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黙阿弥にとっての明治維新〜明治維新以後の黙阿弥・その2

〜「島鵆月白浪」

*本稿は別稿「古き良き江戸の夢」の続編になっています。


1)招魂社のこと

「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」は明治14年(1881)11月新富座での初演。二代目河竹新七が黙阿弥と名を改めて引退披露した記念作品です。もっとも黙阿弥は第1線は退いても、その後も名作を世に送り出しておりますが。この「島鵆」初演の顔ぶれは、九代目団十郎(望月輝)、五代目菊五郎(明石の島蔵)、初代左団次(松島千太)、八代目半四郎(弁天お照)らとさすがに豪華配役でした。黙阿弥は永井素岳に後年こう語ったそうです。

『壮年の作すなわち「腕の喜三郎」が講釈種で、黙阿弥となった今日から見ると誠につたない作だと我ながら恥とりますが、その後、盗賊物を書き始めてから終いに泥棒河竹というほどの噂を立てられ、そこで大体が学問ということは少しもない私ですから、座元役者共のためにその当時の新奇を穿(うが)つ事に努めて筆を執りました。「島鵆」を書いた時には私も門人に名を譲り泥棒の書き納めとして仕組みました物ゆえ主なる人物は残らず泥棒にしてしまって・これが残らず大団円に善人揃いとなるということを話されました。』(雑誌「歌舞伎」・第4号)

黙阿弥の言にある通り、この芝居に登場する主な人物はすべて泥棒か・元泥棒で、それが最後の「招魂社鳥居前」の場面で全員揃って改心して善人になって終わるわけです。

『あのお神楽は招魂社の、毎朝四時の朝清め、不浄を払う鶏の、声勇ましき夜明け前、それではこれより・・・御同道申そう』

島蔵は千太と泥棒仲間でしたが、あるきっかけあって島蔵は改心して堅気になります。千太は金貸しの望月を殺そうとしていて再び島蔵を悪事に誘います。島蔵が千太に改心を迫るのが有名な「招魂社鳥居前」の場で、この場での五代目菊五郎(島蔵)・初代左団次(千太)の名演技は大いに評判になりました。島蔵が千太に改心を迫ると、千太は俺は天涯孤独だと言ってこれを拒否します。これに対して島蔵がこのように言います。

『たとえこの世にいねえとて、草葉の蔭で親たちがどんなに案じているか知れねえ、死んでしまえば空(くう)へ帰り、跡形もねえものならば朝廷はじめ華族方先祖の祭りはなさりはしめえ。必ず跡のあるもんだから、心を入れ替え盗みをやめ、冥土の親に悦ばせろ。』

戦前は、この「朝廷はじめ華族方先祖の祭りはなさりはしめえ」という台詞を島蔵役者が名調子で言うと、ここで観客は一斉に拍手したものだそうです。今だとこういうところで拍手はちょっとしにくいかも知れません。しかし、黙阿弥がここを拍手の仕所として書いているのは明らか です。

ところで、招魂社は明治元年(1868)に明治維新の戦死者を祀るものとして各地に建立されたものでした。東京九段に東京招魂社が創立されたのは明治2年6月のこと、さらに全国の招魂社が合祀されて東京招魂社は総本社格になりました。さらに明治12年(1879)6月に東京招魂社は靖国神社と改称されました。

「島鵆月白浪」序幕の登場人物の会話には「今年は春の博覧会から日光参り伊勢参り、たいそう田舎が出たではないか」などという台詞が出てきます。この台詞はその年・明治14年3月に上野公園で開かれた第2回内国勧業博覧会を当て込んだもので、この年には地方から大勢の人が博覧会を見学に大挙して東京を訪れました。つまり、この芝居の時代設定は明治14年・ほとんど現在進行形の同時代劇です。ということは東京招魂社はすでに靖国神社に改称しているのですから、この最後の場面は「招魂社」ではなくて・本当は「靖国神社」なのです。しかし、黙阿弥はこれをわざと「招魂社」と旧名表記しています。

