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「本朝廿四孝・長尾謙信館(十種香)」床本

景勝上使の段鉄砲渡しの段十種香の段奥庭狐火の段



謙信館景勝上使の段


立ち帰る。信濃なる諏訪の湖要害に立て籠もりたる館城、長尾入道謙信は代々越後の城主として、おのが武勇の鉾先にこゝも切り取る諏訪の城、新たに建つる奥御殿は、義晴公の御幼君、後室手弱女御前、共にお成りを設けの結構、大方ならず見えにけり。館の主長尾謙信、衣冠正しき設けの式礼、角立つ中にさと薫る音もしと/\女中の手舁き、辺り輝く鋲乗物。見るより謙信謹んで、
「優曇華(うどんげ)とやいはん稀代の御入来、冥加に余る身の面目。すぐにそのまゝ奥御殿へ」
と、指図に従ひ乗物は、奥へ行く後謙信も、続いて入らんとするところへ、
「暫く待つた長尾謙信、奥方よりの御上意あり」
と呼ばはる声、『はつ』と平伏頭を垂れ、待つ間程なく立派の骨柄、長袴の裾けはらし、上座にどつかと威儀を正し。
「まづ以て今日は御幼君松寿君、御母公共に入来の面目恐悦に思はるべし。さるによつて母君より、貴殿への御上意余の儀にあらず。先だつて申し渡せし子息景勝の首、今において討つても出さず事延引(えんにん)せらるゝ段、必定(ひつじょう)野心に極まれば御前において切腹を遂げらるゝや、たゞし景勝の首只今討つて出さるゝや、返答次第計らふ旨あり。謙信いかゞ」
と上使の権柄、
「こは思ひ寄らざる御上意」
と、顔ふり上げて、
「ヤア汝は倅景勝」
と驚く謙信、さあらぬ上使、
「イヤ景勝にせよ誰にもせよ、一旦倅を討つべしと契約ありしは諸大名の真中。今においてその沙汰なく、あまつさへ本国に引き籠り、底の知れざる親人の所存、イヤサ謙信の心底と人の疑ひ立ち申す。なぜさつぱりとわれらが首、イヤサ倅景勝の首討つて心底は見せられぬ。サア首討つか、たゞしは嫌か、有無の返答承らん。サア/\なんと」
と詰め寄れば、さすが名を得し謙信も、倅を倅が討手の上使、返答なんと当惑の口をつぐんで見えにけり。
「ヤア未練の心底、この上は某こゝにて切腹」
と指添に手をかくれば、
「ヤレ暫く、必ずは早まり給ふな」
と、声をかけて花守関兵衛、なにか白洲へ白菊の花携へて立ち出づれば。
「ヤア汝ら如きが知る事ならず。しされやつ」
と景勝の、怒りにちつとも臆せぬ関兵衛、
「ヤア下として上の事、差し出るではござりませねど、最前よりあれにて様子承れば、どうやらかう木乃伊(みいら)取りが、木乃伊(みいら)になる様な御上使様。あつたら惜しき侍の首切つて仕舞へば、再び生からぬ。またこの花はなんぼ切つても生けらるゝ、ナ切つて生かすといふ伝授。お望みならば差し上げたい」
と、どこやら詞の一理屈。聞いて謙信眉をしはめ、
「ムヽ、切つて生けるといふ白菊、面白し/\。ナニ関兵衛、その花所望せん」
「ハイ、成程花は上げませうが、花ばかりでは自由に生からぬ。それを生かすは花作り。幸ひお次に居りますれば、これへ呼び寄せ共々に、生ける伝授を御覧あれ。花作りの簑作、御用がある、早う/\」
と親仁が呼ぶ声菊作り、
「エヽけたゝましい、何事」
と、この場の様子白洲の内、息せき出づる顔形、
「ヤア、汝は武田勝頼」
と言ふをとゞめて、
「アヽ申し/\、それおつしやるとものがない。なんにも知らぬ白菊の花、その生け様をよう覚えたこの花作り、人の振り見てわが振り直すが第一の伝授事。ナ、これさへ御所望なされば何もかも、さつぱりと申訳の立ちさうなものと、憚りながら親仁めは存じまする」と簑作が、身の上それと白砂に額摺り付けうづくまる。
「ホヽ天晴れの花作り。今より館に召し抱へんが、わりや謙信に奉公し花の生け様伝授せんや」
「ハイ、成程、他の事なら存じませねど、花一件なら生かさうと殺さうとわれらが得物。それを取柄(とりえ)にお抱へなされて下されうなら、望んでなりと御奉公仕りたきお屋敷」
「ホヽ、出かしたうい奴。御上使への御返答申し上ぐるはあの簑作、まづそれまでは暫しの御猶予、ひとへに頼み存ずる」
と、余儀なき頼みにうちうなづき、
「火急の御上意容赦はならねど、塩尻峠に控へゐる諸大名へ申し渡す子細あれば、われはかしこへ立ち越えん。有無の返事は塩尻まで。隙取らば直ぐにこの城取り囲まん」「追付け有無の御返答、認むる内簑作も、次へ参つて衣服大小」
「ハアヽ、有難し/\」
と勇む簑作、景勝は苦り切つたる塩尻に、別れて




