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「絵本太功記(尼ケ崎閑居)」床本

夕顔棚の段尼ケ崎の段


夕顔棚の段

 

 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
御法の声も媚きし尼ケ崎の片ほとり。誰が住む家と夕顔も、おのがまゝなる軒の褄。あたり近所の百姓ども、茶碗片手に高咄し。
「ノウ婆様、こな様も見たところが、上方で歴々のお衆さうなが、なんのために面白うもないこの在所へはござつたぞいの」
「アヽコレ/\甚作、そりや言やんな。京の町は武智という悪人が、春長様を殺して大騒動。大方また下へ下つてゐやしやる久吉殿が戻つて来て、武智と是非に一合戦なけりや済まぬわいなう」
「そんなら年寄りはうか/\、京の町にはゐられぬ。とかく危げないやうにこんな在所へ来てゐるが、大出来大出来。時に近づきがてら妙見講を勤めるとはよい手廻し、大きな馳走に逢ひました。これから随分お心安ういたしませう、サア/\いなう」
と口々に、言ひたい事をたくしかけ、喋り廻つて帰りける。老母はつどつど門送り、庭の千草に打ち水も、保つ葉ごとに風かをる。軒を目当てに来る人は、武智が閨に咲く花の、操の前は家来を遠ざけ、嫁の初菊伴うて、窺ふ切戸の庭先に、花に心を養う老女。それと見るより手をつかへ、
「後室様の見舞ひとして、たゞ今参上いたせし」
と慇懃に相述ぶる、詞に老女は打笑み、
「ヲヽ珍らしい嫁女、孫嫁。遥々の道ようこそようこそ。さりながら倅光秀、当月二日本能寺にて、主君を害せし無法者、同じ館に膝並ぶるも、先祖の恥辱身の穢れと、館を捨てゝこの在所へ、身退きしこの婆を、見舞ひとはをこがましい。善にもせよ悪にもせよ、夫につくが女の道、操の前は武智十兵衛光秀が妻、そなたはまた十次郎光義が嫁ではないか。生死分らぬ戦場へ、赴く夫を打捨てゝ浮世を捨てた姑に、孝行尽すは道が違ふ。妻城に留つて、留守を守るが肝要ぞや。モウ寡婦暮しの楽しみには、夕顔棚の下涼み、捨つべきものは弓矢ぞ」
と、言ひ放したる老女の一徹、後は詞もなかりけり。常の気質と逆はず、
「いかさま後室様の仰つしやるとほり、この様にたゞお一人ござつたら、何もかも気散じで、マア第一はお身の養生。今から私も初菊も、後室様のお傍にゐて、飯も焚いたり茶も沸かし、お宮仕へをせうぞいの」
と、あり合ふ前垂打掛の、上に引き締め茶釜の傍、花香の籠もる姑の、渋々機嫌を取兼ぬる。娘心に初菊も、マどう済むことか濁り井の、深き奇縁の釣瓶縄、『水汲み上げん』と立寄れば。
「コレ/\嫁たち。シテ孫十次郎は城に残つてゐめさるか」
「さればでござります。十次郎が願ひには、『どうぞ今日の軍に、高名手柄が現はしたいと、父上までは願ひしかど、婆様のお赦しなきに出陣するも本意でなし。母に取次ぎしてくれ』と、くれぐれの願ひゆゑあまり健気さ、祖母様に御機嫌の程いかゞぞと、窺ひに参りました」