この「島鵆月白浪」は明治14年が時代設定ですから、登場人物はもちろん散切り頭、出てくる台詞も「十時の鐘だ」とか「十円札で百円」とか明治の風俗です。散切り頭に和服を着て・両手にカバンとこうもり傘を持って・ゴウル(すなわち金)の時計を下げて半長靴を履いた姿は、当時の最先端のハイカラぶりを示しています。明治の欧化運動の象徴である鹿鳴館が開館されるのはその2年後のこと。明治14年はまさに文明開化がヒートアップしていた時期でありました。

しかし、この「島鵆」で見られる七五調の台詞や割り台詞などの舞台技巧は旧来の江戸歌舞伎の手法そのままです。つまり材料は新しい時代のものを取り入れていますが、黙阿弥は自分の作劇手法を頑として変えていないのです。「島鵆」を以て二代目河竹新七は引退して以後は「黙阿弥」号を名乗ります。この「引退」ということと・さらに「以来は何事にも口を出さず黙っている心にて黙の字を用いたれど、また出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり」とした「黙阿弥」号の真意を考え合わせると、黙阿弥は性急な欧化運動に対してあからさまな抵抗はしなかったけれども・これに無言の抵抗を示したということは言えるのかも知れません。

それでは先ほどの疑問・「靖国神社」ではなく旧名の「招魂社」をわざと使用したことに、黙阿弥の・明治の時代批判の意図を読むべきでありましょうか。このことを考えてみなければなりません。


2)勧善懲悪の思想

まず「島鵆」の全体を貫く勧善懲悪の思想について考えてみたいと思います。そのためには、泥棒作者と呼ばれた黙阿弥の原点・四代目小団次について考えてみる必要があります。

慶応2年(1866)2月守田座で上演された「鋳掛松」がお上に問題視され、「近年世話狂言、人情を穿(うが)ち過ぎ、風俗にも関わるゆえ、以来は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しが出されます。ちょうど病気休演中であった四代目小団次の家に黙阿弥がこの事を伝えに行って、黙阿弥が「仕方がないから、これからは何か時代物でも書きましょう」と言うと、小団次は身体をぶるぶると震わせてこう言ったといいます。

『それじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ。もっと人情を細かに演てみせろ、もっと本当のように仕組めといってこそ芝居が勧善懲悪にもなるんじゃ有りませんか。見物が身につまされないような事をして芝居が何の役に立ちます。私は病気は助かっても舞台の方は死んだようなものだ。御趣意も何もあったもんじゃねえ、あんまり分からねえ話だ』(河竹繁俊:「河竹黙阿弥」)

小団次はお達しを聞いてガックリとしてしまい、その翌日から面相がみるみる悪くなってしまい、病気が重くなって小団次はそのまま亡くなってしまいます。黙阿弥は痛恨の気持ちを込めて、日記に「全く病根は右の申し渡しなり」と書いています。黙阿弥にとって四代目小団次はまさに「育ての親」でした。「泥棒作者」と言われた黙阿弥の声名は小団次のおかげと言っていいものです。その育ての親を殺したのが「お上の申し渡し」でした。この時に何を感じたかは黙阿弥は書き残していませんが、黙阿弥は時代を憎んだだろうと思います。その翌年・慶応3年12月に王政復古の大号令が出されて徳川幕府の時代が終わります。黙阿弥は「これで自由に芝居が書くことができる・人情を穿つ芝居を書くことができる」と密かな期待を抱いたに違いありません。ところが作家・黙阿弥にとって明治の世も江戸の世と同じくらい住み難かったのです。

「演劇(歌舞伎)はもともと世情に左右され易いものではあるが、勧懲の機微を写して観客を感動させるものであるから、そこで描き出される喜怒哀楽によって演劇は社会に貢献することができるのである。ところが最近の劇風と言えば、世俗の濁りを取り込み、かの勧懲の妙理を失って、いたずらに狂奇に陥っている。この団十郎は深くこれを憂い、皆と共にこの風潮を一洗することをしたいと思う。ご来場の紳士諸君に、演劇もまた無益の戯れではないと言われるように、演劇を明治の太平を描き出すに足るものとしたい。」

