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直実と相模〜歌舞伎座さよなら公演の「熊谷陣屋」

平成22年4月・歌舞伎座:「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」

二代目中村吉右衛門(熊谷直実)、四代目坂田藤十郎(相模)、五代目中村富十郎(弥陀六)、二代目中村魁春(藤の方)、四代目中村梅玉(源義経)

(歌舞伎座さよなら公演)


1)藤十郎の相模のこと

長年親しんできた歌舞伎座が老朽化の為に再建されることとなり、平成22年4月興行を以って休場となりました。歌舞伎座再開場は平成25年春だそうです。吉之助にとっても歌舞伎座は最も多く通った劇場ですから・個人的にその思い入れは並大抵でないものがありますが、そのことは別稿「さよなら歌舞伎座」に書きましたので、本稿では「さよなら歌舞伎座興行」最終月の「熊谷陣屋」の舞台について書いてみたいと思います。平成22年4月歌舞伎座での「熊谷陣屋」は記念すべき最終興行にふさわしい重厚な出来でしたが、そのなかで 吉之助に特に印象に残ったのは藤十郎の相模でした。我が子の首を抱いて泣き暮れる相模のクドキの詞章を床本で引いておきます。

「申し藤の方様。お歎きあった敦盛様のこの首。これよう御覧遊ばして、お恨み晴らしてよい首ぢゃと、褒めておやりなされて下さりませ。申しこの首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様。その時お前も御懐胎。誕生ありしその子が無官の太夫様。両方ながらお腹に持ち国を隔てゝ十六年。音信不通の主従がお役に立つたも因縁かや。せめて最期は潔う死になされたか」と、怨めしげに、問へど夫は瞬きも、せん方涙御前を恐れ、よそにいひなす詞さへ、泣音血を吐く思ひなり。 』(「熊谷陣屋」での相模のクドキ)

この相模のクドキですが、首実検を終えて義経が「ホヽヲ花を惜む義経が心を察し、よくも討ったりな。敦盛に紛れなきその首。ソレ由縁の人もあるべし。見せて名残りを惜ませよ」と言い、夫直実から相模は「コリャ女房。敦盛の御首、ソレ藤の方へお目にかけよ」と言って我が子の首を手渡されます。この時点で相模は夫から我が子身替わりの詳細な説明をまだ受けていません。しかし、相模は藤の方に向かって「・・この首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様」とちゃんと言います。つまり、首実検の首を見て・あれは我が子だ・・と驚愕したけれども、相模は状況を正確に理解しているのです。もし、ここで相模が取り乱して藤の方に「ホレこの通り、息子は敦盛さまの身替わりになりました・・」と口走ろうものなら、この場は大変なことになります。ここではその首はあくまで敦盛の首であると処理されなければならないのです。自分に与えられた役割を相模はしっかり認識して、「・・私が産み落したは、この敦盛様」と演技しているということです。それがこの場面の相模のクドキです。これは相模に与えられたとても厳しい、そしてとても残酷な役割です。しかし、相模はその役割を立派にやり遂げます。

相模のクドキで「・・この首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様」というのは、あれは強制的に言わさせられている台詞であると考えることもできます。相模にそれを言わせるものは直接的には夫直実ですが、さらに拡大させると義経に象徴される社会、あるいはもっと大きな歴史の律であると考えることもできます。相模はそのことを理解して「・・私が産み落したは、この敦盛様」と言うのですが、相模は自分のなかから湧き上がる母親としての悲しみにやはり耐え切れません。つまり、押さえつけられていた母親の本音が否応なしに噴き出るのです。さらに歌舞伎ではグドキで相模が「申し・・(直実殿)」と夫に向かってその悲しみを訴える(あるいは夫への抗議の意味も込めてかも知れません)場面があったりしますが、これ は夫直実に撥ね付けられます。いずれにせよ息子の生首を抱いて泣き暮れる相模の姿は、それが現実のシーンならばとても正視できない凄惨な場面です。そこに相模のクドキのアンビバレントな引き裂かれた感覚があるのです。相模のクドキについては普通そのように考えられており、六代目歌右衛門をはじめ多くの相模役者がその解釈で相模を演じてきたと思います。