と語るうち、老母は涙をはら/\と流し、
「ヲヽうるさの嫁が物語り。主を討つたる逆賊の邪非非道の軍の評定、聞くが厭さのこの住居。ガまた孫を誉めるではなけれども、非道な倅光秀が子に、十次郎といふ武士が、生れて来るとはこれも因縁、悔んで返らず。戦場のこと聞きたうない。アいや/\情けなの浮世や」
と、無量の思ひ百八の数珠爪繰つてゐたりけり。折ふし表へ草鞋がけ、風呂敷背にいつきせき、蛙飛込む道野辺の、清水結ばん夏の旅、西行もどきの僧一人、門口に立体らひ。
「諸国修行の一人旅。近頃申し兼ねたれど、お宿の報謝に預りたし。押しつけながら」
と言ひ入れる、声を老母が聞き取つて、
「見苦しうござりますれど、お心置きなう御一宿」「それは千万忝ない。さやうならば御遠慮なしに、御免々々」
とあがり口、腰打ちかくれば二人の女、草鞋の紐を解きかくれば 
「アヽ勿体ない/\、構うて下さりますな。旅しつけた妨主の気散じ、木納屋の隅でもついころり。蚊帳も蒲団も入りませぬ。お心遺ひ御無用」
と、詞なかばへ表口、人目を忍びたゞ一騎、窺ひ立聞く武智光秀、『心得がたき旅僧』と、生垣押分け差覗き、思はず見合す母の顔、老母は何か心にうなづき、
「ヲヽ、わしとしたことが心のつかぬ、コレ御出家様、この板囲ひがすなはち風呂場、水は幸ひ汲んであり、ついぼや/\と燃して、署い時分ぢや行水して休んで下さりませ。婆も後で相伴しませう」
「アヽイヤそれには及びませねど、相伴とあれば沸しませう。そんなら御免なされませ」
と、包み引下げ気散じに、湯殿をさして入りにける。味方の軍卒両手をつき、
「御子息十次郎光義様。『後室様に御願ひの筋あり』と、只今これへ御越し」
と言ふ間ほどなくしづ/\と、家来に持せし鎧櫃舁き入れさせて打ち通り、
「コリヤ/\者ども、そちたちに用事はない。陣所へ早く」と追つ立てやり、威儀を正して両手をつき、「母様を以て御願ひ申せし出陣、御聞き届け下され
なば、武士の本意」と十次郎、思ひ込んでぞ願ひける。老母は見るより機嫌顔、
「オヽ珍らしい十次郎、出陣の願ひとな。倅を見限りこの所へ身退きしに丁寧な願いの筋。最前嫁女に詳しう聞きました。とても出陣しやるなら、祖母が願いはこの初菊、今宵この家で祝言の盃してから門出しや。なんと嫁女嬉しいか」
と、老ひの詞に初菊は、飛立つばかり気もいそ/\、心の悦び穂に出づる、顔は上気の夏楓、色も媚くばかりなり。たゞ黙然と十次郎、『今日初陣に討死と、覚悟極めしこの体。お暇乞ひに参りしと、知らせ給はぬ悲しや』と、涙呑込み忍び泣き。操の前も立上がり、
「祖母様の御機嫌の変らぬうちに固めの盃」
「ヲヽそれ、孫も大方心せき、操は九献の用意しや。十次郎が初陣の、鎧の役はすぐに花嫁、三国一の悲しみ」
と、知らぬ白歯の孫嫁が、手を引連れて三人は奥の

