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十七代目勘三郎のお岩・八代目幸四郎の伊右衛門

昭和46年9月国立劇場:「東海道四谷怪談」

十七代目中村勘三郎(お岩・小仏小平・吉野家お波三役)、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(民谷伊右衛門)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(佐藤与茂七)、三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(直助権兵衛)、沢村精四郎(二代目沢村藤十郎)(お岩妹お袖)、二代目坂東弥五郎(按摩宅悦)、二代目市村吉五郎(伊藤喜兵衛)他

(監修:宇野信夫)

*この原稿は未完です。最新の章はこちら


1)南北のイメージの世代間格差

本稿で紹介するのは、昭和46年(1971)9月国立劇場での通し狂言「東海道四谷怪談」の舞台映像です。お岩は十七代目勘三郎、伊右衛門を八代目幸四郎が勤めます。脇の重要人物である与茂七は六代目染五郎・直助権兵衛を三代目猿之助・お袖を精四郎と・当時売り出しの若手が勤めるのも興味深いところです。

戦後昭和のお岩役者と云えば、吉之助にとってはやはり六代目歌右衛門と云うことになります。歌右衛門は暗い情念をねっとり描くことに長けた女形でしたから、歌右衛門のお岩はホントに怖かったです。勘三郎もこれに匹敵するお岩役者であったと思いますが、多分世話の要素が濃いものであろうと当たりを付けながら映像を見ることにします。ちなみに歌舞伎データベースで調べると、歌右衛門は6回・勘三郎は4回お岩を演じました。今回(昭和46年国立劇場)の映像は勘三郎の4回目の時のお岩になります。

まず昭和46年(1971)と云う年を考えたいのですが、これはいわゆる第2次南北ブームの真っ最中だと云うことです。明確な規定はありませんが、第2次南北ブームは感じとして概ね戦後昭和の1960年代から70年代辺りであるとイメージしてください。四代目南北の再評価は新劇やアングラ演劇から始まって、歌舞伎はこれに追随するような恰好で進みました。世界的に第二次大戦後の社会体制が安定しなかった時期に、若者たちのなかで既成の社会構造への怒り・反発が高まっていました。「怒れる若者たち」(アングリー・ヤングメン)なんて言葉が流行ったものでした。これに影響された感じで60年代の日本の大学でも学生運動が盛んになっていました。こんな空気を背景にして、演劇分野では非人乞食など社会の底辺を作品に出して・既成概念をひっくり返す筋立てを得意にした四代目南北が社会批判・革命思想の観点から見直されることになったのです。別稿「南北の台詞は現代に蘇ったか」でこの辺りのことを論じていますからご参照ください。

ただし今から思えば、歌舞伎はアングラ演劇の好評の後追いで南北をやってみただけのことで、「南北は非人乞食・幽霊が登場して棺桶・葬式が出てくるから面白い」と云う程度の認識から遂に抜け出すことが出来ませんでした。先行するアングラ演劇に対して、歌舞伎が「当方こそが本家であるぞ・南北ならば任せておけ」という気概はあまり見えませんでした。この時点で歌舞伎が明確な社会史観を以て南北作品を読み直そうとする姿勢を持ったならば、そのような態度が南北以外の作品の解釈にも波及して、歌舞伎の在り方は現在とはちょっと違ったものになっていたのではないでしょうかね。これは理論的に牽引する役者がいなかったからですが、この点については劇評家にも大いに責任があると思います。

今回(昭和46年・1971・9月国立劇場)上演映像ですが、この映像が第2次南北ブームの最中であることを考えると、これは見ていて複雑な思いにさせられる映像ですねえ。ベテラン役者(勘三郎・幸四郎)と若手役者(染五郎・猿之助・精四郎)の芝居が、まったく水と油みたいな感触なのです。具体的に言えば、ベテラン役者(勘三郎・幸四郎)が主体の浪宅・穏亡堀は、幕末江戸から切れ目なく演じられて来た伝統の「四谷怪談」のしっとり湿った暗めの重い感触。対する若手役者(染五郎・猿之助・精四郎)が主体の地獄宿・三角屋敷は、あまり思い入れを入れないテンポの早い、アッサリした新劇風味です。こんなことで良いのであろうか、どちらが良い悪いは置いても、どちらかに揃えるべきでないのかと思うのですが、そこに歌舞伎役者の南北のイメージの世代間格差を見る思いがしますね。まさかこういう芝居(映像)を見るとは思いませんでした。(嘆息)

