どれがホントの私なのかしら?〜美輪明宏の「黒蜥蜴」
平成27年9月・東京芸術劇場プレイ・ハウス:「黒蜥蜴」
美輪明宏(怪盗黒蜥蜴)、木村彰吾(明智小五郎)
1)三輪明宏と女形
本稿は吉之助の新刊「女形の美学 〜たおやめぶりの戦略」の番外編とお考えください。本書のなかで 世間で「現代女形の創始者」とも云われている美輪明宏のことに触れて、「私のことを否定できるものなら、やってごらんなさい」という舞台中央で開き直った感じがまさに六代目歌右衛門と書いたわけです。これは歌右衛門のなかにあった「私から女形を取ってしまったら私じゃなくなるんだから」という危機意識と似ているということを言っています。 「私」というアイデンティティが強く出ているところが近代的と云えます。
注釈つけておくと、吉之助は別に歌舞伎の女形と美輪を同列に置いて論じるつもりはないのです。美輪は確かに美しいのだけれども・それは「見た目の美しさ」 の類なのであって、吉之助が歌舞伎の女形の美と感じているもの(一応、「芸の美しさ」としておきます)とは次元がちょっと異なると感じています。ただし感覚的に重なる要素 も確かにあるわけで、昨今歌舞伎の女形がもてはやされている背景がこの点にあることも吉之助はよく理解しているつもりです。これについては別稿「美しいものは見た目も美しくなければなら ぬのか」でも触れました。これからの歌舞伎の女形は、本人がどう思おうが・喚こうが、否応なしに「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」というところに縛られることになる。いや、すでにそうなっている。歌舞伎の女形にとってはつくづく難しい時代になったものです。
先日(平成27年9月)、東京芸術劇場プレイ・ハウスでの美輪明宏の「黒蜥蜴」(原作:江戸川乱歩、脚本:三島由紀夫)を見て来たので、思いついたことをつれづれなるままに記しておきたいと思います。本稿で結論付けるつもりはありませんので。舞台に美輪扮する緑川夫人(実は怪盗黒蜥蜴)が登場すると「キレイねえ」という女性客の 歓声が聞こえます。確かに御年80歳とは思えない美しさです。しかし、ジワが来るという感じとはちょっと違います。期待通りのものが期待通りに現われてキレイということなのだから、もちろんそれで十分なのですが、ジワが来たわけではない。吉之助が見た時は・・ということですが。
「ジワが来る」というのは歌舞伎用語なのでしょうが、吉之助もそう何度も経験しているわけではありませんが、ジワが来るというのはまったく不思議な光景です。目の前にあるものに感動して言葉に言い尽せなくて思わず息を呑む瞬間があって、その後詰めた息を吐くのです。それが客席のあちこちで起こるので、客席が一瞬凍ったようになって、やがて吐息がさざ波のように静かに客席に広がって行く、凍った時間が陽の光の暖かさが沁み込んでいくように静かに溶けていく。そのような奇蹟の瞬間です。これは芸の力というより、素材の力ということかも知れません。
昭和二十年代後半の銀巴里時代の美輪にはジワが来るような瞬間が確かにあったに違いありません。このことは昭和43年の映画「黒蜥蜴」(当時は丸山明宏、松竹・深作欣二監督)からも十分想像できます。今回の美輪にそのような瞬間がなかったことで、吉之助は美輪を貶めるつもりはまったくありません。吉之助は観客が美輪を見る視線のことを考えているのです。現在の美輪はあまりにメジャー化してしまって、艶めかしく妖しいものを崇めたいと期待している観客の教祖様になってしまっていますから、期待通りのものが期待通りに現われてキレイということで、そこで予定調和が図られています。だからジワが来ないのです。
吉之助は美輪を見る観客の視線の背景に、次のような観客の心理を感じます。観客は妖しいものには興味があって見てみたいのですが、妖しいのが強過ぎて・それが変態だかグロの域に入っていまうと 途端に怖くなって逃げ出すのです。観客としては安全なところでちょっと妖しい気分を味わいたいだけ。観客にとって観劇はそのくらいのお楽しみで十分なのです。(イヤこれも観客を貶めているわけではないのです。それがノーマルな感覚というものです。)現在の美輪は、観客のその辺の心理を良く心得て振る舞っている感じがしますね。
(H27・9・11)
2)ホントの私なんていないんだから。
吉之助が新刊「女形の美学 」でもそうですが・女形論を書く時に意識していることは、衆道(男色)論の方へ向かわないようにすることです。歌舞伎の歴史を見れば歌舞伎がそういうものと深層で結び付いてきたことは明らかですが、吉之助としては歌舞伎をそのような淫靡な芸能としてではなく、もっと明晰な芸術として捉えたいわけです。(この辺は同書の「まえがき」をご参照ください。)もちろんそれで取り落とすものがあるかも知れませんが、それを恐れていては批評にはなりません。対象を切るということはそういうことです。演劇というものは、もともと二極構造によって理解されるところが大きい芸能です。自己と他者との対話で進行するのもそうですし、上手と下手、善方と敵方とか云う尺度もまたそうです。そして男と女という尺度こそ、演劇のもっとも強固な二極構造なのです。ですから男が女を演じるという 不自然な演劇である歌舞伎では観客は「赤い着物を着て顔を白く塗っていればあれは美しい女だ」と思い込むことで安心するというのは、そこのところです。これはその時代の社会通念とも密接に関連します。
