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「元禄忠臣蔵」の揺れる気分

平成18年10月・国立劇場・通し狂言「元禄忠臣蔵・第1部」*

二代目中村吉右衛門(大石内蔵助)

*「江戸城の刃傷」・「第二の使者」・「最後の大評定」


1)急き立てる気分・イライラした気分

平成18年10月国立劇場での「元禄忠臣蔵・第1部」のビデオ映像を見ました。「江戸城の刃傷」冒頭・浅野内匠頭刃傷直後の騒ぎの描写が間延びして・緊迫感が全然ないのには呆れました。この芝居の冒頭は「一体何事が起こったのか・犯人は誰だ・被害者は誰だ」ということで事態が判らない現場の者たちはいきりたち、右往左往する場面です。場合によっては第二・第三の事件が起こるかも知れません。犯人は浅野内匠頭・被害者は吉良上野介で傷は浅手と判って一応現場は鎮静しますが、今度は「どうしてこんなことが殿中で起きたのか・一体どういうことなんだ」という疑問が現場を一層イラ立たせることになります。多門伝八郎の取調べも落ち着いた雰囲気でできるはずがありません。刃傷の現場に居合わせた者たちは事の次第によってはお咎めを受けようをも知れず、そんななかでの証言はのんびりと何年前かの思い出話をするような調子で話せるものではありません。現場の者たちのすべてが「何が起こっているのか・一刻も早くその真相を知りたい」という思いでイラ立っているのです。こういう場合の台詞は・どの役もすべてそうですが・自然に高調子に怒鳴るような風になり、台詞のテンポは自然と早くなっていくものです。「イライラした・急き立てる気分」が舞台を覆わなければなりません。ということは、こうした突発事件の混乱は怒号の応酬で描写されるべきだということです。

この「江戸城の刃傷」の舞台を見ていると、「怒号の応酬なんてそんな新劇みたいな真似は歌舞伎にはできません・歌舞伎は騒ぎを様式的に見せなきゃね」という・まあそういう感じでありますかね。なるほど・様式的ねえ。しかし、別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」でも触れた通り・二代目左団次劇のなかでの「急き立てる気分・イライラした気分」はとても大事な要素でして、それが左団次劇の様式に極まっているものです。真山青果の「元禄忠臣蔵」全編もまた「急き立てる気分・イライラした気分」のなかに貫かれています。「江戸城の刃傷」のなかではこのイライラした気分は未だ明確な正体を見せていませんが、それは時系列的に見て本作は発端ですからそういうことになるのです。ご存知の通り・最初の作品である「大石最後の一日」を書いた時点では青果自身にこれを連作とする構想はなかったのです。その後、松竹の大谷竹次郎の勧めにより青果は「元禄忠臣蔵」連作を構想し・少しづつ作品を書き加えていくことになります。したがって「元禄忠臣蔵」の各編はすべて・最初に書かれたところの・しかし時系列においては一番最後に当たる「大石最後の一日」に向けて・ユラユラと揺れながら次第に明確な方向性と思想性を持ったものに仕上がっていくわけです。

(H19・10・1)


2)内蔵助の「初一念」について

「ユラユラと揺れながら」と書きましたが、ここのところがとても重要です。つまり、「急き立てる気分・イライラした気分」ということは、「大石最後の一日」に描かれたような赤穂義士の行動の方向性と思想性が発端の「江戸城の刃傷」のなかに最初から明確にあるのではなく・いろんな形を取って揺れながら(つまり迷いながら)・次第にひとつの形をなして・結末である「大石最後の一日」に流れていくのです。そのことが「元禄忠臣蔵」の一連の流れのなかで描かれることです。

「大石最後の一日」で内蔵助は「初一念」ということを言っています。このことは「元禄忠臣蔵」全編の重要な主題ですが、最初から内蔵助のなかに「自分はこの方向に進むべし・この場面ではこう行動すべし」というものが明確にあったわけではないのです。むしろ、内蔵助はそのことに深く悩み・考え・周囲がイライラするほど慎重で・なかなか行動を起こすことをしません。もちろん内蔵助のなかに「主君の無念を・お家閉門の憂き目に遭った自分自身に重ねる」という思いは明確にあります。そして「吉良殿を討つ」という結論も内蔵助におぼろげに見えてはいるのです。しかし、そのために武士であり人間である自分はどう行動すべきか・その行動のためにどういう大義を持つべきかという問題について内蔵助は解答を見出していません。その解答が見い出せないうちはうかつに行動は起こせないというのが内蔵助の態度です。その解答を見い出す過程がそれからの「元禄忠臣蔵」のドラマです。それがなかなか見つからないから内蔵助自身も・周囲の人間はもちろんですが「気も急くし・イライラもする」ということになります。だから「急き立てる気分・イライラした気分」が「元禄忠臣蔵」全体を覆う気分になるのです。つまり「情念がまず先にあり・理論と行動は後からついていく」という形で「元禄忠臣蔵」が出来ていることになります。その方向性を見出す手掛かりは「初一念」しかありません。