ところが今回の平成22年4月歌舞伎座の「熊谷陣屋」での藤十郎の相模のクドキを見て吉之助がとても興味深いと感じたのは、藤十郎の相模は「・・私が産み落したは、この敦盛様」という台詞を強制されて言うのではなく、相模は夫直実がここまでしなければならなかったことを心底納得してその台詞を言っていると強く感じたことです。相模は夫直実が何故息子を敦盛の身替わりとしたことを納得しているのです。相模は自分たち夫婦がそれをやらなければ敦盛を助けられないこと を理性的に理解している(あるいは理解しようとしている)のです。しかし、母親として息子を失った悲しみの感情はやはり制御しようがなかった。藤十郎の相模は吉之助にはそのような相模に見えたのです。(この稿つづく)

(H23・1・9)


2)夫の気持ちを理解している相模

ところで「熊谷陣屋」での義経は冷徹な策略家であると書いてある歌舞伎の解説本がいくつか見られますね。義経は「一枝を折らば一指を切るべし」という制札を熊谷に与えて「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」と謎を掛けました。これは 義経が直実に「院の御胤である敦盛を守るためにお前の子供を犠牲にせよ」との命令を暗に指示したのだというのです。自分から明確な指示を出すことはせず、部下から行なわせるように仕向けて、自分の手は決して汚さない。義経は冷酷な主人だというわけです。なるほどねえ、そういう見方もありますかねえ。そうするとその論法で行くならば「菅原伝授手習鑑」の菅丞相も冷徹な策略家ということになると思いますが、如何でしょうかね。「寺子屋」の場において、松王は我が子小太郎を菅秀才の身替りに立てますが、後半・その本心を武部源蔵に告白する時に次のように語っています。

『菅丞相には我が性根を見込み給ひ、何とて松のつれなかろうぞとの御歌を、松はつれないつれないと、世上の口にかかる悔しさ、推量あれ源蔵殿。倅がなくばいつまでも人でなしと言われんに、持つべきものは子なるぞや。』(「寺子屋の段)

「梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん」、この歌は史実としては菅原道真(=菅丞相)が詠んだものではないですが、江戸期には道真の作であると一般に信じられていたものでした。この歌で丞相は松王のことを「どうしてこんなにつれないのか、何故こんなに薄情なのかと恨んでいる」と世間が勝手に解釈して自分を非難していると松王は嘆いています。だから、「寺子屋」で松王が小太郎を身替わりにする行為は、丞相の歌を「この自分(丞相)の窮地に松王がつれないはずは決してない」という意味だと松王が解して、そのことを証明しようとしたものであるとも考えられます。丞相は歌によって松王に暗示として身替わりを指示したことになるかも知れません。ならば丞相も冷徹な策略家なのでしょうか。

実はそのような読み方になってしまうのは、預言と予言とを混同しているからです。予言とは未来に起こる出来事を先立って言い当てること。つまり、誰某の意志に係わりなく・それは必ず「成る」ものです。一方、預言というのは、神はあるべきことを示唆するだけで事をなすことはなく、自分の意志を以って人が その事を「為す」のです。事がそのように為されることによって、人間の崇高さ・あるいは愚かしさが明らかになるのです。この違いがお分かりでしょうか。この違いはわずかな違いのようですが、これは決定的な違いです。

義経の「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」、丞相の「何とて松のつれなかるらん」とは預言なのです。その預言を受け取った者が、自らの有るべき姿を模索して・それを自分の意志で事を「成す」から預言なのです。「熊谷陣屋」も「寺子屋」も 疑いなく自発的な人間のドラマです。もしこれが予言であるとするならば、そこに人間のドラマが介在する余地がないことになります。泣いても・抵抗しても、予言というのは必ず「成る」ものだからです。もしそうならばそれは直実や松王に行為を強制するものとなり・それは命令同然なのですから、彼らは「成る」ように動かされる木偶でしかありません。ならば義経や丞相が冷徹な策略家であるという解釈も確かに可能かも知れません。しかし、吉之助は「熊谷陣屋」にも「寺子屋」にも自発的な人間のドラマを見たいと思いますから、義経の「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」という謎は預言であるという考え方です。それは在るべきことを示しているからです。

夫直実から相模は「コリャ女房。敦盛の御首、ソレ藤の方へお目にかけよ」と言って我が子の首を手渡されます。この時点で相模は夫から我が子身替わりの詳細な説明をまだ受けていないにもかかわらず、相模は藤の方に向かって「・・この首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様」とちゃんと言います。相模は、実検の首が紛れもなく息子小次郎であることを見た時に、あっと驚くと同時に、何故夫直実がそれをせねばならなかったかを一瞬にして悟ったのです。直実が自分だけの義理や都合でそれをやったのではないことが、相模にはっきり分かったのです。それは夫婦の問題、つまり相模の問題でもあったからです。義経の「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」という謎が預言であるということが、ここでも分かります。つまり預言は夫婦の在るべきことに係わっており、それは相模にもはっきり見えることなのです。これは観客にとっても同じです。