「黒蜥蜴を探して」というドキュメンタリー映像(2010年、フランス、パスカル=アレックス・ヴァンサン監督)のなかで、美輪明宏は「人々が服装・見掛けによって人を判断するということが分かったので、ハイヒールを履いて女性の恰好をするようになった、そうしたらそれまで自分はゾンザイな扱いをされていたのが、次第に世間に受け入られるように変わって行った」ということを語っています。世間は、美輪が「男でも女でもない」ということ が、どうにも理解ができない。それじゃあお前は一体何なんだということになる。しかし、普通の人は「これは本当は女になりたかった男なんだ」と考えると何となく理解ができる気がするということです。本当はそうじゃないのだけれど、美輪は世間にそう思わせて置くことにしたということだろうと思います。このドキュメンタリーでは美輪ファンの男性が「美輪さんは女の装いをすることでゲイというものを世間に誤解させたかもしれません」と語っていますが、多分その通りです。
美輪は女の装いをすることで、社会概念の「男と女」の二極構造の隙間に入り込むことで、現在の安住の地を得ているのです。つまり美輪は「赤い着物を着て顔を白く塗っていればあれは美しい女だ」という演劇の約束を何も壊していないことになります。(ということは「女形の美学 」での、吉之助の女形論の切り口はその通り正しいということになると思います。)ですから美輪が期待通りに現われてそれでキレイということならば観客はそれで 十分満足なのです。逆にそこであまりハードなことをされたら却って困る。観客の期待通りに振る舞えるところが美輪の凄いところです。実は三島は「黒蜥蜴」のなかにちょっと危険なシーンを挿入しています。
『(部屋の中央に外套を手にしてソフト帽をかぶった一人の青年紳士、実は男装した黒蜥蜴が、気取ったポーズで立っている。横目で鏡を見ながら)これなら大丈夫逃げられるわ。誰も私とわかりゃしない。そもそも本当の私なんていないんだから。ねえ、鏡のなかの紳士。明智ってすばらしいと思わない? そこらに沢山いる男とちがって、あの男だけが私にふさわしい。でも、これをが恋だとしたら、明智に恋しているのはどの私なの?返事をしないのね。それならいいわ。また明日、別の鏡に映る別の私に訊くとしましょう。じゃ、さよなら。』(三島由紀夫:「黒蜥蜴」・第1幕第6場)
「そもそもホントの私なんていないんだから。どれがホントの私なのかしら?」ということです。今回の舞台ではこの場面は、もうちょっと男臭さを強くして仕出かしてみせても良かったかも知れませんね。実はこの台詞こそ「黒蜥蜴」の本質を突いた台詞なのですから。
美輪明宏ドキュメンタリー~黒蜥蜴を探して~ [DVD]
(H27・9・14)
3)ホントの自分が分からない
『心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だったわ。あなたはとっくに盗んでいた。私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やっとつかまへてみれば、冷たい石ころのようなものだとわかったの。』
探偵明智の目の前で毒を飲んだ黒蜥蜴が死ぬ直前の台詞です。明智は黒蜥蜴の心を盗んでしまったのです。三島は「黒蜥蜴」創作ノートのなかで、『(黒蜥蜴は)仮装でない(本物の)感情に生き過ぎた。(黒蜥蜴は)どんなダイヤよりも本物のダイヤ。明智は盗人である。このダイヤを盗んだからだ。あなたに盗まれるのはイヤだから、かうして滅ぼしてしまふのだ。「黒蜥蜴」という宝石を。』と書いています。
決定版 三島由紀夫全集〈23〉戯曲(3)(戯曲「黒蜥蜴」収録・創作ノートを含む)
黒蜥蜴は自分の恋の独白を明智に盗み聞きされてしまったことが許せません。黒蜥蜴にとって恋とは癒しや喜びのようなものではなく、自分の感情を縛って動けなくしてしまうものでした。だから黒蜥蜴は、自分の感情の・自分の恋心の自由さを守るために自殺するわけです。戯曲「黒蜥蜴」の主題はそういうことになると思いますが、吉之助は今回の芝居(平成27年9月・東京芸術劇場プレイ・ハウスでの上演)を女形のことを考えていましたから、 少し別なことを考えて舞台を見ていました。現実世界では黒蜥蜴は泥棒で・明智は探偵ですが、心の世界では反対に黒蜥蜴が探偵で・明智の方が泥棒だったということです。戯曲のなかでは両者の関係が入り乱れています。つまり 「私は泥棒なの?探偵なの?どれがホントウの私なのかしら?」ということになります。このもうひとつの主題が吉之助には気になるのです。