ところで「大石最後の一日」のなかで・内蔵助は「天佑」ということも言っています。世間は我々を義人の義士のと言っておるようだが・もし我々が上野介を討ち漏らして引き上げたとすれば・世間の評判はいかがであったろうか。あの夜にもし上野介が屋敷にいなければ・もし炭部屋に隠れている上野介を見つけることができなかったら、我々は末代までも慌て者・腑甲斐なし者と笑われたであろう。その境はまことに危うい一線で・今考えても背筋が冷やりとする。恐ろしい危ないことをよくも考えたものだと身体がわななく思いである。こう考えてみると、すべては天祐(てんゆう)であったのだと内蔵助は言うのです。(別稿「内蔵助の初一念とは何か」をご参照ください。)

『神仏の冥加によって運良くも仕遂げたと思う外はござりません。たとえ初一念がいかに強く鋭くとも、この冥加なくては所詮本望は遂げ得られませぬ。われわれが今日義士となり義人となるも、決してわれわれ自身の働きのみとは存知られませぬ。ひと口に言えば仕合わせよく、運が良かった、それが天祐でござります。武士冥利でござります。』(「大石最後の一日」)

この内蔵助の言葉はもちろん事を成し遂げた後であるからこそ言える言葉です。なぜなら内蔵助はじつは「初一念」だけで・それだけで・ただ一心に・禁欲的に・まっしぐらに生きてきたわけではないからです。事を成す過程で、 内蔵助は初一念に苦しみ・悩み・迷い、時にこれを疑い、時には逃げようともし、泣きもしたのです。そのような内蔵助が・事を成した後に、自分たちはこれがあったからこそやり抜けたのだなあと思うものが「初一念」です。だから逆に言いますと、初一念を研ぎ澄ますために・思想と行動をどのような方向に結実させるか・この過程がとても重要になるのですが、その過程が実は「ユラユラと揺れている」のです。「元禄忠臣蔵」が描いているものはそういうことです。

「元禄忠臣蔵」の各編はそれぞれ一話読み切りの形になっており、本来は時系列に並べて連続上演されることを意図して書かれてはいません。だから各編にそれぞれの時点の赤穂義士の苦しみがあり・内蔵助の悩みが描かれているのですが、その時点だけを切り取って・青果の作意を読み取ろうとしても・それは無駄なことです。それらは内蔵助たちがついに事を成したという史実によって・清められねばならないものです。すべては「大石最後の一日」の主題に向かって収斂(しゅうれん)していくのですから、彼らの一時的な思いはその時点の一時的なものとして見なければなりません。内蔵助が始めから一直線に仇討ちに向かって・初一念で突き進んでいると考えてはいけません。そういう読み方で読むと「元禄忠臣蔵」は誤解を生じることになります。

(H19・10・4)


3)内蔵助の「初一念」について・続き

内蔵助は始めから仇討ちに向かって・初一念で一直線に突き進んでいると考えることは・ある意味でとても危険なことです。考えねばならぬことは・昭和初期という時勢におもねる形で「元禄忠臣蔵」を書いたという表向きの事情も 青果が劇作を生業としている以上はあるということです。つまり、忠君愛国思想の鑑としての内蔵助を読んで・戦時の思想教育に利用することもできるわけです。事実「元禄忠臣蔵」の興行的な成功はそこにありました。しかし、昭和14・5年頃のことですが、青果は娘の美保さんによくこう言ったそうです。「待ってろよ、戦争が終ったらもっとはっきり書いてやる。内蔵助の真意を書いてやる。楽しみにしてろ。」時勢へのはばかりもあって青果が描けなかった内蔵助の真意とは一体何でしょうか。現代においてはこのことを考えなければ意味がありません。内蔵助の真意を明らかにした・新しい「元禄忠臣蔵」の読み方を見い出さなければなりません。