直実は北面の武士であった若い時(つまり17年前)に藤の方に仕えていた相模と恋愛をしたのでした。禁中での恋愛はご法度でした。それが発覚した時、本来ならばふたりは罰を受け仲を裂かれて、夫婦になれなかった身でした。これをとりなして密かにふたりを関東へ落としてくれたのが藤の方でした。熊谷夫婦は藤の方に大恩があるわけで、これが若木の桜を守護せん者・つまり敦盛を助ける者は「熊谷ならで他にはなし」という伏線になっています。ということは直接的な義理の重さから見れば・それを秤に掛けるのも何ですが、直実よりも・藤の方に仕えていた相模の方が義理が重いのかも知れません。もしかしたら「息子小次郎を敦盛様の身替わりに立ててくだんせ」ということを相模の方から直実に言い出さなければならなかったのかも知れません。だから須磨の浦で直実が息子小次郎を身替わりにして・また小次郎が自発的に身替わりになったのも、もしかしたら相模の為にそれをやったのかも知れないと思います。相模はそのことが分かったのです。

いつもの「熊谷陣屋」の相模のクドキであると、どの相模役者でも息子が身替わりになった母親の悲しみがヒシヒシと伝わってくるもので、もちろんそれは間違ってはいませんし・それがなければクドキにはなりませんが、もしかすると情の要素がいささか強すぎるのかも知れません。封建制度の非情を糾弾する妻と、妻の嘆きをもっともだ・・と理解ながらもグッと押し黙る夫という感じであって、どうしても直実と相模が理と情の対立構図に見えてしまいます。ところが、今回の藤十郎の相模のクドキを見ると、まるで直実の気持ちを相模が代弁しているように見えるのでした。直実は男であるし・武士ですから、そういうことを決して 他人に言えないし、泣きたくたって大声で泣くわけにはいきません。だから相模が直実の代わりに藤の方にそれを言い、相模が直実の代わりに泣いているのです。藤十郎の相模は夫直実のあるべき立場を正しく理解している女房であり、クドキの場面において情の要素に・理の要素を絶妙なバランスで配合して見せたということです。(この稿つづく)

(H23・1・16)


3)直実と相模の夫婦の在り方

『・・・せめて最期は潔う死になされたか」と、怨めしげに、問へど夫は瞬きも、せん方涙御前を恐れ、よそにいひなす詞さへ、泣音血を吐く思ひなり。 』(「熊谷陣屋」での相模のクドキ)

「怨めしげに・・」と床本にあります。このように相模が夫直実に向かって言う時、それは夫が息子を斬った行為を相模がなじっている・そこに封建主義に対する批判が込められていると解釈するのが、まあ普通の解釈かと思います。それも分からないではありませんが、夫の立場を理解して・まるで直実の気持ちを代弁しているように思える藤十郎の相模のクドキを見ていると、別の解釈も浮かんで来るのです。藤の方への義理ということならば、藤の方に直接に仕えていたのは相模であったのですから、「敦盛さまの御身替わり」ということを受け入れざるを得ないのが相模の立場であるはずです。ならば自分に秘密にして・父と息子の間でコソコソ相談して事を進めるのではなく、どうしてそれを事前に母親である私にも打ち明けてくれなかったのか、それならば息子にしっかり今生の別れができたものを・・・というのが、「怨めしげに・・」という相模の気持ちであると解釈できます。藤十郎の相模がクドキで訴えるものはそうした気持ちであると感じられるのです。

直実と小次郎が「敦盛さまの御身替わり」ということを相模に打ち明けなかったのは、「そんなことは男の世界の問題なのだから・女には関係ないことだ」ということで相模を除け者にしたのではありません。それを知ったならば相模の嘆きは如何ばかりであろうか・・と思って、それを気遣って相模に打ち明けなかったのです。このことは次の描写をみれば明らかです。

『戦場に赴くより、家を忘れ身を忘れ、かねてなき身と知るゆゑに、思ひおくこと、更になし。さりながら忘れがたきは父母の御恩。我討たれしと聞き給はゞ、さぞ御歎き思ひやる。』((組討の段での小次郎)