「黒蜥蜴」の原作者・江戸川乱歩が生み出したもうひとりのアンチヒーロー・怪人二十面相は変相の名人で、「老人にも若者にも、富豪にも乞食にも、学者にも無頼漢にも、女にさえも、まったくその人になりきってしまうことが出来る」、「本人自身も本当の顔を忘れてしまっているのかもしれない」というほどの怪盗です。また対する明智小五郎も二十面相の向こうを張る変装の名人で、互いに変装合戦を繰り返して裏をかき合います。どちらも「ホントの私は誰でしょう?」という存在 なのです。怪盗黒蜥蜴もまったく同じで、 吉之助にはこれが美輪明宏という存在に重なって見えます。
思えばお嬢吉三の・有名な「月も朧に白魚の・・・」というツラネの七五調の揺れるリズムが示すものは、「私は自分がどういう人間なのかが分からない、私は一体 何者なのだろうか・私の本質はどこにあるのだろうか・私は何をするために生まれてきたのだろうか」という疑問です。この疑問はホントウは男であるのに、女の恰好をして芝居をせねばならなかった女形という存在に重なっています。 私は男なの?それとも女なの?あるいはそのどちらでもないの?ということです。これが「女形の哀しみ」というものに通じます。(このことは「女形の美学」のお嬢吉三の章のなかで、悪婆の問題を絡めて詳説しましたので、どうぞご覧ください。)
答えは隅田川の揺れる水面にいろんな形を取って・浮いては消え・消えては浮かびしますが、そのどれを選択して良いのか彼には分からない。あるいは選択することが彼は怖いのです。だから答えは明確な形を取ることはありませんが、これは黙阿弥が生きた幕末 江戸という時代の精神状況を反映しているから、そういうことになります。自我とかアイデンティティとか云う概念が当たり前のものとなっており、「それが守れないならば自分は生きていないのと同然だ」という強迫観念に襲われかねない現代という時代にあっては、「私はホントの自分が分からない」ということは様相はもっと複雑かつ深刻なものとなり、これは自分に鋭く突き刺さってくる問題になってきます。
(H27・9・22)
4)どれがホントの私なのかしら?
歌舞伎の女形の「私は男なの?それとも女なの?あるいはそのどちらでもないの?」という疑問は、政治的に強制されたところから生まれた・本来ならばあり得ない・男が女の役を演じるということの不自然さから来ます。吉之助はこれを女形の哀しみと呼んでいます。これは女形の本質に 深く関わるテーマです。歌舞伎はこの哀しみから出発し、みずからの演劇構造を女形に適合するように作り変えることで、今日の歌舞伎座で見られるような形態(フォルム)を作り上げたのです。
一方、黒蜥蜴が第1幕幕切れで外套を手にしてソフト帽をかぶった青年紳士に変身して、鏡に映った自分に 「そもそもホントの私なんていないんだから。どれがホントの私なのかしら?ねえ、鏡のなかの紳士。明智ってすばらしいと思わない?」と呟く時、そこに哀しみの影は微塵も見えません。「私は男なの?それとも女なの?」という疑問の答えは数えきれないほどあるのです。時に私は男であって、同時に私は女でも良くて、あるいはそのどちらでもあり、またそのどちらでもない。どれもが正解であり間違いなのです。黒蜥蜴は沢山の答えをあちらこちら飛び回ってイメージの飛翔を楽しんでいるかのようです。
ただし黒蜥蜴はただ無邪気に自由を謳歌しているわけではないのです。怪盗黒蜥蜴が恐れることは束縛されることです。しかし、黒蜥蜴は「ホラ私を捕まえられるものなら、捕まえてごらん なさい」と言うが如くに犯罪を繰り返します。実は黒蜥蜴は捕まえられたがっているのです。黒蜥蜴が探偵明智に恋をしてしまうのも同じ ことで、そこに 黒蜥蜴の破滅への願望が潜んでいるということなのですが、そのことは本稿では置いておくことにします。吉之助が注目したいのは、黒蜥蜴の「どれがホントの私なのかしら?」という問いの、軽やかさのことです。黒蜥蜴は正解を求めているのではありません。問いそのものを楽しんでいたいのです。この軽やかさは魅力的です。この軽やかさは歌舞伎の女形にはないものです。美輪は黒蜥蜴のイメージにまさにぴったりです。
前節において吉之助は、自我・アイデンティティとか云う概念が当たり前である現代という時代にあっては、「私はホントの自分が分からない」という問いはもっと複雑かつ深刻なものとなっていると書きました。昨今は「自分らしく在りたい」なんて言葉をよく聞きます。しかし、「自分らしさ」とは 何でしょうか?そもそもホントの自分が分かっている・自分がホントにやりたいことが分かっている人って、どのくらいいるのでしょうか。みんなその答えを求めて苦しみあがいているのです。それが現代という時代の混迷した状況です。 だからなおさら「自分らしく」ということを求めてしまうわけですが、そんななかにあって「サテどれがホントの私なのかしら?」とニヤリとしていられるというのは、これは現代に対する対処法としてなかなかイケていると思いますが、如何なものでしょうか。
(H27・9・23)
*別稿「女形の哀しみ〜歌舞伎の女形の宿命論」もご参考にしてください。
吉之助2冊目の書籍本。今度は女形論。
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ISBN978-4-86598-002-8