例えば「最後の大評定」において・ 刀を腹に突き立てた幼なじみの井関徳兵衛の傍らで内蔵助は「内蔵助は天下の御政道に反抗する気だ」と決然として言い放ちます。これを以って「内匠頭は即日切腹・上野介にはお咎めなし」という幕府の御裁断に反抗しようというのが内蔵助の「初一念」であると書いている評論を多く見かけます。しかし、これが本当に内蔵助の初一念でしょうか。「仙石屋敷」での仙石伯耆守との問答のなかで・内蔵助は幕府の裁きに対する不満はひと言も述べず・ひたすらお上に対して恭順の意を示しています。伯耆守の取調べの争点は討ち入りは「御公儀御政道への批判」ではないかということでした。これに対し内蔵助は「われらはただ、故主最後の一念を、継ぎ届けたるのみ。その他の御批判、一同迷惑。」と言います。

このことは「最後の大評定」幕切れで内蔵助の徳兵衛への言葉が死にゆく親友に対する手向けの言葉であり本心ではなかったとまでは言いませんが、これはあくまで・その時点の内蔵助の気持ちを語ったまでのことであって・決してその後の「元禄忠臣蔵」の方向性を決する台詞として言われたわけではないことを示しています。もし「天下の御政道に反抗する気だ」という台詞が内蔵助の初一念からの言葉であるのなら・その後の「元禄忠臣蔵」の仇討ちに至るまでの内蔵助の心境・行動に揺れがあってはならぬのです。しかし、ご存知の通り・伏見 撞木町での遊興三昧を始めとして・その後の内蔵助は自問自答を繰り返し・悩み・そして考えるのです。内蔵助は「自分の取るべき道はこれで良いのか」という問いに常に揺れています。ですから「天下の御政道に反抗する気だ」というのは内蔵助の初一念ではあり得 ません。次いでに言えば討ち入り後に伯耆守に対して言った「われらはただ故主最後の一念を継ぎ届けたるのみ」の言葉さえ内蔵助の初一念ではあり得ません。それらは行動のための大義名分であって・情念ではないからです。(このことについては別稿「個人的なる仇討ち」をご参照ください。)

青果が「内蔵助は天下の御政道に反抗する気だ」という台詞を「最後の大評定」幕切れに置いたことは読者にとって誤解のタネで・「元禄忠臣蔵」シリーズの流れを念頭に入れた場合にはあまり良い処置ではなかった かなとも吉之助は思っています。多分これを読みきりの芝居とするために・徳兵衛という架空の人物を絡ませて・彼の命と引き換えに・内蔵助自身の心境を何かしゃべらせないと芝居の結末が取りにくかったのだろうと思います。まあ青果の苦労は分からないでもありません。赤穂城城明け渡し時点の史実の内蔵助の心境は判然とせぬからです。しかし、いずれにせよ「天下の御政道に反抗する気だ」が内蔵助の本心であるとしても・あくまでその時点での内蔵助の揺れる心であると取るべきでしょう。

(H19・10・8)


4)「厭でござる」

内蔵助の「初一念」を測るならば・「最後の大評定」黒書院での評定の場面において磯貝十郎左衛門が泣き叫んで言う台詞こそ最重要の台詞だと思います。

「御兄上内匠頭さまの鬱憤を散じ、敵上野介さまを討ち果たしてこそ、はじめて大学頭さまは世に立って人中(ひとなか)がなると申されましょう。仇敵上野介をノメノメと安穏に前に見て、大学さまの武士道が立つとは申されませぬ。(中略)厭でござります、厭でござる。たとえ御公儀より大学さまへ恩命下って、日本国全体に、唐、天竺を添えて賜るほどの大大名になられましても讐敵吉良上野介をこのままに置くのは、厭でござります、厭でござります。」(磯貝声を極めて泣く。)

この十郎左衛門の「厭でござる・讐敵吉良上野介をこのままに置くのは厭でござる」こそ情念から発する台詞です。その他のことも十郎左衛門は言っていますが、それらは自らの情念を正当付けようとする理屈に過ぎません。「上野介をこのままに置くのは厭でござる」こそ初一念なのです。この気持ちは原形質のようなもので・理屈も損得勘定もなく・ただひたすらに無私なのです。いかにも青二才の若者が吐く駄々っ子のような台詞であり、 内蔵助のように立場もあって・いい歳をした・理性のある大人には決して言えない台詞です。しかし、これはまさに内蔵助のなかにある・秘められた気分をぴったりと言い当てた言葉なのです。内蔵助は十郎左門の発言に対して「何ィ」という台詞を三回言います。青果は『ただし磯貝を見る眼中に無上のよろこびを漂わせて』とト書きを入れています。

