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「笑うて祝う門出は侍なりけり」〜「岡崎」をかぶき的心情で読む

〜「伊賀越道中双六・岡崎」


1)荒木又右衛門・長男の廃嫡

荒木又右衛門には二人の実子がおりました。ひとりは長男三十郎、もうひとりは長女おまんといいました。また、又右衛門には河合武右衛門・岩本孫右衛門という二人の門弟がおりました。彼らは若党のように仕えていましたが家来ではなくて、以前から又右衛門について武芸の指南を受けて修行をつづけてきた者たちです。この二人が又右衛門の仇討ちへの出立に際して随行を申し出ます。二人は「聞けば敵方は助太刀も大勢だというではないか。自分たちとしては師匠の前途を見届けなければならぬ。もしお連れくださらねば、我々はここで命を餞別にして切腹つかまつる」と凄まじい覚悟をみせて、又右衛門から随行の承諾を得ます。

はたして又右衛門が伊賀の上野に又五郎の一行を迎え撃った時の、門弟二人の活躍は目覚しいものものでした。しかし武右衛門はこの闘いで致命傷を得て、仇敵又五郎を討ち取った後まもなく命を落とすことになります。まさに最後と見えた武右衛門の枕元で又右衛門は次のように言いました。「汝の一子平之丞を娘おまんの婿として、我が家を継がせ、荒木の家のある限り、汝の義死を後世に伝えよう」

仇討ちの後、4年の後(寛永15年:1638)に鳥取藩に引き取られた又右衛門は鳥取に到着後18日後の8月28日に突然死んでしまいます。又右衛門の死の原因はよく分かっていません。しかし、荒木家はその後、又右衛門の言葉通りに娘婿の平之丞を後継ぎとして届け出たので、これは当時の鳥取藩でも大変な話題になったようです。

本稿では「伊賀越道中双六」の「岡崎」の段を取り上げます。この段において主人公唐木政右衛門(=荒木又右衛門)はまだ赤子である一子巳之助を刺し殺します。これが本段のクライマックスなのですが、実説での又右衛門は実子を殺したわけではありません。近松半ニがどういうことで「岡崎」を我が子を殺す趣向に決めたのかはよく分からないのですが、しかし、立派な長男三十郎がいるにもかかわらず、これを廃嫡して娘婿平之丞を後継ぎにしたというのは、又右衛門は息子を殺したようなものなのかも知れません。半ニはこのことを知っていたのかも知れません。


2)政右衛門の涙

「岡崎」は有名な芝居ですが最近はほとんど舞台にかからなくなりました。その理由ですが、忠義のために政右衛門が赤子の我が子を刺し殺し土間に投げ捨てる、という筋が残酷に思えて、現代の観客の共感はとても得られないと思われるせいかも知れません。これは弁護の余地もなく、たしかに残酷な話であると思います。その非情さ・救いようの無さは何とかならぬか、とも思います。

しかし、この場面において切羽詰って我が子を殺さねばならぬ政右衛門の気持ちはどうだったのであろうか(あるいはどうあるべきであろうか)、政右衛門という役をどう演じるべきだろうか、と考えると、それはそれで興味のある問題ではあります。だからこそ演じる側の興味をそそるのでしょうが、これがまた、我が子を殺すに至るまでの政右衛門の心の変化は作品にほとんど描かれているとは言えないのです。

丸本では、幸兵衛女房が奥に寝ている赤子の衣服に「和州郡山唐木政右衛門子。巳之助」と書いてあるお守りを見付けて、慌てて幸兵衛に知らせに来ます。これを聞いて幸兵衛は、「誠に好いものが手に入ったぞ。敵の倅を人質に取っておけば、こちらに六分の強み。敵に八分の弱みあり。」と悦び勇めば、政右衛門ずっと寄って稚児引き寄せ、喉笛貫く小柄の切っ先、幸兵衛驚き、「コリャ庄太郎。大事の人質なぜ殺した」となります。

「庄太郎」は政右衛門の前名です。庄太郎が河合股五郎を敵討ちで追っている政右衛門であることを、幸兵衛はこの時点では知りません。政右衛門はこのことを隠していて、庄太郎の名前のまま「股五郎の力になる」と嘘をついて師である幸兵衛から股五郎の行方を探ろうとしています。赤子が政右衛門の子と知れた以上、そのままにしておけば赤子は人質となり敵討ちの追っ手は不利になってしまいます。また、ここで自分の素性を明かせば、敵の行方は分からなくなってしまう。政右衛門はそういう状況で我が子を殺すのです。

赤子が「政右衛門子」と知られて政右衛門は一瞬ギクッとするのですが、しかし、幸兵衛が「好いものが手に入った」と言って喜んでいるうちに、政右衛門はそ知らぬ顔をしてすっと赤子に近づいて、赤子を刺し殺してしまうのです。まさにアッという間の出来事です。子供を殺さねばならぬ親の心理的葛藤の表現・・なんてどころではありません。それではどこで政右衛門の親の「涙」を表現するのでしょうか。

