台については後に触れるとして、例によってまず作品周辺を逍遥してみたいと思います。「嫩軍記」では敦盛は後白河院の後胤、したがって何としても救わねばならぬ身の上であると設定されています。直実夫婦は敦盛の母・藤の方に深い恩義がありました。だから直実は我が息子(小次郎)を身替りにして敦盛を救ったと云うのが「熊谷陣屋」の仕掛け(トリック)なのですが、ここでしばしば忘れられている事項があると思いますね。それはこの身替りの仕掛けは、「息子小次郎の協力なしで成立しない」と云うことです。

「俺は身替りに死ぬのはイヤだア」と逃げ回る息子を無理矢理父親が斬ったのではないのです。一の谷の戦場の・周囲の目のあるなかで、あたかも直実が敦盛を斬ったかのような状況を作って周囲を欺いた、まさに観客までも目撃者に仕立ててしまう大芝居を打って見せた、これが二段目・須磨の浦で起こったことです。これは息子小次郎の協力なしで成し得なかったことでした。だとすれば、敦盛とすり替わり・見事に身替りになって死んで見せた息子に対し、歴史の嘘を貫き通すために父親がやらねばならないことは一体何なんだ?と云うことです。そこのところがしばしば忘れられていると思います。

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」
(現代語訳:まるで作り話のように思われるであろうが、(敦盛を討ったことが)後に熊谷が出家する原因になろうとは、あわれなことであった。)「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾

須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる、これが「平家物語」が教えるところの歴史の理(ことわり)です。この理が示すところに従って歌舞伎の「熊谷陣屋」はその筋を収束させていくのです。だからここでもう一度問いますが、歴史の嘘を貫き通すために・つまり息子の死を無駄にしないために・父親がやらねばならないことは一体何か?そこのところが大事だと思います。ところで三島由紀夫が次のような文章を書いていますね。

「私が同志的結合ということについて日頃考えていることは、自分の同志が目前で死ぬような事態が起こったとしても、その死骸にすがって泣くことではなく、法廷にいてさえ、彼は自分の知らない他人であると証言できることにあると思う。それは「非情の連帯」というような精神の緊張を持続することによってのみ可能である。(中略)氏が自己の戦術・行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも革命を意識する者にとっては、けだし当然のことである。自らの行動によってもたらされたところの最高の瞬間に、つまり劇的最高潮に、効果的に死が行使できる保証があるならば、それは犬死ではない。」(三島由紀夫:「我が同志感」・昭和45年11月)

ここで三島は「同志感」という言葉を使っていますが、三島の言を「熊谷陣屋」に当てはめてみると、見事に身替りになって死んだ息子に対する直実の愛はあたかも同志愛の如き様相を呈するのであって、直実の父親としての愛とは、息子小次郎の首にすがって泣くことではなく、首実検の場にあってさえ顔色も変えず、これは自分の息子の首ではない・これこそ敦盛卿の御首であると言い通すことにある、これが息子の死を無駄にしないために・直実が取るべき態度なのです。

それでも直実の内面は悲しみに溢れています。だから隠そうとしても内心の動揺は隠せないわけで、そこが「熊谷陣屋」で直実役者が苦心するところですが、その性根はあくまで「肚」(内面)として描くべきことです。大事なことは、直実の悲しみにばかり焦点を当てるのではなく、どこかで見事に死んだ小次郎のことを思いやる、そうすると直実の背筋が自然に真っすぐになって来る、そう云うことだと思いますねえ。(この稿つづく)

(R7・7・10)


2)「組打」との関連

歌舞伎データベースでは戦後の上演記録が現時点までの80年間で「熊谷陣屋」で120件がヒットします。これに対し「組打(須磨の浦)」は22件です。上演頻度にずいぶん差があるものですね。驚くことには、このうち「嫩軍記」が「組打」〜「陣屋」と半通しの形で上演された例はたったの1件、それは昭和47年4月国立劇場での公演(八代目幸四郎の直実・七代目梅幸の敦盛)のみなのです。(別稿1別稿2を参照下さい。)

実は明治半ばまでの「嫩軍記」は、通しの形で上演されるのが普通のことでした。それが大正頃からもっぱら「陣屋」のみ単独で上演されるようになって行くのには、もちろん九代目団十郎型の「陣屋」が主流になっていくことが原因しています。しかし、結果として「陣屋」と「組打」との関連が見失われることになりました。息子を殺した直実個人の悲しみばかりがクローズアップされて現在に至っています。息子小次郎のことが忘れられてしまったのです。

「組打」との関連が見失われていると云う現状を、現代の歌舞伎役者はどのように考えているのでしょうかねえ。例えば「陣屋」のハイライトである直実の「物語り」は、これをどのように語れば宜しいのでしょうか。

「物語り」というものは、もともと歴史上あった事柄・事実を語り伝えるというのが、本来のあり方でした。しかし、時代が下ってくると、事実でないことを「物語る」ということも出てきます。これを「誣(し)い物語」・あるいは「作り物語」とも言いますが、これは嘘をついていると云うことではないのです。しかし、「物語り」はあくまで事実を語り伝えるところに信用があるわけですから、語り手は真実味を以って語り、聞き手もこれを真剣に聞くところにその意味があるのです。(このことについては別稿「物語る者と語られる者」が参考になります。)

