十三代目団十郎の・久しぶりの「暫」
令和7年6月歌舞伎座:「暫」
十三代目市川団十郎(鎌倉権五郎)、八代目中村芝翫(清原武衝)、五代目中村雀右衛門(那須九郎妹照葉)、四代目中村鴈治郎(鹿島入道震斎)、三代目市川右団次(成田五郎)、二代目中村魁春(桂の前)、四代目中村梅玉(加茂次郎)他
団十郎の「暫」は、東京では令和4年5月歌舞伎座以来(当時は海老蔵)です。団十郎の鎌倉権五郎は形容がさらに大きくなり、見得すると観客がオオッと唸る、そこは大したもので・この芝居はそれだけで十分だと言いたいところですが、吉之助にはやはり団十郎の発声が気に掛かります。前月(5月)歌舞伎座の「勧進帳」と同じく、今回は声量は良く出ているようです。一時心配された「声が聞こえない」という事態は見られず、この点では改善が見られました。ただしこれと裏腹な関係なのかも知れませんが、台詞は「歌う」傾向がまた強まっており、「言葉がよく聞き取れない」という点では元に戻ってしまった感があります。
例えば幕切れの六方の「ヤットコトッチャアウントコナ」の台詞ですが、これは重い大きな物を持ち上げるとか、ウンウンウンと下腹に力を込めて何かをする時の掛け声です。基本的にはこれは「ヤッ/トコ/トッ/チャア/ウン/トコ/ナ」(赤が頭打ちのアクセント)と二拍子が表と裏に出るイメージと考えれば宜しいでしょう。力が次第に強くなって、「ウン」で腹に最も力が加わるイメージです。そこに荒事の力感がリアルに表現されています。一方、団十郎の場合、二拍子が全部表アタリになっており、「ヤッ/ト/コ/トッ/チャ/ア/ウン/ト/コ/ナ」と上ずったような、平坦な発声になっています。これだと台詞にリズム感が出ない。ウンウンウンと腹に力が入りません。まあ間延びした「おおどかな」様式的感覚のように受け取れなくもないから・それでいくらか得をしていますが、台詞に生きた感覚が欲しいのです。
この点は「暫」や「対面」など元禄歌舞伎の様式劇が現代の観客にアピール出来るかと云う問題にも絡んで来ます。いつまでも様式美と形容の大きさにばかり頼っているようでは自ずと限界がある。だから今回の「暫」もこの舞台のことだけ考える分には・まあ「それなり」の出来だと云うことで、何も今更不足を持ち出すまでもないわけなのだが、実は根深い問題がそこに潜んでいるのです。そこで前月「勧進帳」随想で触れた通り、元禄歌舞伎の荒事の台詞は「しゃべり」の芸、「しゃべりの原点へ戻れ」と云う仁左衛門の教えが大事になって来ます。
もうひとつ気になることは、ここ数年団十郎が自分が主役の芝居ばかりやっているせいで、他の役者と芸の感触が次第に合わなくなっている感じがすることです。例えば前月(5月)「弁天小僧」で駄右衛門で付き合うくらいのことなら齟齬はさほど目立ちませんが、それでも世話狂言のなかにサイズがしっくり収まって来ない。こうした課題の解決のためにも「しゃべりの原点へ戻れ」というテーゼが急務なのですがねえ。
そう考えると団十郎の弁慶や権五郎での発声は歌舞伎の将来に向けての決して小さくない懸念材料に思えるのですが、まあ本稿に於いては問題提起に留めることにして置きます。
(R7・6・14)