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「勧進帳」の元禄見得


「勧進帳」と言えばもちろん市川家の家の芸で あるばかりでなく、歌舞伎の代名詞ともいえる狂言です。

現行の「勧進帳」を完成したのが九代目団十郎です。上の写真はその九代目団十郎の弁慶です。 団十郎は土佐藩主であった山内容堂公や、伊勢藩主であった藤堂高潔公の寵愛を受け、能楽師を紹介してもらって指導を受けたりしています。したがって、現行の「勧進帳」は団十郎の高尚趣味を強く反映しています。(これについては、「身分問題から見た歌舞伎十八番」その4:天覧歌舞伎をご参照ください。)

さて上の写真ですが、若き日の団十郎の弁慶です。恐らく明治5年2月の守田座で「勧進帳」を上演した時のものだろうと推測されています。この時の団十郎は35歳でまだ河原崎権之助時代の若々しい姿です。

まず気が付くことは、水衣が市川縞であること。団十郎は「勧進帳」上演のたびにいろいろなところを変えているのですが、衣装も市川縞から棒縞、さらに現行の梵字散らし(上の写真 のもの)に変化しています。つまり写真はその団十郎初期の弁慶の姿です。

さてこの弁慶の元禄見得ですが、現在の「勧進帳」の舞台で見られる元禄見得とはちょっと違います。現在では巻き物を持った右腕をほぼ水平に突き出しますし、右手の甲を上にするのが普通です。(下に七代目幸四郎の弁慶の写真を載せていますから、これと比較してください。)

ところがこの団十郎の元禄見得を見ますと、右腕を明瞭に振り上げていること、手首が返っていて巻き物が上になっていることがはっきり見て取れます。

*以上の考察については、岩田秀行氏の「明治の古写真(1)」(歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評」・18に所収)に掲載の写真と解説を参考にさせていただきました。

このことを同じく「歌舞伎十八番」の「暫」での元禄見得と比較して見ます。左は九代目団十郎の鎌倉権五郎です。元禄見得というのは、こういう形で拳を振り上げた形で決まるものです。つまり、荒事の気性の激しい・力感のある形なのです。

とすれば、この35歳の団十郎の弁慶の元禄見得は、その本来の形を示しているわけです。これにより「勧進帳」の弁慶が江戸歌舞伎の荒事のキャラクターであることを改めて感じさせます。

それがいつ・どこで現行の形に変化していったかですが、晩年の団十郎の弁慶の元禄見得の写真がないために、そこのところを正確に確認できないようです。しかしその後の団十郎の弟子たちの弁慶の写真を見るとかなり初期から現行の形になっている ようで、団十郎自身が晩年に型を変えた可能性が高いかも知れません。

上の写真は団十郎の高弟であり、大正・昭和にかけての「勧進帳」の最高の弁慶役者であった七代目幸四郎です。

この幸四郎の弁慶の元禄見得では、荒々しい力感よりは、どっしりとした安定感・弁慶の岩のような重量感が象徴されているような気がします。そして、どちらかと言えば能的な・様式的な方向に向いているということが感じられます。

これはどちらが良いとか・悪いとか、の問題ではなく、「勧進帳」のように型がしっかりしているように思われている狂言でも、じつは細部に型に微妙な動きが見えることの、ひとつの実例です。もちろんこれは松羽目物である「勧進帳」自体に能的な表現に向かおうとするベクトルが存在することに原因があるわけです。

(後記)

別稿「古典劇における趣向と型・その5:型の正体」をご参照ください。

(H14・8・18)


 

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