「陣屋」での直実の「物語り」は、「イヤナウ藤の御方。戦場の儀は是非なしと御諦め下さるべし。が、その日の軍の概略(あらまし)と敦盛卿を討ったる次第、物語らん」と云って始まります。直実が討ったのは実は息子の小次郎ですから、芝居のなかでは・結局この「物語り」は嘘物語であったと云うことになるはずです。しかし、直実は「平家物語」が伝えるところの「事実」を語っているのですから、その観点からすれば・これは断じて嘘物語ではありません。つまり直実の「物語り」は何某かの「真実」を語っていると云うことになるのです。そう思って直実の「物語り」を読んでみて欲しいと思います。

「年はいざよふわが子の年ばい」

直実の脳裏に・あの須磨の浜辺での息子の横顔がよぎったに違いありません。直実は嘘を語りながら感情が熱くなって、ここで思わず本当のことを語ってしまいそうになっているのです。

「早落ち給へと勧むれど、アイヤ一旦敵に組敷かれなに面目に存へん。早首取れよ熊谷」

直実は息子を討つことを一瞬逡巡(しゅんじゅん)したのでしょう。父親としてそれは当然です。これに対し息子は「父上、何をしていらっしゃるのか、私はもう覚悟が出来ているんだ、早く首を討って下され」と叱咤した、そのような場面(シーン)が浮かびますねえ。しかし、遠目には・それは直実が敦盛を討ちかねた場面に見えた(聞こえた)と云うことです。

「心に掛かるは母人の御事」

恐らく小次郎は最後の言葉として、「身替りになることは元より覚悟の上だが、母上のことがちょっと心配だなあ」と漏らしたのでしょうね。このことを女房相模に向けて伝えたいのですが、直実はこの真実を敦盛の言として語るのです。

「是非に及ばず御首を」

戦場の動きは慌ただしくなっており、もはや躊躇(ちゅうちょ)は許されない。父は刀を振り上げて、息子の首を落とす。ここでも直実は息子を斬った場面を思い出して、胸詰まる思いであったでしょう。

このように直実の「物語り」は、表向きは「平家物語」が伝えるところの敦盛最後を語りながら、これと重ね合わせて、父と息子とで力を合わせた最後の共同作戦(真実)を物語ろうとしているのです。ですから「組打」との関連を想起するために、直実の「物語り」の真実をしっかり読み直すことが必要だと思いますね。(この稿つづく)

(R7・7・11)


3)仁左衛門・81歳の直実

前回上演(令和3年3月歌舞伎座)までの仁左衛門の直実は、女房相模に対して居丈高の印象が強かったと思います。仁左衛門の直実は首実検の後・敦盛の首(実は息子小次郎の首)を相模に直に手渡しするなど・情が深い段取りを付けていますが、前半に相模に対し強い態度で出てしまうため・そうした良い場面が活きてこない印象がありました。4年振りの今回(令和7年7月大阪松竹座)に見えた仁左衛門の直実の変化は、特に前半・物語りの場面で・相模に対する気遣いが垣間見えたことです。ちょっとの違いですが、これによって直実の印象が大きく変わることになりました。

今回の仁左衛門が「組打」との関連をどれくらい意識したかは分かりません。しかし、相模に対する気遣いを意識することが結果的に、「組打」で息子小次郎と協力して仕掛けた歴史に対する大芝居(虚構・トリック)を意識することになるのです。直実夫婦には敦盛の母・藤の方に深い恩義がありました。これが小次郎身替りの根本動機ですが、これはほとんど相模の義理を立てるために身替りしたのと同然であるからです。これは夫から首を渡された相模が藤の方にこのように言うことからも明らかです。

「サイナア申し。これよう御覧遊ばして、お恨み晴らしてよい首ぢゃと、褒めておやりなされて下さりませ。申しこの首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様。」

その首を見た瞬間・相模はすべてを理解したのです。身替りは夫直実・息子小次郎が一致して相模の義理を立てるために行った行為であったことが分かったのです。

今回の仁左衛門の直実には、女房相模に対する気遣いが見えました。物語りの時点では直実は「敦盛卿を討ち取った」で断固押し通さねばなりません。しかし、そんな場面でも女房の嘆きは如何ばかりか思いやられる。例えば「年はいざよふわが子の年ばい」、或いは「心に掛かるは母人の御事」の箇所で、横に居る相模の方に向けてチラリと視線をやる。ホンのちょっとの違いだけれども、これだけで直実の物語りはグッと情が深いものに出来るのです。すると後半首実検で直実が首を相模に手渡しする件までが効いて来ます。

と云うわけで今回の仁左衛門の直実は良くなりましたが、相模(孝太郎)・義経(錦之助)も良くなったことにも触れておかねばなりません。前回の孝太郎は演技が若干単色なところがありましたが、今回はそこが大きく改善されました。夫の行為を受け入れた(理性では理解した)が、母親の情としては受け入れ難いという・相模の心理の揺れを、よく表現出来ていたと思います。立派な相模でした。錦之助も前回まではデリカシーの乏しい義経という印象でしたが、今回は持ち前の個性を生かして柔らかみが滲み出る良い義経になりました。演技に余裕が出てきたようですね。相模と義経がグッと良くなったことで、「熊谷陣屋」のなかで揺れ動く直実のイメージがしっかり固定されて、これが今回の「熊谷陣屋」の成果に繋がったと云うことでありましょうか。

(R7・7・17)


 


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