この「何ィ」という台詞を言う時、内蔵助を演じる吉右衛門の眼はまさによろこびが一杯に溢れていて、「おお、よう言うてくれた。それこそがわしが言いたくて言えなんだことじゃ、もっと言うてくれ・言うてくれ」という感じでありました。この場面は父・初代白鸚の内蔵助もまったく同じ感じであって・そのことを懐かしく思い出しました。しかし、実はここは吉之助が演出するならば、もうちょっと工夫をしたいと思っている箇所です。吉右衛門は三度言う「何ィ」を強弱はついているけれど・同じひと色で言っているのだなあ。それはそれで結構なのですが、吉之助はこの内蔵助の「何ぃ」を三色で処理したいのです。

吉之助が思うには、自分の発言を遮って十郎左衛門が発言を始める時の内蔵助は「この若者は突然一体何を言い出そうというのか」という訝しげな感じなのです。ところがこの若者の気持ちに何か切実で熱く大事なものがあるということを内蔵助が直感して思わず叫ぶ最初の「何ィ」には、彼自身も居住まいを正すような鋭い驚きが欲しいのです。二番目の「何ィ」は「仇敵上野介をノメノメと安穏に前に見て武士道が立つとは申されませぬ」の台詞を受けてのものですが、内蔵助に「そこだ、そここそが俺の引っ掛かっているところだ」という・自分の腹の底に押し詰まったものに触れられたというグッとした思いが欲しいと思います。しかし、まだ十郎左衛門は内蔵助の初一念を言い当ててはいません。トドメは三番目の「何ィ」です。これは「厭でござります・厭でござります」 という台詞を受けてのもので、これは実に青臭いけれど・内蔵助の気持ちの余計なものをすべて洗い流して純粋なものを抽出してみれば・まさにそうなってしまうという・内蔵助の感動を表す「何ィ」なのです。

注意せねばならぬことは、「厭でござる・上野介をこのままに置くのは厭でござる」というのはそう単純に「上野介を討ってやる」ということにつながらないということです。確かに赤穂浪士の場合は最終的にその方向に行動が進みますが、「厭でござる」というのは今現在我々が直面している状況(お家断絶)は承服できない・この状況を受け入れるのは厭だということです。「上野介をこのままに置く」ということは現状を認めることに他なりません。だから「厭だ」というのです。彼らの怒りの矛先は時代にも向くし・この世の生そのものに向くかも知れないし、上野介にも向くし・幕府という政治機構にも向くし・判断を下した直接の当事者(綱吉その人・あるいは幕府要人)に行くかも知れないし・場合によっては愚かな行為をした主人内匠頭にも向きかねないのですが、彼らの倫理感からすれば・その怒りは今は上野介に矛先が向いていると言うことに過ぎません。大事なことは「厭でござる・この状況は厭でござる」という感情です。そこまで感情を研ぎ澄ませた時に彼らの腹のなかに熱い初一念が湧いてくるのです。

十郎左衛門の叫びによって・内蔵助は自らの思いの正体を再確認できたと思います。ホントは内蔵助も十郎左衛門と一緒に泣きたい気分であったかも知れませんが、歳がいもなく感動してしまって内蔵助は照れ臭かったと思います。「・・それにては何時が日にも話しが煮え乾る時がない。(迷惑そうに笑いながら)喜兵衛老人、そなたなどの御考えは・・・?」と内蔵助は話をさりげなく逸らしてしまいます。だからこそ内蔵助の態度で十郎左衛門の言ったことがまさにドンピシャリ内蔵助の初一念であったことが分かるのです。すなわち「この状況を受け入れるのは厭でござる」ということです。ただそれだけなのです。

(H19・10・11)


5)「元禄忠臣蔵」の揺れる気分

ところで本稿のタイトルは「揺れる気分」ということですが、「この状況を受け入れるのは厭でござる」という初一念に始まり、その実現にむけて・揺れながら(迷いながら)方向性と思想性を次第に明確に形作っていく・それが「元禄忠臣蔵」のドラマなのです。「亡君のため」・「御公儀への批判」などというのはその行動を正当付け・理論付ける大義名分であって・極端に言えば何でも良いのです。内蔵助のなかでもその思いは刻々と変わるし・四十七人もいればそれぞれでまた違うでしょう。しかし、内蔵助はそこでハタッと立ち止まって考えます。「自分が進むべき道・同志たちを導く道はこれでいいのか・これで正しいのか」ということを内蔵助は自らに問い・そこで揺れます。内匠頭刃傷事件自体が幕府・朝廷をも巻き込んだ駆け引きのまっただなかにある非常にデリケートな政治的問題でしたから・それは当然のことではあります。武士として・人間として立派に立つ行為として仇討ちをやり遂げる必要がありました。だから内蔵助は観念的にならざるを得なかったのです。内蔵助はそのことを考える時、いったん行動の原点に立ち戻ることを必ずします。その思考の原点こそ初一念です。