 

尼ヶ崎の段

 

 一間に入りにけり。残る莟の花一つ、水上げかねし風情にて、思案投げ首しをるゝばかり、やう/\、涙押しとゞめ。
「母様にも祖母様にも、これ今生の暇乞ひ。この身の願ひ叶ふたれば、思ひ置く事さらになし。十八年がその間御恩は海山かへがたし。討死するは武士の習ひと思し召し分けられて、先立つ不孝は赦してたべ。二つにはまた初菊殿、まだ祝言の盃をせぬが互ひの身の幸せ。わしが事は思ひ切り、他家へ縁づきして下され。討死と聞くならば、さこそ嘆かん不便や」
と、孝と恋との思ひの海、隔つ一間に初菊が、立ち聞く涙転び出で、『わつ』とばかりに泣き出だせば。『はつ』と驚き口に手を当て、
「アヽコレ/\声が高い初菊殿。さては様子を」
「アイ、残らず聞いてをりました。夫の討死遊ばすを、妻が知らいでなんとせう。二世も三世も女夫ぢやと思うてゐるに情けない。盃せぬが幸せとは、あんまり聞こえぬ光義様。祝言さへも済まぬうち、討死とは曲がない。わしやなんぼうでも殺しはせぬ。思ひ留つて給はれ」
と、縋り嘆けば
「アヽコレ、こなたも武士の娘ぢやないか。十次郎が討死はかねての覚悟。祖母様に泣き顔見せ、もし悟られたら未来永々縁切るぞや」
「エヽ」
「サア、とかう言ふうち時刻が延びる。その鎧櫃こゝへ、こゝへ」
「アイ、アイ」
「サ早う。時延びる程不覚のもと。エヽ、聞分けない」
と叱られて、
「いとしい夫が討死の、門出の物具つけるのが、どう急がるゝものぞいの」
と泣く/\取り出す緋縅の、鎧の袖に降りかゝる、雨か涙の母親は、白木に土器白髪の婆、長柄の銚子蝶花形、門出を祝ふ熨斗昆布、結ぶは親と小手臑当、六具かたむる三々九度、この世の縁や割小ざね、猪首に着なす鍬形の、あたり眩ゆきいでたちは、さはやかなりしその骨柄。
「ヲヽあつぱれ武者ぶり勇ましゝ。高名手柄を見るやうな、祝言と出陣を一緒の盃。サア/\はやう、めでたい/\嫁御寮」
と、悦ぶ程なほいや増す名残り『こんな殿御を持ちながら、これが別れの盃か』と、悲しさ隠す笑ひ顔、
「随分お手柄高名して、せめて今宵は凱陣を」
と、跡は得言はず喰ひしばる、胸は八千代の玉椿、散りて果敢なき心根を察しやつたる十次郎、包む涙の忍びの緒、絞りかねたるばかりなり。哀れをこゝに、吹き送る、風が持て来る攻め太鼓、気を取り直しつゝ立ち上り、
「いづれもさらば」
と言ひ捨てゝ、思ひ切つたる鎧の袖行方知らずなりにけり。
「ノウ悲しや」
と泣き入る初菊、母も操も顔見合はせ、
「祖母様」
「嫁女、可愛や、あつたら武士を、むざ/\殺しにやりました。ノウ初菊。十次郎が討死の出陣とは知りながら、なまなか止めて主殺しの憂き死恥をさらさうより、健気な討死させんため、祝言によそへて盃をさしたのは、暇乞ひやら二つには心残りのないやうと、思ひ余つた三々九度。祖母が心のせつなさを、推量しや」
とばかりにて、初めて明す老母の節義、聞く初菊も母親も、一度にどうと伏し転び、前後不覚に泣き叫ぶ。襖押明け何気なうつか/\出づる以前の旅僧、
「コレ/\かみさま、風呂の湯が沸きました。どなたぞ、お入りなされませ」
と言ふにこなたは泣き顔隠し、
「ヲヽそれは御苦労、さりながら年寄に新湯は毒。跡は若い女子ども、マアお先へ御出家から」
「いかさま、湯の辞儀は水とやら、左様ならば御遠慮なし、お先へ参る」
と立上がれば、三人は涙押包み、奥の仏間と湯殿口入るや

 

