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二代目松緑のいがみの権太

昭和51年11月国立劇場:「義経千本桜」・第2部

                                    *北嵯峨庵室-椎の木・小金吾討死・鮓屋-川連法眼館・奥庭

二代目尾上松緑(いがみの権太・佐藤忠信・源九郎狐)、七代目尾上梅幸(弥助実は平維盛・静御前)、三代目河原崎権十郎(弥左衛門)、三代目尾上多賀之丞(弥左衛門女房お米)、四代目中村雀右衛門(お里)、七代目市川門之助(権太女房小せん)、七代目尾上菊五郎(小金吾)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(梶原景時・横河覚範実は能登守教経)、初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(源義経)、二代目助高屋小伝次(川連法眼)他


1)松緑の権太・勘三郎の権太

本稿で紹介するのは、昭和51年(1976)10月〜11月国立劇場で行われた通し狂言「義経千本桜」の映像です。本公演の話題は、2か月掛けて二代目松緑(当時63歳)が千本桜の三役(知盛・権太・狐忠信)を完演すると云うことでした。本観劇随想では第2部の、いがみの権太の件を中心に取り上げます。

ご存知の通り、いがみの権太は松緑の師である六代目菊五郎が得意とした役でした。ですから吉之助は松緑の権太を見ながら、そこに六代目菊五郎の面影があるかどうか、それが見えるとするならばそれはどう云うところか、そんなことを考えながら松緑の権太を見ることになります。歌舞伎データベースで検索すると、戦後だけで松緑は権太を17回勤めています。これは結構な回数であると思います。

残念ながら巡り合わせが悪くて吉之助は松緑の権太を生(なま)で見ることが出来ませんでしたが、六代目菊五郎の娘婿である十七代目勘三郎の権太の方は、幸いなことに生で見ることができました。意外なことに勘三郎が権太を勤めたのは、昭和54年(1979)9月歌舞伎座の一度切りのことでした。何か理由があったのですかねえ。岳父の代表的な役だから、取り組むのに慎重になり過ぎたのでしょうか。そんな理由くらいしか思い浮かばないのですが。勘三郎の権太のことはよく覚えています。愛嬌がある人でしたから、木の実での家族(小せん・善太)との交流は情愛が深くて、特にいい場面でした。三人して花道を引っ込む場面では、吉之助はいまだに勘三郎の権太のことを思い出します。鮓屋で手負いになってからの述懐も、哀れさがあって泣かせる権太であったと思います。

勘三郎の権太については・そんなことなど思い出されますが、今回・松緑の権太の映像を見直しながら、六代目菊五郎の権太を思い描いてみると、勘三郎も松緑もどちらも甲乙付け難い出来の権太であり、どちらが正しいとか・どちらが良くないとか・そう云うことではないのだが、強いて云うならば、恐らく松緑の権太の方が六代目菊五郎の権太の本質を伝えているだろうと云う気がします。根拠は?と問われても困るが、松緑の権太の方が骨格が太い印象であるからです。役の本質を大掴みにして・細かいところにこだわらないように見えます。しかし、細かいことの積み重ねで全体が出来てるのだから、細かいことの寸法が決まっていないと、設計に狂いが出て・全体が「でっかい」印象にならぬわけです。細かいパーツを合わせると、これがあつらえたようにぴったりハマる。結局、細かいところにこだわっていないように見えたけど、実は細部まで配慮が行き届いていたのだなあと思わず唸る芸、それが六代目菊五郎の芸であると思います。そのようなかつきりとした芸の印象を松緑の権太は伝えていると思います。

勘三郎の権太が筋目正しくないかのように聞こえたかも知れないので・付け加えると、勘三郎の芸は細かいニュアンスの表出が上手いのだけど、それが勘三郎個人の持ち味から出るものであって他人には真似がし難いと感じるところがあるかも知れませんねえ。多分芸の在り方が論理的というよりも、感覚的なのでしょうね。そんな勘三郎の権太が吉之助はとても好きだったのですがね。一方、松緑の権太からは、その芸の背後にある六代目菊五郎の方法論が透けて見えて来る気がします。それはしっかり過去と繋がっている。だから筋目が正しい、スタンダードな印象を強く受けるのだろうと思います。(この稿つづく)

(R6・6・28)


2)松緑の権太・梅幸の維盛

松緑のいがみの権太は、六代目菊五郎もこんな感じだったかと思わせる生世話の息(イキ)の良さ。江戸前の感覚が強い権太です。これは菊五郎型が元々そのようなものであるのだから全然気にはなりませんが、平成の現代ではここまで江戸前風味が強い権太をあまり見ないような気がしますね。松緑の芸風から云うとシリアスさが勝つ感じなので・愛嬌に乏しいところがあるかも知れませんが、木の実で小金吾を強請りにかかる場面での凄味、鮓屋の首実検での梶原景時相手の大博打の場面での緊迫感など、さすがの芸を見せてくれます。かつきりとした権太の印象が、自在にやっているように見せながら・自然と丸本物の枠組みにぴったり嵌まっていくところに、六代目学校の仕込みが見えると云うことでしょうか。

現代の我々は芝居を見ながらツイ、「権太はいつ改心したのか」、「忠義のためとは言え、自分の女房・子供を犠牲にするとは酷いじゃないか」とか、「権太の行為は無駄ではなかっただろうか」など色々考えてしまうと思います。しかし、「この芝居の何が自分を感動させるのか」と云うことを突き詰めていくと、結局、こうした疑問は「鮓屋」のドラマの本質にあまり関係がないことが分かってくるのです。松緑の権太は余計なことを考えさせない権太です。松緑の権太は図太い印象で、「鮓屋」のドラマとは、煎じ詰めれば、「どうしようもない放蕩息子が、最後にひとつだけ良いことをして、家族に許されて死んでいった」と云う、ただそれだけのドラマだと云うことを改めて納得させてくれます。