史実の内蔵助がどうであったかは判りません。しかし、青果の描く「元禄忠臣蔵」の内蔵助は実に理屈っぽくて・また迷う男です。「元禄忠臣蔵」は観念のドラマです。自分の考えをストレートには出さず・相手の反応を慎重に探りながら・内蔵助は また微妙に表現を変えます。主義主張がコロコロ と変わるということではありません。内蔵助には初一念は厳然としてある。もっともっと微妙な心の揺れなのです。裏返すとどこか信じ切れない・どこか自信がない・どこかに疑いがあるということです。だから内蔵助はつねに「これでいい良いのか・これで正しいのか」を自問自答を繰り返します。このような内蔵助の姿は まさに悩み・揺れる近代人の姿なのです。

このような「揺れる気分」は、ひとつには「元禄忠臣蔵」第1作「大石最後の一日」の初演の昭和9年(1934)から、シリーズ最後の作品となった「泉岳寺の一日」が初演された昭和17年に至るまでの、時代の雰囲気から来ています。懐疑の時代・不安の時代〜自分はこれで良いのか・この時代は自分の生きるべき時代なのか・ということを、ふたつの世界大戦に翻弄された時代の人々は常に自分に問いながら生きていたのです。そのような気分はユラユラと揺れながら・決して安定することがありません。例えばこの時代の音楽、ドビュッシーの交響詩「海」(1903〜5年)、ストラヴィンスキーの「ぺトルーシュカ」(1911年)、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」(1919〜20年)などの・それぞれの冒頭部に聞かれる・ユラユラと揺れながら一定した印象を取らない旋律を考えれば想像が出来ます。「揺れる気分」とはこの時代の世界レベルにおける時代的気質なのです。

「元禄忠臣蔵」は青果が元禄の討ち入り事件を近代視点で読み直したものですが、しかし、それだけだと「元禄忠臣蔵」が歌舞伎であるということとぴったり繋がってこないかも知れません。事実、ちょっと見では青果のドラマは台詞がやたら長くて観念的で・新劇的でもあり、感触的に歌舞伎とはぴったりこない感じでもあります。どうして「元禄忠臣蔵」 が歌舞伎であるのか。その秘密が「揺れる気分」にあります。実は元禄の気分と・大正から昭和初期の気分はとても似通っており、ある部分がぴったりと重なってくるのです。別稿「時代との親和性と乖離性」のなかで・江戸初期のかぶき者の思いを代表する科白が「生き過ぎたりや」であり、「この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもっと早く生まれるべきだった・この時代は俺の生きるべき時代ではない」という思いが江戸初期の若者の共通 した思いです。こうした思いから発するのが「かぶき的心情」であるということを書きました。「生き過ぎたりや」は江戸前半の時代的気質であり、元禄の内蔵助たちの気質もまたそうです。もちろん江戸時代の彼らには「個人対社会」という図式はまだありません。個の意識の目覚めをぶつける対象を明確に見つけることができないままモヤモヤとしたところで・それは「イライラした気分・急き立てる気分」になって現れます。一方、昭和の人々は「個人対社会(あるい は状況)」という図式がはっきりとあり、社会という圧倒的な存在に対して・些細な存在であるところの自己をどう正しく保つかということが非常に重要な問題となってきます。それが「揺れる気分」となって現れるものです。しかし、その根本にあるものは元禄のかぶき者の気分と共通しています。それは個(アイデンティテー)の意識ということです。

「元禄忠臣蔵」では同じ初一念を持ちながら一方に仇討ちだ仇討ちだといきり立ち急く者あり・片方にはやる気持ちを抑えて自分の進むべき道を問いながら道を迷う者あり、さまざまな思いの交錯するなかでドラマが展開します。すべての者たちがイライラした気分を感じながら・そうした気分を醸し出すものの正体を見極めようと急いています。そこに青果劇のフォルムがあるのです。

(H19・10・14)

田辺明雄:「真山青果―大いなる魂 (作家論叢書)(沖積舎)

(後記)関連記事として「仮名手本忠臣蔵」を論じた「イライラした気分」もご参照ください。


 

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