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岩佐又兵衛と「吃又」


近松門左衛門の「傾城反魂香・又平住家の場」(宝永5年・1708・竹本座初演)では、逃げていた姫を又平が自分の家に匿いますが・そこへ追っ手が押し寄せてきます。ところが不思議や・又平の描いた大津絵の人物たちに魂が入って・絵を抜け出し・敵を追い散らしてくれます。大津絵の題材は仏画としては阿弥陀仏・十三仏・青面金剛・不動明王、世俗画としては藤娘・文読む女・女虚無僧・槍持ち奴・鬼の寒念仏・瓢箪鯰など。それらが又平の味方になって戦ってくれるのです。

オオそれよそれよ気がついた。今目前の不思議を見よ。我らが手柄でさらになし・土佐の名字を継いだる故。師匠の恩の有難さよ。」

又平住家の場は・今は上演されませんが・有名な「土佐将監閑居の場(通称・吃又)」の次の場に当たります。つまり又平の絵の奇跡は二度起こったわけです。人形だと面白い場面になるだろうと思いますが、歌舞伎で見たら・どんなものでしょうかね。上の写真は国芳の「浮世又平名画奇特」で、四代目小団次の役者絵です。

「傾城反魂香」の浮世又平重起はしがない大津絵画家ですが、師匠にその力を認められて「土佐」の名字を与えられます。ここで江戸期に庶民が浮世又平のモデルであると思っていたのが、岩佐又兵衛(通称:浮世又兵衛)であります。(天正6年・1578〜慶安3年(1650) そして浄瑠璃「吃又」の流行とともに、「浮世」が「浮世絵」と重なって・又兵衛は浮世絵の開祖と考えられるようになりました。「浮世絵類考」には又兵衛は浮世絵を始めた人で、大津絵の元祖でもあると書かれています。そういう俗説も、この浄瑠璃「吃又」から出てくるのです。

岩佐又兵衛はその活動の拠点を長く福井に置きました。近松の出身は福井と言われています(注:異説もあり)ので、それならば又兵衛のことを知っていて、それで浄瑠璃を書いたということも考えられないこともないわけです。

今では日本の美術史では又兵衛のことが語られることがほとんどありません。又兵衛の名が忘れ去られた経緯は砂川幸雄著:「浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか」(草思社・1995年)に詳しく記されています。又兵衛は工房システムを持ってそこで絵を制作していたようで・その遺された作品群は題材も筆致もバラエティに富んでいて、画家としてのイメージも一筋縄ではいかないようです。

そのなかで・上の作品は、又兵衛の筆になる「柿本人麿・紀貫之図」。何となく純朴で微笑ましく・浄瑠璃の浮世又平のイメージにも通じる親しみを感じさせて・吉之助の好きな作品です。賛も又兵衛自身の筆で、右が「ほのぼのと明石の裏の朝霧に島隠れ行く舟をしぞおもふ 柿本人麿」、左が「紀貫之 桜ちる木の下風はさむからで空にしられぬ雪ぞ降ける」

(H18・7・5)

(後記:別稿「岩佐又兵衛のこと」もご参照ください。)



 
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