月漏る片庇、こゝに苅り取る真柴垣、夕頗棚のこなたより、現はれ出でたる武智光秀。
「必定、久吉この家に忍びゐるこそ究竟一。たゞ一討ち」
と気は張り弓、心は矢竹薮垣の、見越しの竹をひつそぎ鑓、小田の蛙の鳴く音をばとゞめて『敵に悟られじ』と、差し足抜き足窺ひ寄る。聞こゆる物音『心得たり』と、突込む手練の鑓先に、『わつ』と玉ぎる女の泣き声、『合点行かず』と引出す手負ひ、真柴にあらで真実の、母のさつきが七転八倒、
「ヤ、ヤヽヽヽヽこは母人か、しなしたり。残念至極」
とばかりにて、さすがの武智も仰天し、たゞ呆然たるばかりなり。声聞きつけて駆け出る操、初菊もろとも走り出で、
「ノウ母様か情けない。このあり様は何事」
と縋り嘆けば、目を見開き、
「嘆くまい、嘆くまい。内大臣春長といふ、主君を害せし武智が一類。かく成り果つるは理の当然。系図正しきわが家を、逆賊非道の名に穢す、不孝者とも悪人とも、たとへがたなき人非人。不義の富貴は浮べる雲、主君を討つて高名顔、たとへ将軍になつたとて、野末の小屋の非人にも、劣りしとは知らざるか。主に背かず親に仕へ、仁義忠孝の通さへ立たば、もつさう飯の切り米も、百万石に優るぞや。おのれが心たゞ一つで、験しは目前これを見よ。武士の命を断つ、刃も多いこの様な、引つそぎ竹の猪突き鑓。主を殺した天罰の、報ひは親にもこのとほり」
と、鑓の穂先に手をかけて、ゑぐり苦しむ気丈の手負ひ、妻は涙にむせ返り、
「コレ見たまへ光秀殿、軍の門出にくれぐも、お諌め申したその時に、思ひ止つて給はらば、かうした嘆きはあるまいに、知らぬ事とは言ひながら、現在母御を手にかけて、殺すといふは何事ぞいなう。せめて母御の御最期に、『善心に立帰る』と、たつた一言聞かしてたべ。拝むわいの」
と手を合はし、諌めつ泣いつ一筋に、夫を思ふ恨み泣き、操の鑑曇りなき、涙に誠あらはせり。光秀は声あらゝげ、
「ヤア猪口才な諌言立て、無益の舌の根動かすな。遺恨重ぬる尾田春長。もちろん三代相恩の主君でなく、わが諌めを用ひずして、神社仏閣を破却し、悪逆日々に増長すれば、武門の習ひ天下のため、討取つたるはわが器量。武王は殷の紂王を討ち、北条義時は帝を流し奉る。和漢ともに、無道の君を弑するは、民を休むる英傑の志。女童の知る事ならず。退さりをらう」
と光秀が、一心変ぜぬ勇気の眼色、取りつく島もなかりけり。折しも聞ゆる陣太鼓、耳を貫く金鼓の響き、『あはや』と見やる表口、数ケ所の手傷に血は滝津瀬、刀を杖によろぼひ/\、立帰つたる武智が一子、庭先に大息つぎ、
「親人これにおはするや」
と、言ふも苦しき断末魔、見るに驚く母親より娘は側に走り寄り、
「ノウいたはしや十次郎様。祖母様といひお前までこのあり様は情けない。お心確かに持つてたべ、やいの/\」
と取り付いて、介抱如才なくばかり。光秀わざと声あらゝげ、
「ヤア不覚なり十次郎、仔細はなんと、様子はいかに。つぶさに語れ」
と呼ばはれば、『はつ』と心を取直し、
「親人の指図に任せ手勢すぐつて三千余騎、浜手の方に陣所を固め、今や帰国と相待つくところに、敵はそれとも白浪の、艪を押切つて陸路に漕ぎ付け、追ひ/\都へ馳せ上る、真柴の軍勢ござんなれと、閧をつくつて味方の軍兵縦横無尽に薙立つれば、不意を打たれて敵は敗亡、うろたへ騒ぐを追立て、追詰め、こゝを先途と戦ふうち、後の方より大音声。『真柴筑前守久吉の家臣加藤正清これにあり、逆賊武智が小わつぱ共、目に物見せてくれず』と、言ふより早く太刀抜きかざし、四角八面に切立てられ、またゝく間に味方の軍卒、残らず討死仕り、無念ながらもたゞ一騎立帰つて候」
と、息継ぎあへず物語れば。光秀怒りの髪逆立ち、
「ヤアいひ甲斐なき味方の奴ばら。シテ四王天田島頭は」
「さん候四王天は、目指すは久吉一人と、昨朝よりの一騎駆け。乱軍なれば生死の程も、確かにそれと承はらず。親人の御身の上心にかゝり候ゆゑ、未練にも敵を切抜け、これまで落延び帰りしぞや。この所に御座あつては危し、危し。一時も早く本国へ引き取り給へ、サア/\早く」
と、深手を屈せず父親を、気遣ふ孫の孝行心、聞くに老母はせきかねて、
「アレ、あれを聞きや嫁女、その身の手疵は苦にもせず、極悪人の倅めを、大事に思ふ孫が孝心。ヤイ光秀、子は不便にないか、可愛いとは思はぬかやい。おのれが心たゞ一つで、いとし可愛いの初孫を、忠と義心に健気なる討死でもさす事か。逆賊不道の名を穢し、殺すはなんの因果ぞ」