鉄砲渡しの段


こそは出でて行く。跡見送つて関兵衛は、謙信の前に手をつかへ、
「花作りの簑作合点がいかぬと存ぜしが、あれが大方」
「ホヽ紛れもなき武田勝頼。それと見出だせし花守り関兵衛、下郎に似合はぬなか/\器量のある親仁。その性根を見込み改めて謙信が、頼み入れたき子細あり。われに頼まれ得させんや、返答聞かん」
とありければ、
「これはまた改まつたお詞。もと狩人の私、お見出しに預かつた君の大恩。たとへ命の御用でも、嫌とは申さぬわれらが魂」
「ホヽ頼もしゝ/\。その詞を聞く上は、何をか包まんこれ見よ」
と、しづ/\立つて一間の障子、開けば内に怪しき牢輿(ろうごし)、関兵衛『不思議』と差し覗き、
「牢の内には科人らしき者も見えず。何やら見馴れぬ変つた物。そりやマアなんでござります」
と、尋ねに謙信威儀繕ひ、
「未だ日本へ渡らざれば、汝らが知らぬは理り。これこそ鉄砲と名付けし飛道具」
「ムヽ、そのまた鉄砲とやらが盗みでも致せしか。なんのためにこの牢へ」
「ホヽ科は天下を望む叛逆(ほんぎゃく)。さいつ頃武将の御前へ、薩州種が島の浪人井上新左衛門と名乗りこの鉄砲を献上し、類なき軍器の重宝、遣ひ様の伝授せんと、瞞(だま)し寄つて義晴公を一撃に、跡くらましその場を逐電。草を分かつて尋ね探せど、今に行方知れざる曲者。詮議の手筋はこの鉄砲、その所に残りありしが、すなはち科人同然なれば、この如く禁牢させ、日毎の拷問手を尽くせど、義晴公を撃つたる敵今日まで白状せざる不敵の鉄砲。只今よりこの詮議、汝に申しつくる間、火水をもつて責めさいなみ、敵の所在(ありか)を白状させよ」
と、鉄砲くはらりと投げやれば、手に取り上げて呆れ顔、
「スリヤ私にお頼みあるは、この鉄砲とやらを責めいでござりますか。これはまた思ひも寄らぬ。拷問も問ひ状も並々の人間なら及ばずながら責めも致さう。が、煙管(きせる)屋の看板か、唐の火吹竹見る様なもの。責めいとは御難題。あなた方の手にさへ合はぬもの。その上何を証拠、手がかりも」「オヽ手がかり証拠はその鉄砲の遣ひ様。あまねく世上に知る者なし。その伝授を覚えし者こそ」
「スリヤなんと御意なされます。この鉄砲の遣ひ様を覚えし者が」
「ウム、すなはち武将を撃つたる敵」
「スリヤどうでも詮議を私に」
「仕損ずまじき汝が魂」
「アノこの親仁が性根魂(だま)を」
「見込んで頼むに違背はあるまじ。油断致すな関兵衛」
と、詞も重き大将の心残して入り給ふ。
「アヽ申し/\、われら風情にこんな役目、難題も事による。他へ仰せつけられい」
と、跡を眺めて、
「ムヽ、未だ日本へ渡らぬ鉄砲、遣ひ様を覚えし者が義晴を撃つたる敵。この関兵衛に詮議せよとは、ム、合点の行かぬ謙信」
と、諸手を組んで工夫の顔色、
「アヽいや/\、どう思案して見ても、われらには似合はぬ役目。やつぱり似合つた花の番。鳥脅しの弓矢より、他には何にもしら白髪の親仁。ドレ小屋へ行て一休み」
と、振り担げたる鉄砲も、胸に一物有明の、月洩る