『仰せ置かるゝことあらば言伝へ参らせんと申上ぐれば、御涙をうかめ給ひ父は波濤へ赴き給ひ、心にかゝるは母人の御事。昨日に変る雲井の空定めなき世の中をいかゞ過ぎ行き給ふらん未来の、迷ひこれ一つ熊谷頼むの御一言。』(「熊谷陣屋」での直実の物語り)

事を行なうにあたって父と息子がどれほど母親のことを気遣ったのかが、「組討」の敦盛(実は小次郎)・この場面を回想する「陣屋」での直実の物語りのなかにはっきりと出ています。もちろん相模はそのような男たちの気持ちをよく分かっているのです。それが分かるからこそ、相模はそのことがなおさら「怨めしい」ということなのです。

もうひとつ付け加えておくべきは、これは歌舞伎だけ見ていると分からないことですが、直実は「陣屋」で藤の方に斬り付けられるまで・直実は本人の顔を知らなかった・本人に会ったことがなかったということです。その場面を床本で引きます。

『後に聞きゐる御台所わが子の敵と在りあふ刀。「熊谷やらぬ」と抜くところ鐺(こじり)掴んで、「ヤア敵呼ばはり何奴」と、引寄する。女房取付き、「アアコレ聊爾なされな。あなたは藤のお局様」と聞いて直実びっくりし、「コハ思ひがけなき御対面」と飛退き、敬ひ奉れば・・』(「熊谷陣屋」)

歌舞伎の場合は、直実は「ナニ藤の御方・・?」などと言いながら藤の方の腕を捻り上げてその顔を確かめて・「コハ藤の御方・・」と驚いて・それから飛び退きますから、確かに藤の方の顔を見知っている直実のようです。しかし、高貴な御方の腕を捻り上げてその顔を確かめるなど・それがもしご本人ならばトンでもないことで、「思ひがけなき御対面」より前に、「コハ失礼なことを仕り・平に平にご容赦・・」でなければなりませんね。文楽の場合は、斬りかかった藤の方を直実は押さえつけますが、相模から「あなたは藤のお局様」と聞いてすぐさまバッと飛び退くのです。ということは直実は藤の方の顔を知らなかったのです。北面の武士であった直実は、藤の方の顔を拝むことが出来た身分ではなかったからです。相模だけが藤の方を知っています。直実は相模の言うことを完全に信用していますから、「あなたは藤のお局様」と相模が言うのを聞いて、迷うことなく「コハ思ひがけなき御対面」と飛び退くのです。

このことから見ても、相模と藤の方との関係は強く、また直実と相模の馴れ初めでの藤の方の御恩ということを考えても、「小次郎を敦盛さまの御身替わり」という直実の行為に対して、相模が異議申し立てするということはあり得ません。もしかしたら直実と小次郎は、相模のためにそれを行なったということかも知れません。そのことを思うが故に直実と小次郎は、相模に事前にそれを打ち明けることが出来なかったのです。ちなみに「寺子屋」の場合だと千代は身替わりのことを事前に承知しているわけですが、相模の場合はそうではなかったのです。これほどまでに息子は母親のことを気遣い・夫は妻の気持ちを思いやるとするならば、「熊谷陣屋」での直実と相模の夫婦の在り方を少し考え直してみたいと吉之助は思うのですねえ。(この稿つづく)

(H23・1・23)


4)女房思いの直実が見たい

杉山其日庵は「浄瑠璃素人講釈」において摂津大掾・三代目大隅大夫・三代目越路大夫といった明治・大正にかけての浄瑠璃の名人たちの「熊谷陣屋」を聴いて「いまだ一も会心の域に至るを覚えぬ」と書いています。さらに「彼らの浄瑠璃はその巧拙は別として、熊谷が源平時代の豪勇として勇気一遍の人としか聞こえない、庵主の考えはこれとは異なる」と其日庵は言います。

『熊谷は素より武辺一途の人なれども、(中略)「武士たるものが、主命と旧恩の為めに、合意の上、其子を殺したる事は、一方より云へば武士の本分である」故に妻に向つても、「武士道の為め伜を殺したから、左様心得よ」と一言すれば何事もなきに、之を明言したらば定めて妻が悲歎することを思ひ遣り、夫さへ明言し得ぬ程の弱虫である。(中略)其容貌や豪壮、言語や勇魁なるも、精神は飽迄も多情多涙の人格に語らねばならぬと思ふ。』(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」〜「熊谷陣屋」の項)

浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

直実は見かけは武骨一遍だけれど、実は直実は弱虫と言われそうなほど多情多涙の・女房思いの人物なのです。「息子を殺した」ということを告げれば、女房はどんなに悲しむことだろうか。そのことを思うと、直実はいたたまれなくなってしまうのです。ところが思いがけなく女房が陣屋に来てしまう。本人を前にしてしまうと、いつかは言わねばならないそのことが、ますます言えなくなるのです。女房に泣かれてしまうと、どうして良いかわからない。それでついつい嘘を言う。直実というのは、そのような夫です。若き日の・相模と知り合った頃の直実は北面の武士でありました。つまり直実はエリート警察官であったということです。しかし、禁中での恋愛はご法度でした。相模との恋愛によって直実は関東に落ちることになります。直実にとっての女房相模というのは、出世コースを捨てて取った・大事な大事な恋女房です。だから直実は女房に強いことが言えないのです。

一方の相模の方は、首実検の首が息子小次郎であるのを見て驚愕しますが、過去の経緯からして・どうして夫直実が息子を敦盛の身替わりとしたのか・その理由はくどくど説明されなくても・彼女自身が一番そのことをよく分かっています。母親として・情として納得はできませんが、理性ではその行為の必然性を理解しています。だから最終的に相模は夫を許すことでしょう。でなければ、あの場で「・・私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様。」というようなことを相模は言えないのです。それでもクドキの場面で相模が「怨めしげ」な表情を見せるのは、父と息子でコソコソ相談して事を進めるのではなく、どうしてそれを事前に母親である私にも打ち明けてくれなかったのか、それならば息子にしっかり今生の別れができたものを・・・ということになります。相模は出来た女房なのです。

直実にとっての相模がそのような愛しい恋女房であるならば、相模のクドキの場面において直実はどのような態度を取るべきでしょうか。吉之助が不満に思うのは、現行の歌舞伎の直実は、どの直実役者も「男の世界の論理に女がツベコベぬかすじゃない」という感じで相模の訴えを頑と跳ね返して、相模に対する情が感じられないということです。なかには「ナニを、この女め!」という感じで相模を睨みつける直実がいますし、ひどいのになると唸り声を上げて相模を威嚇するのさえいます。こういう直実は言語道断だと言わなければなりません。どうしてこのような直実になるのかと言えば、熊谷直実と言えば「源平盛衰記」に「日本一の豪の者」と描かれるほどの強い武士だというイメージから来ているのでしょう。だから女々しいところを見せてはならぬし・女房に対する情を出し過ぎると底を割ることになるというわけです。まあそういう 考え方もあることでしょう。別に否定はしないけれども、しかし、上述の其日庵の主張を聞くならば・そして今回の藤十郎の相模を見るならば、歌舞伎にはまったく違った別の直実像があり得ると思うのですね。

今回の吉右衛門の直実ですが、相模のクドキの場面においては目を閉じて・顔を下向きにしてジッと耐えている感じです。相模を睨みつけたりしないし、まして唸り声を上げて威嚇 するような不届きなことはしません。その意味で吉右衛門の直実は、大筋において十分納得できる悪くない直実です。しかし、吉之助が見たところでは、吉右衛門の直実は藤十郎の相模の訴えを撥ね付けて・なお無言の壁の如く 厳然としているという印象が依然として残ります。「男は黙って心で泣く」ということでしょうが、傍に相模がいることは無視されています。それはまだまだ日本一の豪の者のイメージに捉われているということです。この点を吉之助はチョッピリ残念に思います。吉之助が思うには、この藤十郎の相模のクドキを聞くならば、直実は相模のクドキに反応してもらいたい。直実には相模と一緒に静かに涙を流してもらいたいのです。そのような女房思いの・多情多涙の直実が見たいと思うわけです。(この稿つづく)

(H23・2・6)


5)気持ちの上から顔が出ては来ないですかね

『まあ顔(注:化粧の意味)からいっても、顔のたちが違うからというけれどもね、熊谷の陣屋で出てきてね、前の熊谷の物語りで、あの頭とあの顔でいて、それに似合う顔をしているのだね。すると今度は坊主になると、それでは顔が似合わんですよ。また、坊主になる前にその顔にしておけば、前の間はおかしいですよ。ところが(九代目)団十郎はどっちも似るのだね。だから、これは顔のたちにもよるから分からないけれども、大体においては気持ちの上から顔が出ては来ないですかね、と思うな、僕は。』(六代目尾上菊五郎:対談「芸と趣味」・昭和7年6月「新潮」での里見クとの対談)