これは明治11年6月新富座開場記念式典において九代目団十郎が読み上げた演説です。「最近の劇風と言えば・世俗の濁りを取り込み・かの勧懲の妙理を失って・いたずらに狂奇に陥っている」などの部分を式典に出席していた黙阿弥がどう聞いたかは察するにあまりあります。「なぜ人情を穿つ芝居を書いてはならないのか」、これは黙阿弥の心の奥底にふつふつとたぎる憤懣であったでしょう。しかし、黙阿弥はその感情を押し殺して芝居を書き続けます。黙阿弥はつねに律儀な人で・そういう感情を露わにすることは決してしない人でした。その黙阿弥の芝居の根本にあるのが「勧善懲悪」の芝居です。黙阿弥の登場人物に根っからの悪人はひとりもおりません。「三人吉三」においても三人の吉三郎の割り台詞に「浮世の人の口の端に、かくいう者があったかと、死んだ後まで悪名は、庚申の夜の語り種、思えばはかねえ、身の上じゃなあ」とあり、本人たちは自分たちの悪事を悔い、いつかその因果に滅びることになることにつねに怯えています。

「勧善懲悪」は謹厳実直で信心深い黙阿弥の人生の処世訓であったと同時に、劇作家として為政者と折り合いをつける接点であったろうと思われます。この「勧善懲悪」があったからこそ黙阿弥は劇作を続けていけたとも言えます。四代目小団次と提携して泥棒作者と謳われた時代こそが黙阿弥の出発点でありました。だから黙阿弥は引退披露の「島鵆」でも最後に泥棒が全員が改心して善人になって終わると言う・いわば「偉大なるワン・パターン」を見せたわけです。

しかし、思えば「勧善懲悪」は黙阿弥だけではなく、すべての歌舞伎・浄瑠璃にとって大事な要素です。例えば「仮名手本忠臣蔵」でも筋はいろいろあるわけですが、全十一段の骨格は「悪は討たれ・善が栄えて・天下泰平・めでたしめでたし」で出来ています。これはお上の芝居の厳しい検閲に対して・いわば恭順の姿勢を見せるために仕方なくとった方便であると考えることももちろんできるわけですが、芝居というものが「あるべき姿」に納まるために必然的に採る手法であると考えることもできます。言い方を変えると、オチをつけないと芝居は終わらないわけですから・交響曲が最後に協和音で終わるように・芝居は「勧善懲悪」で終わって初めて落ち着くところに落ち着くわけです。芝居というものはそういう倫理的要素を内面に持つものなのです。

黙阿弥の「勧善懲悪」のパターンを我々はちょっと気恥ずかしいように感じることがあります。「島鵆」にも招魂社前で島蔵が千太を諌める台詞には、

『見得にもならねえ事だけれど、金を返して自首するは、さすが立派な強盗だと、盗人仲間の噂になり、性は善なる人の身に、悪い事だと心づき、盗みをやめる者が出来たら、いささか上ねの御奉公・・・人に誉められ生きのびるか、悪く言われて命を捨てるか、ここが生死の境だから、よく料簡をつけてみろよ。』

とあります。昭和58年3月国立劇場での上演でも「さすが立派な強盗だと盗人仲間の噂になり・・」あたりでは客席から「おお、黙阿弥の例のパターンがまた始まったよ」という感じで笑いが漏れたと記憶します。笑いと言っても好意的笑いではあるのですが、微苦笑という感じでしょうか。盗みをしておいて「さすが立派な強盗」もないもんだと吉之助も思います。しかし、黙阿弥はこの台詞を大真面目に書いているのです。黙阿弥はホントに真面目な人です。「馬鹿」の2字が付きそうなほど真面目な人だと思います。本質的に人間の見方がポジティヴな・性善説の人なのですね。