十種香の段


臥所(ふしど)へ行く水の。流れと人の簑作が姿見かはす長裃、悠々として一間を立ち出で、
「われ民間に育ち人に面を見知られぬを幸ひに花作りとなつて入り込みしは、幼君の御身の上にもし過ちやあらんかと、余所ながら守護する某、それと悟つて抱へしや。ハテ合点の行かぬ」
とさしうつむき、思案に塞がる一間には、館の娘八重垣姫、許嫁(いいなづけ)ある勝頼の切腹ありしその日より一間所に引籠り、床に絵姿かけまくも御経読誦のりんの音。こなたも同じ松虫の鳴く音に袖も濡衣が、今日命日を弔ひの位牌に向ひ手を合はせ、
「広い世界に誰あつて、お前の忌日命日を弔ふ人も情けなや。さぞや未来は迷うてござらう。女房の濡衣が心ばかりのこの手向け、千部万部のお経ぞと思ふて成仏して下さんせ。南無阿弥陀仏、/\/\」
「誠に今日は霜月廿日。わが身代りに相果てし勝頼が命日。暮れ行く月日も一年(ひととせ)余り。南無幽霊出離生死頓生菩提」
「申し勝頼様、親と親との許嫁、ありし様子を聞くよりも、嫁入りする日を待ち兼ねて、お前の姿を絵に描かし見れば見る程美しい。こんな殿御と添ひ臥しの身は姫御前の果報ぞと、月にも花にも楽しみは、絵像の側で十種香の、煙も香花となつたるか。回向せうとてお姿を絵には描かしはせぬものを、魂かへす反魂香、名画の力もあるならば可愛とたつた一言の、お声が聞きたい/\」
と、絵像の側に身を打ち伏し、流涕こがれ見え給ふ。
「あの泣き声は八重垣姫よな。わが名を呼びし勝頼を、誠の夫と思ひ込み、弔ふ姫と弔ふ濡衣。不憫ともいぢらしとも言はん方なき二人が心」
と、そゞろ涙にくれけるが。
「アヽわれながら不覚の涙」
と、襟かき合はせ立上る、後にしよんぼり濡衣が、
「申し簑作様、合点の行かぬはあなたのお姿。どうした事でこの様に」
「ホヽ不審もつとも。計らずも謙信に抱へられたる衣服大小」
「テモさても、衣紋付きなら裃の召し様まで、似たとはおろかやつぱりその儘。『形見こそ今は仇なれこれなくば、忘るることもありなん』と、詠みしは別れを悲しむ歌。形見さへぢやにわが夫に微塵変りぬこのお姿。見るにつけても忘られぬ、わたしや輪廻に迷ふたさうな。御赦されて」
と伏し沈む。泣く声洩れて一間には、不審立ち聞く八重垣姫、そつと襖の隙間洩る、姿見紛ふ方もなく、『ヤア我が夫か、勝頼様』と、飛び立つ心押し鎮め。
「正しうお果てなされしもの、似たと思ふは心の迷ひ。絵像の手前も恥ずかし」
と、立ち戻つて手を合はせ、御経読誦(どくじゅ)のりんの音。勝頼公は濡衣が心を察して声曇り、
「はかなき女の心から嘆くは理り、さりながら、定めなき世と諦めよ」と諫むる詞こなたには、心空なるその人の『もしや長らへおはすか』と、思へば恋しく懐かしく、また覗いては絵姿に、見比べる程生写し、「似はせでやつぱり本々の、勝頼様ぢやないかいの」
と、思はず一間を走り出で、縋り付いて泣き給へば。『はつ』と思へどさあらぬ風情、
「こは思ひ寄らざる御仰せ。われら簑作と申す花作り、漸々只今召し抱へられ、衣服大小改めし新参者。勝頼とは覚えなし。御麁忽あるな」
と突放せば、
「ムヽなんと言やる。今父上に抱へられし新参者花作りの簑作とや。自らとしたことが余りよう似た面差し、もしやそれかと心の煩悩。二人の手前恥づかしながら、コレ濡衣、この簑作とやらいふ人を、そなたはとうから近づきか」
「エヽ」
「いやいの、知る人であらうがの」
「アノお姫様としたことが、たつた今見えたお人。なんのマア私が」
「イヤ隠しやんな、今の素振り。忍ぶ恋路といふよふな可愛らしい仲かいの」
と、思ひも寄らぬ詞にびつくり、
「オヽお姫様の仰る事はいの。人にこそよれなんのあなたに勿体ない」
「ムヽ、勿体ないと言やるからは、どうでもそなたの知る辺の人か」
「イヽエ、そふではなけれども、大事のお主の目を掠め、忍び男を拵へるは、勿体ないと申す事でござります」
「すりや知るべの人でなく殿御でもない人なら、どうぞ今から自らを可愛がつてたもるやうに、押しつけながら仲立ちを頼むは濡衣様々」
と、夕日まばゆく顔に袖、あでやかなりしその風情。