作家里見クとの対談で、六代目菊五郎が「陣屋」の直実の化粧について語っています。実は菊五郎は直実を演じたことはありません。が、ならば菊五郎に直実を語る資格はないと言わないでください。菊五郎は九代目団十郎に直接の教えを受け・団十郎の芸をもっと正しく継いだ人なのです。遠藤為春が「本当の団十郎の系統を継げたのは菊五郎だけ。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っていない」と断言しています。上記の菊五郎の発言も、そうした菊五郎の自信の裏付けがあって言われたものです。(別稿「菊五郎の古典性〜九代目団十郎以後の歌舞伎・その3」を参照ください。)

歌舞伎座を彩った名優たち―遠藤為春座談

菊五郎の指摘で大事な点は、現行の直実の・薄く芝翫筋を引いた化粧であると、前半は似合うけれども幕切れの僧形の時が似合わないということです。だから「気持ちの上から(つまり役の性根をつかんだところから)顔が出ては来ないですかね、と思うな、僕は」と菊五郎は言うのです。現役の直実役者に遠慮して菊五郎ははっきりと言ってないけれども、菊五郎の言いたいことはこういうことであると吉之助は思います。現行の「熊谷陣屋」の演出は九代目団十郎が創始した型です。団十郎型の「陣屋」で最も核心となる場面はどこでしょうか。それは幕切れにある僧形の直実の花道の引っ込みであることは間違いありません。団十郎の場合には、たまたまかも知れないですが、同じ化粧であっても前半も後半も似合ったのです。だから団十郎の場合は良いのです。しかし、団十郎以外の役者が直実を演じると後半の 僧形の時が似合わない。ならば 前半後半どちらかに化粧を合わせなければならないことになりますが、団十郎型で直実を演じる以上は僧形の方に化粧を合わせなければならぬということなのです。つまり現行の直実の・薄く芝翫筋を引いた化粧は俺ならばやめるね・・ということです。

ですから直実は菊五郎のニンではないのだけれど、もし菊五郎が直実を演じたのであれば、菊五郎は直実から隈取りを取ったに違いないと思います。「それでは団十郎型でなくなる」と言う方がいそうですねえ。団十郎の芸の系統を正しく継いだ・団十郎の芸の心を正しく継いだ菊五郎がそれをやるならば、それが正しいのです。団十郎型の心を正しく延長するならば、直実の化粧から芝翫筋は消えなければなりません。このことは別稿「熊谷陣屋における型の混交」で詳しく論じていますから、そちらをご覧ください。

このことは吉之助の根拠のない想像ではありません。戦後昭和の「陣屋」の直実の伝説的なお手本は初代吉右衛門であったことは疑いのないことです。初代吉右衛門の「陣屋」は有難いことに映像で遺っていますが、初代吉右衛門の直実はうっすらですが確かに芝翫筋を引いています。そのために僧形の場面にやはり違和感が残ります。しかし、この初代吉右衛門の直実の芸を引き継いだふたりの役者は顔から芝翫筋を消してしまいましたね。吉之助はどちらもその舞台を生で見ましたが、娘婿である初代白鸚(八代目幸四郎)と弟である十七代目勘三郎のことです。これは九代目団十郎〜初代吉右衛門を繋ぐ芸の線上で来る流れにある正しい措置であると吉之助は思います。直実の悲劇を近代的自然主義的な考え方で理解していけば、必ずそうなるのです。

ところが初代吉右衛門の孫になるふたりの役者、九代目幸四郎と二代目吉右衛門の兄弟は、これは明らかにお祖父さんよりも明らかに濃く・これが約束事であるかの如くにはっきりと芝翫筋を引きますね。全体の顔の色合いも赤みが強いものです。まあおふたりとも立派な体格をしていらっしゃるから、隈取りはっきりしたその化粧は確かに似合いますよ。なるほどこれならば日本一の豪の者・関東武者の熊谷直実です。しかし、僧形になった幕切れの引っ込みには全然似合ってませんね。似合うと思う方いらしゃいますか?いくら心情を込めて「十六年はひと昔・・・」と泣きの演技を見せてくれても、あの隈取りの化粧では違和感あり過ぎです。おふたりともそのことにもうそろそろ気が付いて欲しいのですがね。