これより数年ほど後のことになりますが、猿之助は復活狂言で南北ものを取り上げることが次第に増えて行きます。吉之助もその頃の舞台は見ているのですが、今回の猿之助の直助権兵衛の台詞は吉之助の記憶にあるものとは違って・パサパサの二拍子の新劇口調です。まあ猿之助歌舞伎もこんなところから出発したんだナアと云う或る種の感慨はありますね。染五郎・精四郎も南北の台詞のスタイルが掴めておらず、ただ台本通りの台詞を連ねているだけの印象です。実際この昭和46年(1971)の時点では、歌舞伎の南北ブームはまだ始まったばかりなのです。と云うか、そもそもアングラ演劇に追随しただけの他動的なムーブメントであるから、歌舞伎役者に内的な動機が欠落しているのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R7・4・28)


2)十七代目勘三郎のお岩

本サイトで度々論じていることですが、現行歌舞伎のテクニックと云うのは、遡れば天保か・ちょっと前くらいまでのもので、それ以前が途切れているのです。だから文化文政期の南北の生世話もその多くが途切れています。「四谷怪談」のように切れ目なく上演されてきた作品は、現行では幕末歌舞伎の感触で色濃く染められたところで残っています。そのような流れのなかで、「四谷怪談」はお岩様のお化け芝居として肥大して来た、つまり怖い・コワ〜イお岩様を見せることが芝居の眼目になって来たと云うわけです。代表的なものは上方の斎入のお岩・東京の六代目梅幸のお岩でした。六代目歌右衛門のお岩もこの系譜上に位置付けられます。燃え上がる怨念の凄まじさがホントに怖いお岩でありました。

翻って今回(昭和46年・1971・9月国立劇場)の十七代目勘三郎のお岩を見ると、勘三郎は観客を怖がらせようと思えば出来る・それだけの技量と芝居っ気を持つ役者でしたが、敢えてそれをしようとしないのですね。そこが勘三郎の名優たる所以だと思います。勘三郎は怖いお岩ではなくて、無惨に面相を変えられたお岩の哀れさ・悲しみを表現しようとしていたようです。武智鉄二は六代目菊五郎(勘三郎の岳父)のお岩はうまかったけれど・怖くなかった、その頃から「怖がらせちゃあいけねえよ」と云う考え方が出てきたのかも知れないと書いていますが、勘三郎のお岩にも似たところがある気がしますね。勘三郎のお岩は、世話女房っぽくて・しっとりと重い感触です。これは弥五郎の宅悦の協力もあってのことですが、髪梳きの場面も騒がしくなりません。これはひとつの見識であると思いますけれど、ちょっと沈んだ印象はある。芝居としては地味に見えてしまうのも確かなことで、お化け芝居の怖さとの兼ね合いが難しいところだと思いますね。

吉之助は、お岩は怨霊であるが御霊ではないので、「生き変わり死に変わり恨み晴らさで置くべきか」なんて大言壮語はか弱い女にふさわしくない。か弱い女を怨霊にするためには「これが私の顔かいな」という深い悲しみさえあればそれで十分だと考えています。(別稿「お岩の悲しみ」をご参照ください。)だからお岩の悲しみを深く描きたい勘三郎の意図は良く理解出来るのですが、面相を変えられる以前の(浪宅前半だけでなく・浅草田圃の場面も含めて)お岩の感触がしっとり重いところ、つまりどこか重く沈んで幕末歌舞伎の感触を引きずったままの印象がするところに一考を要する気がします。前半のお岩をもう少し明るい感触に取った方が後半のお岩の悲しみが引き立つ気がするのです。

一考を要すると云えば、その次の穏亡堀の場のだんまりで、勘三郎が茶屋女お波という正体不明の役で登場し、今回は本舞台に伊右衛門・権助・与茂七を残して幕にして・お波が一人幕外で意気揚々と花道を引っ込むというやり方でした。これは六代目梅幸の型だそうですが、吉之助はこういうやり方を他で見た記憶がありません。こういうやり方は興味深いとは思いますが、そこまでしようと云うならば、お波は実はお岩が姿を変えて現れたのでしたとか、何かお岩に関連した理屈を持たせなければならぬと思いますが、どうですかね。ちなみに現行の穏亡堀ではお岩役者が小仏小平女房お花とか・誰か別の女性で出て花を添えるのが通例ですが、文政8年初演の時は三代目菊五郎はお岩と与茂七を兼ねたので、穏亡堀は伊右衛門・権助・与茂七と三人のだんまりで幕にしたのです。この場合には菊五郎がお岩から復讐の実行者(与茂七)へと替わることに演劇的な意味がありました。まあやり方はいろいろあり得ることだけれど、ここで観客に美しいお岩の姿を思い出させることは決して意味がないことではないわけですから、何らかの理屈を付けてもらいたいものです。(この稿つづく)

(R7・4・29)


 

 


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