と、せぐり苦しき老いの身の声聞きつけて十次郎、
「ヤア、そんなら祖母様には、御生害遊ばしたか。今生のお暇乞ひ、今一度お顔が見たけれど、もう目が見えぬ。父上、母様、初菊殿。名残り惜しや」
と手を取つて、妹背の別れ愛着の、道に引かるゝいぢらしさ、母は涙に正体なく、
「討死するは武士の、習ひといへど情けない。十八年の春秋を刃の中に人となる、いつ楽しみの隙もなう弓矢の道に日をゆだね、今朝の門出のその時にも『母様今日の初陣に、天晴れ高名手柄して、父上や祖母様に誉めらるゝのが楽しみ』と、につと笑うたその顔が、わしや幻にちらついて、得忘れぬ」
と口説き立て、口説き立つれば初菊も、
「ほんに思へばこの身程果敢ない者が世にあらうか。解けて逢ふ夜のきぬぐも永き名残りの許婚、二世を結ぶの枕さへ、交はす間もなうこの様な、悲しい別れをすることは、マどうした罪か情ない。私も一緒に殺してたべ、死にたいわいな」
と身を悶え、互ひに手に手を取り交はし、名残り涙の暇乞ひ、見るに目もくれ心消え、母も老母も声を上げ、『わつ』とばかりに取り乱せば、さすが勇気の光秀も、親の慈悲心子ゆゑの闇、輪廻の絆に締めつけられ、こらへかねて、はら/\/\、雨か涙の汐境、浪立ち騒ぐごとくなり。またも聞こゆる人馬の物音、矢叫びの声かまびすく、手に取るごとく聞こゆれば、光秀聞くより突立ち上り、
「アノ物音は敵か味方か。勝利いかに」
と庭先の、すね木の松が技踏みしめ踏みしめよぢ登り、眼下の村手をきつと見下し、「和田の岬の弓手より、おひ/\続く数多の兵船、間近く立つたる魚鱗の備へ、千成瓢の馬印は、疑ひもなき真柴久吉。風をくらつてこの家を逃げ延び、手勢引具し光秀を討取る術と覚えたり」と言ふより早く、ひらりと飛び下り、
「草履掴みの猿面冠者、イデ一ひしぎ」
と身繕ひ、勢ひ込んで駆け出だせば、
「ヤヤ/\武智光秀しばらく待て。真柴筑前守久吉、対面せん」
と呼ばゝつて、三衣にかはる陣羽織、小手臑当も優美の骨柄、悠然として立ち出づれば。光秀見るより仰天し、駆け戻つてはつたと睨み、
「ヤア珍らしゝ真柴久吉。武智十兵衛光秀が、この世の引導渡してくれん。観念せよ」
と詰寄る光秀、中を隔つる老鳥の、子ゆゑに手疵屈せぬ老女、
「ノウ久吉様。わが子に替るこの母も、天命遁れぬ引つそぎ鑓。作りし罪の万分一、亡ぶることもあらうかと、思ひ余つたこの最期。武智が母は逆磔に、かゝつて無惨の死をとげしと、末世の記録に残してたべ。それも矢張り砕めが、可愛さゆゑの罪亡し。うるさの娑婆に残らんより、孫と一緒に死出三途」
「ハア、わたしもお供いたしまする」
「いづれもさらば」
「おさらば」
と、未練残さぬ武士の、花も実もあるこの世の別れ、今ぞ果敢なくなりにけり。操の前も初菊も、さらに詞も出でばこそ、あへ亡骸を押動かし、天にあこがれ地に伏して、嘆く心ぞいちらしき。哀れをよそに真柴久吉、光秀に打ち向ひ、
「倶に天を戴かぬ亡君の弔ひ軍。今この所で討取つては義あつて勇を失ふ道理。諸国の武士に久吉が軍功を知らさんため、時日を移さず山崎にて、勝負の雌雄を決すべし。がいかに、いかに」
「ホヽオ、さすがの久吉よく言つたり。われも惟任将軍と勅許を受けし身の本懐。ひとまづ都に立ち帰り、京洛中の者どもへ、地子を赦すも母への追善。互ひの運は天王山、洞ケ峠に陣所を構へ、たゞ一戦に駆け崩さん。首を洗つて観念せよ」
「ホヽヽヽヽヽヽ、なにさ、なにさ。たとへ項羽が勇あるとも、われまた孫呉が秘術をふるひ、千変万化に駆け悩まし、勝閧あぐるは瞬くうち」
と久吉が、詞はゆるがぬ大磐石、たちまち廻り小栗栖の、土に哀れを残すとは、知らず知られぬ敵味方、にらみ別るゝ二人の勇者、二世を固めの別れの涙、かゝれとてしも烏羽玉の、その黒髪をあへなくも、切払うたる尼ケ崎、菩提の種と夕顔の、軒にきらめく千成瓢箪。駒のいなゝき迎ひの軍卒、見渡す沖は中国より追々入来る数万の兵船、威風りん/\凛然たる、真柴が武名仮名書きに、写す絵本の太功記と、末の世までも残しけり



 

 

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