3)江戸の昔を想う

そこで「島鵆」最後の招魂社のことです。黙阿弥が東京新名所ということで招魂社を登場させたのならば改称された「靖国神社」とすればいいのです。やはりこの舞台背景に登場人物に重くのしかかる時代というものを感じずにはいられません。我々がそう感じるのは、その後の日本が歩んだ厳しい道のりを知っているからに違いありません。靖国神社がそうした日本の象徴 した時代が確かにありました。そう考えると「島鵆」に招魂社を登場させたのは、ものすごい慧眼であったと思いますが、しかし、本当のところはどうだったのでしょうか。

恐らく黙阿弥は、この明治14年という時代(つまり黙阿弥にとっての現代)から江戸の昔を思ったのであろうと思います。それは決して江戸の昔を懐かしんでいたということではありません。自由な芝居が作れなかった事をあれほど呪った時代に戻りたいなどと黙阿弥が思ったとは 吉之助は到底思えません。黙阿弥の脳裏に、この明治という時代を造る為に犠牲になった人たち・死んでいった人たちのことがよぎったと思います。明治2年に大村益次郎の尽力により勅命で建立された招魂社が祀ったのは、鳥羽伏見の戦いから函館五稜郭の戦いまでの戊辰戦争の戦没者を弔うためでした。 黙阿弥は戊辰戦争には何の関係もありませんが、黙阿弥にとっては四代目小団次・あるいは河原崎権之助(河原崎座の座主であり・九代目団十郎の養父であった・江戸が東京と改称された直後の明治元年9月に強盗に襲われて横死)とか世話になった人たちのことが頭をよぎったと思います。かれらもまた、新しい時代を造る為に犠牲になった人たちではなかったでしょうか。

『たとえこの世にいねえとて、草葉の蔭で親たちがどんなに案じているか知れねえ、死んでしまえば空(くう)へ帰り、跡形もねえものならば朝廷はじめ華族方先祖の祭りはなさりはしめえ。必ず跡のあるもんだから、心を入れ替え盗みをやめ、冥土の親に悦ばせろ。』

島蔵が千太に改心を迫るこの台詞のなかに、四代目小団次らの記憶が個人的に重ねられているようにも思われます。黙阿弥は招魂社をそういう風に見て・明治という時代と自分自身の折り合いをつけていたと吉之助は想像します。

明治12年に招魂社が靖国神社と改称され・別格官幣社とされたのは、その2年前に起こった西南戦争(旧士族の新政府への不満がその発端であった)の戦没者を祀り、国家への忠誠心を堅めさせる為に「魂を招く社」では不十分であるとして「国を靖(やす)める社」に変えようという意図があったのです。いわば「招魂社」は現在から過去を見ており・「靖国神社」は未来を見据えているのです。

こうなると「靖国神社」と言う名称と・黙阿弥が個人的に持っているイメージとが完全にズレてしまうわけです。黙阿弥が「靖国神社」という名称を素直に使うことができなかった理由がそこにあると思います。あるいは当時の東京のお年寄り連中は「靖国神社」という名前を頑固に使わず・相変わらず「招魂社」と呼んでいたということが実際にあったかも知れません。そうでなければこうした明らかに表記ミスとも取れるような取り違えは普通なら第三者から指摘がありそうなもので、それが修正されずに置かれた理由も分らない気がします。

うがってみれば「黙阿弥がその鋭い感性でその後の日本の行く末を見通した」ということも言えるかも知れませんが、市井人の黙阿弥がそこまで時代批判精神を持っていたとは 普通なら考えにくいと思います。しかし、曇りのない眼で時代の風俗を観察し・民衆の感情の機微を活写することで、やはり黙阿弥は「時代の勘所」を確かに探り当てていたということは確かに言えると思います。「島鵆」の招魂社の舞台面に、吉之助は時代観察者としての黙阿弥の真骨頂を見るのです。

河竹登志夫:黙阿弥 (文春文庫)

渡辺保:「黙阿弥の明治維新」(新潮社)

(後記)

別稿「小団次の西洋:四代目小団次と黙阿弥」「身分制度から見た歌舞伎十八番・その4:天覧歌舞伎」もご参照ください。

(H16・11・7)


 

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