「オヽお姫様としたことが、まだお子達と思ひのほか、大それたあの簑作殿を」
「サア、見初めたが恋路の始め。後とも言はず今こゝで」
「仲立ちせいとおつしやるのか、我折れ。ほんに大名のお娘御とて油断はならぬ恋の道。品によつたらお取持ち致しませうが」
「コレ/\濡衣、必ず麁忽言ふまいぞ」
「サア、なにもかも私が呑込んで、ナ呑込んでお取持を致すまいものでもないが、真実底から簑作殿に、御執心でこざりますか」
と、問はれて猶も赤らむ顔、
「勤めする身はいさ知らず、姫御前のあられもない。殿御に惚れたといふことが嘘偽りに言はれうか」
「そのお詞に違ひなくば、なんぞ確かな誓紙の証拠。それ見た上でお仲立ち」
「オヽそれこそ心易い事。その誓紙さへ書いたらば」
「イエ/\、それもこつちに望みがある。私が望む誓紙といふは、諏訪法性の御兜。それが盗んで貰ひたい」「ヤアなんと言やる。諏訪法性の御兜を、盗み出せと言やるのは、さてはあなたが勝頼様」
と言ふ口押へて、
「ハテ滅相な勝頼呼ばはり。微塵(みじん)覚えのない簑作、麁忽ばし宣ふな」
と、言ふ顔つれづれ打ち守り、
「許嫁ばかりにて枕交はさぬ妹背中、お包みあるは無理ならねど、同じ羽色の鳥翼。人目にそれと分らねど親と呼び、又つま鳥と呼ぶは生(しょう)ある習ひぞや。いかにお顔が似ればとて、恋しと思ふ勝頼様、そも見紛ふてあられうか、世にも人にも忍ぶなる御身の上といひながら、連添ふ私になに遠慮。つひかう/\とお身の上、明かして得心さしてたべ。それも叶はぬ事ならば、いつそ殺して/\」
と縋り付いたる恨み泣き。勝頼わざと声荒らげ、
「ヤア聞きわけなき戯れ事。いか程に宣ふとも、覚えなき身は下司下郎。余所の見る目も憚りあり。そこ退き給へ」
と突放せば、
「スリヤどの様に申しても、勝頼様ではおはさぬか。ハアヽ」
『はつ』とばかりに簑作が、差添逆手に取り給へば、
「コハ御短慮」と止むる濡衣、
「イヤ/\放して、殺してたも。勝頼様でもない人に、戯れ事の恥づかしや。心の穢れ絵像へ言訳。どうも生きてはをられぬ」
とまた取直すを猶も押し止め、
「オヽさすがは武家のお姫様、天晴れなるお志、そのお心を見るからは、勝頼様に逢はせませう。ソレ、そこにござる簑作様が御推量に違はず、あれが誠の勝頼様。ちやつとお逢ひなされませ」
と、突きやられては流石にも、始めの恨み百分一、「聞えませぬ」が精一杯、後は互ひに抱き付き、つひ濡れ初めに濡衣も、心ときつく折柄に。父謙信の声として、
「簑作はいづれにをる。塩尻への返答、時刻移る」
と立ち出づれば、「ハツ」と簑作飛びしさり、
「御支度よくば直ぐ様参上」
「ホヽ委細の事はこの文箱に。片時(へんし)も早くまかり越せ」
「はつ」と領掌、文箱携さへ塩尻さして急ぎ行く。謙信後を見送つて、
「ヤア/\者共。用意よくば早や来たれ」
と仰せに、『はつ』と白須賀六郎、原小文治。更科なんどの譜代の郎等御前に進めば、謙信勇んで、
「今この諏訪の湖に、氷閉づれば渡海(とかい)は叶はず。塩尻までは陸地(くがじ)の切所(ぜっしょ)、油断して不覚を取るな」
「ハアヽ畏り奉る」
と勇み進んで駆けり行く。後に不審は八重垣姫、
「申し父上、ことごとしい今のあり様。何事やらん」と尋ぬれば、
「ホヽあれこそは武田勝頼討手の人数」
「ナニ、勝頼様を討手とは。コハそもいかに何故」
と、驚く二人をはつたと睨めつけ、
「諏訪法性の兜を盗み出ださんうぬらが巧み、物陰にて聞いたる故、勝頼に使者を言ひ付け、帰りを待つて討ち取らさんと、示し合はせし討手の手配り」
「エヽそんなら今の討手の者は、勝頼様を殺さん為か。ハアヽ、ハツ」
とばかりにどうど伏し、
「今日は如何なる事なれば、過ぎ去り給ひしわが夫に、再び会ふは優曇華(うどんげ)と喜んでゐたものを、またも別れになる事は、何の因果ぞ情けなや。父のお慈悲にお命を、どうぞ助けて給はれ」
と、口説き嘆くに目も遣らず、
「ヤア武田方の廻し者、憎き女」
と濡衣引立て、
「うぬには尋ぬる子細あり、奥へ失せう」
と小腕(こがいな)取り、情け容赦も荒気の大将、帳台深く入り給ふ