それでは九代目幸四郎と二代目吉右衛門は、何をお手本に現在の演技を構築してきたのかということですが、彼らがお手本にしたのは明らかに二代目松緑の直実でしょう。二代目松緑は昭和四・五十年代の最高の熊谷直実であると評価された役者でした。吉之助も松緑の直実の舞台を生で見ました。もちろん素晴らしい直実でしたが、これは初代吉右衛門とは別の流れになる、九代目団十郎〜七代目幸四郎というところから出てくるものです。さらに二代目松緑はまったく色合いの違う芝翫型の直実を演じてもいますから、隈取りはっきりした化粧にするのもまあそれなりの理屈があると言えます。二代目松緑の直実は日本一の豪の者であり、相模のクドキを聴いても「女の出てくる幕か、お前の言うことにオレは聞く耳は持たぬ」という性根なのです。相模のことは関係ないのです。そして、誰もいないところで男はひとり泣く。二代目松緑の直実はそういう直実なのです。これは解釈が間違っているとか・そういうことではなくて、性根の捉え方がまったく異なるということです。

そこで九代目幸四郎のことはちょっと置いておいて、二代目吉右衛門の直実のことですが、吉之助はこれを見て「お祖父さん(初代吉右衛門)そっくり」とは思わないのです。その違いは遺された初代吉右衛門の映画を見て比べれば歴然としていると思います。これは二代目吉右衛門に対してキツい言い方に聞こえるかも知れませんが、別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」でも触れた通り、時代物役者として二代目吉右衛門はとても立派になりました(それは吉之助も四十年近く見てきたのだからよく分かっています)が、初代吉右衛門の芸風を継いでいるかと言うと、吉之助はあまりそのように感じられないのです。例えばこの「陣屋」の直実がそうです。初代吉右衛門を継ぐ直実ならば、その演技はもっと情の方に傾かねばなりません。相模という存在に対してもっとヒクヒクと痛みを感じる直実でなければなりません。もちろん二代目吉右衛門に情の表出がないわけではありませんが、吉之助から見ればその程度では初代のレベルに達しないのです。

ちょっと前に出た二代目吉右衛門関連の「二代目」(毎日新聞社)という本がありました。二代目吉右衛門の芸に掛ける思いとその人柄、ご家族のことなどが綴られていました。初代の思い出話も出てきますが、初代がどんな役者だったかというイメージは湧いてきません。初代のような立派な役者になりたいという気持ちは確かに伝わってきます。それじゃあ二代目は初代を継いでどのような「二代目」になりたいのでしょうか。初代はどんな芸風であると二代目は理解して・それに近づこうと努力しているのでしょうか。そこは本からではよく分からない。初代の芸についてこの本にあるのは、吉之助が見る限り「初代は熊谷直実や加藤清正など英雄豪傑を当たり役としました」の一行のみです。これが大誤解であることは別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」でも書いた通りです。二代目吉右衛門は、直実は日本一の豪の者・だから相模に対する情を見せ過ぎると直実という武士・時代物の役の線が細くなると思っているのでしょう。そうではないのです。そこに初代吉右衛門の芸を継ぐ取っ掛かりがあるのです。そのヒントはお父上が見せてくれたはずなのですが。(この稿つづく)

(H22・2・13)


6)初代吉右衛門の直実

例えば本文の「妻の相模を尻目にかけて座に直れば」の場面、すなわち花道から登場した直実が陣屋に到着すると相模がそこに居る・その前を無視するように通り過ぎてから後ろを振り返って相模を見やりパンッと袴の前を叩く箇所のことを考えます。多くの直実役者は、今回の二代目吉右衛門も同様ですが、相模の方を振り返る時に「ヤイおんな、この陣屋に何しに来やつたか、コノうろたえ者めっ」と言いたそうな表情を見せ、しかしそれを言わずに代わりにパンッと袴の前を叩いて大きな音を出して威嚇するように「自分は怒っているのだぞ」という相模に対する不愉快な感情を示すという演技をします。そのようにやるのがいかにも時代物の大きさを出す良い演技だとされているわけです。まあ日本一の剛毅な武者の雰囲気は出しているのかも知れません。しかし、相模に対する情は感じられません。

一方、遺された映画での初代吉右衛門の直実はこの場面をどうやっているでしょうか。直実は振り返って「ヤイおんな、この陣屋に何しに来やつたか」と言いたい。しかし、 相模に対して後ろめたいところがあるので、それが言えない。これからの大事な首実検の時に相模がその場に居られると困る。出来るなら居ないで欲しい。しかし、言えない。帰れと言えない。どうしたら良いんだ、ウウウ・・・と唸って、どうして良いかわからなくなって、思わずパンッと袴の前を叩いてサッと上にあがってしまう。初代吉右衛門の直実を、吉之助はそのように見るわけです。これでお分かりの通り、初代吉右衛門の演技は写実なのです。心理主義的であるとも言えます。いわゆる歌舞伎の通を気取っている方から見るとこれが「ちっちゃく」見えるのですね。しかし、これが初代吉右衛門の芸風なのです。この違いが肝心なところです。