丸本では政右衛門が我が子を刺した後、『「コリャ庄太郎。大事の人質なぜ殺した」「ハハハハハこの倅を留め置き、敵の鉾先を挫こうと思し召す先生のご思案。お年の加減かコリャちと撚りが戻りましたな。武士と武士とのはれ業に、人質とって勝負する卑怯者と、後々まで人の嘲り笑い草。少分ながら、股五郎殿の、お力になるこの庄太郎。人質を頼りには仕らぬ。目指す相手政右衛門とやらいう奴、その片割れのこの子倅。血祭りに刺し殺したが、頼まれた拙者が金打」と死骸を庭へ投げ捨てたり』となっています。

どこで政右衛門の涙をみせるかと言うと、山城少掾によれば、1)幸兵衛の「大事の人質なぜ殺した」で一息ウムと詰めて、政右衛門に変わって「ウハハハハこの倅を留め置き・・」と言う場面で、この「ウム」で涙を飲み込むか、2)「この子倅」を「ココこの子倅」と吃らせてそこで政右衛門の涙を見せるか、3)「死骸を庭へ投げ捨てたり」で、「投げ・・・」とウレイを遣うか、その時々によってどれかの工夫をやってます、ということです。(茶屋半次郎:「山城少掾聞書」より)

これは、台本に書いていないところで登場人物の心理を読み取り・それを表現しなければならない、ということであり、この部分においてまさに政右衛門は「技巧の役」だということが言えます。特に浄瑠璃の太夫の場合は、幸兵衛の「ナーゼ殺したっ」から政右衛門の性根に一瞬にして変わって「ムハハハ・・」というまでの「間」のなかに万感を込めねばならず、まことに政右衛門は至難の役だということができます。硬く演じれば、政右衛門は忠義一辺倒で血も涙もない冷徹非情な人間ということになってしまいます。軟らか過ぎれば、「豪の者」という政右衛門(=又右衛門)のイメージは崩れてしまってお芝居になりません。

政右衛門という役が至難であるのは、何としても自分の素性を隠し通して・悲願の仇討ちをやり遂げなければならぬ、ということに性根があるので、「涙は見せてはならぬ」というところにあります。しかし同時に、親が可愛い我が子を殺して泣かぬはずはない、だから「涙はどこかに見せなければならぬ」のです。この政右衛門の矛盾した状況をどう表現するか、「その瞬間」だけのためにこの「岡崎」という芝居はあるような気がします。

どうして幸兵衛宅に政右衛門の子供がいるのか、それはもちろん芝居で段取りされているのですが、その段取りが「自然か不自然か・作為的か」などということは「その瞬間」のためにはどうでもいいことなのです。見終わって、「どうして政右衛門ほどの者が赤子の姓名が分かる手掛かりをそのままにしてしまったのか」・「結局あの赤子はホントに死なねばならなかったのだろうか」などという疑問も頭をかすめないことはありませんが、そういう疑問も「その瞬間」のためにはどうでもいいことなのです。すべて「その瞬間」のためだけに、この芝居は段取りされて、そして終わるのです。近松半ニの芝居はそのように作られていると思います。


3)「岡崎」でのかぶき的心情

幸兵衛は「その瞬間」の政右衛門の「隠しても隠すことのできなかった涙」を見抜いて、庄太郎がこの赤子の親・政右衛門であることを知ります。幸兵衛は政右衛門の覚悟に感じ入り、股五郎が中山道を落ちていったことを明かします。

「岡崎」のなかでそれまでの政右衛門はひたすらに辛抱役です。そして、政右衛門のかぶき的心情は「その瞬間」にまるで爆発するように湧き出します。その心情は熱く、見る者の気持ちも昂揚させます。これまで「歌舞伎素人講釈」のいくつかで考察してきたように、かぶき的心情とは「自己のアイデンティティーの主張」であります。「その瞬間」のためにひたすらに生きるということにかぶき的心情の真髄があるとすれば、「岡崎」での政右衛門もまたそうである、ということが出来ると思います。

お芝居ですから、最後はスカッとした形で「岡崎」の幕も閉まります。飛び出して来た眼八を幸兵衛は袈裟斬りにして、政右衛門を振り返り「まっその通りの巧名を待つぞよ。」「先生、まだお手のうちは・・・」政右衛門はポンと膝を打って、膝を着いて「・・狂いませぬナ。」「やがて、吉左右・・」と幸兵衛は抜き身を政右衛門に突き出すようにして、「ウハハハ・・・」と大笑いします。

丸本は「笑うて祝う門出は侍なりけり」で締められます。しかしこの「岡崎」では、やはり胸の奥に深く詰まったようなものを感じざるを得ません。考えてみれば幸兵衛と政右衛門とは、師匠・弟子の関係、いわば親子も同然の関係ではありませんか。そのふたりが、ここまでしなければ、お互いに素性・本心を明かしあうことができないのであろうか・それほどに義理というものは人間を縛るものなのであろうか、ということに慄然として、暗澹たる思いがします。

(H14・3・10)


 

 

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