奥庭狐火の段


思ひにや、焦がれて燃ゆる野辺の狐火、小夜更けて。狐火や、狐火野辺の野辺の狐火、小夜更けて。
「アレあの奥の間で検校が諷ふ唱歌も今身の上。おいとしいは勝頼様。かゝる企みのあるぞとも知らずはからぬお身の上。別れとなるもつれない父上。諌めても嘆いても聞き入れもなき胴慾心、娘不憫と思すなら、お命助けて添はせてたべ」
と、身を打ち伏して嘆きしが。
「イヤ/\泣いてはゐられぬところ。追手の者より先へ廻り、勝頼様にこの事をお知らせ申すが近道の、諏訪の湖舟人に渡り頼まん、急がん」
と、小褄取る手もかひがひしく、駆け出だせしが、
「イヤ/\/\。今湖に氷張り詰め船の往来(ゆきき)も叶はぬ由。歩路(かちじ)を行ては女の足、なんと追手に追ひつかれう。知らすにも知らされず、みす/\夫を見殺しにするはいかなる身の因果。アヽ翼が欲しい、羽根が欲しい。飛んで行きたい、知らせたい。逢ひたい、見たい」
と夫恋ひの、千々に乱るゝ憂き思ひ。
「千年百年泣き明かし、涙に命絶ゆればとて夫の為にはよもなるまじ。この上頼むは神仏」
と、床に祭りし法性の兜の前に手をつかへ、
「この御兜は諏訪明神より武田家へ授け給はる御宝なれば、とりも直さず諏訪の御神。勝頼様の今の御難儀、助け給へ、救ひ給へ」
と兜を取つて押頂き、押頂きし俤(おもかげ)の、『もしやは人の咎めん』と窺ひ降りる飛石伝ひ、庭の溜りの泉水(せんすい)に、映る月影怪しき姿。『ハツ』と驚き飛び退きしが。
「今のは確かに狐の姿。この泉水に映りしは、ハテ面妖な」
と、どきつく胸撫で下ろし/\、怖々ながらそろ/\と、差覗く池水に、映るは己(おの)が影ばかり。
「たつた今この水に、映つたは狐の姿。今また見ればわが俤。幻といふものか、たゞし迷ひの空目(そらめ)とやらか。ハテ怪しや」
ととつおいつ、兜をそつと手に捧げ、覗けばまたも白狐の形、水にあり/\有明月、不思議に胸も濁り江の池の汀にすつくりと眺め入つて立つたりしが。
「誠や、当国諏訪明神は狐を以て使はしめと聞きつるが、明神の神体に等しき兜なれば、八百八狐付き添ひて、守護する奇瑞(きずい)に疑ひなし。オヽそれよ思ひ出したり。湖に氷張り詰むれば渡り初めする神の狐、その足跡を知る辺にて心易う行き交ふ人馬、狐渡らぬその先に渡れば水に溺るゝとは、人も知つたる諏訪の湖。たとへ狐は渡らずとも、夫を思ふ念力に神の力の加はる兜、勝頼様に返せとある諏訪明神の御教え。ハアヽ、ハヽヽヽヽ忝なやありがたや」
と兜を取つて頭にかづけば、たちまち姿狐火のこゝに燃え立ちかしこにも、乱るゝ姿は法性の、兜を守護する不思議のありさま、諏訪の湖かち渡り

 








 

 

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