問題は「自分は怒っているのだぞ」という不愉快な感情を・まるで相模を威嚇するかの如きにバンッと音を立てるのが歌舞伎らしくたっぷりと大きくて良いという 思い込みが、巷間まかり通っていることです。こういうのは「直実は日本一の豪の者」であるから・こうやれば役が大きく見える・強そうに見えるとか、役の性根や演技を外面(そとづら)から捉える見方なのです。まあ確かにそういう 組み立て方もあるのです。それは決して間違いとも言えません。しかし、初代吉右衛門の演技はそういう組み立てから来ているのではないのです。それは盟友あるいは宿命のライバルとも言うべき六代目菊五郎が言うことがそのまま当てはまります。「これはニンにもよるから分からないけれども、大体においては気持ちの上から型が出ては来ないですかね、と思うな、僕は。」ということです。菊吉はそれが歌舞伎らしく見えるかなんてところから役を構築しないのです。そもそも歌舞伎らしいって何のこと? と言うことです。それでもってそれがそのまま歌舞伎にはまる。これが大正〜昭和前半の菊吉の芸なのです。これは当たり前のことだと思いますが、六代目菊五郎と初代吉右衛門は同じ時代にあって・同じ時代の空気のなかで生き・それを取り入れながら互いにしのぎを削ってきたわけですから、ふたりの芸はそういうところで自然に似てくるのです。

二代目吉右衛門はお祖父さんを継いでどのような「二代目吉右衛門」になりたいのでしょうか。お祖父さんはどんな芸風であると二代目吉右衛門は理解して・それに近づこうと努力しているのでしょうか。それは「立派な役者になる」ということとは全然違うことだけれどもとても大事なことなのですが、そこに音羽屋でも高麗屋でもない・「播磨屋を継ぐ」ということの意味を見出したいと思うわけです。遺された映画での初代吉右衛門の直実は、吉之助には「新しい」と感じられます。吉之助がこれまで実際の舞台で見た昭和50年以後のどの熊谷役者より新しいと感じられます。これは奇妙なことです。昭和25年というと吉之助はまだ生まれていませんし、吉之助が見た歌舞伎の舞台はどれもこの映画よりさらに四半世紀後の舞台であるからです。ということは、そこに歌舞伎の保守化現象が見えるということです。役者だけではなく・劇評家にも・観客にもそれが起きているのではないかと思うわけです。二代目吉右衛門がお祖父さんより父上よりも明らかに濃く・これが約束事であるかの如くにはっきりと芝翫筋を引くのも、そこに現代の歌舞伎の保守化現象が現れています。別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」でも触れた通り、吉右衛門に初代の芸風・つまりシャープで写実で・等身大の人間解釈という点について認識を新たにしてもらいたいと吉之助が考えるのは、現代の歌舞伎が重ったるい方に傾いている・時代に納まることを歌舞伎らしいことだと感じる風がますます強くなっているからです。この傾向を是正するために全体を写実・世話の方に強く引き戻す必要があると感じます。その取っ掛かりが菊吉にあると吉之助は思っています。

そのような視点で初代吉右衛門の直実と・二代目吉右衛門の直実を比較すれば、些細な違いをいろいろなところに見出すことができます。もちろん二代目吉右衛門が駄目ということではないです。それらはまさに劇評家が「形容が大きくて良い」とか・「これが義太夫狂言の面白さ」などと褒めそうな箇所なのです。他の役者の直実ならばまあそれでも良いかなとも思います。しかし、「播磨屋の直実」というならば、吉之助はこれは指摘しておかねばならないと思います。これは大事なことなのです。初代吉右衛門を継ぐ直実ならば、たとえスケールが小さくなっても良い、その演技はもっと相模に対する情の方に傾かねばなりません。相模という存在に対してもっとヒクヒクと痛みを感じる直実でなければなりません。「これはニンにもよるから分からないけれども、大体においては気持ちの上から型が出ては来ないですかね、と思うな、僕は。」ということです。二代目吉右衛門にはこのことを考えて欲しいと思うのですねえ。

(H24・2・20)


 

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