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「ますらおぶり」の情緒的形象〜「吉野川」雛渡しについて

〜「妹背山婦女庭訓・吉野川」


1)源太騒動

渡辺綱の後裔とも伝えられる一族が京都郊外一乗寺村に住んでおりました。北の渡辺は主筋にあたり当主は渡辺団次といい、庄屋で裕福でありました。南の渡辺は分家筋で当主は渡辺源太(26歳)といいますが家は没落して貧しく、年とった母親つやと妹,弟を畑仕事で養っていました。両家は隣同士ですが不仲でした。ところが団次の息子右内(20歳)が源太の妹やえ(17歳)とが密かに言い交わすという事態が起こってしまったのです。これを知った源太は母の指図で団次家へ行き若い二人を一緒にするように頼みますが、団次はたいへんに立腹し、両家の不釣合いを理由にこれを決して許そうとはしませんでした。そして何日かたった夜、源太は妹に花嫁衣裳を着せて団次家に乗り込みます。(その夜、右内は親戚に預けられており家にはいなかったとの説もあり。)源太は団次にたいし「約束の嫁をいま引き渡す、しかとお受け取りあれ」と叫んで妹やえの首を一刀のもとにはね、その首を三宝に据えて差し出しました。この惨劇を目の前で見た団次は茫然自失の体であったといいます。

これは明和4年(1767)12月3日に実際に起こった話で、兄の名前をとって「源太(げんだ)騒動」と呼ばれています。源太はこの後、ただちに代官所に自首しましたが、代官所はこれを「密通・身持放埓」な子に対する家長権の正当な行使であるとして放免処分としました。この衝撃的な事件は世間のたいへんな話題になりました。特に源太の行為は「大丈夫(ますらお)」の志を持ち、妹とともに武家のプライドを守った人物であるとしてもてはやされました。正確に言いますと渡辺団次家・源太家ともに身分としては農家で武士ではありません。しかし共に武家を祖先に持つ郷士であり、彼らの行動論理には武士的な要素がありました。たとえば「恥と不名誉」を恐れる気風、事件後ただちに自首する「潔さ」です。

この事件はその倫理性と猟奇性ゆえに小説や芝居の格好の材料になりました。まず小説としては建部綾足(たけべあやたり)の「西山物語」があります。これは明和5年2月、つまり事件後わずか2ヶ月で小説化されたものです。「西山物語」は渡辺一族の先祖が大江山の鬼と戦った渡辺綱であるという風説を取り入れ宝刀をめぐる怪異譚になっておりやや通俗的ですが、古歌をちりばめた浪漫的な作品に仕立てられています。もうひとつ有名なのは、文化5年(1808)に上田秋成が「春雨物語(はるさめものがたり)」の一遍として書いた「死首の咲顔(しくびのえがお)」です。秋成はこの文化3年4月に洛北円光寺の東照宮祭礼で事件後役40年を過ぎた渡辺源太本人と会っており、その感動を記しています。(「ますらお物語」)この経験をもとに書かれたのが「死首の咲顔」です。この時代には珍しく恋愛を真正面からとらえていますが全体には仏教説話的な色彩が強いように思われます。このように綾足・秋成それぞれ持ち味は違えど兄の「ますらおぶり」を中心に据えてはいますがやや情緒的な反応を示しているように思います。

ふたつの小説を読むと印象的なのは兄妹の母親の存在です。覚悟して死地に赴く兄妹の倫理観はまさにこの母親のものだと思わざるを得ません。ある意味では源太は母親の意思に沿って事を運んだとも言えるようで、「この事件の本当のますらおはこの母親ではないか」とさえ思えるのです。秋成の手記「ますらお物語」によれば、この事件を村人は源太の家に知らせに走った時、母親つやは機を織っており、「ではそのようにいたしましたか。如何せん、不憫なことを。」と言っただけで機の音を乱しもしなかったといいます。この母親の態度は当時も理解しがたいものととらえられたようです。

もうひとつ想像をかきたてられるのは、花嫁衣裳を着て死を覚悟して愛する男の家に赴く妹の心理ではないでしょうか。秋成の小説は、「切られた妹の首が微笑んだままであったとは気性猛々しいことであると人々は語りついだ」と結ばれていますが、非常に印象的です。