権太の落ち入る寸前のところで、ちょこっと維盛の件が絡んで来ます。こうして権太のドラマは「平家物語」の世界に絡め取られて行くわけですが、どうして観客が権太のドラマに涙するかと云うことを考えてみると、それは驚くほどに「平家物語」に関連しません。それは、親は子のことを思い、子もまた親のことを思うと云う、いつの時代も変わらぬ庶民の心情です。もちろん深いところでは、これも「平家物語」が説くところの無常の理(ことわり)に通じるものなのですがね。だから「もののあはれ」に感応して維盛が絡んで来ることになるわけですけれど、表面上のところでは、権太のドラマは驚くほど「平家物語」の世界に関連しないように見えます。だから権太一家の悲劇を観た観客は、芝居が終わった後、何だか突き放されたようなツーンとした気分にさせられるものです。

ですから芝居のなかで、権太は力いっぱい懸命に生きたところを観客に見せればそれで良いわけです。そうすれば権太の欠片(ピース)が「鮓屋」の合わせ絵のなかにぴったり嵌まると云うことなのです。そのような至極当然のようなことが、図太い印象の松緑の権太であると、とてもシンプルに見えてきます。一生懸命に生きた権太のクライマックスが首実検の場面であることは疑いありません。首実検は、いわば権太の生き様(世話)と梶原が背負う「時代」の論理との激突であるわけですが、松緑の権太の気合いと・染五郎の梶原の奇怪さとが相まって、数ある「鮓屋」のなかでも特筆すべき大舞台になったと思います。

しかし、「鮓屋」のなかで「時代」はいきなり姿を現して観客をアッと驚かせるわけではなく、実は目立たないなかで・最初のところからその気配を覗かせてはいるのです。すなわちそれが弥助(実は維盛)という存在です。梅幸の弥助の素晴らしさについては本サイトでも何度か触れましたが、例えば竹本の「たちまち変わる御装ひ・・」(注:この詞章は歌舞伎の入れ事で・丸本にはない)の箇所で、大抵の弥助役者は表情をキュッと引き締めて・動作をぎこちない時代の動きへと、いわばデジタル的に切り変えることで、人格が弥助から維盛へ変化するところを見せるものです。他方、梅幸の弥助は手にした手拭いをハタッと取り落とすこと以外に目立った変化を見せることをしません。それでいていつの間にやら雰囲気が弥助から維盛へ変わっているところなど、他の役者は梅幸の演技をよく見て研究することです。恐らく梅幸にとっては、弥助から維盛への変化はアナログなのであって、人格はひとつで変わらず・その見せる角度がちょっと異なるというだけのことなのだと思います。これはとても大事なことであると思います。多くの弥助役者は、鮓桶を担いで登場する場面でも鮓桶が重ったくてヨロヨロしてしまうなんて当てた演技(しかもお里がその鮓桶を軽々と持ち上げて観客を笑わせる)をしますけれども、梅幸の弥助は鮓桶を担いで平然としています。他の役者はそういうところを見習って欲しいと思いますね。

今回(昭和51年・1976・11月国立劇場)の「鮓屋」は役者が揃って、大きい舞台に仕上がりました。そのなかから気の付いたところをいくつかメモ風に取り上げますけれど、小金吾を勤めた菊五郎は当時34歳で、前髪立ちを勤めるにはちょっと年が行き過ぎかなと危惧しましたけれど・まったくそんなことはなくて、実にたっぷりと美しい花の小金吾であることに感心させられました。散る花の風情があって、しっかり心に残る小金吾でした。

ところで、この時代(昭和50年代)の立ち回りは、当時はさすが戦後昭和の名立師・坂東八重之助が存命(八重之助は昭和62年に死去)のことゆえ、立ち回りの動きがゆったりとして美しかったことを映像を見て思い出しました。「ゆったり」と云うのはテンポが遅いと云うことではなく、捕手全員の動きに余裕があって、身体の捌きに狂いが見えないから動きが「ゆったり」として見えると云うことです。これが芯になる役者(この時は小金吾役の菊五郎)の動きを一層引き立てます。八重之助が存命中の歌舞伎は立ち回りを大いに「売り」にしていましたから、思えばこの時代の立ち回りは結構時間が長かったと思います。吉之助も当時はちょっと長いなあと感じたものでしたが、とんでもなかったかも知れません。今回は映像を見直しながら・その動きの美しさに、しばし長さを忘れました。近頃の歌舞伎の立ち回りは(時間は短くなっていますが)妙にセカセカした印象で・動きに余裕がないように感じることがありますが、八重之助の原点に立ち戻ってもらいたい気がします。

権十郎は後年「逆櫓」の権四郎など多くの老け役を勤めましたが、この時の弥左衛門は老け役としてはまだ早い時期であったかも知れませんねえ。今回映像を拝見すると化粧に若さが見えるようだけれども、権十郎の弥左衛門が良いところは、気骨ある人柄を感じさせることかと思います。怒って息子を刺し殺しちゃうくらいなのだから、弥左衛門は意外と血の気の多い人物なのです。この人物の奥深さは「摂州合邦辻」の合邦道心に比せられるところがありますね。

(R6・7・8)


 

 


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