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初代鴈治郎の紙屋治兵衛

大正14年6月大阪中座:「心中天網島〜河庄」

初代中村鴈治郎(紙屋治兵衛)、七代目市川中車(粉屋孫右衛門)、初代中村魁車(紀の国屋小春)、三代目中村雀右衛門(お庄)

*本稿では文中で初代と二代目の鴈治郎が交錯しますが、ただ鴈治郎とのみ記する場合は初代を指しています。


本稿で紹介するのは、初代鴈治郎の紙屋治兵衛による「河庄」の断片映像です。この映像は鴈治郎の長男・林長三郎(後の林又一郎)が撮影し、三回忌(昭和12年・1937)に記録映画「鴈治郎 舞台の俤(おもかげ)」として編集公開されたものの一部です。映画はすべて無音声の断片ですが、11の舞台が収められています。このうち「河庄」の部分は4分弱くらいのもので・しかも無音映像ですから、鴈治郎の治兵衛の魅力を知るのには甚だ頼りないものです。しかし、鴈治郎の治兵衛と云えば、岸本水府が川柳に「頬かむりの中に日本一の顔」と詠んだ・鴈治郎最大の当たり役です。その鴈治郎の治兵衛を、例え無音断片であっても、動く姿で拝めると云うことは、どれほど有難いことでありましょうか。想像力を駆使すれば、そこから何某かのヒントが得られるかも知れません。

なおこの映像は「大正14年・1925・6月大阪中座」でのものと映画のなかでクレジットされていますが、上演記録を調べると当月・或いはその前後に中座での「河庄」の記録が見当たらないようです。したがって撮影年月には少々疑念が残りますが、本稿では映画のクレジット通り表記することにします。また別稿「六代目菊五郎の娘道成寺」映像でも触れた通り、当時の8mm機械は現代と速度が微妙に違っているようで、映画で見ると動きが早く気忙しく感じられます。そこで吉之助は速度を調整して・大体15%ほど速度を遅くして見ています。正確ではないかも知れませんが、これならば役者の動きがずっと自然に見えます。

4分弱の映像で見ることが出来るのは、治兵衛が登場し河庄の店先から中を伺う場面、それから幕切れで治兵衛が小春に掴み掛かろうとして兄孫右衛門がこれを制止する場面などです。残念ながら有名な「魂ぬけてとぼとぼと・」での治兵衛の花道の登場シーンの映像は含まれていません。

上方の芸の伝承と云うのは、「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」というものでした。だから初代鴈治郎は、息子(二代目鴈治郎)に全然教えようとしませんでした。或る方がちょっとは教えてやったらどうかと忠告したところ、「そないなことをしたら、鴈治郎の偽物が出来るだけだす」と取り合わなかったそうです。だから二代目鴈治郎の芸は父(初代)の芸を素直に継いだものではなく、二代目延若の芸の影響を多分に受けたものだとも云われています。

『父(初代鴈治郎)はどこをどう直したらいいかという教え方は一切せなんだ人でした。教わるのではなくて、見て覚えるものだというのです。だから客席で正面から見る、舞台の袖から見る、毎日見ては手順を覚えていくのです。「河庄」の紙屋治兵衛を私はそんな具合に覚えていきました。「魂ぬけてとぼとぼと」のチョボ(義太夫)で、花道から父の治兵衛が出て行きます。そのころの劇場は、今日のように鉄筋コンクリートの防音完備ではありませんから舞台の音は遠くにいても聞えます。父が花道を出る。揚幕がチャリンと音をたてて開きます。私は、花道の下の奈落で、同じように舞台に向かって進んでいきます。チョボもうっすらと聞こえるし、父の足音も、花道の板をへだてて伝わってきます。一歩、二歩、三歩、上の父の治兵衛が止まると、下の私も止まります。父が動けば、私も動く、こうして「のぞく格子の奥の間に」のチョボで舞台にきて門口までたどりつくのでした。』(二代目中村鴈治郎:「鴈治郎の歳月」〜「芸を盗む」・文化出版局)

二代目鴈治郎の思い出話を読むと、息子(二代目)の父(初代)の芸への強い憧憬を感じますねえ。「河庄」の治兵衛は、「鴈治郎」の名を継ぐ者として何としてもモノにしなければならない役でした。そのようにやらないと世間から成駒屋の「河庄」と認めてもらえない、そう云うプレッシャーがあったはずです。「河庄」は特別な作品なのです。

ところで初代鴈治郎はいつでも決して同じことはやらず、毎回やる度にどこかに新しい工夫を加えて演じたそうです。この映像では幕切れで治兵衛は羽織を頭から被って床に突っ伏してしまいます。これは現行の「河庄」(三人の引っ張りの形で絵面に締める)ではやらない型で、どうしようもなく取り乱した治兵衛の情けない姿をリアルに見せたやり方です。幕切れの形をカッコ良く決めようなんてことは全然考えていない。情けない・無様(ぶざま)な男の醜態を晒すことだけを意図しています。鴈治郎がこの次もこうやったかどうかも分かりませんが、リアルな芸を突き詰めようとした鴈治郎は一度はここまで試みなければならなかったのだなあと云うことを思いますねえ。後年この映像を見た二代目鴈治郎は「僕にはこのやり方はとても出来ない」と呻いて頭を抱えたそうです。

リアルな芸と云えば、この映像で見る鴈治郎の治兵衛の動きは実に軽やかです。ツイツイと戸口の方へ行ったかと思うと、サッと踵(きびす)を返して小春の方へ歩み寄る、その動きが写実で軽やかなのです。この場面での動きは確かに義太夫の流れに乗っているはずなのだけれど、(無音映像だからそこは確かめようがないのだが)動きを三味線に当てる感じがまったくしないですねえ。動きだけ見ると、義太夫狂言の幕切れらしい重ったるい印象がまったくありません。

このことは、近松の世話物浄瑠璃の感触を考える時に大事なことを示唆していると吉之助には思えるのです。つまり世話物浄瑠璃の、写実と様式のバランスと云う問題です。現行の「河庄」はちょっと様式の方に寄り過ぎて感触が重ったるいのではなかろうか。この初代鴈治郎の「河庄」は、そんなところを考え直すヒントを与えてくれる気がするのですがね。

*河庄店先で中の様子を伺う治兵衛(鴈治郎)。

*孫右衛門(中車)が手紙を小春(魁車)に見せて堪忍を促す。

*治兵衛が羽織を頭から被って床に突っ伏す幕切れ。緞帳が下り掛かっています。

(R6・1・2)


 


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