2)「吉野川の場」の雛渡し

近松半ニの筆になる「妹背山婦女庭訓」の三段目(文楽では「山の段」といい,歌舞伎では「吉野川の場」と称する)はこうした背景をもって書かれています。この作品は明和8年1月(1771)、つまり事件から3年ほどしかたたない、まだ記憶が生々しい時期に大坂竹本座において上演されました。演劇は文章と違って視覚によって感性に直接訴えますから、こうした事件においても小説よりさらに情緒的な反応を示すようです。つまりこの事件での兄源太より、妹やえの方に視点が移っていきます。事件全体を支配する倫理観「ますらおぶり」を兄源太の視点で見るのではなく、殺される妹つやの視点から見て、その心情に注目するのです。

実説の源太が妹つやを団次家で殺した理由は、「愛する男と一緒になれない妹が不憫である」という理由よりも「自分の家を不当に低く見られたことに対する恥を潔しとせず死をもって家の名誉を守る」という理由の方がずっと重い理由であったと思われます。それゆえ代官所もそれを「身持放埓な子供に対する家長の自裁行為である」という判断をとって源太を放免したわけであり、世間もそこに「ますらおぶり」のこころをみたわけです。ここでは「この男の嫁として死ぬのだからこの家で首を切る」という理屈になっていきます。

それでは死を覚悟して花嫁衣裳を着て男の家に赴く妹つやの心情はいかなるものでしょうか。妹つやにも兄と同じく「死をもって家の名誉を守る」という意識は間違いなく強かったと思いますが、やはり別の心情も想像したくなるのです。それは「この男の嫁として死ぬのだからせめて花嫁姿でこの家で死にたい」という心情です。「吉野川の場」ではその心情が「雛流し」というかたちで舞台に鮮明に視覚化されて登場します。

「吉野川」では大判事家(紀伊国)と定高家(大和国)は領地をめぐる争いから不和であったという設定になっています。それは筋の上ではさらに大きい蘇我入鹿という悪の存在に取って代わられる為、劇における本質的な問題でないように見え ますが、決してそうではなく、「吉野川」のなかでは両家の不和こそが重い問題です。大判事は息子を入鹿の手に渡すより息子を潔く死なせて忠義を貫かせようとします。一方の定高は娘を入鹿の妾として入内させるより愛する男のために潔く死なせて操を貫かせようとします。そして久我之助と雛鳥はお互いに自分の死によって相手が救うことができると信じて、同じ時刻に死を選ぶのです。相手を救うことができなかったことが明らかになった時、親たちは「しまった」と思うわけですが、この時、これまでの両家の長い不和が重い結果となって親たちに迫ってきます。

「吉野川」はよくシェークスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」と比較されますが、「ロミオ」では、若い二人は家の憎悪を乗り越えて互いに愛に生きようとして、狂おしい情熱のなかで運命に翻弄されて死んでいきます。「山の段」では、若い二人は互いに自分を犠牲にして相手を生かそうとして死んでいきますが、自分が死んでいくための論理は男は忠義の・女は婦女としての「道を貫く」ということにあり、それが結果として相手を救うということに望みを託している のです。そういう意味では死んでいく二人は情熱で熱くなっているわけではなく、むしろ自分を冷静に見つめて「男の道」・「女の道」に従容として殉じるという感じです。この雛鳥の「女の道に殉じる」という倫理観は「ますらおぶり」に通じます。男たちが「武士道」を奉じたように、女たちは「女の道(婦女庭訓)」を奉じたわけです。

この「吉野川の場」が心に残るのはこの芝居がそうした「ますらおぶり」の論理構造を持ちつつも、それに殉じた若い二人の心情に対して「雛渡し」というきわめて情緒的な反応を示すことでしょう。この「雛渡し」の場により死せる二人は祝福され、争っていた両家は和解します。生きていた時には二人を分け隔てていた吉野川の流れが、最後には死んだ二人を結びつけ ます。「自ら死ぬことによって生きる」という、これがまさに「ますらおぶり」の情緒的理解の形象化だと思われるのです。

(参考文献)

高田衛:「近世演劇の演劇の思想と伝統ー時代浄瑠璃の研究」

英草紙/西山物語/雨月物語/春雨物語 新編日本古典文学全集 (78)(「西山物語」・「春雨物語」・「ますらお物語」所収)・・・現代語訳付きで読みやすい 。

(H13・3・4)





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